186_My Bloody Valentine「Loveless」
決めた。もうこれ以上、周りに見栄をはるためのだけに、お金を使いたくない。結局、そういうものにお金を使ってきて、自分が心から満足したためしなぞないのだ。いい加減そういうのはもうたくさんだった。他人から見えた基準で自分を取り繕うなんてことは、なんの意味のないことなんだ。やっとこの歳になって、それがよくわかった。
若い頃からはファッションとか、車とか、結婚式とか、周りの目ばかり気にして、本当に自分が満足のいくお金の使い方をしていなかった気がする。モテたいというのは若い男がハマる底知れぬ沼だった。それもある意味仕方のない部分がある。だが、いい加減自分もいい歳なんだ。他人に関係なく、自分がこれがいいんだというお金の使い方をして、誰からも文句を言われるいわれはないはずだ。
そもそも見栄を貼ることっていうのは、なんともお金がかかるようにできている、というか仕向けられている。そして自分が本当に満足するかどうかという観点からすれば、実は必ずしもお金がかかるものとは限らないことも多い。この年になると、かかったお金と自分の満足度が決して比例しないということにも気付きはじめた。
付き合いたくもない飲み会の二次会に出て高い店で深酒するよりかは、親友と路上飲みしていたほうが、満足度は高いしお金も使わない。妻との記念日に外食で高級フレンチのコース料理もいいが、自分で手間をかけて苦労して手料理を作ったほうがいい思い出にもなる。そして、お金の使い方で一番満足度が低いのが、見栄を張るために使ったお金だった。
見栄を張るというのは、すなわち観客を必要とするということだった。誰かに見せるために使うお金というのは、観客が誰もいなくなって自分一人になった時にそれを抱えた時に虚しさを痛感する事になる。
時計好きの先輩の勧めで見栄のために買った大仰な時計。特段、自分は時計の蘊蓄にも詳しくないし、手巻き時計の手間のかかることの意味がわからない。ただただ重たいだけで、パソコンのキーボードを打つたびにわざわざ時計を外すのが億劫だった。その先輩も異動でいなくなり顔を合わせることもなくなった。これ幸いとばかりに、観客もいなくなったことから、僕は心おきなくApple Watchに換えることができた。
Air podsの音楽の再生や音量の変更も簡単にできるし、スポーツ中でもつけたままでいられる。さらに防水も利いてるから、簡単に水洗いも可能。あまりの快適さにもう言葉がない。なんであんな重たい時計を大事そうに着けていたのだろう。(幸いメルカリでも高く売れた)僕は一体誰のために、なんのためにお金を使ってこの時計を使い続けていたのだろう。途中でわからなくなっていたのに、惰性でしかない。
僕は僕で、見栄のためにお金を使ったりしないことを決めた。だが、妻から聞くママ友連中の話を聞くにつれて、嫌気が差してくる。妻もそうして欲しかったが、あくまで僕の考えというものでしかないので、強制はできないのだ。どこどこのママは習い事であんなことを、あそこのパパは休日は必ず皆をどこどこに連れていく、それをインスタでアップされているのを見て云々。そんな話ばかりだった。食事中に散々そんな話ばかりになるから、いい加減やめにしないか、と思わず口をはさんだ。
妻にいらぬ話はやめさせようと仕方ないのでテレビをつけると、「芸能人の豪邸訪問」とか「ブランドバッグを色違いで何個も持つ贅沢暮らし」なんて、なんとも中身のない番組ばかりやっていて辟易した。芸能人っていうのは見栄を張るのも仕事のうちなのだろうか。そう思うと僕は、到底そんな仕事などはやってはいけないなと思う。
しかし最近、テレビで見るようなこの見栄の張り合いに一般人も巻き込まれていたのだ。妻が一生懸命にスマホをタップしているインスタグラムがそれだった。最近のSNSの発展というのは、お互いの見栄の張り合いをさらに助長する仕組みとなっている気がする。
SNSで繋がろう、発信しようとするとき、必ず他人すなわち観客の目を気にする仕組みになっていて、そこに満遍なくお金を使わせようとする企業側の思惑がある。どこどこの有名なお店のスイーツを食べに行こうと言われたので、そんなに食べに行きたいのかと尋ねたら、「ママ友がインスタにアップしてて、私もアップしたいから」と言っていた。自分が食べたいから、その店に行くんじゃないのか、それで結局自分に何が残るんだというんだろう。僕は、自分が本当に食べに行きたいと思うところにしようよと遠回しに妻に促した。
「でも、共通の話題とかになるし。インスタで見たよーってなるから」
妻からすれば、インスタで自分を発信するのは「ママ友の中でも浮かない自分」というものを演出するためのものらしい。ある意味、仕方のないことかもしれない。職場の官舎に住む我々は、とても狭い世間の中の一つの蛸壺の中で、そこで周りと折り合って生きていかなければならないから。「自分の好きな風にしていたらいいのに」妻にそうキッパリと言えない自分が、なんとも歯痒くもあった。
でも、やがて妻も気づくだろう。他人を喜ばせることと、自分を喜ばせることは違うのだということに。全ての人生の出来事は、自分を主役にするべきものだ。他人に見せたり、観客を必要とするべきものはそれに引っ張られて、結局舞台の裾に追いやられてしまう。ずっと自分のために、このステージを舞っていたいだろう。僕はそれからこうするし、妻もいつかそう気づいてくれる事を望むだけだ。早く観客のいない世界に歩み出していこう、僕とともに。
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