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057_Coldcut「Let Us Play」

父親は一昨年の冬、亡くなった。

長年によるアルコールの過剰摂取で、肝臓はボロボロになり、結果的には多機能不全でどうしようもない体になった。元々異常に体が頑丈だったこともあり、医者からもあれだけ好きにお酒を飲んで、よくあそこまで生きていられたものだと半ば呆れた物言いで言われた。父親は会社を辞めた晩年は好きな酒を飲んで暮らす日々だったのだが、亡くなった今となっては、父親という人間がふとどういう人生だったのだろうかと考える時がある。

正式に診断を受けたわけではないのだが、今から考えてみれば、自分の父親は典型的なアスペルガーだったのだろうと確信している。社会の認識が進んだ現在に比べし、なにぶん自分が子供の頃の時分にはそういった知識もない。ずっと自分の父親がこういうものだという前提で育った。どうせ話が通じないのだから、ということで、まともに話しあってお互いを理解した経験もない。父親がどんなに異常なのか、または果たしてどこまでが正常だったのかを今となってはきちんと正視する機会もない。

何かに異常なこだわりがある。何度も同じ話を繰り返したり、気になったことを確認せずにはいられない。そして異常に心配する。どこかで体をぶつけていないか、道で転んではいないか、そんな瑣末なことを気になって何度も何度も繰り返し子供に問いただす。そんな父親だった。

子供の頃は、父親の存在が恥ずかしくて嫌で嫌でたまらくて、特に友達に見られるが一番嫌だった。特に授業参観などは最悪だ。父親の異常な姿を見て、周囲からは「心配障害者」などと言ってからかわれた。(これは子供ながらに今でも秀逸なネーミングだと思う。子供のあだ名をつける能力はすごい)晩年にはこれにアルコール依存症も加わり、父親の世話に我々周りの家族は、ほとほと手を焼くことになる。

最近になってそういった発達障害といったタイプの人がいると広く世の中に知られてきてはいるが、昔であれば、周りからは、なんかとりあえず変なやつだ、あいつはああいう奴だから、で済まされていたのだ。言葉が先行してできると、それに追随するように、該当する人間が急に表面化してくる。今まで社会に存在していたはずの発達障害やLGBTQといった人たちのカテゴリーが新たに言葉として社会的に認知されると、急に「実は私そうなんです」と言った形で手を挙げる人が増え出す気がするのだ。

最近ではHSP Highly Sensitive Person いわゆる繊細さんと呼ばれる人たちもその一種のように思える。「繊細さんは皆、様々な刺激に過剰に反応してしまう社会で疲れやすい人だけど、本当は感受性が豊かで心の優しい人なのです」という言葉を受け取って、「あ、わたしは本当は繊細さんだったんだ!感受性が豊かだということは悪いことじゃなかったんだ!自分は自分のままで良かったんだ!」と感じる人がいる。自分が漠然と感じているこの生きづらさの理由や意味について、後付けでいいから言葉で定義付けてほしいと皆が願っているのかもしれない。

父親は繊細さんという類でないが、そうやって社会の端っこに追い込まれそうになりつつも、時代が良かったのか、なんとか中卒で入った会社に窓際社員とはいえ定年退職まで勤め上げることができ、僕も大学に行くことができた。大学に行くと父親に言った時に反対されるかと思ったが、なぜかすんなり許してくれた。母親に聞くと、大学卒の会社の後輩に出世が追い抜かれたりしたからか、あの人も心の中で悔しいものがあったんじゃないか、ということを言っていた。父親も父親で、おそらく世渡りがうまくできない自分の性根に対して、漠然とした生きづらさを感じていたかもしれない。そして、定年が近づくにつれて次第に酒量が増えていった。

僕はあまり自慢できることではないかもしれないが、親に結婚したいといって付き合っている女性を紹介した経験が3回あり、同じく向こうの親に娘さんと結婚させてくれと挨拶に行った経験も3回ある。そんなもの経験するのは人生で一回でいい、という代物である。結婚に関しては、父親が反対したりしなかったりもしたが、これまで2回は数奇なものでいろんな理由が重なって、ダメになった。

そしていざ3回目という時にも、最初はいいと言っていたのに、途中で心変わりしたのか、父親が強く反対した。またはじまった、というのが僕の正直な気持ちだった。この人の考えていることはわからない、この人とは一生話が通じない。なぜこの人が自分の父親なのだろうか、と自分の運命を心底呪ったものだ。今回もダメになるのだろうか。

しかし、3回目ともなると、今回は自分も思うところがあり、これまでのやり方ではダメなのだということを肚の底でわかっていた。「過ちてこれを改めずこれを過ちという」、失敗して自分が得た経験というものは、何物にも代え難いほど尊い。そうなのだ、喧嘩してもしょうがないのだ。それで失敗してきたのだから、これまでと根本的にやり方を変えなきゃダメなんだ。じゃあ、どうするか。行き着いたやり方は手紙を書こう、というものだった。今まで父親に手紙など書いたことがない。でも書いてみよう。

その時は単なる思いつきでしかなかったのだが、なぜかうまく行くような気がしていたし、もうやれることはそれしかないと思った。あれだけ今まで父親には心は通じないとあきらめていたのに、これだけはなんとか父親にも通じるはずだ、と心の底で思っている。父親は、僕が昔子供の頃に書いた似顔絵や自分の弟から贈られたネクタイをいつまでもずっと大事に飾っているようなところがあった。自分にしてもらった親切は忘れない、そんな義理堅いところがあった。必然的に、僕は父親を圧倒的に嫌悪しているものの、心の底では人間的な部分としての父親を信頼していたのだと思う。家族というのは、なんとも不思議なものだ。

というわけで、僕は父親に手紙を書いた。子供の時に父親の存在が嫌だったこと、本当は友達のお父さんにように自分と話をしてほしかったということ、だから結婚についても頭ごなしに反対するのではなくきちんと話をしてほしいことということを正直に自分の気持ちとして書き連ねていくことにしたのだ。(続く)


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