見出し画像

066_Telefon Tel Aviv「Fahrenheit Fair Enough」

すでに部下や後輩は当たり前に平成生まれの人間ばかりになってきていた。すでに、40手前で中間管理職となった自分は昭和生まれの終盤組である。どうやら、最近の若い世代性における懐古主義(レトロ)というのは、平成の世を指すことになってきているらしい。バブル景気の中で国内全体の経済が上向き、世の中全体が楽観的で浮ついていた空気だったが、物心ついた時から不景気が前提の平成生まれの子にとっては、それは経験のない理想世界のように思えるらしい。そうなると、昭和というはもはやレトロを超えて古典になってきているのかもしれない。

「学生時代、夢中になって読み漁った本とか、聴きあさった音楽とかそういうのはあるの」
「うーん、あんまり思い当たるものはないっすね」
「読書はしておいた方がいいよ。残念ながら、あんまり頭の良い人ではなかった俺は音楽は腐る程聴いてたけど、読書をする習慣がなかった。これといってピンとくる作家もいなかったし。あるとすれば村上春樹くらいだったな」
「読書、読書かあ。うん、僕どっちかっていうと、本を読むのって苦痛なんですよね。内容もyoutubeとか動画で見た方が頭に入ること多いし。紙の文章から情報を読み解くってこと自体、割と結構負担じゃないですか」
「それはそうかもな、でもな、古典とか呼ばれるものは今読んで全く意味がわからない、つまらないものでも、後々自分の人生にとっていいエッセンスになってくるよ」
「やっぱり今でも何冊か、紙の本で読まれるんですか」
「そうだね、特に紙の本は。読書の癖は若いうちにつけておけ、とは言ったもんだが、同じように読書を自分の血肉とする術を学んでおくことも大切なんだよ。本は読んだけど、中身を覚えていないなんていう、空っぽ読書な避けたいからさ」

飲み会でのなんてこともない会話である。20代の後輩に自分の言った内容がどこまで刺さったかは分からない。相手はふーんという顔をしていた。飲み会でおっさんから「本を読んでおいた方がいい」なんて言われた、めんどくせーなと鬱陶しく思われたのではないだろうか。今の子はどこまで本なんて読むものかはわからないが、自分のことを棚にあげて、恥ずかしげもなくよくそんなことを言えるものだ。歳と共に面の皮も厚くなってくるらしい。俺は帰りの電車でカバンから新書を取り出した。

もちろん、自分が古典を読み込んだ経験などない。自分が読書に関して何より愚かだったのは、昔から本を読むことが、自分が今の自分ではない何者かになるために、まるで着飾るアクセサリーがごとくとらえていたことだ。だから、「20代で読んでおきたい本一覧」などを見て、意味もわからずゲーテのファウストやらサルトルの嘔吐やらに手を出しては、うんうん唸りながら読み進めて、あえなく挫折した。

でもそれって誰かしらは心当たりのあることだろう。思春期はどこまでも拡張する自意識を満たそうとしてか、どうやっても背伸びして、難しい思想本とか哲学をかじろうとする。こんな本を読んでる自分ってすごい!あの本を批判できる俺すごい!そんなどうでもいい自己満足を得るためには、我慢して、ひたすら目を通してページが進んでいくことだけに達成感を覚えていた。本当の意味で読書を楽しむのではなく、ただ読んだ冊数に達成感を覚えて読書リストを見てほくそ笑んでいた。

自分はこういう人間なんだ、コミュニケーションをして相手に伝えるということよりも、わかりやすい形で周囲に喧伝するため手っ取り早いツールとして本や音楽を利用していたのだろうな、と今では感じる。ポーズを決めることに夢中だったから、悲しいかな、本当の意味で読書に没頭した、という経験は思春期ではなかったのかもしれない。逆に音楽に関しては、バンドとかやっていたから音楽を発信する人の側に触れてから、その本質的な部分に少しだけ触れられたように思う。

本を読んだか読んでないか微妙な学生時代が過ぎ、しかし、仕事をし始めると状況が一変した。仕事のインプットやらで頭がいっぱいになって、とても休日に読書で本を読もうなどという気が起きなくなってしまったのだ。その状況は、結婚して子供ができると余計に拍車がかかった。日常に拘いすぎて、本の世界になど到底入り込むことができないのだ。そもそも頭の中が仕事やら家庭やら煩いごとで占拠されていて、本の内容が頭に入った先からすでに溢れ出ていってしまっていて何も残らない。なんとも深刻な状況だ。だから、読書の習慣は若いうちからしておけ、ということなのだろう。

たぶんそのように読書する方向性が変わったのは、内田樹先生の著書だとかを読んでからだろう。自分と比べようもないほどの教養を身につけた氏の著書は、私の知的好奇心を大いに刺激し、率直に大人としての教養を身につけたいと思うのと同時に、もっと知りたいもっと考える幅を広げたいと思ったのだ。それは氏のような圧倒的な読書によるインプットのなせるわざであったのだろう。

最近になってやっと自分も思わず耽読してしまうような本に出会えたのも少なくない。中年以降の読書量は年々下がってきているというし、本で得た知識が役に立つのは30代までだとも言われる。そんな中で自分はあえて、再び古典と呼ばれるような本を手に取り、読み始めた。

ただ中年になってくるとちゃんと本を読もうと思っても、残念ながらもう集中力が続かないのだ。若い彼らから、「動画でわかるのなら、もうカビが生えているような頭なんかで、紙の本なんてわざわざ読まなくてもいいじゃないですか」と言われているようだった。

確かにこれから、ドストエフスキーを読めと言われるのは、おそらく悲しいかな自分でも拷問でしかない。最近は過去の名作やあらすじをわかりやすく教えてくれる動画や、音声で聞けるオーディオブックなども充実しており、単純に本の中身を知りたいんだったら、そういったツールを活用する方が効率的には違いない。

だが、今は時間をかけてでも、一行一行丁寧に読み込んでいくような形で、読み進めていきたいのだ。心に残ったものは、携帯を取り出して個人的にメモ代わりにしているツイッターで呟いて、記録しておく。その言葉がどのような文脈で、どのような著者の意図を反映して、その本全体の中でどのような効果をもたらすのか、考えながら読み解いていく。

手っ取り早く要点をつかめるyoutubueなどのまとめ動画を見る若い世代からしてみたら、非常に時間のかかる手の込んだものでナンセンスに映るかもしれない。しかし、そういったところも含めて、結局のところ、それは過去の自分との対話に他ならない気がしてくる。そんなこんなで、私はセネカの「人生の短さについて」を読み終えたと思ったら、ちょうど降りる駅のドアが閉まるところだった。私は慌てて電車から降りた。

さてと、次は何を読み進めようか。このペースでは、到底一生かかっても読み終えることができないであろう「20代で読んでおくべき本一覧」のリストを、私は眺めていた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?