重荷は降ろせるなら降ろせばいいし、共に生きるのもいい

2Lのスポドリをリュックの中に背負って10km散歩してた時に思ったこと。

休憩にそのスポドリを飲みながら、
「飲んだら飲んだだけ軽くなってくなぁ」
と、当たり前のことを考えて、ハッとした。

2Lのスポドリは、重い。
重い荷物と書いて重荷、重くて嫌だったものが、今まさに僕のエネルギー源となっている!
これは大きな変化だ。


重荷は、降ろせるならば降ろした方がいい。
でも、10km歩くなら、必要な重荷だ。

そして、2Lのスポドリとともに歩くことを決めた場合、それを直接手に持って歩くのは一番重さを感じる行為だろう。
腕の筋力だけで重荷を支えなければならないからだ。

しかし僕は今これをリュックに入れて背負っている。
登山や引っ越しでは『重い物は身につけろ』と言われる。
密着させるように持つということだ。
タンスを持ち上げて動かす場合、腰から顎の下までの身体の前面全てを密着させると持ち上げやすいというとイメージできるだろうか。

つまり、重荷とともに歩んでいく場合は、それを身体に密着させれば重さをあまり感じずに済む。
そして究極を言うと、密着を通り越し、重荷を身体の中に取り込めば、重さは全く感じなくなる。
つまりスポドリを飲むということだ(もちろん一度にガブ飲みしたらうぷぷになるだろうが)。


これを、一般論としての"重荷"に当てはめてみる。
迫りくる報告会だったり、手のかかる後輩や恋人だったり、自分の短所だったり、色んな重荷があるだろう。
僕はベンチでスポドリをおかわりしながら、自分の短所という重荷を考える。

まずは、降ろせるならば降ろした方がよい。
つまり短所を克服するか、誰かの助けを借りるか、手段はたくさんあるだろう。
適材適所、同じ負荷でもあまり重荷とは感じない(認知しない)誰かが、自分の短所を補ってくれるならばそれが一番よい。

短所を克服と言っても、そうは簡単にいかないことも多いだろう。

その時は、この短所とともに生きるのだと決めることも時として選択できるかもしれない。
それはスポドリを飲むように、短所も自分の一部として取り込み、納得できる形に分解・吸収し、そして慈しむことである。
決して、短所短所悪いこと否定否定と思っていながら「直さない」と開き直ることではなく、しっかり噛み砕いて肯定することが何より重要だ(そして難しい)。

しかし、自分で短所だと捉えていたことでも、何かの拍子で別の視点を見つけたり貰ったりすることで、思わぬ長所に形を変えることだってあり得るのだ。(文末脚注)

現時点でいくら考えても短所は短所にしか見えない、と思ったとしても、それがいつか長所になったり、誰かに長所にしてもらえたりすることを信じられれば、毒入りと疑っているスポドリでも、少しずつ飲んで重荷を減らしていけるかもしれない。

そんなことを、散歩の休憩中にスポドリを飲んでいて、ふと思ったのでした。

皆さんも思い切って、重荷を消化吸収してみませんか?


文末脚注


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