【R-18】ヒッチハイカー:第36話『勝利の女神現る!? その名はニケ!銀の翼を持つ少女』
「何だって? 蠅の王? それは一体どういう事なんだ、風祭さん?
伸田君は? 千寿は? 二人はどうなってるんだ?」
ヒッチハイカーとの戦いで大破した特殊万能戦闘RV車『ロシナンテ』の運転席に座った鳳 成治が、ふだん冷静沈着なこの男にしては珍しく興奮し、まるでシートから身を乗り出すかの様に腰を半分浮かしながら、無線の向こう側にいる風祭 聖子に対して噛み付きそうな勢いの怒鳴り声で矢継ぎ早に質問した。
ロシナンテの車内にいる他の面々も固唾を飲んで興奮した鳳を見守り、彼と通信相手の聖子とのやり取りに聞き入っていた。特に恋人であり婚約者でもある伸田の事が心配で堪らない皆元 静香は二列目シートに固まった様に座ったまま、指が真っ白になるほど両手を強く組み合わせて前の運転席に座って通話中の鳳の後頭部を食い入るように見つめていた。
『非常に残念としか言いようが無いんだけど、死にかけていたヒッチハイカーは雷の直撃を受けて、恐らくヤツの最終進化形態と思われる「蠅の王」に姿を変えて完全復活してしまったわ。うちの所長…白虎は、ヤツが操るハエの大群に飲み込まれてしまって身動きが取れない状況なの。
今から決死の覚悟を固めた伸田君が、ベルゼブブに最終決戦を挑むところ…』
車内スピーカーから流れて来る聖子の報告を聞き終えた瞬間、車内にいる全員が凍り付いた様に息を呑んでシンと静まり返った。ヒッチハイカーと戦って負傷した〇X県警SIT(Special Investigation Team:特殊事件捜査係)チーム隊長の長谷川警部でさえ、倒した最後列のシートに毛布を被って横たわったまま、怪我の痛みを忘れるほどの衝撃を受けていた。
「ベルゼブブ… 蠅の王だと? ヤツは元々は普通の人間だった筈だろう? それがなんで!」
鳳らしくも無く、興奮した彼は固く握りしめた右拳で運転席側のドアを思いきり叩いた。
「ドンッ!」
『私にも分からないわ。ただ…今回の一件は、偶然に起こった事態ではない気がする。そう、陰で何か邪悪で巨大な何者かの意思が働いている様な…』
それまで滑らかだった聖子の声の調子が、思案しながら話しているためか途中から途切れがちになってきたのが、車内で聞いている全員に伝わって来た。彼女の声の様子と、その話す内容は聞く者を不安にさせずにはいられなかった。だが、聖子の話を理解出来るのは、鳳ただ一人だった。
「聖子さん、私も同じ考えだ。今回の『ヒッチハイカー事件』は何者かに仕組まれていたんだと思う。何よりも千寿や私は、『アテナ』側だと言ってもいい人間だ。陰でライラとバリーのいる組織が動いている事やBERS(Bio-enhanced remodeled soldier:生体強化型改造兵士)製剤に類似した薬剤が絡んでいる事から見ても、アテナに敵対する闇の存在による邪悪な意思が働いていると考えて間違いないだろう。」
「いったい、あなた達二人は何を話しているんですか!? 私達には、さっぱり分からない!」
突然、二列目シートの静香の隣に座ったSITの島警部補が、運転席の鳳に対して大声で言った。
彼は鳳と聖子の話す会話の内容が自分の理解出来ない事にイラついていたのだが、ついに我慢の限界に達したのだろう。それは、最後尾シートで横たわる長谷川警部も、島の隣に座る静香も同じ気持ちだった。全員が伸田と千寿の心配をしているのだ。二人の訳の分からない会話の内容に辛抱出来なかったとしても無理は無かった。
「…すまない、島警部補。今、私と風祭さんが話した事は国家機密に匹敵すると言っていいほどの内容なんだ。残念だが、君達にも詳細を話す事は出来ない…
ただ… 今、現状において伸田君の戦っている相手の蠅の王は近い将来、この国の存亡を左右する敵になり得る可能性のある存在…とだけは言っておく。
今回の作戦の責任者である私が言うのは情けない限りだが、今の我々としては伸田君の健闘に望みを託す他に成す術が無いんだ。」
鳳 成治の発言は断固とした口調だったが、彼の握りしめた拳がブルブルと震えている事から、彼個人としては断腸の思いでしゃべっているのが窺い知れた。長谷川警部と島警部補の二人はともに、鳳のつらい立場を理解する事が出来た。だが、車内で一人だけ決して黙っている訳にはいかない人物がいた。
「そんな、あんまりです! どうして…ノビタさんの肩に国の存亡がかかってるなんて、そんな無茶な事が言えるんですか!?
