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第72話 圧接の喜久子さん

「私達の仕事は1にする仕事なんだよね。

大きな地震が来ても壊れないようにするために、今回は梁の部分を圧接(あっせつ)でつなげるの。
そうすれば、2本の鉄筋が一体化されて、長い1本の鉄筋になる。

でも、もしも一体化されてなくて、ばらばらに近い状態だったら、どうなると思う?」

圧接作業を手掛ける建設会社で社長を務める松村喜久子は、吉川蓮にこう問い掛けた。

吉川は入ったばかりの新人。困った顔をしている。

「わかんないです。
どうなるんですか?」

喜久子は、ポケットから使用済みの割り箸を2本取り出した。
一つは普通の物。もう1本は3分の1くらいの所に切り込みを入れている。

普通の方を折り曲げた。中央の所から裂けて二つに分かれた。

「こうなるよね。じゃあ切り込みの方もやってみるね」

喜久子が切り込みを入れた割り箸に力を入れると、切り込みの部分からポキッと折れた。

「物って、弱いところから壊れていくの。それって何となく分かる?」

「確かに。それはそうだと思います」

「じゃあ、今度は吉川君がやってみて」
喜久子は、ポケットからもう一組の割り箸を取り出して、吉川に渡した。

吉川は長身でがっちりした体格の青年だ。

「あっ、ちょっと待ってて」

吉川は、事務所のミニキッチンに行って、掃除用に保管している使用済み割り箸の束を持ってきた。
このうち半分に、同じように切り込みを入れていく。

「吉川君は力が強そうだから、1本だと違いが分からないかも。
はい、これも一緒にね」

喜久子は、切り込みを入れた方の束を渡した。

「まずは、こっちからね。
切り込みが入ってる方を上にしてみてね。

そうそう。
じゃあ、折ってみて」

「じゃあ、やりますね」

最初は力加減が分からないのか、折れなかった。

「意外と力が必要ですね。
ふんっ!」

吉川は、歯を食いしばった表情で一気に力を込めた。
バキッっという音とともに割り箸が折れた。

「すごーい!
吉川君、パワフルだね!」

「そんなことないですよ」

「私じゃ絶対に無理だもん。
じゃあ、次はこれね」

喜久子は、残りの束を渡した。

「今度は普通の方ね。
同じように折ってみて」

「わかりました。
ふんっ!
えいっ!

あれっ?
もう一度やりますね。

ふんっ!」

吉川は、何度も繰り返したが、割り箸の束は折れなかった。

「ごめんね。もういいよ。
お疲れ様でした」

喜久子は、吉川から割り箸の束を取り戻すと、座るよう促した。

「ちょっとした違いだと思うんだけどね。
少しでも弱い部分があると、壊れちゃうの。

だけど、ちゃんと一体化していると、なかなか壊れない。

私達がやっている圧接っていうのは、もともと2本に分かれている鉄筋をつないで一体的にする仕事なのね。

建物とか土木インフラって、例えば地震の時とかにものすごい大きな力がかかることがあるの。そういう時でも壊れないようにするためには、力が集中するような部分をしっかりと強くしておかなければいけない。

もしも、さっきの切り込みを入れた割り箸みたいな弱い場所があるとするじゃない。
そうすると弱い部分が壊れてしまう。全体から見れば、最初は小さな弱点かもしれない。

でも、一部が壊れると、そこにもっと力が集まっていく。そうすると、弱くて傷ついたところが広がっていく。
そうなると建物とか全体の安定性に影響を与えかねない。

私達は、沢山の鉄筋を圧接しているけれど、その1本1本すべてがとても大事なの。
そのことを絶対に忘れないで」

喜久子は、真剣な眼差しで吉川に訴えかけた。

喜久子たちが手掛けるのは、主にガス圧接継ぎ手という工法だ。
まずは、端部を平滑にきれいにして、2本の鉄筋の中心線を合わせて締め付ける。
そして、機械で圧力を掛けながら、つなぎ目の部分に酸素とアセチレンを混合したガスを吹き付けていく。
鉄筋は溶けないままだが、1200度から1300度という高温にして、両端から力を掛け続ける。すると接合部分が押し出されるように徐々に膨らみ始める。
この時には両側の鉄筋を形成している原子が、端部をまたいで互いに拡散している。そうすることで金属結合して一体化されるのだ。

