神人A - サイキック/超感覚的知覚

霊能師世界。霊能力という力。
それとは別に、サイキック。超能力。
その謎を紐解こう。
霊能力とサイキック、神霊と幽霊と心霊、これらは全て出自が異なる。

心霊写真というものがある。
心が写る心象現象。心象存在の姿。
死んで間もない生命の心と心霊スポットに生きる怨霊。これらは別物。

霊能世界は細菌の神、細菌の精神、細菌の知覚世界。それを細菌から人間が受け取りインスピレーション、精神的影響を受けて表した別解釈、変換。細菌は例えば宮本武蔵や服部半蔵などの伝説の人物を種族として登録し直しその生命の特長や能力を人格変換し続ける遺伝記録を持つ。
どういうことかというと、宮本武蔵の生命的記録の中に本人に付いていた細菌の記憶、細菌の遺伝情報が含まれているという事は想像に難くない。
その情報は細菌との共通記録として宮本武蔵が朽ち果てた後にマスターテープとなる細菌の強度、耐久性や精神性、生命力として、生前互いに影響を与え合っていた存在として生き別れるまで共に生きる。そのくらい細菌とは身近で、隔たりの無い存在。精神的、生命的記録のダビングである。という事は我々も常にそういった存在と影響を受け合っている。
s=ax二乗sはサージカル。aとは本体情報。
本体情報が2つあると完全な遺伝記録となる。
つまりはx細菌が本体aに2種類付いていた。
その2種族の分岐が本体一体の遺伝記録。
本人がいた時は三位一体。死んでのち一対。
DNAは2の倍数として記録されるので、
細菌の2二乗と本体の2。その倍数は8。
8における遺伝階数は4。係数は2。
四層の遺伝は4体の遺伝より強い。
8になった段階で細菌が遺伝記録を残す。
ゲームの様だが、遺伝に於けるマージンデバイスは細菌が担う検索エンジンだ。
メモリが空気中に存在する遺伝次元。遺伝情報次元にアクセスする事が細菌とテレパシーを組む事でもある。
自分の遺伝情報は何階層か、などソースとしては正しい。有効に活用されたし。
その情報が死んでのち宮本武蔵種族の情報として残る。宮本武蔵は死んだ後細菌の力を手にした。つまりは霊能力を手にして霊能存在として残る。細菌はサイキックである。宮本武蔵の情報が、力がサイキックを得て人格を持った状態。
それが細菌種族。
ロマンティックな事を言うと、それらの種族が、つまりは神ウイルスが人間に様々な人生や生き方をもたらし能力を手にさせようと伝授する。
細菌は通常、伝染させようと思えば伝染させる。
伝染させなければ伝染しない。
菌の宿主が意思を持ってそうすればそうなる。
更には勿論細菌自体の意志でもそうだ。
細菌は知覚を持つのでサイキックエネルギーを知覚すると人格を宿す。遺伝情報に人格を再現する。細菌として、又は伝説として死後もこの世に残りたい、名を馳せたいと思うならば少なくとも
2種類の種族と闘争を繰り広げ克服しマスターとなる必要がある。
宮本武蔵レベルの大神霊であれば種族。
又は悪魔があるが、悪魔は元々存在していた人間が元の大悪魔たる細菌種に取り憑かれた末のパーパスであり、個人名を持つものと、もっと大きなものに取り込まれた存在としての悪魔がいる。
細菌は他にも数え切れない数と観測不可能な極小のものなど、悪霊とされるものとして人々を邪魔するものも多い。生前、霊能力を多用しながら大した霊にも取り憑かれる事もないと苦役の為に残る種苗となる。ナウシカのヒソクサリの様な大まかな怨恨、の中で苦悶に生きる道。
生前からそうだった者は存在規定される。