彼は警察官でも政府の人間でも無い、ただの一般人の若者です。私の大切な婚約者です!
国家なんて私は知らない! 彼を無事に私の元へ返して! 私のお腹には、彼の…子供がいるんです!」
興奮した静香がヒステリックに叫んだ。
ロシナンテの車内はシンと静まり返り、中にいる誰一人、彼女にかける言葉を持たなかった。
そんな中、通信を通した聖子の声だけが静香に対して語りかけた。
『興奮しないで、静香さん。落ち着いて。
冷たい言い方になるけど、今あなたが興奮しても事態は何も変わらないわ。伸田君は、あなたとお腹の子供さんを守るために立ち上がったの。彼の気持ちを分かってあげて。
今では蠅の王となってしまったけれど、ヤツはまだあなたの事を狙っている。ヤツのあなたに対する異常とも言える執着心…いえ、あれは執念というしか無いわ。
あの執念からあなたを救うためには、ヤツを倒すしかない。伸田君は、自分でそう決心したのよ。』
黙って俯いたまま聖子の話を聞いていた静香の両目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ノビタさん… どうか死なないで…」
愛する者を想う静香の心と流した涙に、その場にいた全員が胸を打たれずにはいられなかった。
「何とか出来ないんですか、鳳さん?」
「伸田君は、ただ巻き込まれただけの民間人なんだ。何とか彼を救ってやって下さい!」
島警部補と長谷川警部がそれぞれに鳳に向かって訴えた。
「風祭さん、『黒鉄の翼』はどうなっているんだ?」
車内にいる他の三人の縋るような視線を受けた鳳が、無線を通じて風祭 聖子に問いかけた。
『黒鉄の翼は現在、重傷を負った安田巡査を救急搬送中よ。だから今、そちらに向かう訳にはいかない。』
この場に一人だけ存在しない聖子が声だけで無念そうに伝えて来た。
「くそ! あれも駄目、これも駄目か! この『ロシナンテ』はヒッチハイカーと、引き続くライラ&バリーとの戦いで大破したため現状での戦闘はほぼ不可能だ。その上『黒鉄の翼』まで駄目となったら、我々には打つ手が無い!」
普段冷静沈着な鳳が八方ふさがりとなった今の状況に、文字通り両手で頭を抱え込んだ。
ロシナンテの車内にいる誰もが見つめるだけで、俯いた鳳にかける言葉を持たなかった。
しばらくの間、誰もが口を利かず、ヒッチハイカーに破壊された天井部を応急処置のためビニールシートでふさいだだけの『ロシナンテ』の車内には、外を吹き荒れ車体に吹き付ける吹雪の音だけが嫌が応にも強調され、誰の耳にも大きく聞こえていた。
少し経って、何かを思いついたのか、鳳が俯けていた顔を勢いよく上げて言った。
「いや、待て… あったぞ! 打つ手が一つだけ! 何でもっと早く思いつかなかったんだ! 今の状況を打開出来るかもしれない人物が一人だけいた!」
いったい、彼は何を思い付いたというのだろうか? あきらめかけていた鳳の沈んでいた声が、急に生き生きとして弾んだ声に変わった。何事かと車内の全員が鳳の顔を注視した。すると、皆の見た鳳の顔つきが、それまでの沈んでいたものから活き活きとした表情へと変わっていた。
「風祭さん、私の姪だ! 姪の榊原くみに連絡を取ってくれ! 急いで!」
『えっ!? そうか! ニケを使うのね! すぐに連絡するわ!』
またしても二人の間で交わされる彼らだけしか分からない会話に、他の者達は首を傾げながら互いに顔を見合わせるしか無かったが、二人の明るく弾んだ会話の調子と活き活きとした鳳の表情が、『ロシナンテ』の車内にいる全員にいい意味で伝染するかの様に広まっていった。それまでのふさぎ込んでいた車内の雰囲気がガラリと変わった。
「急いでくれ、風祭さん! くみ…いや、ニケなら、彼女の極超音速飛行なら、ここまで数分で着く!」
今や鳳 成治は、自分の思い付いた考えに大いに興奮しているようだった。
「ニケ? 極超音速飛行…?」
隣り合って座る静香と島が互いに顔を見合わせ、最後列シートでは負傷した長谷川が横たわったまま眉間にしわを寄せていた。彼らには、相変わらず鳳の言っている事が全くと言っていいほど理解出来なかった。
