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高校生最後の日。後夜祭に出れなかった

この前『少女は卒業しない』という映画を観た。
朝井リョウさん原作×中川駿監督×河合優実さん主演の映画で、廃校が決まり取り壊しになる地方高校の卒業式前日・当日の4人の少女を描いた作品。もうめちゃくちゃよかった。
そしてこの作品によって、高校時代の`ある出来事‘と‘10年越しの発覚‘があった。

劇中で卒業式後、体育館で軽音楽部が卒業ライブを行うシーンが出てくる。
僕の高校時代で言うと‘後夜祭‘という行事だ。音楽ライブに限らず、お笑いや思いの丈を壇上で告白する‘未成年の主張‘みたいな、まあ色々な催しをやる。
だがそれに僕は出なかった。出たくなくて、出なかった。
沢山の理由が積み重なって、2013年3月・卒業式後の後夜祭に出なかった。

少しさかのぼる…。2012年。
高校時代、僕はものまねや一発ギャグをやっていた。
元々、友達に振られたり、また自主的にやや積極的にやっていたのたが、高1の休み時間に廊下でイロモネアをやらされ、それが面白かったらしく、僕も調子に乗り、そこから文化祭や新入生歓迎会などの行事でお笑いをやるようになった。

・赤ちゃんをあやすギャグと振ってからの「いないな~いバームクーヘン」
・2005年のSK‐ⅡのCMでの桃井かおりさん
・赤ちゃんをあやすギャグと振ってから「いないな~いバ・スコダ・ガマ」
・真矢みきさんの茶のしずくCMでの「あきらめないで」のものまね
・赤ちゃんをあやすギャグと振ってからの「いないな~ぁナイアガラの滝」

これは当時やっていたものまねやギャグのレパートリー。
文字だけでは伝わらないと思うが、実際に観てもさほど伝わらない。
赤ちゃんをあやす気はないし、ものまねは椿鬼奴さん、清水ミチコさんのレパートリーをまねているものだ。
僕がやっていたのはお笑いではない。小細工だ。同級生騙し討ちだ。

そしてこのエセお笑いメッキが剥がれる時が来た。

2012年夏の合唱祭。
僕の高校は行事が盛んで、合唱祭もMAX約2000人キャパの市民ホールを借りて行う。なので都度、場面転換などがあった。僕はその場面転換時の隙間時間を繋ぎとしてお笑いをやってほしいと言われ、やることになった。

だがこの日が、後にも響く自身が崩れ落ちる最初の日になった…。

場面展開の繋ぎとしての僕の出番は3回あった。
結論から言うと3回とも大スベリした。出るたびにスベリは大きくなった。

1度目。B'zの「衝動」という曲に合わせ日常の自虐を発表するというネタをした。
これは一つ前の新入生歓迎会の際にやったネタで、その際はウケたのだが、それに味をしめ、また披露したのだが、ウケが悪かった。
それだけならまだいいのだが、ウケの悪さを挽回しようと声を荒げたり、ステージを動きまくったりした。その結果、舞台上のスタンドマイクを思いっ切り倒してしまう。見てる人が心配するほどの倒し方だったらしい。

案の定スベり終えて舞台袖にハケると、すぐ劇場スタッフさんに呼び止められ、
「マイク6万するんですよ、弁償できますか?」
とスタッフの人と先生にめちゃくちゃ怒られた。
スベリ終えた精神状態に、マイクの一件が上乗せされ、僕は完全に委縮した。
…だがあと2度出番がある。
「こんな状態であと2回出るのか…」と考えた時、ちょっと泣いた…。

そして2度目の出番。
舞台袖でスタンバイ。するとすぐに先ほど怒られた劇場スタッフさんの視線を感じた。
「なぜおまえ、またいる?まさかおまえ、また出ないだろうな?」の視線。
でも出なければいけない。
このときt.A.T.u.がMステをドタキャンした時の気持ちが少しわかった気がした。もしかしたらt.A.T.u.もオープニングでのタモリさんとのトークでスベッたと感じたから、出たくなかったのかもしれない。
違う。t.A.T.u.はプロデューサーの意向で出なかったのだ。一緒にしてはいけない。スベッて出たくないのは、おまえだけだ。

