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086_The Pop Group「Y」

海山さんの存在は会社にとって公然の秘密といっていいものだった。まずもって、必ず皆その異様な風貌に目を奪われる。大柄の体を一年中、季節に関係なくクタクタのスーツに身を包み、顔半分は常に色褪せたマスクで覆い隠している。夏でもその身なりは変わらないため、汗だくになり周囲に異臭を放っている。そして一番の特徴は、両手に抱えた大小数多くのコンビニ袋。コンビニ袋には水やお茶といったペットボトルの多くが突っ込まれている。傍目から見たら、半ばホームレスにしか見えない。

皆、一つの会社に出勤することになる以上、遅かれ早かれ、彼の存在というものを認識せざるを得ない。なぜ、あんな人がこの会社にいるのだろうか。そしてここまで巨大で歴史の長い会社である以上は、ここにも決して触れていけないものがあるんだな、と自分に言い聞かせることになる。

入社当時、彼の存在を視認した僕は、探偵気取りというか、興味本位で通勤途中の彼の後を追って、会社のどの部署に向かおうとしているのか確認しようとした。その先にはあったのは、別棟の地下2階の「資料部別班」と掲げられた汚いプレート。警備室で部屋の鍵を借りていった彼は、そのまま地下の階段へ消えていった。鍵を借りるということは、彼専用の部屋でも一つあてがわれているのだろうか。僕は何かそれ以上、詮索する気にならなかった。

彼は夏でも冬でも1年中ひたすらペットボトルがパンパンに詰まったコンビニ袋を掲げて、職場と家を往復しているようだが、急にパタっと姿を見せなくなる時がある。そういえば最近見ないな、と思って少し気になりだしたくらいで、またはたといきなりその姿が現れる。少しばかり、お休みしていたのだろうか。まるで、季節に応じて庭にやってくる希少な自然の野生動物を見るような感覚だった。久しぶりにその大柄な体躯と大量の袋を見て、この人の業は未だ終わっていないのだ、と改めて実感した。なぜ、彼だけこんな風になってしまったのだろう。そしてなぜ、彼はこんなになってしまってしても、未だに辞めずに会社に出勤しているのだろう。

入社から5年後、僕は人事部に配属された。人事権という生殺与奪の権の一切を握る人事部という部署は、未だこの会社で大きな権威を持っており、同期から羨望の目を向けられた。しかし、内情は決してそんな生やさしいものではない。ここまで大きくて旧態依然な会社の人事部をやっていると、海山さんのような「特殊な人」の管理も当然に行わなければいけない。人事部においては当然、清濁併呑をもってして、はじめて人事担当者と言える。人の清い面も汚い面も当然に管理しなければならない、ということた。

彼の存在は、この会社組織という巨大なスチームの内燃機関を長年維持させることにより、経年劣化によって生じた歪みそのものだった。僕は人事部に変わる前は、あくまで門外漢として、海山さんの存在を半ばファンタジーの世界の住人のように、ある種の「ネタ」のような存在として見ていた節があった。しかし、いざ自分が人事部として彼を管理する立場となった時に、まざまざとその認識を改めさせられる事になる。

彼にも当然のように入社前の経歴があり、これまでの勤務評定があり、そしてなぜ彼がペットボトルいっぱいの袋をもって毎日会社に通勤するに至ったかの経緯がつらつらと書かれた大量の経過観察資料のファイルが存在していた。僕はその大量の資料を管理する通称「U担当」だった。彼は会社が管理すべき歴とした「社員」であることに間違いなかった。

彼は一応、資料部別班で外国経済市場の分析をやっているという名目で会社に席を置いてあるのだが、当然それはあくまで建前の話だ。資料部別班首席分析官というポストも彼のために用意されたものだ。経過観察資料の中で面白い記述を見つけた。ちょうど1年前だが、海山さんが図書部で外国の専門的な経済学の書籍の貸出し申請をしたついでに、受付の女性にチャタレイ夫人の写真を渡したそうだ。なぜ、チャタレイ夫人なのだろう。海山さんの学生時代のセックスシンボルだったわけでもあるまい。女性からは気味が悪いので何とかしてほしい、と人事部に訴えがあった。もうこればっかりはしょうがないんだと、人事課長はつぶやいたそうだ。

もちろん海山さんにも、最初はこんな人ではなかったらしい。採用当時に写真を見れば、一流大学を出て総合職採用の前途揚々として才気煥発とし溌剌とした若者の顔がある。世間で一流と呼ばれる大学で世界市場分析を専攻し、海外の大学へも留学経験がある。彼の入社同期には、今の会社の取締役をはじめとした錚々たる顔ぶれが並んでいた。

彼自身、将来を嘱望された優秀な人間だったのだろう。しかし、入社から10年経った時に起こった時にある事件が起きる。彼の信頼していた上司が会社の金を横領し、知らぬ間に彼もその上司の片棒を担がされていたようだ。それが明るみに出ると、彼の上司は自らの命を絶った。会社で首を吊っていた上司の第一発見者は、朝出勤してきた海山さんだったらしい。

その後も当然、海山さんはこれまで通りと変わらず働かなければならなかったのだが、彼の中でおそらく少しづつボタンがかけ違われていったようだ。ふいにふらっと会社からいなくなったり、帰ってきた時には大量のコンビニ袋を職場に持ち込むなど、段々と奇行が目立つようになる。そして直接の原因については未だにはっきりしないのだが、そのガラス細工のような構築物はある何かの拍子で瓦解し、その結果、彼の心は壊されてしまった。食べ尽くされた貝料理のように中身はくり抜かれてしまって、文字通り抜け殻になってしまっても、彼は今もこの会社に残り続けている。

それは一種の会社への復讐といったたちのものなのだろうか。そして、誰にも読まれることのない世界市場の分析記事をひとり今でも収集し続けて、何冊もファイルにまとめられたものが、人事部の書棚の奥に彼の経過観察レポートと一緒にまとめられていく。定年まであと3年、最後にはいったい彼に何が残るのだろうか。

ある日、僕が異動者の資料準備のため休日出勤した際に、雨の降りしきる中、別棟の前を通りかかった。そこには海山さんがずぶ濡れの中で立っていた。いつものように大量のコンビニ袋を両手に下げているので、当然傘もさせない。うわあ、と僕は思わず声を出してしまった。その声に気づいた彼は振り返って、僕と目が合い、海山さんの深く悲しみを湛えたその目を真正面から見た。

「どうされたんですか」
僕はその時、はじめて海山さんに声をかけた。特段の迷いなくそうした自分に後から少なからず驚いた。
「仕事が、仕事が終わらないんです」
彼は僕の存在を認めて、少し時間を置いてそう呟いた。穏やかで弱い声だった。

これまでは彼を遠くから見つめることがあったとはいえ、資料の経過観察資料の中でしか僕は彼を認識していなかった。僕にとって彼はいわば形而上の存在だったと言える。しかし、今こうやって会話を交わすことで、はじめてコミュニケーションの取れる歴とした「人」であることがわかった。

「雨のなかで、そんなところにずっといらっしゃると風邪をひきますよ」
「はい。そうですね」
彼はそう呟いた。
「仕事は終わらないのですが、もう帰ります」
そう言うと、彼は会社の出入り口の方に向かってゆっくりと歩いていった。そして彼の言った言葉は、決して僕に向けられた言葉ではないということはなんとなくわかった。おそらく彼は、僕と会話していたわけではないのだ。

「仕事が終わらないんです」
彼の言葉が、その後もずっと僕の頭の中に残り続けていた。



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