「あの…鳳さん。榊原くみって…あなたの姪ごさんですか? その人が、この事態を何とか出来るとでも言うんですか?」
島警部補が皆を代表する形で、おずおずと鳳に質問した。
島達の座る後部座席を振り返って鳳が質問に答える。彼の目は興奮してキラキラと輝いていた。
「ああ、この事態を打開出来るとしたら彼女しかいない。なぜなら、ニケは勝利の女神だからだ!」
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「分かったわ、聖子さん。今の話で、すっかり目が覚めたから私は大丈夫。
成治おじさんに伝えて。すぐにそっちへ行くって。」
少女は通話相手にそう伝えると、繋がっていたスマホを切った。
現在の時刻は午前4時32分。冬の日の出時間にはまだ早く、屋外も室内も真っ暗であった。
ここは、東京郊外にある安倍神社の裏に位置する現宮司である安倍賢生の長男、榊原竜太郎が主人として居を構える榊原家の一室。
今、ベッドに寝起きのパジャマ姿で腰を掛け、突然かかって来たスマホの通話を終えたのは榊原家の一粒種の長女で15歳の少女、榊原くみである。
この少女こそ誰あろう、つい先ほど『ロシナンテ』の車内で鳳 成治と風祭 聖子の会話に登場した『くみ』という名の少女その人なのである。彼女は明るい栗色の長い髪で、澄んだ青色の瞳をしたとても美しい少女だった。青い瞳だけではなく、彼女の容姿全体が純粋な日本人ではない事を物語っていた
ついさっきまで、自室のベッドでぐっすりと眠っていた榊原くみは、突然のスマホ着信音で叩き起こされたのだった。夜明け前の電話に驚いたくみだったが、掛かって来た相手は以前別件で知り合った叔父の旧友でもある千寿 理が所長を務める探偵事務所の秘書、風祭 聖子だったのだ。
直接面識のない相手から突然掛かって来た早朝の電話に驚いたくみだったが、聖子の話す内容を聞くにつれ、さらに驚いた。聖子から事件の概要を聞き、自分しか事態を収束出来ないとの彼女の強い要請を受け、叔父である鳳 成治を含めた現場の人々を救うべく出動する決心を固めたのだった。
風祭 聖子との通話を終えたくみは、パジャマから服を着替え始めた。彼女が身に着けるのは、別の作戦の際に叔父である鳳 成治を通して日本国政府から提供された『ニケ専用特殊戦闘スーツ』だった。このスーツはニケの戦闘補助用に関係機関で研究開発された特殊なスーツで、耐弾・耐刃はもちろんの事、耐熱及び耐衝撃にも優れた効果を表わす世界最高性能を持った戦闘服なのであった。
「くみ、行くのね。」
いつの間にか、くみの部屋の扉を開けて外に立っていた母親である榊原アテナが娘に対して言った。娘くみの前に現れた母であるアテナは、流暢で完璧な発音の日本語を話しはしたが、容姿は日本人とは似ても似つかず、燃えるように美しい金髪と海のように深く青い色の瞳をした美しい白人女性だった。そうすると、当然ながら娘のくみは日本人と白人とのハーフという事になるが、彼女は栗色の髪を除いては、青い瞳を含めて母の血を多く受け継いでいた。
とにかく母娘揃って、スーパーモデルや女優顔負けの非常に美しい容姿をした女性達だった。
「ええ、ママ。行って来るわ。
詳しい状況はママが聖子さんが聞いて、飛行中にテレパシーで私に中継して。」
更衣にやや手間のかかる特殊戦闘用スーツを着用し終えたくみが、自宅の庭に出る際に自分を見送る母アテナに対して言った。
訳の分からない事を言い出した娘に、母親が美しい顔に微笑みを浮かべながら落ち着いた態度で答えた。
「分かった。そっちは任せてちょうだい。」
鳳 成治の要請を受けた現内閣総理大臣である志村首相直々の命令で発注され、くみの体型に合わせて特注で作られた彼女専用の黒い特殊戦闘スーツは、ファッションモデルのようにスラリと背が高くスタイルの良い彼女の身体にピッタリとフィットし、部屋から漏れ出た明かりが彼女の美しいシルエットを夜明け前の暗い庭にくっきりと浮かび上がらせていた。
くみは戦闘スーツの襟の部分に右手を当て、そこに仕組まれていたボタンを指先で軽く押した。
「プシューッ!」
