中世の本質(21) 中世人の成り立ち
中世には領主権の他に武士権と農民権がありました。この二つも双務契約の下に生まれた人権です。領主と武士は双務契約を結び、その結果、武士は武士権を持ちます。それは武士の生存権、財産権そして(小規模)領地の支配権です。武士の領地や財産は中世王あるいは領主によって保障され、誰もこれを侵しません。それは<武士の成り立ち>でした。
そして農民もまた双務契約を結びます。それは戦国時代のことでした。戦国大名と農民はそれぞれの契約義務を持ち、それを誠実に果たしました。戦国大名は契約義務として村落の安全と農民の自立を約束しました。一方、農民は毎年、年貢を大名に納めました。それが村の義務です。ギブアンドテイクです。
その結果、農民は農民権を得ました。それは<農民の成り立ち>であり、農民権の成立でした。(武士権と農民権は筆者の造語です。この二つの権利については後述します)
鎌倉時代に人権(領主権、武士権)は成立し、桃山時代にもう一つの人権(農民権)が成立しました。それは人権の誕生であり、成長でした。中世は誇らしく、輝く存在です。それは古代と中世を根源的に区分するものでした。
しかし、残念ながらその人権は完全なものではなかった。何故なら、中世は特権階級(中世王や封建領主)の存在する世界です、人治の世界です。彼らは常に名君とは限りません。中世王や大名は時々、あるいはしばしば領主権、武士権、農民権を侵しました。このことは後で詳述しますが、それは中世の限界でした。彼らは自分の都合から勝手に武士や農民の権利を平気で侵したのです。特に大名による農民権の侵害は悲惨な結果をもたらしました。
現代化革命はそんな中世を克服します。明治維新の革命家やそれに続く職業政治家は中世の特権階級を一斉に放逐しました、そして憲法を国家の支配者と定めました。人治の廃止であり、法治の成立です。
憲法は古代や中世の特権者と違います、憲法は常に平静で、年齢や地位や性別にかかわらず国民に対し平等に接します。そしてこの支配者は自分の都合から勝手に契約を踏みにじりません。憲法は国民の基本的人権を認め、国民が法を順守する限り、国民の安全を保障します。憲法は史上、最高の支配者といえます。日本は法治国と成りました。
中世の人権は不完全なものでしたが、それでも中世が現代を準備していたことは事実です。何故なら、もしも中世に人権というものが芽生えていなかったなら、現代において基本的人権が速やかに確立するということはなかったに違いありません。無から基本的人権は発生しませんから。領主権や武士権や農民権といった(不完全ではあるが)人権というものが中世に生まれていたからこそ現代は完全な形の人権を速やかに確立できたのです。
ここには人権の歴史的な推移が鮮やかに映し出されます。――古代には人権というものがありません。中世には双務契約に基付く三つの人権が誕生します。そして現代では基本的人権が法の下に確立しました。この推移は人類の英知と勇気を如実に物語ります。そして古代と中世と現代とが密接に、不可分に連続していることも、そして中世という歴史が日本史にとって必要不可欠な存在であったということも理解されます。
中世は明らかに古代を超克しました、そして次に現代が中世を乗り越えたのです。歴史は一段ずつ、階段を上っていく、日本史は歴史のこの発展を明確に表現しています。従って中世室町時代死亡説は曲折です。室町時代と桃山時代とを歴史的に切断する合理的な理由はありません。