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*27 緊急事態

 授業の合間であったが私はパソコンの前を離れ外国人局へ出向く支度を始めた。指定された書類をリュックに入れ時計を見る。インターネットで調べた時には徒歩二十分と表示されていたのだが、朝からそわそわしていた私は予定到着時刻から逆算して四十分も早く家を出た。

 様々な事を想定しながら歩く。想定したところで結果を得られる筈も無いのであるが、そうでもしていないと心が落ち着かない。仮に問題が起こってしまっても、その問題の実態を聞いた後でなければ正しく動く事は出来ない筈であるのに、私という男は何時でも転ぶ前に杖を突ける場所を何箇所も目星を付けておきたがるのである。そうして杖をゆらゆらと動かしている間に、足元の泥濘(ぬかるみ)に気付かないまま両足を飲み込まれていたりするので、まだ起こってもいない出来事を心配しても無駄であるから必要以上に考えないようにしましょうという助言は何時でも心臓を貫く。そしてその傷痕に瘡蓋(かさぶた)が出来上がった頃になって、隣に同じ傷を作ってみたり折角の瘡蓋を剥がしたりしてしまうわけだから、葛西の傷は良いが竹田の背中の傷は生々しくて見ていられない(※1)などと評論する前にまず己の痛々しい傷跡を俯瞰で眺めるべきである。

 案の定、予定より十五分程早く外国人局に着いた。局の入口に男が立っていたので近付いて説明すると、後十五分くらい外で待っていて下さいという指示だったので、私は外で金曜日に差し迫った試験の勉強を始めた。


 私より先に局の前にいた二人組の女が入口から中に入っていくのを見て、時計を確認すると十時であったので私も続く様に中へ通って行った。どんな話があるか分からないので、寧ろ気持ちを軽く持たせるように意識しながら小さく口笛を鳴らす様に、指示された場所まで歩いて行った。私は以前の職場で働いている時から、仕事中にも何かと口笛を吹いたり歌を歌ったりしてしまう癖があったのだが、何処かで自分の気持ちを落ち着かせるために吹いていたものと思われる。私より先に局に入った二人組の女も同じ場所で待っていた。


 彼女らが部屋に通されてから五分後くらいに、私も中に呼ばれた。口笛は止めていたが、極力気持ちを軽く持たせる意識のまま、おはようございますとはっきり挨拶をして席に着いた。女の職員が席についており、その脇に男が一人立っていた。その奥にはさらに少年が一人立っていたので、この男女は夫婦で奥の少年は二人の子供だろうかと推測していた。先に口を開いたのは、さも担当者の様に机に構えていた女ではなく、ラフな格好で立っていた男であった。

 私がドイツに残れるかどうかの瀬戸際に立っている、という話であった。

 無論これは要約しているので簡潔に一文でまとめたが、実際はもっと沢山のジャブで私の頭を掻き回し体力を奪っていった。兎に角先週受けた電話口での「あなたがドイツに残れるかどうかという話だ」という脅し文句は、正真正銘の忠告であった。何でも私が今マイスターコースを受けているという事に私の滞在許可証が対応していないとの事であった。恥を忍んで告白すると、これは全くもって私の認識不足による失態である。私は震える膝と古傷の疼く心臓を押さえながら彼らの説明を聞き、それに対しての相談を繰り返した。その場に鏡など無かったが、その時の私は人生で最も必死の形相をしていたに違いない。そして一度私は部屋から出るように指示をされ、部屋の外の待合スペースで頭を抱えながら待った。様々な感情が脳内を駆け廻っていた事についてはこの際最早割愛である。


 十分ほど経って私はまた呼び戻された。私とは対照的に余裕のある彼らの口からはまさしく武士の情けとも思える解決策が提示され、後の無い私は有無を言わず頷いた。それは七月末までに八月一杯の働き口を見付けろという指令であった。

 言わずもがな、その帰り道の私は過去への自省と未来への危機感に塗れて、何とも心得ていない感情が渦巻いていた。なんたる失策である事か。全く恥の多い生涯である。烏滸がましくも錚々(そうそう)たる名台詞をもってしても宥めの効く筈の無かった私は、帰宅しオンライン授業に戻るとその傍らで急いで求人を漁った。ついこの間は将来を見据えてパン屋の求人を漁っていたが、それよりも緊急に職種を問わない仕事探しが必要になった。全く予期せぬ事態である。予期せぬ事態であるが、私の常識の無さが種となって出た芽である。自業自得の緊急事態である。

