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*29 世界は自動で動いている

 すっかり気温が夏めいて来たが、日本やイタリアと比較しては大した事の無いドイツで余り気温の事をかく言っては、この腑抜者ふぬけものと只でさえ暑さで気の立っている所を刺戟しげきして言われてしまいかねないので、具体的な数字は伏せておく事にする。何れにしても汗のよく出る季節の到来である。
 
 建物の屋根に面した私の部屋は御蔭で随分暑い。寝る時も扇風機をぶんぶん回さずには寝苦しくてならないから回すが、本来稼働音がやかましくそれが眠りを妨げる場面で暑さがそれに勝るんだから大変である。しかしパンを発酵させるにはこれくらいがむしろちょうどいい。日曜日に私は発酵室と化した部屋の中でライ麦粉一〇〇%の大型パンを焼いた。

 出来栄えには満足はせずとも納得はした。思わしくない塩梅に表面が割れたのも、望ましくない塩梅の高さしか出なかった事も、その原因に判然とした心当たりがあったから納得した。発酵の速度が想像と予測を上回ったのは案の定、夏らしい気温の仕業であろう。
 
 さて然しパンとは観養食物かんようしょくぶつあらず食用であるから、見た目に満足いかずともそれで御仕舞では味気無い。聞けば日本の大手のパン屋であっても、或いは大手であるが故かも知れぬが、僅かでも完成品の見た目に劣度がある場合は売り物にせず処分されるんだと、日本のパン屋で働いていた者が嘆きゝゝなげきなげき説明してくれた。それが心苦しいんだと言ってドイツへ移って来たようであったが、散々フードロスだの動物の殺処分だのを問題視するのと同じ社会でパンには非情な扱いを許す指導なら路頭に迷うのも納得である。
 
 ところで私の焼いたパンは美味かった。アテネで買ったパン用のハーブも挽いて練り込んであったから、窯に入っている間から漏れ出ていたハーブの清涼な香りとサワー種の酸乾さんかんとした香りの交わった風味は、口に入っても舌の上にしっかりと這い跡を残して腹に落ちた。生地も豊かにしっとりとしていた。

 日は刻一刻と進んで行く。私の体も同様本帰国の日迄みるみる運ばれて行く。そうしてあらかじめ設けられた行事イベントことごとく迫り、また過ぎていく。今週の火曜日もまた一つ行事を済ました。
 
 夏に向かうに連れ皆それぞれ有給休暇を予定している。先陣を切るが如く来週に休暇を取っているのが私なのであるが、それが故に同僚全員で写真を撮る機会が今週の火曜日に全く限られていた。月曜日の内に皆に言伝しておいた私は、火曜日に三脚を持参し、最も早く仕事を終えるアンドレの帰るのに合わせて皆をオーブンの前に集めた。

 実に良い写真が撮れた。何、ここで評する良いとは表情云々、構図云々では断じてなく、同僚が皆肩を並べた景色を形に残せた事が良いのである。想像の時点で記念になるだろうと思っていたが、実際に写真にしてみると矢張り感慨深さが想像の比ではなかった。その写真をマリオやルーカスと共にしばし眺め、その晩には皆に写真を送った。日常を劇場に変える事こそ写真の素晴らしい役割である。
 
 
 そんな同僚達と共に働くのも残りそう多くない。かと言ってその一日一日を極度に丁重に扱うわけにもいかない。日常は日常の温度であればこそ良いのである。したらば私に出来得るは平常の継続である。そしてそんな継続を慈しむ事である。間違ってもきゃんきゃんと騒ぎ立てて担ぎ上げては品が無い。私以外にしてみれば、同僚を一人欠くと言うのは単に労働力を一つ失うという社会的で冷徹な側面も持つわけである。

