中世の本質(5)中世化革命

 古代の支配主体の消滅こそ古代の終わりです。古代の支配主体である古代王、中央集権制、そして専制政治は完全に淘汰されました。室町時代は古代の死期です、そして二都時代の終焉期です。
 古代は実質的に室町時代まで存続しました。弱体化を重ねていたとはいえ、古代王家はその時まで日本の支配者として(わずかなものでありましたが)それなりの実権を揮っていました。
 一方、中世は鎌倉時代に誕生し、室町時代に成長し、そして桃山時代に確立しました。古代政権は下降し、一方、武家政権は上昇した。そして中世の支配主体である中世王、分権制、そして主従政治は桃山時代以降、さらに磨かれ、高度化していくのです。
 留意すべきことですが、荘園制の崩壊が古代の終わりを意味するのではありません。古代の終わりは古代王が軍事力と財力と、支配にとって必須の二つの条件を全面的に欠いたからです。それが古代の終焉です。荘園制の崩壊という土地制度の変化が歴史を画したのではなく、古代王が支配者として成り立つことができなくなったからです。その時期がたまたま荘園制の崩壊と重なったのです。
 つまり明白なことですが、桃山時代は中世の確立期といえます。中世は古代を清算したのです。頼朝の挙兵から始まった中世は武家と古代王朝との対立(二都時代:鎌倉時代と室町時代)とそして武家同士の争い(戦国時代)の二つを通じて中世はようやくここに確立したのです。約400年の歳月が費やされました。
 この古代の清算と中世の確立をもってそれを<中世化革命>と称します。それは日本史において現代化革命と対を成す。中世化革命は武家が古代王と古代王朝を葬り、専制主義を淘汰し、中世日本を創出した革命です。300年から400年をかけた革命です。(中世化革命は筆者の造語です)
 中世化革命は古代王を葬り去っただけではありません。古代の悪をも中世社会から排除したのです。古代の悪を一般的に言えば、それは血縁、縁故、宗教の現世勢力、古代思想(儒教など)、古代身分制(カースト制など)です。まとめて言えば形式主義や不平等主義、そして政教一体です。それ等はごく一部の特権者を擁護し、しかし大多数の国民を不幸にするものです。そして中世人はそれらを排除し、それに代わるものとして現実主義や平等主義を打ち立てたのです。これらについては中世を語る中で説明していきます。
 一方、現代化革命とは約100年をかけて日本を現代化していった革命です。明治維新は現代化革命の突破口でした。西国の下級武士が立ち上がり、中世の特権階級を征伐しました。中世王(徳川慶喜)と260名の大名を支配者の立場から追い落としたのです。
 古代の悪の数々は中世化革命が始末しましたが、中世の悪(中世の特権階級)は現代化革命が除去したのです。そして国家の新しい支配者として憲法を制定しました。憲法は人間の支配者と違い、どんな状況、状態でも動揺せず、保身に走らず、国民に責任転嫁せず、常に名君です。
 同時にそれまでの分権統治は廃止され、日本は中央集権体制の国へと生まれ変わります。そしてその時から昭和時代にかけて職業政治家と国民は様々な現代化を推し進めました、そして厳密に言えば今もなお、現代化は検証され、その不備は逐次、修正されています。
 今日、日本は法治国と成っています。中世化革命と現代化革命のおかげです。しかしそれでも古代の悪や特権階級がすべて消滅したというわけではありません。悪は今も社会の中に潜んでいます。油断をするとそれらは社会の表に飛び出て、社会を混乱させます。それらは事件としてテレビや新聞で報道され、場合によっては司法の場で裁かれます。
 中世化革命と現代化革命は法治国の成立にとって必須なものといえますが、それは決して理想国を造るわけではありません。法治国といってもそれはあくまでも人間の国です。決して完璧なものとは言えません。但しこれらの革命なくして法治国は成立しない、ということも事実です。
 中世化革命は古代と中世を繋ぎ、そして現代化革命は中世と現代を繋ぎます。そしてその結果、古代と中世と現代は一つに結ばれ、日本史が形成されるのです。日本はこの二つの革命を機に、段階的に発展してきたのです。従って日本史はこの革命を境に三つに区分されるのです。
 これが筆者の歴史観です。ですから室町時代は古代の死期です、しかし中世の死期ではありません。中世はこれからさらに成長し、江戸時代において盛期を迎えるのです。桃山時代と江戸時代前期は分権統治が本格的に確立した、中世日本の盛期です。
 以上のことから既存の三つの中世論が二重の過ちを犯していることが明らかになります。一つは古代が平安時代(の中期や末期)において崩壊したと主張したこと、そしてもう一つは中世が室町時代に死期を迎えたと指摘したことです。二つ共、大変な見当違いです。
 そんな過ちの原因は中世論の論者が荘園制という土地制度を重視しすぎたこと、そして土地制度を歴史区分の根拠としたことです。荘園制に目がくらんだ。研究者の方々は荘園制が人々を支配した、社会を振り回していた、そしてそれ故、荘園制が(まるで支配者のように)日本国を形成していたととらえたのでしょう。
 しかし極めて単純なことですが、土地制度や社会状況は自然発生的に生まれたものではありません。それは支配者の支配の結果です。つまり歴史の主人公はあくまでも支配者です。
 何が歴史を動かしているのか、何が国民を支配しているのか、何が土地制度を決定するのかという、国家支配の根本を考えれば土地制度が絶対視されることなど到底、あり得ません。歴史は支配者、国家体制、政治形態という支配主体を軸にして決定されるのです。
 尚、桃山時代は中世王と古代象徴王の二者が共存する特殊な支配体制となりました。それは世界の中で日本だけに起こった特殊な支配体制です。秀吉と象徴古代王が共存する、そして江戸時代においては家康と象徴古代王が並立します。一方、中世西欧にはそんな支配体制はありませんでした。何故なら古代国は自滅していたからです。中世の西欧諸国には中世王だけが君臨していました。
 ですから日本の古代王家は世界で唯一、古代、中世、現代の三つの歴史を生き抜いた王家といえます。言わば<歴史>を超越した王です。その点、日本の古代王は国王kingではなく、皇帝emperorと称されています。
 次回から中世日本についてお話をします。
(この書<中世の本質>はアマゾンから出版の<中世化革命>からの引用です)

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