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095_Sampha「process」

赤い色をした川のほとりに俺は立っている。黒いコヨーテのような、生き物が遠くで吠えている。いや、正直に言えば、俺はコヨーテを見たことがないから、「コヨーテのような」としか言えない。明るいような暗いようなよくわからない天気で、生ぬるい風が俺の顔を撫でる。まっすぐに俺にだけこの風が吹いていることが手にとるようにわかる。グレーのような黄土色のような、まるで風に色がついているようだ。

目の前に何者かが、俺と対峙している。頭には布が被せられていて、顔が見えないがおそらく、腰が曲がった気味の悪い老婆がこちらを見ているようだ。そして、何か空気の振動のような言葉を放つ。布に顔を隠され、老婆の口元は暗いので、何を喋っているのかは正確にはわからない。だが、耳に聞くのではなく、頭の中に語りかけてくるようにメッセージが伝わる。その内容はこうだ。

お前は、大きなものを手に入れる。己の望むもの、だが、そのためにはただ少しの血が流されなければならない。成功に犠牲はつきものだ。腹を決めよ。どちらを選ぶのか。そうでなければ、どちらも失うことになる。

これは、そうだ、いわゆる暗示的な夢だ。夢を見ている時に、これは夢だと自覚することを明晰夢という。俺は幼い頃から、何度もこう言ったことを経験している。(これは明晰夢だと自覚した時は、自分の手を見つめる癖がついた)しかし、ただ、これはあまりにも直接的なメッセージだ。ここまで言われたことは今までなかった。

夢の中でぼんやりと、うちの家系は夢見の能力があると言われていたことを思い出す。極めて呪術的で、かつ比喩的な夢を見ることで、自らの進むべき道を照らすという。それがこれか。「ただ少しの血が流れる」と言うのはどういうことだ。思わず、今、お腹の大きな妻の顔が浮かんだ。そして、産まれてくる自分の子どものことを。

そこで目が覚めた。隣では、すやすやと妻が寝息を立てている。美しい寝顔。なにものにも代え難い存在、そしてその存在がこれからもう一つ増えるのだ。そう、俺の子供が。小さな命がもう少しで生まれる。それはまさに、小さな血を持つ肉体だ。望むもの、そうだ、俺は何を求めているのだろう、今の自分の会社の成功か?社会的な名誉か?それとも、それ以外の何かがあるということか。そして、それと引き換えに小さな血が流れると?一体、何を言っているんだ。

そして、俺はこれと似たような夢を週1回のペースで見るようになった。次は黒い墓場のような場所で、大きな木の下に同じく布で頭を覆った老人(同じく老婆かどうかさえもわからない)に大体、似たようなことを言われて、どちらかを選べと言われる。そうしないと、老人の傍にいるえらく図体のでかく鋭く大きな牙を持った大型犬に小さな命を食わせると言われる。

その次は、廃校になった自分の小学校の教室で、自分は机と椅子に腰掛けて、同じようなことが書かれたノートを読まされる。そのあとは、白紙のページが続き、最後のページに自分の名前を記入する欄がある。これに名前を書かないと、お前は一生忘れ物の常習者として、学校の掲示板に張り出される、と思わされている。小さい命か、大切なものを忘れ続ける忘れ物の常習者か、どちらを取るのか。そして自分の本当の名前を書くのか、書かないのか、どちらかを選べと言われる(誰も自分にそれを直接言ってこないが、自分は夢の中では、前提事項としてそう意識に刷り込まれているようだった)

どの夢の中でも、俺は刃を喉元に突き立てられるように、究極的な選択を迫られる。自分の望むべきものか、小さな命かを選べ、と。どちらを望んではいけないのだろうか。だが、どちらを望んではいけない、どちらか一方しか選べないと、夢の中では思い込まされているようだ。事実、夢から覚めている今の自分もそう思い込んでいる節がある。

俺は半ば、ノイローゼに近い状態になった。クライアントからの仕事もうまく進められず、ほぼ部下に丸投げ。つわりがひどくて調子の悪い妻に対して悪いと思いつつ、俺は家に寄り付かずにバーで酒をあおる日々が続いた。最低だ、俺は。もう、俺にはどちらかしか選べない。そして、夢の中で選択を突きつけられるのが、死ぬほど怖かった。それは、刃物を喉に突きつけられているようなものだった。

確かに、俺はわからなかった。どちらも両方、選んではいけないのか。
「そんなことはできない、昔から決まっている」夢の中で、そう言われるのがオチだ。だが、待てよ、俺は夢の中で、実際に相手(具体的な人間の姿をしていない時もある)に対して、そう問うた事はなかった。その覚悟がないということか。どういう事だろうか。俺にはその器がないということか。

Sampha - Blood On Me

そんなこんで、妻も臨月が近くなったため、実家に里帰りすることになった。家を出る前に向かい合って、妻が俺に話しかける。
「いい加減、父親になる自覚を持ってほしい。そうしないと、わたしはこの子を産んだあと、あなたの元を離れることになる。そんなことは私は望んでいない」
妻は、てっきり俺が父親になる覚悟がないと思い込んでいる節があった。それは半分正しくて、半分間違いだった。俺は生まれてくる子供が愛おしいに違いない、その子の父親になりたい。しかしそのことによって、俺は俺が本当に望むものと引き換えになるというのだ。そう、夢の中であの老婆(のような何か)に選択を突きつけられているのだ。そんなことはもちろん妻に言えない。頭がおかしくなったか、鬱病か何かで変な夢を見ているのだろうと思われるに違いなかった。

「正直に言おう。子供が生まれてくるのは嬉しい、だが怖いんだ。うまく説明できないけれど、子供ができることによって、俺はそれによってどうにかなってしまうかもしれない」心から愛する妻から、あそこまで言われては、もう仕方なかった。俺は俺なりに状況を噛み砕きつつ自分の気持ちを正直に言った。そして、カラカラに乾いた大地を押し流すようにして、俺の目からは潤いの雨のような涙が流れた。

「やっぱり、父親になるのが、怖いのね。でも、あなたは変わったわ。私が保証する」
「変わった?俺が、変わったのかな?」
「そう、あなたは前に進もうとしている。父親になろうとしている。新しい人間になろうしているの、そのために新しい名前にもなった。私の苗字に変えてくれた。あなたはもうお父さんの所有物じゃないわ。新しく生まれてくる子供を持つ、父親になるの」
そうだ、俺は強権的な父親の下から幼い頃から散々暴力的な言葉や罰を受けて、家から飛び出して、裸一貫で天涯孤独のところから会社を起こした。そして妻と出会い、家庭を持つに至った(その時に実家から籍を抜いて、妻の籍に移って性も変えた)。古いものから飛び出した俺は新しい人間だ、そして新しい命の選択をすることができる。必ず俺は新しい命と自分の望むものを手に入れることができる。

本当にそうか?そうなのか?
俺は幻視する。白昼夢の中で、向かい合うお腹の大きい妻の後ろに立つ老婆は問いかける。俺は眠りから覚めながら、半ば夢を見ている。今は老婆の顔に、布はかかられていない。まっすぐに自分の目を見つめている。その瞳は優しさと厳しさが込められている。

間違いない。俺は望む。小さい命と自分の望みを。そして俺と俺の父親、俺の家系すべてに繋がれてきた古い鎖を断つ。それが俺の望みだ。俺はそう老婆に目で伝えた。そして、老婆は消えた。

1ヶ月後、新しい命が生まれた。そして、俺は正真正銘、父親になった。


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