2度目の出番は古典の先生と絢香×コブクロの「ワインディングロード」をデュエットする内容だった。
舞台上に出て、まずはスタンドマイクと距離を取り、一切触れずに歌える間合いを取る。先生にも「マイクとは距離を取り、決して触れないでください」と伝達。
だが最初の「曲がりくねった~」の歌い出しから、先生は全く歌わなかった。先生が絢香、僕がコブクロパートを歌う予定だった。
だが最初の「曲がりくねった~」から、最後の「曲がりくねった~」まで全て僕が歌った。絢香パートも僕が歌った。
最後の「曲がりくねった~」を歌え終えた時、ホールが完全にゆがんで見えた。目に見える地獄とはこれだと思った。古典の先生はなぜか遠くを見ていた。
2000人キャパのホールで、歌も上手くない平均身長以下の高校生がフル尺で「ワインディングロード」を歌う時間。山下達郎さんや五木ひろしさんもいらっしゃったことのある会場で、数十分前にスベッた奴がまた現れてフル尺で「ワインディングロード」を歌う時間。
舞台袖にハケた後、すぐに劇場スタッフさんの何かを感じた。

だが恐ろしい事に僕はもう1度ここにやってくる。数十分後、また僕は現れる。僕を再び見ることになる劇場スタッフさんが一番恐怖を感じたに違いない。

そして3度目。
ここがいちばんの地獄だった。出るタイミングは順位発表の場面。
僕の高校の合唱祭は学年・クラス関係なく全順位が付けられ、発表される。1学年8クラスあり、高1から高3までなので、最下位は24位。中々酷な順位発表である。
順位は24位~17位、17位~5位、5位~1位の3ブロックに分かれて発表される。(たしか)
特に3年生は最後の合唱祭なので、どのクラスも1位を狙いに行く。僕らのクラスは合唱に強いクラスではなかったので1位は難しくとも、当然上位は狙っていた。
そして僕は第一ブロックの24位~17位発表後の場面転換の繋ぎ担当だった。
17位。
僕のクラスは17位で呼ばれた。17位のあとは僕の3度目の登場。
舞台上で2005年のSK‐ⅡのCMの桃井かおりさんの物まねをしている時、泣いているクラスメイトが目に入った。高校生活何度も桃井かおりさんの物まねで助けられたが、この時僕は今考えるとはなはだしい責任転嫁だが2005年のSK‐ⅡのCMに出てた際の桃井さんを少し恨んだ。

合唱祭が終わり、僕はクラスへ戻っていった。その時の空気は相当なものだったし、僕が戻ってきたことによって、順位発表後の大ニセ大スベリ桃井を再びフラッシュバックさせ、さらにクラスの怒りを増長させていたと思う。
だが早く学校に戻らなければならなかった。
当時、僕はソフトテニス部の部長で且つ、最後の大会3日前だった。
だがこの空気ですぐに学校には行けない。とても抜けだせる状態じゃない。クラスへの責任もある。

案の定、部活には大幅に遅れて合流。顧問にもこっぴどく怒られた。
そしてこの日の精神状態を引きずり、最後の大会当日を迎えることになる。
この個人的な精神状態の引きずりを、さらには他の部員たちにも伝染させてしまうことになる。
大会当日の朝はかなりの大雨だった。大会の運営本部も延期にするか判断していて、延期の可能性の方が高いとの情報もあった。
本来部長ならば、行われることを前提として部員たちに準備とモチベーションを促すべきだ。
だが僕は、自身の合唱祭からの引きずりメンタルで「こんな天気ならやらないだろ!」「頼むからやらないでくれ」「1日空けようよ」との個人的な想いが強かった。それを僕が口に出し、他の部員たちに共有しようとした。
だがそういう時には、ちゃんと報復が下る。
直後、雨は小雨になり、大会は行われることになる。
そしてそのメンタルの影響もあり、1回戦敗退。高校最後の部活が終わった。

高校入学した時から散々インターハイ出場すると言って周りに迷惑や巻き込んでいた人間が、県大会1回戦負け。
しかも最後は今までの全てを台無しにする心構えと、それを他の部員たちにもを伝染させてしまった。
さらにどうしようもないのは、その後の部活の打ち上げに僕だけ参加しなかったこと。
「打ち上げできる気分じゃないわ」と部員たちに言い放ち、断った。
クソすぎる。「そうだとしても、行くんだよ!」「特に部長のお前が自分の感情優先にするな!」「何の為の部長という肩書だよ!」
本当に申し訳ないし、最初から最後まで部員の為にならない、自分優先の部長だった。自分の為に部活をやりたいなら、部長になるべきではない。