一人前に育てるには、圧接の原理を理解してもらいながら、作業手順や品質確保、安全対策などをしっかりと身につけさせなければいけない。
もちろんそうだが、最大の肝は、自分たちの作業に手抜かりがあったときに、どんなリスクが生まれるのかを常に認識しておくことだ。その重要性は、新米でもベテランでも変わらない。

「明日からみんなと一緒に現場に行ってもらうから、よろしくね」

「わかりました。よろしくお願いします」

吉川は、そう言って頭を下げた。

この人はどれくらいもってくれるだろうか…。
喜久子は、新人が入ってくる度に、そんな不安を胸に抱きながら、この仕事のことを説明している。

建設業界の仕事は、それ自体が縁の下の力持ちのように目立たない部分が多いが、その中でも圧接は、さらに一段奥に入った部類に入る。一般市民で知っている人は100人中1人もいないというのが、喜久子の感覚だ。

自分がそうだったのだから、人のことをとやかく言える立場では無い。

喜久子が圧接の仕事を知ったのは、夫の剛彦と知り合ってからだ。
社会人になって居酒屋巡りにはまり、行きつけになった店で常連だったのが剛彦だった。華奢なタイプで、外見からは建設会社に勤務している風には全く見えなかった。

「あっせす? あっせつ?
なあにそれ?」

初めて耳にした時には、剛彦が何を言っているのか分からなかった。
ほろ酔いだったから、なおさらだ。

剛彦は、「父は知られていなくてもいいとか言うんですけれど、僕はもっともっと知ってもらいたいんです!」と言うと、圧接がどれほど大事な作業なのかをとうとうと語り出した。
周りから「ああ、始まっちゃった。剛ちゃん、あんまりしつこいと嫌われちゃうよ」と茶化す声が上がった。

しかし、喜久子は嫌ではなかった。
全然知らない世界のことを聞いて、とても楽しかった。
ただ、酔いが回っていき、頭には入らなかった。
楽しそうに話をしている剛彦に好印象を持っただけだった。

次に居酒屋で居合わせた時に、剛彦からパンフレットや写真を貼り付けた説明資料などが入ったファイルを手渡された。

「すごく興味を持ってくれたから、嬉しくて。
迷惑かもしれませんが、良かったら読んでください!」

「あ、はいっ。
ありがとうございます!」

とっさのことで驚きながら、とりあえず受け取った。

喜久子は、資料をぱらぱらと見ていった。ガス圧接の工程や、鉄の原子が行き交う原理を描いた模式図などが書かれていた。作業手順ごとに写真で説明しているページには、サングラスを掛けて鉄筋にガスを当てている剛彦が映っていた。最初はバラバラな鉄筋が、真っ赤に色づき、段々と接合部が丸みを帯びてくる。元々の太さの1.5倍くらいにまで膨らんだところで作業は終わるようだった。

「接合部の膨らみは、元の鉄筋の1.4倍以上にしなければいけません!
繰り返しの作業ですが、1本1本が構造物の強度を左右する大事な大事な鉄筋です。
僕はこの仕事を誇りに思っています!」

汚い字で一生懸命に説明書きが寄せられていた。不器用なのだろうが、真面目にまっすぐに生きている。そんな人柄がにじみ出ていた。

会社のパンフレットには、「従業員募集中! 未経験者でも大丈夫です。基礎からしっかりと指導します」と書かれてあった。

職場での人間関係に悩んでいた時期だった。
この人と一緒に仕事をしてみたいと、そんな風に思えた。

「一通り読んでみます。
せっかくいただいたので感想もお伝えしたくて。
次は、いつ、お店にいらっしゃいますか?」

剛彦があふれんばかりの笑顔を見せた。

次に会った時に、喜久子は剛彦に履歴書を渡して、「圧接の仕事がやってみたいです」と伝えた。

30年位前のことだ。

喜久子は、剛彦やベテランの職人たちに教えてもらいながら、仕事を覚えていった。
圧接に使う機材は重たく、アセチレンや酸素のボンベも持って行かなければいけない。
夏は暑いし、冬場は寒い。狭い場所や中腰体勢での作業を余儀なくされるケースもある。全然、楽な仕事ではなかった。
当時は建設業界で働く女性の数が少なかったこともあり、現場側の体制が整っておらず、着替えやトイレなど仕事以外でも苦労が絶えなかった。

だが、仕事はやりがいがあった。
高温で真っ赤になった圧接箇所がぷっくりと膨らみ始めて一体化して、徐々に温度が下がって、少し青みを帯びた濃い灰色へと戻っていく。その移りゆく様が、喜久子は好きだった。

