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源氏物語の色 22「玉鬘」 ~王朝時代のパーソナルカラー~

「玉鬘」のあらすじ
―――光源氏が若い頃愛し、死に別れた夕顔には、頭中将との間にできた一人娘がいた。その娘、玉鬘は筑紫で美しく育っていた。九州各地から豪族たちに求婚されるが、それを避けるために京に上る。そして長谷寺詣りの折、夕顔に仕えていた右近と出会い、光源氏に娘として引き取られることとなったーーー

「玉鬘」での色彩表現は、何といってもこの帖の最後に出てくる有名な「衣配り」と呼ばれる場面。光源氏は年の瀬に、新春用の晴れ着を女性たちに贈ろうとたくさんの衣裳の前にいる。一緒にいる紫の上に「着る人に似合うものを選んでくださいね」と言われ、「それとなくどんな人か想像するのだね」と返している。つまり、その人の持つイメージで衣裳の色が選ばれていくのである。

王朝時代は、季節によって襲の色があるというのが一般的だが、単に季節に合わせた色を着るにとどめず、その中にも自分らしさが引き立つものを王朝の女性たちは着ていたのだろう。現代のファッションの色を選ぶ感覚と、実は似ているように思う。では、光源氏が選んだ色を見てみると……

【紫の上】「紅梅のいと紋浮きたる葡萄染の御小袿、今様色のすぐれたるとは……」
葡萄染は赤みの紫。今様色は、当時流行の薄い紅花染。現代ならば、ワインレッドの上質なシルク素材のドレスに、ルビーレッドのリボンがアクセント、といったところでしょうか。やはり光源氏は、紫の上には一番華やかな印象のものを選んでいることがわかります。

【明石姫君】「桜の細長に、つややかなる掻練取り添へては……」
桜色の、優しく淡いイメージは不変。まだ幼い姫君にベビーピンク、というのは時代を超えたものなのでしょう。

【花散里】「浅縹の海賦の織物、織りざまなまめきたれど、にほひやからぬに、いと濃き掻練具して……」
縹色とは、古くからある青の色名。その浅い色なので、薄い青。掻練は、白と紅色の二説あるのが、ここは紅かと。花散里は、光源氏にとって癒しの存在であり、出すぎず、話を聞いてくれる。オーソドックスな品のいいブルーグレーのスーツに、ローズレッドの小ぶりのバッグといったシックな装いが目に浮かびます。

【玉鬘】「曇りなく赤きに、山吹の花の細長……」
曇りなき赤、つまり目の覚めるような赤い袿に、山吹色の細長。現代の感覚に置き換えなくともわかるような、鮮やかな配色。クリアレッドのミニワンピースに、ゴールデンイエローのオーガンジースカートを合わせたような、若いから着こなせるものだったのではないかしら。けれど上品とはちょっと違う、田舎育ちであることも匂わせてしまうような組み合わせ。

【末摘花】「柳の織物の、よしある唐草を……」
末摘花は至ってシンプル。白と薄い青の襲を柳というが、揺れる柳の葉を思い起こすのが一番しっくりくる。昔の古めかしい、世が世ならのお姫様にはこの辺で、という光源氏の思惑が見えてしまう。しかし、最後まで面倒を見ようとする光源氏もえらいとも感じてしまう部分でもある。

【明石御方】「唐めいたる白き小袿に、濃きがつややかなる重ねて……」
白い袿に濃い紫。この選択を見て、紫の上は内心穏やかではない。ロイヤルパープルのドレスに白い帽子のような、気品あふれる凛とした佇まいが感じられます。穏やかでいられるはずがありませんね。

【空蝉】「青鈍の織物……御料にある梔子の御衣、聴し色なる添へたまひて……」
出家をしている空蝉には、青鈍色。そこに梔子(くちなし)色。許し色とは、禁色の濃い紅色ではなく、許された少し薄い紅色。青鈍色に少しおしゃれを、という光源氏の心遣いでしょうか。ただ、ほんのちょっとだけ気になるのが梔子色。「くちなし」=「口無し」から「言わぬ色」と言われ始めたのが平安時代。自分の気持ちを口に出して言わない色、という意味で使われていました。光源氏が、空蝉のことを忘れられずにいるという意味が込められているとしたら……。深く詮索するのはやめましょう。

以上が、有名な「玉鬘」の衣配りの場面の色彩表現。そこには、王朝時代にはすでに色にはイメージがあるという共通概念があったことがうかがえる。前帖「少女」では色に意味を持たせた機能的効果について述べたが、色には情緒的効果があることも紫式部は「玉鬘」にしっかりと残してくれている。
「色は人を表す」紫式部は、王朝時代のトップカラーリストだった!

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