 とは言え一日一日、或いは一作業一作業を人知れず大切に行わんとする私の心の反応は正常でもあろう。それが故か近頃妙に口が重たい。散々一緒に働く見習い生のマリオや幼稚な茶々を随時入れて来るルーカスに対してはまだしも、アンドレやトミーとは仕事の話以外なかなか交わせていない自分に気が付いた。遠慮ではない。やましいのとも違う。まあ変に追及しても答の在るわけでもない問いであるが、少し以前にはもう少しぺらぺらと気軽に話し掛けていた様に思われて、それなら果たして変化は何処にあるだろうかと考えると矢ッ張り自分の胸の内に帰着した。
 
 それでもトミーからの仕事における信頼を感じる場面は幾らもあった。ドイツにも社交辞令と言うのは存在するがここで触れるのは野暮やぼったい。五月に加わったばかりのエヴァが突如辞職した事実も、トミーが私を倉庫へ呼び出して「君にしか言わないが」と前置きをしたうえで私だけに辞職の事実と理由を伝えて来た。その時点で表向きは病欠のままであった。
 
 
 運命は何時でも急ハンドルである。エヴァの辞職も―トミーの口止がある以上詳細は書きかねるが―、到底誰にも予想する事など出来なかった、またエヴァの意思とも異なる事象を原因として起こった。仮に我々が彼女を慕っていようとも、仲良く会話を重ねていようとも、それが直接彼女の、また我々に降り掛かる運命を左右するかと言えばまさかそうではない。当人でさえ操縦制御コントロールの出来ない物を運命と言う二字を当てて自らを納得させているのが人間なのだろう。
 
 そしてまた別の所でも運命の急ハンドルが切られた。私の親友から、父親が亡くなったから週末の旅行には行けない、と言う連絡が入ったのである。綺麗事を言う積も無くこの時の私が感じた喪失感は、旅行の計画に対する物よりも父親を失った彼の心に寄り添った物であった。傍から見れば面識のない彼の父親であるが、その父親を慕う彼が私の親友である以上、そこに情が動くのは至極当然の人間である。
 
 親友はイタリア人である。そんな彼とはこれ迄もそれなりに旅行をして来た。最初の頃の旅行では大人げなかった私が年上の彼の子供染みた自由奔放振りに妙な癇癪を起こして捲し立てた事もあったが、近年、例えば昨年プラハに行った時などははやり気で癇癪持ちな彼をむしろ私が小馬鹿にしたようになだめる様な場面さえあった。そんな彼とも本帰国前に今一度旅行しようじゃないかと企てて選んだ旅行先が彼の祖国であるイタリアであった。それだけにこの旅行が頓挫した事も、理由が理由なだけに止む無し文句のある筈も無いが、少なからず残念であった。
 
 
 運命は何時でも急ハンドルであり、世界は自動で勝手に動いている。
 
 そういった事を尽々つくづく思い知らされた。自分自身の運命であれば幾らか手の施し様はあるかも知れないが、それはあくまで己の取捨選択に他ならない。自分自身の世界であれば手動で動かす事も出来るかも知れないが、それはあくまで己の趣味趣向に他ならない。悲しいかな我々が己の取捨選択と趣味趣向より他の万象を操縦制御コントロールする事など不可能なのである。
 
 然し乍ら私と言う存在も、誰かにとっての“世界”の内に在る物とすれば、私の勝手な取捨選択による一挙手一投足が、誰かの手の届かない所にある運命のハンドルを右へ左へ切っているのかもしれない。私が記念写真を撮ろうと同僚をオーブンの前に並べた事が、誰かの何処かへ作用しているかもしれない。
 
 
 金曜日、休暇前最後の仕事を終えた私は部屋に戻って先週末に焼いたパンを齧った。この一週間中、常に室温に置いておいたライ麦パンは金曜になってもしっとりとした食べ応えを損なわずに在った。一見変わらずにいた様で、それでも徐々に劣化は進んでいる。私も親友も同僚も一見変わらない様で、自動で進む世界の中で確かに劣化している最中である。
 
 
 私は今、一人ミラノへ着いた。
 
 


 

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。 


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