空気が漏れ出る音と共に、くみの来た戦闘スーツの背中の肩甲骨辺りに背骨に並行して縦に20cmほどの左右二すじの細いスリットが開いた。
すると… もしこの場に彼女達以外の第三者がいたならば、自分の目を疑う様な光景が展開した。
戦闘スーツの背中に走った縦二列のスリットから二すじの青白い光が迸り出たかと思うと、青白い光は面状に展開し、くみの背中に2枚の翼の形となって広がった。そう、ちょうど天使が背中の翼を広げた様に…
くみの背中に展開した2枚の翼から青白い光が消え去ると、そこには一枚一枚が全て銀色の羽根で出来た、鳥類と同じ形状をした銀色の翼に変化していた。
「バサッ、バサッ」
くみの背中から生えた銀色の翼は、決して作り物の動きでは無く、生きている鳥の翼と同じ優雅で力強い動きで大きく羽ばたき始めた。
「それじゃあ、行くわね。ママ。」
「今回の敵は手強いかもしれないわ。相手は蠅の王よ。決して油断しないで成治叔父さん達を救うのよ。」
これは一体、どういうなの事だろうか? 今回の一件について風祭 聖子と通話したのは、娘のくみだけである。そして、くみは母であるアテナに通話の内容を一切話していなかったのだ。なのに、アテナは鳳の危機や蠅の王の事まで全て承知しているかの様な口ぶりだった。しかも母娘二人の会話の様子では、どちらも互いの言動に疑問を抱くそぶりなど一切無かった。この二人は通常の理解を越えた不思議な母と娘であると言えた。
「分かった、気をつける。行って来ます、ママ。」
母に対してそう言ったかと思うと、次の瞬間には、くみの姿は地上から消え失せていた。
「行ってらっしゃい、私の愛しい娘、ニケ…」
目に見えない速度で瞬時に上空へと飛翔したニケは、〇✕県の夕霧谷方面へと真っ直ぐに進路を取って飛行を開始した。銀色の翼を広げて大空を飛ぶニケは、そのままどんどん加速していった。身に纏った戦闘スーツ以外は生身の身体であるニケは、そのままの姿で瞬く間に音速を突破し、ジェット戦闘機の速度を遥かに超えた彼女の飛行速度は、すぐにマッハ20(音速の20倍の速度)にまで達した。極超音速と呼ばれるスピードで夜明け前の空を飛ぶ彼女は、10分とかからずに目的地までたどり着く事だろう。
それにしても… このアテナとニケという不思議な二人の母娘は、いったい何者なのだろうか…?
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『ウインドライダーシステム』のバックパックに仕組まれた6基のローターをフル稼働させ、吹き荒れる吹雪で凍てついた大地から飛び立った伸田は、動きを止めて自分の方を観察していた蠅の王を中心に見据える様にして、付け入る隙を探るべく敵の周辺を旋回し始めた。
「聖子さんが言った様に、蠅の王を『ウインドライダーシステム』に仕組まれた疑似結界発生装置で作り出した疑似結界シールド内に封じ込められれば、ヤツの動きを止める事が出来るはずだ。そうすれば、ヤツの身体に直接『式神弾』を撃ち込める。
何とかして、ヤツの動きを止めてやる。」
そう伸田が考えた次の瞬間、彼のすぐ目の前に蠅の王の顔があった。
無表情な顔で伸田を見つめる蠅の王は、笑みを浮かべているかの様に口元だけ歪ませながら囁いた。
「そう、お前の思い通りにいくかな?」
「うっ! うわあああ!」
蠅の王が近距離に突然出現した事に驚愕した伸田は、慌ててその空域から飛び退いた。
すると、飛び退いた先で彼の耳元に吹きかかる息と共にまたしても、いつの間にか背後にいた蠅の王の不気味な囁き声が聞こえた。
「つれなくするなよ、俺と遊ぼうぜ。その…何とかシールドっていうのを早く試して見たらどうだ?」
「くそっ! この野郎っ!」
いつの間にか背後にいた蠅の王を振り返りざま、伸田は右手に握った『ヒヒイロカネの剣』で後ろの空間を思い切り薙ぎ払った。
「カキーンッ!」
蠅の王は山刀で軽く受け止めた。
「そうだ、もっと足掻け。もっともっと、かかって来い。」
伸田は、またもや蠅の王の思うがままに動き回されている自分に気付いた。
「まさか…ことごとくヤツが先回り出来るのは… それに、『疑似結界シールド』の事まで知っているのは…