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 月曜日から私は兎に角手当たり次第方々にメールで履歴書を送り続けた。スーパーマーケットに始まりホームセンター、清掃員や倉庫整理など少なくとも二十の求人に応募した。数年前に免許証をドイツ用に書き換えたものの一度として運転をせずにいた為に、運転手という仕事を選べない自らをこれ程恨んだ事は無かった。しかしその事で頭を一杯にして奔走出来る程、試験勉強にも余裕は無かったのである。まだ日のある内に求人を漁っては日が落ちてから深夜まで勉強をした。それでもなかなか連絡は来なかった。日中の授業を受けていても最早身が入らなかった。次第に気付かない内に息が上がっているようになり、いざ寝ようと思っても不安で目を閉じるのが怖かった。過去に私の孤独を救ってくれた小林賢太郎が騒動の渦中にいようとも構っている暇などもとより無かった。


 そんな毎日を繰り返して迎えた木曜日、やっと一件の連絡を受け取った。すぐに翌週の月曜日に面接の予定を入れた。神の御加護だとか宇宙の高次元エネルギーだとかが作用したとしか思えない程奇跡のように感じて胸を一度撫で下ろした。かと言ってその仕事が果たして私がドイツに残るための条件を満たしているかどうかなど考え始めると気が気でないので、撫で下ろしたと言っても束の間であり、ああこれで一安心だとはいかない程の危機感を持っている私の頭は、それでも今度は一旦試験勉強の方に全てを捧げる必要があった。只管(ひたすら)朝方まで机に向かい、試験当日までそうして過ごした。

 最後に死に物狂いで勉強をしたとは言え、それで得られる程自信という物は容易く手に入らなかった。それでも時間は流れ金曜日は来るのである。約一ヶ月振りに訪れた学校に入ると試験の案内が貼りだされており、階段を昇って行ってある教室の前に会場だという事を示す紙を見付けたので中に入ると見た事の無い人達が席を埋めていた。なるほどオンラインでは一度も見た事が無かったが、思っていた以上に年齢層もばらばらの様であった。

 試験番号の割り振られた席に着く。もう逃げ場が無くなると腹が決まるが、腹が決まるだけで自信などは毫(ごう)も沸き上がらなかった。それどころか周囲の受験生を見ると大人の落ち着いたドイツ人ばかりに見えて、いつも以上に私自身が場違いに迷い込んだ子供の様に思えた。


 試験は四部構成で行われた。細かく解説するとややこしくなってしまいそうなので大雑把な話になってしまうが、初めの三部は筆記試験で最後に口述試験があった。案の定、製パン科目の試験の時ほどの手応えは得られなかった。記述問題は自分の言葉で何だかんだと書けるのでまだいいのだが、選択問題は答えが一つか二つか明記されていない上に問題文が過去の練習問題よりも面倒な言葉で書かれており不合格もやむなしという所である。

 そして何より口述試験は散々であった。受験番号を呼ばれ部屋の中に入ると、三人の試験官が机を挟んで向こう側にいる。私が席に着くと、すかさず出された最初の質問から問題内容が理解出来なかった。何度も質問を聞き返し、その度に私の心臓が次第に縮まっていった。流石に見当外れの回答を繰り返す事は無く学んだ事を活かせ他とは思うが、試験を終え部屋を出ると本来であれば軽くなってほしい体であったが一気に重たくなった。そうしてまた仕事の事が頭に過った。顔も知らないが友好的な男達が有難い事に、君もビアガーデンに来るかと打ち上げに誘ってくれたのだが、とても参加できるような調子では無かったので断った。

 そうして迎えた土曜日、体調を崩した。すぐに最近の無理が祟ったのだと思ったが、そんな事をしている場合では無いだろうとも焦った。しかし来週月曜日から面接の連続でそれこそ体力が必要になると予測されるのであるから、その前に体を休ませろ、という心の悲鳴だと考えて甘える事にした。後の無い私はがむしゃらに軌道修正に努めるばかりであるが、改めて私が滅茶苦茶な人間である事をここに告白しておきたい。




(※1)葛西の...竹田の...:日本を代表するデスマッチのカリスマレスラー、葛西純と竹田誠志の事。


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