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ドイツパン修行録~マイスター学校編~

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製パン経験の全く無かった元宮大工の男がパンの本場ドイツに渡り、国家資格である製パンマイスターを目指す物語のマイスター学校編。 田舎町に移り住み、通い始めたマイスター学校。真っ新な… もっと読む
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#ドイツパン

*1 年末年始とパン職人

 どうして日本人はクリスマスにケンタッキーを食べるんだ、という質問がシモンから投げ掛けられてくると、これがクリスマスシーズンを迎えた合図である。五十手前の彼は仕事以外の時間を全て雑誌やらテレビやらに費やしているんだか、スマートフォンが苦手なわりに物知りな男である。日本人がケンタッキーをクリスマスに食うという話も雑誌だかテレビだかで特集されていたようで、5年前にその真偽を問われて以来、毎年恒例にその疑問が彼の中で込み上げてくるのだろう。5年も続けばもはや飽きを越えて冬の風物詩で

*4 ドイツのパン屋

 いよいよ着用するマスクの種類まで指定されてしまったミュンヘンは、そのロックダウン期間を二月まで延長するという発表が出され、またも予定を変更する必要が出てきてしまった事に私は意気の消沈を隠せずにいる。辛うじて二月末まで住まわせて欲しいという私の懇願を大家が呑んでくれたお陰で住処は確保出来たものの、果たして三月になれば新しい下宿先が空いて予定通りに居を移せるかどうかは神でさえ知る由もないだろう。  それでも私は今日も夜中の十一時に目を覚まし仕事へ向かう為の支度をする。この有為

*5 おわりはじまり

 ドイツに来てから五年間世話になったパン屋をとうとう辞めた。気付けば前職の宮大工であった四年を越え、暦で見てももう肩書はパン職人たるべきはずである。振り返ろうとすると想像以上に文字数が嵩みそうなので、今回ばかりは覚悟を持って読み進めていただきたい。  去年の春頃に企てた時点ではその年の七月まででとっくに辞めているはずだったのだが、言わずもがなその計画を変更せざるを得ない状況を迎え、そうして年の明けたこの一月末に照準を合わせて来た。一日一日指折り数えながら遥か先の事のように思

*11 パンを求めて

 引っ越してからの日々は至極平坦な物である。しかし平単でありながら、一般という枠からはすっかりはみ出してしまっているように思われて、どことなく肩身が狭い様な気持ちがする。最新の流行を把握しているわけでもなければ、経済の動向を細かくチェックしているわけでもなく、いわば社会人であれば当然であるべき筈のルールを悉く疎かにしながら、それでも今日もこうして一丁前に営まれる生活という支川が、再度社会の激流とぶつかり合流する日を今か今かと待ち焦がれている者こそが私である。  そんな私が今

*35 夜に潜る

  先週は然も道端に転がる幸運を探すが如く鬱向いて歩いていた私であったが、その週末から日を追う毎に曲がった背筋を徐々に伸ばしていくようであった。矢張りやらなければならない用事が片付くと気持ちも晴れやかになるものである。先日、引越し先に荷物を運んで元の下宿に帰って来た時も、物が少なくなった部屋の中に何処かすっきりとした空気が流れているのを感じた。本を正せば下宿で小ぢんまりと勉強ばかりしている生活の中で、無闇に部屋の中を散らかす手間を割くのも億劫であった為に、三月に移って以来一度

*33 井の中の蛙大海を夢に見る

 誕生日を境に世界ががらりと変わる事などある筈も無いとは解っていながら、それでいて何かに期待している自分がいたのであるが、これは何も胡坐(あぐら)を掻いてただじっと待っていれば今に心地の良い風が吹くんだからそれまで退嬰(たいえい)を謳歌しようじゃないかという他力本願な態度を肯(うべな)いたいわけではなく、私が漕ぎ出した船の上に私が立てた帆を孕ませるような追い風が吹くのを期待しているのに他ならなかった。喩え長閑(のどか)な水面を撫でる風さえ吹かなかったとしても、だからと言って甲

*31 愛、ときどき、哀

 朝の六時前に出勤すると更衣室に直行し着替えを済ませ、そこから工房へ行くにはまず製菓の作業場を通過するのでそこでアンナと挨拶がてら少々話をする。今は専ら部屋探しの話が中心になるが、そう言えば今週も半ばに一人パイ生地を折り込んでいる私の元に近付いて来たかと思えば、先週に彼女が見付けてくれた二件の部屋の内、片方がどうも彼女の知人の管轄にあったようで、近い内に合同見学の予定があるから早めに連絡してみたらと助言をくれた。私は助言通りにその日中に連絡を入れ、翌日には内見に伺った。その結

*30 プログレス/エンブレイス

 先週から愈々(いよいよ)働き始めたとは云え、そう簡単に新しい仕事場や生活に慣れるものでもない。土日を家で休みさて明日からまた仕事だと思うや否や、忽ち又異国の地へ向かう前の不安に襲われた。たった一週間働いたくらいで既に我が物顔で過ごせると思う事自体が烏滸(おこ)がましいのであるが、兎に角私は自分の中に渦を作る陰気を払拭し景気を付ける為に月曜の朝には白飯と納豆と味噌汁を食う事にした。何の派手さも無い並びのようであるが事ドイツにおいては豪勢な食事である。納豆なんかは、先週の金曜日

*29 嵐の後には凪が来る

 さて今日から働かんとしていたその日、外は早朝四時から雨がしとしとと降っていた。旅行や何か大事な時には必ずと言っていい程雨を降らせてきた私にとって、これは至極当然かつ吉兆の如き出来事に思われた。かつて初めて日本へ一時帰国しようとしていた日、朝からあまりにも天気が良かったので嫌な予感がするなと思っていたら、空港で財布を置き忘れ飛行機を逃すという惨事があった。それを思えば安心する為の材料にもなりうる。何せ旅行を楽しみにしていたあまりスペインに雹を降らせる程の雨男である、きっとこれ