細菌のサイキック、つまりはサイキックについての説明。知覚する力。体感覚で力学の強さや形が測れたり具体的に種別、属性が分かる、などの適性が必要で、生まれ持った者以外が身に付けようとしたりエネルギーを受け取ると、時に多重人格や精神障害予備軍となる傷を残す。元来力を持つ者は一度全て失うか、使わない状態になり、30年、40年とも言える長い年月を過ごした後生きる力や、サイキックの自覚などを自然と促され力を取り戻す。ある状態では分からない事、無い状態が一時的である事など貴重な学びを持ってサイキックとして生きる術や力を学ぶ。
学びなのだ。力は戻る。ならばその期間の学びは神前儀式の如く神に口を聞くためのものだ。
一方細菌のサイキックは、エネルギーを真に受けたり、食らう、そういった知覚に於ける、知覚の中のサイキックエネルギーだ。大元のサイキックエネルギーの成長分岐であり、異なる発展を遂げた軌道を描く分岐点だ。細菌種の間に伝搬し伝わるバインダーとなった細菌が各々変換し伝えるものが霊力で、人間にしてもサイキックエネルギーを受け過ぎて知覚する事で、そのエネルギーに人格を与えて宿し制御不能になり、自らと分別する事で嫌悪したり、頼ったりしながら別人格を育て多重人格に取り憑かれる者もいる。
多重人格は主に感情に素直になれない、なり切れない、行動に表せない事である特殊な精神状態を好んでその中に引き篭もる、それが私だ、と確信を得る、その為に、そう思える為に行動して自らを規定、限定する事でそれ以外を排斥する事で起こる。多様性を認められないのだ。
貴方はサイキックではない、と言われたら認められない。それはつまりその人のサイキックエネルギーを受け過ぎている事になる。
その人の価値観の中で認められたい、や、その人の価値観が認められない、という心情は越境行為で、サイキックがエナジーを放っている以上そういった感情を誘発するが、エネルギーを持って相応しい、とエネルギー所有の正当性を証明すると全ての分岐点や元々の出自たるエネルギーは全て本人に回収される力学に従う時、力学上他人のエネルギーは本人に向かって作用するので回収が済むと普遍的価値に晒された能力の出自に於ける感情は起伏に富んでいた状態から平面上の対等関係へとシフトし落ち着く。その人の価値観に於いて誉められる、讃えられるという事は当人その人の価値観の価値であり能力だ。評価された側が価値を持つのでなく評価する側の回収である。
元々その影響があった、と仮定する事において影響を受けたと確実に言える知能を有している。
事実上の仮定が力学作用を生み出すならば、当人に褒め称えられたいと思うであろうし、自分の価値観を認めてほしいと思うであろう。
そういった力学の回収がある限り、影響を与えていた事実上の解釈に変えていい。
ある人の価値はその人の能力であり、その人の見る世界である。ある人が見た時に感じる事を感じない、別のものを感じる。その様に同じ世界でも視点が違えば異なる次元。その世界を詳細に渡って説明する時に、どうしても手に入らないものの見方。全く同じ考えは持てないであろう、サイキックとは。そういった人種。理解されない事を目指しながら社会への理解、社会からの理解、それらを同時的に叶える生き方をする事。貴方がサイキックであればそうする他ない。
サイキックエナジーについては手に入らないものだが、名前を付ける事が誤解を招く。
なので神となったもの、であれば固有のサイキックであるし自分のみサイキックエナジーを使える。とだけは言える。
手に入らない者がそれについて考えたり、工夫したりする事は精神障害を招いたり、価値観を著しく湾曲させる事になるのでこれ以上は書かない。

霊能力とサイキック、そして神霊の説明が終わったので、幽霊と心霊の説明をしよう。

心の霊、心霊とは人が人に影響を与える心理がある事の指向性能力に於いて、そうしたい、こうしたいと思うであろう事と同じ事である。
肉体次元に在る存在の心が心霊写真の事実である。心理的強迫観念、強いサイキックアタック、怨念が光学的に存在する事。つまりは心霊とは人の心が表れたもので心霊写真を撮った人間が憑依されている事で念写している。心霊写真を撮る人間は必要以上に執着する精神疾患症状を抱えている事になる。心霊写真を撮ってしまう症状。撮られた人間には何も影響が無いが、撮った人間の執着が向けば苦しめられる。本人は撮った事でこの人間は不吉で苦しむべきだ、と思うであろう。この人は死ぬんじゃないか、という強迫観念を生み出している者が抱える切迫感、強迫観念、追い詰められた感情。
生霊や、生霊に取り憑かれた人間の洗脳され支配された歪んだ心理が生み出す本人の苦しみ。
殺人現場に居る怨霊は殺害した者の恐怖や現場に投影された死なる印象が蔓延しその現場に居合わせた人間に取り憑き憑依する事で見えている、自縛生霊だ。歩く自縛生霊の様な人間も居る。その者が見ただけで、又は認識されるだけで生霊を飛ばす多重人格者。洗脳支配。
多重人格者は己の人格をその場に居る人や街中の人に憑依させ支配的な観念を与える。自分の思い通りの行動や会話をさせて、自信の果てに自虐を覆い隠して生きたいと思っている。
そういった人間は自分の見ている世界を念写し続けている事において間違いを犯す。
念写している事の重要性以上に必然的に念写されている。人から受け取る心理現象をそのまま世界を見る目に変えて、自らを追い詰め切迫感に苛まれている。恐らくは他者が見る自己イメージが極度に悪いのだ。小さい頃に嫌われる、その原因が分からない、又は分かりたくない。気持ち悪いが、自分が理想とする姿になろう為にモノの見え方を変える。そのまま成長した時に重なり合わない現実世界と観念の世界が折り合わなくて分岐した先で自己と出会わない、本当の事が分からない。つまりはそういった人間なんだ、とこちらが規定しそう思った時に、そう思う理由を考える事で自らが亡くなる者たち。
心霊写真なんてただの精神疾患の念写病なんだ、という事と同じでその世界を重ねて見えた理解に於ける人格障害者、というレッテルが必ず必要だ。

幽霊。それは霊視覚を持つものにしか見えない。
生物的に一時的に支配されている状態で視覚作用を利用されている。タンキー、童乱とは霊媒を自覚的に行う。敢えてやらせたい事をやる、やってやる、やらせたい事をさせる、やらせたい事をやらない、させない、嫌がる事をする。逆に自分を苦しめたり降魔とも言えるやり方で追い出したり殺し合いをする。そういった人種は軽々しくさせる勢いで姿を表させる。自分の支配領域を相手の幽霊に貸す。使わせる。
よって支配的に自らを管制している能力者は子供の頃から見えていたとしても、見える状態、見させられている状態、見えない状態の段階で推移している。敢えて視界領域を貸す。霊媒を極めると支配されなくても見る事ができる。
恐らくは見える幽霊は生前の経験上、その様に存在する事が可能にさせる理由があるのだろう。

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