「ああ、つながった」

物理的な事実が目の前に見えてくることが嬉しく、自然と笑みがこぼれるのだ。

剛彦とは仕事の相手から始まった。現場で苦楽を共にする中で、次第に惹かれ合うようになり、人生のパートナーになった。

剛彦は腕の良い職人で、現場を率いるリーダーシップも兼ね備えていたが、経営や経理の分野は苦手だった。
喜久子は、徐々に事務処理や経理などを手伝うようになり、現場への営業や契約などの仕事の幅を広げていった。
剛彦は、ずっと現場に出ていたいという思いが強かった。

「僕が社長をしながら現場を見るよりも、喜久子さんが社長になった方が、全体がうまく回るはずだよ。
しっかりと支えていくから」

そう言いくるめられて、社長になり今に至る。
仕事が減って先行きが不安になった時期もあったが、何とか乗り越えてきた。

今は仕事が豊富だ。
それはとてもありがたいことだが、でも今が一番厳しい。

原因は人手不足だ。
建設業界は担い手不足の懸念に覆われている。
外部の人には分からないかもしれないが、それは恐怖と言えた。

現時点で仕事は回っている。
だが、5年後の目処は立たない。

10人ほどの小さな会社だが、職人の半数が、還暦を過ぎた喜久子夫婦よりも年上だった。
長くても5年以内に、半数が退職していく見通しだ。
30~40代の働き盛りも抱えているため、会社をたたむ訳にもいかない。

だからこそ、ここ数年は積極的に採用を続けている。しかし、何人も入ってきたが長続きせずに半年も経たないうちに去って行った。

鉄筋工事会社とのM&A(企業買収・合併)も考えた。鉄筋組み立ての一部門として圧接職人を抱えている会社もある。
だが、専門性を大事にしたいという剛彦の思いを考えると、望ましい道とは思えなかった。

喜久子と剛彦は何度も話し合った。
その結果としてたどり着いた方向性は、徹底した自動化だった。

誰でも続けられる形に、作業の在り方を変える。人間の方が、新しい仕事の形に合わせるということだった。

きっかけは、あの災害で大きな痛手を負った海辺の街の復興事業を一手に担うコーポレーティッド・ジョイントベンチャー(CJV)からの提案だった。

CJVは、できるだけ早期の復興を目指すために新しい仕事のやり方を模索していて、検討メニューの一つに圧接があった。海外のベンチャー企業が、従来よりもコンパクトでAIによる制御機能を搭載した全自動圧接機を開発しており、試験施工した上で現場での作業に導入する方針だった。
ただ、国内の実績がなく、性能を検証するとともに、AIに覚えさせる優れた施工データが必要だった。
そこで、CJVから鉄筋工事を受注している会社の社長である古川茂が「凄腕の圧接集団」として推薦してきたのが、旧知の間柄だった喜久子の会社だった。

機械に任せることへの抵抗は、もちろんある。
だが、腰が曲がってきたベテランたちがじっと姿勢を保ちながら圧接作業をいつまでも続けるのが正解とも思えない。
この腕が現場を支えている間に、技能を継承していかなければいけない。

「本当は人間への継承が理想です。でも、次世代につないでいくために、ワンクッションとして全自動の機械があると思ってほしいんです。

はっきり言って、それは松村さんたちの腕を奪うことでもあります。でも、腕を売ることでもあるんです」
               
喜久子は、古川から話をされた時、最初は理解できなかった。

「腕を売るって、どういうことですか?」

「詳しくは、私の方から説明させていただきます」

CJVに参画しているゼネコンの社員として紹介された田中壮一だった。
技術研究所で建設DXやAI関連の研究開発を担当しているという。

「全自動圧接機械を開発したベンチャーは、建設関係の作業機械の自動化を得意としているのですが、もう一つの特徴が、教師データのコンテンツ化と、その流通還元スキームなんです」

「きょうし? コンテンツ化? 流通?」

何を言っているのか全く理解できない。

何度も何度も繰り返して説明してもらって、ようやくおぼろげながら全体像がつかめてきた。

自動化機械というのは、最初から勝手にやってくれる訳ではなく、人間のように優れた動きを真似しながら学習していくそうだ。この先生役となるような参考データが教師データと呼ばれる。教師データが優れていれば、同じように優れた施工ができるが、イマイチならば、いくら全自動化しても二流の域を出ない。
このベンチャーは、たいていのことは自動化できると考えていて、自動化自体は大したことではないという認識なのだそうだ。