そして翌日の学校にも行かなかった。引きずってたから。
でも半分は引きずってる感を出したくて、休んだのもあったと思う。
(この時、僕は朝から一人で日本橋まで行き、夜になるまで都内を歩いた。初の一人都内進出だった。世界が広がった気がした。この日の事は今でもめちゃくちゃ記憶に残っていて、申し訳なさは今でも無くならないが、自身の一生に残る行動だった)

それからは受験勉強の日々。
僕は学年模試で322人中320位を取るほど、勉強が出来なかったので、高1の基礎から予備校で勉強し直した。正直、かなりのストレス状態だった。
身体は如実に表れ、数カ月で顔はニキビだらけになった。卒業までのほぼ半年はマスク生活だった。

だがそんな時、卒業式後に行われる後夜祭の実行委員が「後夜祭でお笑いやらない?」と声をかけてくれた。こんな状態且つ度重なる大スベリ実績があるにもかかわらず、誘ってくれた。
だが僕は即決で「受験で余裕ないし、散々スべったから需要ないでしょ」と答え、断った。
今思う。それでも出た方がよかった。声かけてくれる人がいるなら出るべきだった。出ない事によって一生の後悔と、死ぬまでそれを引きずって生活することになるから。

この受験勉強の焦りとイライラはさらに生活に出て、年明けはほとんど学校に行かなかった。学校の授業より予備校で受験勉強していた方が志望校に合格できると思い込み、行かなかった。
だから各教科の先生への最終授業日にも出なく、3年間の授業のお礼を言えなかった。
これが高校生活最大の後悔だ。スベるより、1人で「ワインディングロード」を歌うより、今となってはよっぽど辛いし、もう何をしても取り返せない。
志望校に合格できたとしても、それ以上の後悔が何年も、年を重ねるごとに大きくなって襲ってくる。僕が言える立場でないが大学なんて出ても出なくても、どうにかなる。それよりもそういう事を大事にするべきだった。本当に出なくちゃいけなかった。

そして卒業式当日。
最初に戻るが、その後の後夜祭には出なかった。ここまで書いたことが当時の自分には積み重なって、出たくなかった。
卒業式後、家に直帰しようと思ったが、部活のメンバー数人と地元にあるめちゃくちゃ旨い大勝軒系列・角ふじらーめんを食べた。
その後ダイエーのフードコートに当時入ってたドムドムバーガーを食べた。
彼らも後夜祭には出たくなかったらしい。なぜかも、それが真意なのかも分からないが、彼らと角ふじとドムドムバーガーに行ったのは、超大事な財産であり、これがなかったらどうなっていたか…。
彼らがいなかったら、今、僕はかなり楽しくない日々を過ごしてたと思う。
現在の飲み友達もカラオケ仲間も、ガールズバーへ行ってくれるフレンズも学生時代の友人だけだ。
社会人になってできた友人は、大きく見積もって、最低でも一人出してくださいと言われたら、振り絞って出せる1人。

そして書き出しの『少女は卒業しない』という映画を観たことによって思い出したのが、ここまでに書いた後夜祭に出ない決断に至るまでの想いだ。
で、もう一つ。10年越しの発覚。
それは後夜祭に出れなかったことが、今俳優と脚本活動をしているきっかけになっていること。
あのときステージに出れなかったこと。逃げたこと。「あの悔しさを取り返したい」
この感情が潜在的にあったからこそ、大学を卒業する半年前、何度も悩み踏みとどまろうとしたのに、僕は俳優と脚本家になることを決心し、今に至ったのだと思う。

『少女は卒業しない』という映画がそれを初めて教えてくれた。
映画が潜在的にしかなかった決心を気づかせてくれた。
さらに気づきからここに書くまでに至らせてくれたのも『少女は卒業しない』のおかげだ。この映画に出会えてよかった。

その後、Amazonプライムで『少女は卒業しない』の中川監督の前作『カランコエの花』という作品が観たのだが、それもめちゃくちゃよかった。39分の映画なのだが、39分にここまで余韻と投げかけが出来るのかと衝撃だった。
39分だと短編映画なのか中編映画なのか分からないが、この尺の映画作品で最も衝撃と余韻を喰らった映画になった。

あ、高校3年最後の合唱祭終わり。僕は再度、マイクを倒してしまったことを舞台袖にいるスタッフさんに謝りに行った。その時、
「こういうのは経験だから。気をつけなよ」と言ってくれた。
森のホール21のスタッフさん、あの時は本当にすみませんでした。
そして言葉をかけてくれて本当にありがとうございました!頑張ります!


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