ひょっとして…ヤツは、僕の思考を読んでいるんじゃ…?」
『それは、案外当たっているかもしれないわね。』
突然、伸田の被るヘルメットを通して聖子からの通信が入った。
「聖子さん… やっぱりそうなんでしょうか…?」
『考えられない事じゃないわ。すでに完全な魔族と化したヤツなら、人間の思考を読み取る事なんて容易いはずよ。』
「そんな… 僕の思考をヤツが読み取るのなら、こちらの攻撃パターンも退避行動も全て見切られて当り前じゃないか…」
伸田は蠅の王と自分との圧倒的な強さの違いが、魔族と人との能力の差である事を思い知らされ愕然とした。こればかりは、いくら伸田が頑張った所でどうしようも無かった。敵の行動をあらかじめ予知出来る者を相手にして勝てる筈が無いのだ。
伸田は立ち直れそうもないほどのショックを受けていた。
「どうした? お前が来ないのなら、俺から遠慮なく行くぞ。」
「ビュンッ!」
「カキーンッ!」
火花が散った。
話しかけて来たかと思うと、蠅の王が突然斬りかかって来た山刀の刃を伸田は手にしていた『ヒヒイロカネの剣』で咄嗟に受け止めたのだ。
それは、彼我の大きすぎる力の差に意気消沈していた伸田が半分無意識で取った反応だった。
昨夜からのヒッチハイカーとの度重なる戦闘で磨きに磨かれた伸田自身の戦闘スキルは、驚くほどに向上していたのだ。自分では気づいていなかったが、けっして大袈裟な表現ではなく、この時点で伸田の反射神経と戦闘能力は人間レベルを遥かに超えていたと言えるだろう。
その時、蠅の王の顔に浮かんでいたのは、伸田に対する忌々しげな表情などでは無く、じつに楽しそうな笑顔だった。
「ははは! やるな、お前! それでいい! 面白いぞ! もっとだ!」
楽しそうに笑いながら、蠅の王は何度も伸田に斬りかかった。
「ギュンッ!」「カインッ!」「ギューンッ!」「カキンッ!」
金属同士の激しくぶつかり合う音と共に上がる黄色い火花が、夜明け前の暗い空に戦う二人の姿が浮き上がらせた。そして、様々に方向と高度を変えて次から次へと火花を散らしていく。目まぐるしく場所を変え、あちこちで火花が散るたびに、激突する二人の姿が一瞬だけ夜空に浮かび上がるのだった。
伸田と蠅の王が手に持った刃を交えているのだ。二人がそれぞれに握るオリハルコンで出来た山刀と、ヒヒイロカネで造られた剣が何度も何度も空中でぶつかり合っているのだった。
国は違えど共に失われし古の超金属で作られた二つの武器の激突は、ほぼ互角だった。いや、互角である筈が無い。
互いの武器の性能が拮抗しているならば、扱う者の力量が勝敗を決するのが剣における闘いである。気力・体力・速度のどれをとっても人間である伸田が完全な魔族と化した蠅の王に敵う筈が無いのだ。それが一見互角に剣を切り結んでいる様に見えるとするなら、蠅の王が手を抜いているとしか思えなかった。
蠅の王は簡単に伸田を殺すのではなく、じわじわと嬲り殺しにするつもりの様だった。
「くそ! ヤツはわざと手を抜いてやがるんだ。でも、こっちが気を抜いたら一瞬で殺られる… やっぱり僕の力じゃあ、蠅の王と化した今のヤツに一矢を報いるのさえ、夢でしか無いのか…?」
強く噛みしめた歯をギリギリと鳴らしながら伸田が悔しそうにつぶやいた。
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「つまらない戦いだねえ、バリー。
蠅の王…ベルゼブブか。あんなの相手じゃあ、ノビタなんて人間の小僧如きが勝てるはずないじゃないか。
遊んでばかりいないで、あんなガキ、さっさと切り刻んじまえばいいのにさ。」
「ブモー!」
ライラのぼやきにバリーが賛同の声を上げた。
伸田と蠅の王の戦いを、離れた地点から隠れて覗き見ていたライラとバリーは正直な所、飽きて来たのだった。二人とも蠅の王に代わって、自分自身の手で伸田を切り刻みたいという残虐極まりない欲求が高じて来たのだ。
すると、突然ライラの身体がビクッと震えたかと思った途端、彼女の態度が一変した。
「ん!? 何か来る! こっちに向かって物凄いスピードで空を飛んで来る!