それよりも、どの先生に教えてもらうかが肝になる。だからこそ、教師データについての著作権の概念を確立し、優れた教師データの提供者には利用料金が分配されるシステムを定着させようとしているのだという。

喜久子たちの会社は、まずは通常通り、手作業で施工しながら、全自動圧接機械に覚えさせるためのデータを提供する。次に、そのデータを用いて全自動圧接機械を動かし、作業状態を細かくチェックしていく。不具合や修正すべき点が出てくるので、それを随時、伝えていく。次の作業時には、前回のミスを踏まえて、レベルアップした作業をしていくという流れだ。

このデータは、喜久子たちの会社固有の技術やノウハウを蓄積したものとなる。だから、喜久子たちの会社であれば自由にデータを利用できる。

別の会社が利用する際には使用料を徴収する。購入した会社にとってみれば、最初から優れた技術で作業が可能で、自らで職人を育てる手間を省ける。そのコストを考えると安いものだ。

「育てる職人が、この機械なのだと考えてもらっても構いません。
現場では、ベテランが新人に仕事を教えて、徐々にレベルアップしていきますよね。
それと同じように全自動圧接機械に仕事を覚えさせていくんです。
人間であれば、その本人以外では、優れた作業を実施できません。
でも、機械であれば、そのデータさえあれば、どんな場所でも何台でも再現できます」

「全然違うかもしれないけど、それってCDとか音楽データと同じなのかも」

説明に聞き入っていた剛彦が、そうつぶやいた。

「確かにそうかも。名演奏は、そのミュージシャンにしかできない。でも、音源を録音しておいて、それを再生する機械さえあれば、どこでも同じように聞くことができるわ」

喜久子はうなずきながら、そう付け足した。

「おっしゃる通りです。
その時には、音楽を再生するコンポも大事ですが、音源自体の質がもっと大事なはずです。
その音源が、今回の場合は皆さんが蓄積していく施工データなんです。

でも、だからこそ、それを奪って誰からにも勝手に使われてしまうようなことは望ましくありません」

古川が、さらに言葉を重ねた。

「今回の話で、私達の会社よりも松村さんたちを推薦したのは、その先の展開を考えてのことなんです。
自動化のレベルをより高めていくためには、上手い人たちが教師データを提供することはもちろんですが、そのデータで施工する作業の質をより高めていくべきだと思うのです。
それは、良い腕を提供した人たちでなければできません。

最初の教師データは始まりでしかありません。
はっきりと見通せている訳では無いのですが、多分、もっともっと良い施工の在り方があるはずなんです。
それを探していくためには、私達みたいに総花的に手掛けている会社じゃなく、松浦さんたちみたいな本当のプロが必要です」

喜久子は、古川から力強く訴えかけられて嬉しかった。
剛彦も、「それなら、やってみたいです」とうなずいていた。

喜久子と剛彦には、子どもがいない。
お互いに30代後半での結婚だった。子どもがいる暮らしへのあこがれは当然あったが、経済的な負担や日々の仕事に追われている中で妊活に手が出なかった。
双方の両親から、孫という言葉が出てくることはない。誰に言われることもなく、子どもがいない人生を歩んでいくことを、当然のこととして受け入れていた。

でも。
もしも、あの時に。

そう思ったことがないと言えば、嘘になる。

喜久子は、剛彦の腕を知っている。一子相伝というものではなく、子どもに伝えていくなんて、ナンセンスだと分かっている。だが、「息子や娘がいれば…‐」と思ってしまうのは、人の性のようにも思える。

圧接はとても大事な仕事で、実際は、ものすごい熟練の技がなせる世界なのだが、まったく関係ない人に大切さを共感してもらえるとは到底思えない。

例えば、超高級のお寿司や鰻を食べに行ったとする。味の厳密な違いが分からなくとも、すごみを感じるだろう。

じゃあ、ラーメンだったらどうだろうか。

最近は、高いと感じるような値段のラーメンが増えた。でも、その時に、料理人の腕への対価という思いを、どれだけの人が抱いているのだろうか。麺をゆでて、椀によそう人の技術に、お金を払っているという感覚はあるのだろうか。

