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親友が言い遺した言葉

筆者の人生で唯一の親友は10年前くらいに亡くなった。

この先、一生こんな人は現れないだろう。


出会いは大学だった。

2浪して入学してきたので、親しみも込めて「おっさん」と呼んでいた。

おっさんは、決して頭の良い方ではなかった。

例えば、貸倒引当金を「かしだおれいんとうきん」と、なんか喉あたり筋肉風な感じで素で呼んでいて、それをどんなに指摘しても改善しなかったり、みんな余裕で取れる単位を落としたり、絶対に寝坊してはいけない日に予想通り寝坊したりと、おっさんは大体なにをやっても失敗して面白いオチがついてくるので、イジられキャラだった。

ただ、おっさんは時々とんでもない器の大きさを見せた。

筆者がまだウブな頃に失恋して深夜に彷徨って迷子になったときにわざわざ遠くから迎えにきてくれたり、駅で知らないサラリーマン同士の喧嘩を止めたり、生活費もロクにないくせに身元もよくわからないバイト先の同僚に返ってこないと知りながらも金あげたりと、俺ならそんなことしないわってことを普通にやるから、そういう面はリスペクトしていた。

彼のそのいつだって嘘のない振る舞いに、誰よりも信用していた。


おっさんには持病があった。

在学中にも10回以上倒れていて、数回は救急車で運ばれていた。

最初は筆者も驚いていたが、時々そういうことがあるものだから、次第に「いつものこと」になっていた。

学生時代は週7で会っていたし、彼女よりも会っていた。

卒業旅行も二人で行った。

筆者が証券会社に入ったら、彼も真似して証券会社に入った。そして筆者が証券会社を辞めて会計士を目指すという話をすると、彼もそうすると言った。

将来は筆者の家の隣に家を建てると言っていて、本当にこいつは俺の事好きなんだなと思っていた。

俺もそれが心地よかった。


おっさんは突然亡くなった。

会社の寮で、朝目覚めなかったそうだ。

倒れるのも運ばれるのもいつものことだったから、信じられなかった。

警察署の安置室で白い布をめくって、とてつもない量とスピードの涙が湧き上がって、そこからはもう記憶がない。

結婚式の祝辞を読むはずだったのに、まさか弔辞を読むことになるとは。


おっさんはいつかこうなることがわかっていたのだろうか。

だからあんなに器が大きく、達観していたのだろうか。


おっさんとは下ネタとかドラえもんガチ勢トークとか、くだらない会話ばかりしていたが、彼がいつも言っていて、とても印象に残っているのは、「一見無駄なことに人生の本質がある」ということだ。

その意味がこのくらいの年になってようやくわかってきた。


あれから10年経って俺の方がすっかりおっさんだ。

30歳を過ぎると、恐ろしいくらいに衰えてくる。

これまでは自己の成長や可能性の広がりを喜ぶことの方が多かった。限界を超えて無理することで、他人より秀でた結果を残すことができた。そしてそれが喜びだった。

ところが、最近は得る喜びよりも失うことに対する恐怖を感じたり、大体の着地点が見えてきた自分のキャリアの置きに行き方を考えたり、健康の不安を抱えたりと、ポジティブではない悩みが増えてくる。

そういうのもあって、大人になると子供が一番大切になる気持ちもやっとわかるようになった。


自分は終わりゆく者なのだ。


30歳如きで何を言っているのかと思うかもしれないが、確実に人生の後半には突入している。

ライフイベントベースではとっくに後半だし、歳をとるたびに体感時間は明らかに短くなってくる。また、仕事で拘束される時間は責任と共に増えてゆく。自分の人生の時間がどんどん無くなってゆく。

昔なら力技でトレードオンできたけれど、戦略的にトレードオフしてゆかなければならなくなってくる。

後悔しない人生を送るためには、より自分の価値観をしっかり持つことが重要になってくるのだ。


では、本当に自分にとって大切なこととは何か。


そんな中で自分にとって何が大切かを真剣に考えて考えて考え抜いた結果、一見「無駄なこと」に価値があると強く感じるようになった。


「何も起こらない」永遠に続くかのように思えるような日常の繰り返しの中のそれぞれの1ページに価値があると思うようになった。


例えば、家族といつものようにスーパーマーケットで買い物カゴの入ったカートを押している時とか、みんなでお茶を飲みながらどうでも良いテレビを見ている時とか。親友とグダグタ喋ってラーメンを食べるとか。

こういうことが幸せの瞬間なのだ。こういう何気ない日々が、後になって振り返って大切な思い出になっている。


逆に、自分の社会的価値が高まるような行いやその結果は、別に失っても惜しくない程度の価値だと思うようになった。

自分が自分に対して行ったことなんて所詮自己満足でしかない。

それはそれで確かに大切ではあるが、他人と分かち合うことさえできない、取るに足らない出来事だ。


人生の本質的価値なんて普段は気づかないし、気付いても忘れてしまうけれども、大地震だとかコロナウイルス騒動だとか、リアルな終わりを意識した時にいつも思い出す。


筆者は虚栄心に塗れて自分を見失っていた時期もあったが、それは成長の過程で競争に負けたり失恋したりして、自分を笑ったり捨てたりした人を「見返したい」という気持ちがあったからだ。

しかし、その後に勝ち上がったところで結局は当時の人たちとはもう交流なんてないし、例え彼らがその事実を知ったところで、当時の関係性が良好でなかったのに今さら筆者に関心などわかないだろう。多分、「そうなんだ、誰だっけ?」で終わりだ。

多分誰も見返せていないし、見返せたとしていて、だからなんだと今では思う。


もちろんコンプレックスを解消する過程で得たものはあるし、自分の世界も可能性も広がった。

だが、それはあって良かったけれど、なくても困らなかったものだ。


本当の幸せは虚栄心の中にはなく、大切な人との関係の中にある。一見無駄に思える日常の中に本質がある。


どんな生き方をしても後悔が全くない生き方なんてできやしないだろうけど、それを理解して日々を噛みしめることで、後悔の少ない人生に変えることができると思っている。


おっさんのことは人生の節々で思い出しているけれど、時が経つにつれてその機会も減ってゆく。

でもそれも含めてあいつは許してくれるだろうし、あいつを忘れて俺が自分の人生を満喫しても、いつか会ったら間違いなく「よかったじゃん。」と声をかけてくれるだろう。

俺はお前がくれた思い出やヒントを大切にこれからも生きていくよ。


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