くそっ! このアタシより速い!」
「ブ? ブモー?」
バリー自身には未だ感じられなかったが、顔色を変えたライラの慌てふためく様子と普段聞く事の無い彼女の恐怖に近い叫び声を聞き、鈍いバリーもつられてパニックを起こしそうになった。
二人が見上げた未だ明けやらぬ暗い空を覆い尽くす分厚い雲の下を縫うように飛行しながら、吹きすさぶ吹雪のベールを通してさえ視認出来るほどの青白く光り輝く何かが猛烈な速度で近付きつつあった。
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「カキーンッ!」
凄まじい火花を散らし、伸田が右手に握っていた『ヒヒイロカネの剣』が弾き飛ばされた。クルクルと回転しながら飛んだ剣は、鋭い刃先を下にして伸田から二十数m下の凍てついた地面に深々と突き刺さった。
「しまったっ!」
左手で衝撃に痺れる右手首を押さえて叫びながら、空中で崩れた体勢を立て直そうとした伸田のすぐ目の前に、またしても無表情な蠅の王の顔があった。
「詰みだな。もう、お前相手の遊びには飽きた…」
たった1m程しか離れていない空中で伸田を見つめる蠅の王の視線は氷の様に冷たく、彫りの深い端正な顔には何の感情も浮かんではいなかった。
「さらばだ、人間… お前の首を我が女への手土産としよう。」
伸田に向けて静かにそう言い放った蠅の王が、右手に持った山刀をゆっくりと振りかぶった。
「これまでか…」
遂に自分の最期だと伸田は強く目を閉じた。大好きな両親や親しい仲間達の顔、それに今までの楽しかった思い出などが、走馬灯の様に次々と彼の脳裏を過ぎって行った。
そして最後に、この世で最も愛する女性である皆元 静香の顔が、彼の瞼に大写しになって現れた。その静香の唇が動き、伸田に何かを告げようと話しかけていた。
「何…? 何て言ったの、シズちゃん?」
伸田が最後の静香の声を聞こうと必死に傾けた耳に届いた言葉は…
『大丈夫… あなたは死なない…』
幻の静香がつぶやいた言葉を理解した伸田が閉じていた目を開いた瞬間…奇跡は起こった。
「シュビィーーーッ!」
突然、今なお暗い夜明け前の空間を青白い光が照らした。そして、蠅の王の振りかぶった山刀の幅広の刀身を、突然空から地上に向けて真っ直ぐに走った青白く輝く眩しい二すじの光線が貫いたのだ。
伸田は見た。空から射したレーザービームそのものの様な青白い二条の光線が、伝説の超金属『オリハルコン』で出来た山刀の刀身を折る事無く見事に貫通した二つの1cm大の穴を開けているのを…
しかし、そんな事が有り得るのか…?