スープに高級素材を使っているから、高いのだろう。
自分だったら、そう思う程度だ。

それは、一般市民からの建設技能への眼差しと同じだ。自らの振る舞いは差し置いておいて、自分のことはしっかり認めてほしいというのは都合の良い話に過ぎない。

考えれば考えるほど頭の中がもやもやした思いに包まれる。

でも、自分たちが愚直に作業して身につけてきた技能には絶対的な価値や責任があることも事実なのだ。

喜久子と剛彦は、自分たちの腕が役に立つのであれば、しっかり伝承したいと思っている。
それは本能のような気がする。

しかし、伝承する相手が常に人間である必然は、どこにもなかった。
もしかしたら悲しい結論かもしれない。
だが、技能が喪失されて安全な構造物ができないことの方が、もっともっと悲しいことだ。

そして今がある。
圧接作業を進めているロボットは、人間ではとても無理な長時間の作業を、黙々と続けている。
最初の数カ所であれば剛彦の方が優れているが、1週間ぶっ続けで圧接を続けている姿を目の前にすると、トータルではかなわない。トイレも行かずに、朝の冷え込みにも文句を言わずにひたすら仕事に向き合っているからだ。

「残念だけど、負けてるね」

喜久子の言葉に、隣の剛彦は無言でうなずいた。

正直、これ以上レベルアップさせる必要を、喜久子は感じなかった。
これで十分だ。そんな風に感じた。
それは、とてもさびしい現実だった。

「喜久子さん。もしかして、終わりみたいに思ってない?」
暗い表情の喜久子に、剛彦が、こう投げかけた。

「なんだか、わくわくしてきたんだ。
今まで、仕事をちゃんとこなすことばかりに追い立てられてきたじゃない。もちろん、腕を上げたいという意欲はあるけれど、段々と年を取ってくると、腕を上下に動かすだけでも疲れてくる。そうなるとレベルは落ちていく。
正直、標準レベルをどう維持するのかってことばかり気になってた。

だから、ロボットがやってくれる姿を見て、ほっとしたんだ。
こうなれば、俺の腕が落ちることは無いって。
一度上がった技能レベルは下がらない。だから、上げていくために何ができるかを考えるだけでいい。

圧接に、どれだけ品質の伸びしろがあるかなんて、今まで考えたことが無かったけれど、まだまだあるはず。それを見つけられれば、違った世界が広がる気がする」

「やっぱり、前向きだなあ」
初めて会った日のことを思い出した。
この人は圧接の仕事が大好きなのだ。
そして、圧接の仕事を愛して止まない剛彦のことを、私は大好きなのだ。

吉川は、今の所、仕事を続けてくれている。
いろいろな挫折を経てきたようで、年齢は30代後半だ。
筋は、はっきり言って悪い。

きちんと理解していないのに「分かりました」と軽々しく言う。
的外れな動きをして手戻りが生まれることが多い。
もうちょっと、しっかりやってよ…。
心底、そう思う。

でも、入社時に比べて格段に頼もしくなり、一人で現場に向かわせる場面も増えた。
「うちに入ってくれてありがとう」と素直に思える。

AIによる自動化施工は、CJVを皮切りに、一部の大手企業の現場で取り入れ始められている。評判は良いが、まだまだコストが高く、浸透するには時間がかかりそう。
その途中の段階では今まで通り人間が作業していくほかない。吉川は、そんな時代を生きていくことになる。自分で上手くできないからこそ、AIにより良い施工を促すような化学変化が起きるのではないか。そんな淡い期待もある。

AIは頼もしく優れていてありがたいが、かわいくはない。
吉川は、すっとぼけていて苛々させられるが、風邪をひいて休むと心配になる。
「彼女ができそう」と聞くと応援したくなる。だが、吉川の「できそう」という話は、かなり盛られていて現実とはほど遠く、実際に彼女を連れてきたことはない。

そうだけれど、「頑張れ!」「幸せになって!」って思う。

仕事の合理性と感情の揺らぎは、まったくリンクしない。
AIは頼りがいのある存在になる。いや、既になっている。
だが、いなくなっても泣くことはないように思う。

もしも、吉川に彼女ができて、結婚することになって、式に呼ばれて、あいさつすることになったら、どうなるんだろう。
喜久子は、200%泣く。

「お・・・、め・・・で、と・・う!!!!」
鼻水も垂れ流しながら、うれし涙で歓喜するかもしれない。
人と人って、そういうもののような気がする。

事務所でそんな情景に思いを寄せていた時に、携帯電話が鳴った。
CJVからだった。

今日は、CJV案件で急きょ圧接作業が必要になり、手が空いていた吉川を向かわせた。
この時間に掛かってくるということは、トラブルに違いない。

「あー! またかー!」

自分一人しかいない事務所で、大きな声でぼやいてから、喜久子は着信ボタンに手を掛けた。


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