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【歴史・哲学】『夜と霧』#4

こんにちは、げんちゃろです。

2月の終わりくらいに、朝起きると鼻水がとめどなくあふれてくるという症状に見舞われることがあり、とうとう自分も花粉症デビューしたのかと恐れおののいていたのですが、3月以降はそういった症状はあまり出なくなりました。もう少しなりを潜めていてほしいものです。

そんなこんなで、今回の読了作品はこちら。
『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著、池田香代子訳(2002年、みすず書房)

言わずと知れた有名な一冊。大学生のときに存在を知り、以前にも一度読んだことはあるのですが、もう一度読み直したいと思い本棚から引っ張り出しました。

・概要

著者のヴィクトール・フランクルは、オーストリア出身の精神科医・心理学者であり、アドラーやフロイトにも師事して精神医学を学んだ人物。彼は、ナチスドイツによるオーストリア併合後、ホロコーストにより捕らえられ、アウシュヴィッツの強制収容所に送られ、過酷な収容生活の末に幸運にも生還しました。

本書は、強制収容所を実際に経験したヴィクトールが、精神科医・心理学者の目線で収容所にかかわる人間の精神状態や精神の動きなどを分析した一冊。本書の随所から、強制収容所のただならぬ目をそらしたくなるような現実を突きつけられますが、できるだけ科学者の視点から、客観的に記載する試みがなされているように思います(もっとも、筆者自身も、収容所での生活を個人的な感情を抜きに語るのは困難であり、これは事実の報告ではなく、あくまで一人称視点の体験記であると述べています。)。

・収容時の反応

ヴィクトールを含む被収容者が強制収容所に運ばれ、まず最初の選別が行われます。これは、働けそうな者とそうでない者を分け、働けない者はガス室送りにしてしまうというもの。ヴィクトールは最初の選別では死を免れますが、彼の友人がこの時点で殺害されてしまったことを知ります。

被収容者たちは、手持の品や衣服をすべて奪われ、毛髪もすべて剃られ、文字通り丸裸にされ、お互いが誰であるかもわからないような状態にされてしまいます。そんな状況でも、彼らの心の中は「好奇心」で占められていたといいます。この先何をさせるのだろう、どんな結末を待っているのだろう。どんな極限の状態においても、人間の好奇心は止められないのだそう。

・感情の消滅と精神的存在

収容所での生活の過酷さは、我々現代人の想像を絶するほどでしょう。被収容者に与えられる食事は、1日1回の「人を馬鹿にしたような」パンの切れ端と水みたいなスープ、隣の人と体を押し付けあってようやく寝られるベッド、発疹チフスなどの病気の蔓延、監視官からの暴力、極寒の地で防寒もなしに強いられる重労働、転がっている他の収容者の死体…。収容所で著者が体験した想像もしたくないような事実が、この本の至る所で述べられています。

そんな収容所生活が人間の心にもたらす最たるものは、感情の消滅(アパシー)です。これは、極限の生活を強いられた人間が自らの生命維持に集中するための自己保存的な行為で、内なる感情を抹殺することによって、監視官から殴られても、心そのものを守る盾として働くのだそう。

そのような感情の消滅が起こっている中でも、繊細な人ほど収容所の生活によく耐えることができたといいます。これは直感には反するところでしたが、繊細な人は精神的に成熟している人が多く、内面に逃避することによって、現実のストレスから目を背けることができたためと分析されています。

このことを象徴するエピソードとして語られていた筆者自身の体験が印象的でした。筆者は、つらい収容所生活の中でも、心の中にいる妻と語らっていたといいます。このとき、筆者の妻も生死が定かではない状況でしたが、筆者はそれでも心の中で愛する妻と話すことができ、このことから、愛や精神的存在は、実際にその対象が存在しているかどうかとは関係がないということに気が付きます。

・人間の精神の自由

収容所に収容されて以降は、それまでの個人の職業やスキルは何ら意味をなさず、名前すら奪われ、ただの番号で管理されるだけの存在とされます。そんな中、被収容者たちの多くは、みずからの人格の尊厳や意志を失い、主体性をも失っていきました。

しかし、被収容者の中にも、「人間らしさ」を失わない者は存在した。筆者は、どのような環境に置かれようとも、人間には精神の自由があり、与えられた環境でどのように振る舞うか(典型的な「堕落した」被収容者となるか、尊厳のある人間となるか)というのは自らで決断が可能なのであると分析しています。

このあたりの分析は、(収容所に入ったことのない現代の一般人である)我々にも応用可能なものだと思います。どのような環境に置かれても、人間としての尊厳を忘れない振る舞いをすることで、生きることを価値あるものにすることができるのですね。

・未来への目的と生きる力

被収容者の生きるよりどころは、「期限」、つまり、この苦しい生活がいつかわ終わるだろうということに尽きる。そのため、この生活に終わりが見えないとなると、目的を持って生きることができず、精神が崩壊してしまいます。しかも、戦争が終わるかもしれないという報せにぬか喜びした被収容者たちは、実際にはまだ終わる見込みがないとわかるやいなや、未来への希望を消失し、それに伴い身体の抵抗力が明らかに低下して、病気にかかりやすくなり、死亡者も増えたといいます。

このような精神が崩壊してしまった人間に対しては、未来に目を向けさせ、励ますということが重要なのだが、被収容者の仲間たちは、「生きていることにもうなんにも期待がもてない」という。これに対して、筆者はなんと返答すればいいのか苦心します。

ここで重要なのが、人間にはひとりひとりに備わっているかけがえのないものがあり、それはある人にとっては妻や子供であり、ある人にとっては仕事であるということ。これが意識されたとたん、生きる続けることに対する責任の重さを自覚し、生きることからは降りられなくなる。これによって、自分がなぜ生きるかを自覚することができるようになるのだという分析がされています。

本書でもニーチェの言葉が引用されている。
「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える。」

上記の絶望に打ちひしがれた被収容者は、人生が自分に何かをもたらしてくれることを期待して、その期待が外れたことで絶望していたのだが、本当は、生きることが私たちに何を期待しているのかを認識し、その責務を果たすことが、その人間のありようを決定づける。コペルニクス的転回が必要なのである。

・小括

本書では、アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所での過酷すぎる生活の様子を、被収容者の体験から生々しく記述する描写があり、読んでいて悲しい気持ちになることはもちろん否定できないし、このような環境を生み出してしまう人間の暗く醜い側面を目の当たりにせざるを得ない。

しかし、そんな中でも、人間としての尊厳を保っている被収容者や監視官も存在したり、自然の美しさに感動する心を失わずに持っていたりするなど、人間の内面の美しい側面は失われていなかったこと象徴するようなエピソードもあり、私は、人間はやはり美しい心を持っていると言っていいかもしれないという希望を持ちました。そして、どうすればそのような人間としての尊厳を保っていられるのか、これからの生き方の参考にもできる一冊だと思います。

何事からも学ぶことを忘れなかった筆者に尊敬の念を抱きます。

ではまた!


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