宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書)を読んで

 民主主義という概念、およびその思想や実践の軌跡を歴史的に俯瞰しつつ、あるべき民主主義の姿を模索する一冊。

善く生きる

 「無知の知」という概念がある。「自分は何でも知っている」と豪語した職業的知識人=ソフィストらに対し、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが言い放った言葉だとされる。
 曰く、私はあなた方とは違い、何も知らない。自分自身の存在についてすら、分からない。けれども、私は、あなた方が知らずにいて、私だけが知っている知を、一つだけ持つ。それは、自らが無知であるということを知っている、ということだ。
 無知の知。
 自らの無知を自覚すること。
 そうした自覚は、それを自覚した当人に、謙虚な生き方を可能にさせる。自分は何も知らないのだから、ひたすら真摯に学んでいかねばならない、という生き方を。
 そしてまさに、そうした生こそが、我々人間にとってのあるべき生、〈善く生きること=living well〉なのだ。

 「無知の知」や「善く生きる」については、どうやら色々の読み方があるようだが、僕が今まで読んだり聞いたりしたなかで最も「なるほど!」と腑に落ちたのが、以上の解釈だ。
 そして、僕にとって本を読むという行為は、己の無知を痛感するための営みに他ならない。その先の、living wellのために、読書がある。その意味で、僕にとって最大の良書とは、僕の中の常識を、木っ端微塵に砕いてくれる本のことなのである。

『民主主義とは何か』の衝撃

 となれば、今回紹介する宇野重規『民主主義とは何か』は、間違いなく、僕にとっての良書中の良書だ。それはもちろん、本書が、僕の中の常識を解体してくれるからだ。自分の無知を、自覚させてくれるからだ。
 例えば僕は、「民主主義」という概念は、たとえプラトンらの唱える衆愚政治の誹りがあろうとも、それでも基本的には、肯定的なコノテーションを持つものだと思っていた。ところが筆者は、

本書の冒頭以来、民主主義が二五〇〇年の歴史をもつことを強調してきましたが、その歴史の大半において侮蔑的な言葉だったのです。民主主義が肯定的な言葉として用いられるようになったのは、ここ数世紀のことに過ぎません。

と断言する。
 あるいは僕は、「民主主義」すなわち主権が市民の手にあることこそが、政治的な意味での「自由」であり、したがって「民主主義」とリベラリズムは、連続する概念であると単純に信じていた。しかし、そうではないのだ。

民主主義と自由主義は常に矛盾なく両立するとは限らないということです。コンスタンのいうように、民主主義の下でも個人の自由が侵害されるとすれば、個人の自由は民主主義に対しても守らなければなりません。このように考える人々が、自由主義者と呼ばれるようになります。

 時に「民主主義」は、「自由主義」と対立する概念でもあるのだという。例えば、民主的に決定された何かしらの議決が、その多数決の論理によって少数派の意見を否定するとき、それは、少数派にとっては紛れもなく、自由の侵害なのである。

アテネの民主制

 とりわけ、古代アテナの民主制を振り返る筆者のまなざしが興味深い。
 一般的にアテネの民主制は、デマゴーグが民会を牛耳るようになり、堕落していったと説明されることが多い。僕もそう習ってきたし、そして、そう教えてもいる。とりわけペロポネソス戦争以降のアテネ民主制は、凋落の一途を辿るだけであり、僕たち現代人が学ぶところのものはない、と。
 ところが本書は、そうした僕の固定観念を、ピシャリと打つ。

興味深いのは、「違法提案に対する公訴(グラフェー・パラノモン)」という制度です。これは、民会や評議会で法に反する提案がなされたと思われる場合、その提案者を告発するための制度です。民衆裁判所で認められれば、議案は廃案になり、決議は失効しました。さらにその提案者は厳しい処罰を受けたのです。ある意味で、民会における決議を民衆裁判所が覆すことを可能にする制度であり、はるか後年の違憲立法審査権を思わせる仕組みです。アテナイの民主主義は単に続いただけでなく、間違いなく進化を続けたのです。

 アテネ民主制は、むしろその後半以降に、成熟とも呼べるレベルを迎える、と言うのだ。
 この点についての言及は、本書のごく前半部分で為されているのだが、この時点ですでに、僕はこれでもかというくらい、自らの「無知」を強烈につきつけられたのである。

 〈民主主義の歴史を振り返り、そのあるべき姿を模索する〉という本書の主題とは直接には関係のない観点からの紹介とはなったが、もちろんそういった主題から見ても、すこぶる充実した一冊となっているということは付言しておきたい。
 なお、難度はさほど高くない。高校生でもじゅうぶんに読める内容だと思う。


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