つい先ほど、伸田は特大級の雷が直撃しても溶けもせず、いささかも形を変える事さえ無かった山刀を自分の目で見たばかりだったのである。それを、あの二条の青白い光線が一瞬で貫いてしまったのだ。
「ぐおっ!」
蠅の王が短い叫び声を上げ、右手に握っていた山刀を手放した。落ちていった山刀は先に落ちた『ヒヒイロカネの剣』と同じ様に地面に突き刺さった。
敵同士の伸田と蠅の王が一瞬だが仲間ででもあるかの様に互いの目を見交わし、二人同時に青白い光線が発射された上空を見上げた。
「何だ、あれは?」
まるで、敵同士なのを忘れたかの様に、二人が同時に同じ言葉を発していた。
そして彼らが目にしたのは、自分達よりも高度にして30mほど上空に静かに浮かんでいた奇妙な存在だった。
それは人の形をしていた。その姿は身体にフィットした黒い衣服を身に着けていたため、美しい身体のラインから女性である事がはっきりと分かった。
ライラの様に男をたぶらかす熟れ切った女のフェロモンを発散させた妖艶で究極とも言えるボディーとは異なり、熟れ切ると言うにはまだ少し青さを残してはいるものの、抜群のプロポーションだと言っても良いほどの美しい姿だった。
だが、なぜそんな美しい姿態の女性が空を飛ぶ事が出来るのか? 奇妙に思えるが、その姿を見れば一目瞭然だった。
彼女は…空に浮かんだ女の背中には翼があったのである。それは、一枚一枚が銀色の羽根で出来た美しい翼だった。左右に大きく広げた翼長は4m近くもあるだろうか… その優雅に広げた銀色の翼は、猛禽類の翼が持つ力強さというよりも白鳥の持つ上品な美しさとでも言える様な優雅さが感じられた。
不思議な事に伸田は、その銀色の翼を生やした女を初めて見た瞬間にも「新たな敵が現れた…」とは思う事は無かった。なぜなら、蠅の王の山刀を貫いた青白い輝きの光線も、銀色の翼全体がボウっと放っている、やはり同じ青白い色をしたオーラの様な淡い輝き… それは、蠅の王の翼や全身を覆う邪悪な紫色をしたオーラとは異なり、白虎の牙や爪の放つ優しさを感じさせる青白い輝きと同系の見る者に安らぎを与える光だったからだ。
その青白い優しい光は見る者に癒しと勇気を与えてくれる…伸田は彼女を一目見た瞬間から、味方だと信じて疑わなかったのである。
「『あれ』とは何よ、失礼ね! 私はニケ。そっちの紫色の翼を生やしたあなた! ここに私が来た以上は、もう弱い者いじめは許さないわよ。私は弱い者いじめは大っ嫌い。弱くても正しい者は必ず守ってあげるの。
他人には優しくしなきゃ。両親や学校の先生に、そう教わらなかった?」
翼を生やした女の発した声は少女の様に良く通る、澄んだ美しい声だった。いや、ファッションモデル顔負けのスラリと均整の取れた美しい姿態をしたこの女は、間違いなく少女だろう…彼女を初めて見た時に伸田は直感でそう感じた。しかも、敵では無いのも彼には確信が持てた。
しかし、オリハルコンで出来た山刀に穴を穿つほどの凄まじい威力を持ったレーザー銃の様な武器を、この少女は所持しているのだろうか…?
いや、しかし両腕を胸の前で組んで眼下を見下ろしている少女は武器らしい物を持ってはいない。身体にぴったりとフィットした黒いボディースーツには武器を隠す場所も無さそうだった。
敵では無さそうだが、このニケと名乗った翼の少女は一体何者なのか…?
蠅の王も恐らく伸田と同じ思いだったのだろう。それまで黙っていた蠅の王が口を開いた。
「貴様… ニケと名乗ったが、いったい何者だ?」
蠅の王の声は低く抑えられていたが、自分の行動を邪魔したニケに対して相当頭にきている事は声の調子から十分に察せられた。しかも、愛用の山刀に二つも穴を開けられているのだ。伸田は蠅の王の全身を包み込む紫色のオーラがユラユラと怒りに震えているのを感じた。
「言ったでしょ、私はニケ。ただの通りすがり…と言いたいところだけど、そちらのお兄さんと、私の身内を救ってくれという要請を受けて寝てたところを叩き起こされて、ここまでやって来たのよ。だから今の私、あんまり機嫌が良くないわ。」
蠅の王に答えたニケは、次に伸田の方に顔を向けて言った。
「あなた、伸田さんね。風祭 聖子さんから話は聞いてる。探偵の千寿さんはどこ?」
聖子から話を聞いているのなら、この恐ろしい力を秘めた魔人とでもいうべき存在の蠅の王を怖くは無いのだろうか? ニケの話す声の調子に恐れの響きは微塵も感じられなかった。
「千寿さんは、この蠅の王が出したハエの大群に飲み込まれてしまった。あそこに…」
ニケの問いかけに答えながら伸田は足下に広がる雪の降り積もり凍てついた大地の一点を指さした。そこには、邪悪なハエの大群で構成された大型バスほど大きさをした紫色の塊があった。おぞましい事に、その紫色をした塊は全体がザワザワと蠢いていた。
「分かった、あれね。」
そう言って紫色のハエで出来た塊をジッと見つめたニケの双眸が一瞬青く輝いたかと思った次の瞬間、その両目から眩いばかりの青白い輝きの光の線が迸り出た。
「シュビィーーーッ!」
なんと、先ほど蠅の王の山刀に二つの穴を穿った二条の青いレーザー光線は銃の様な武器から発射されたのでは無く、信じられない事にニケの両目から放出されていたのだった。彼女の目には器具的な物は何も取り付けられてはいなかった。
「ジュッ! ジュジュッ!」
青いレーザー光線が紫色のハエで出来た小山に穴を開けた。ニケが目からレーザーを放出したまま頭をわずかに動かした。するとレーザー光線が線を描く様に紫色のハエの大群を焼き払って行く。ちょうど虫眼鏡で太陽光線を集めてアリを焼いた時の様な匂いが周辺に漂ったが、すぐに吹雪でかき消されていった。
凍て付いた大地も、表面を覆った氷が青いレーザー光線で瞬時に蒸発していき、蒸発した水蒸気は瞬く内に凍り付きダイヤモンドダストと化して空気中を舞ったかと思うと、やはりすぐに吹雪で散らされていった。
「ジュジュジューッ!」
点から線、線から面へと見る見るうちに広範囲に渡るハエの群れが焼き払われ、ハエの大群が群れを成して出来ていた小山の形状が崩壊していった。
「ぐわおおおおおーっ!」
大地を揺るがすような物凄い雄叫びを発しながら、表面から内部に渡って焼き払われ崩壊しつつあるハエの大群で出来た紫色の小山をぶち破って現れたのは、今まで中に閉じ込められていた白虎の姿だった。
「ぷっはあっ! やっと、忌々しいクソバエどもの中から出られたぜ! あのハエの大群が、まるで結界みたいに俺を閉じ込めていやがった。」」
肉食の魔バエの大群に貪り食われ続けたため、白虎の全身を覆う美しい毛並みがボロボロになり、身体のあちこちにピンク色の地肌が覗き、傷口から噴き出した血が白い毛を赤く染めていた。だが、それ以外に白虎の身体に大したダメージが無いのを見て取った伸田は、安堵の溜め息を吐いた。
しかし、恐るべき肉食の魔バエの大群に全身くまなく埋め尽くされ、中に数十分間も飲み込まれていたというのに、窒息を含め表面的な傷以外に肉体的にほとんどダメージも感じられないとは… いやはや…まったく、神獣白虎というのは恐ろしくタフな生物である。その証拠に魔バエに食われてボロボロだった毛並みや体表面に負った傷口などが見る見るうちに再生修復され、白虎の全身が元通りの美しい毛並みの凛々しい姿に戻っていくではないか。
なるほど、これなら風祭 聖子が「うちの所長は心配ないから…」と歯牙にも掛けなかったのも無理は無い。
苦笑しながらそう考えた伸田は、驚くべき事実に気付いた。肉食の魔バエの大群に寄ってたかって食われる尻から彼の身体が次々に再生修復していく事は、今までの付き合いから伸田にも予測は出来た。
だが、たった今ハエの大群を焼き払うためにニケの両目から発射された青いレーザー光線は、取り囲んでいたハエ達だけを焼いて、中に閉じ込められていた白虎の身体には傷一つ付けなかったというのだろうか…? 凍てついた大地だって、表面を溶かされていたのでは無かったか…?
いくら白虎とは言え、さすがに今焼かれたばかりのレーザー光線による焼灼傷をそんなにすぐに修復してしまえるとは、伸田には到底信じられなかったのだ。なのに、白虎の身体には魔バエに食われた体表の傷しか負っていない様にしか見えなかった。
「すると…ニケは群がっていたハエ達だけを焼き払い、中に閉じ込められていた白虎さん自身を傷付けない様に、自分の双眸から発する光線の威力を加減したって事か…? あの…どう見たって少女にしか見えない彼女に、そんなすごい芸当が可能なのか…?」
そう考えながら、伸田は突然空から現れたこの救世主と言うべき少女を感嘆と驚異の入り混じった目で見つめた。
「ニケは…僕達を助けてくれた彼女は… ひょっとして…少女の姿をした神なのだろうか…?」
猛吹雪の吹き荒れる上空をウインドライダーシステムで飛行する伸田は、同様に近くを浮遊している敵である蠅の王の存在をしばし忘れ、銀色の翼で自分達よりもさらに上空を飛ぶ青い目をした美しい少女を見つめていた。
【次回に続く…】
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