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心のスランプを抜け出すきっかけになった誕生日の祝福ワークについて書いてみようかな

先日参加したワークショップで、今まで何度か行ったことがあるテーマの瞑想をひさびさに体験した。

それは、自分が誕生した日に関係する内容なんだけど、あ、ちょっと待ってください、「瞑想…?怪しい…」という感じだと、この先の話はマニアックな内容すぎて???になると思うので、ここからは読まないことをお勧めします(笑)

今この瞬間もどこかで
産声を上げている赤ちゃんがいるんだね

さて、

普段の私は、自分の意識にある思い込みや感情を内観しながら、これからの自分に必要ないものを手放す(統合する)というシンプルなワークを行っているけど、姿勢を整えて目を閉じ、リラックスした状態で行う瞑想ワークには、手放す(統合する)以外にも、丁寧に深呼吸したり、過去や未来という概念をこえて自分や他者、空間や環境や地球などあらゆる存在に向けた、感謝、祈り、許しなど、様々なものを教わってきて、実際に行ったりしている。

現在はマインドフルネスやスピリチュアルの本も沢山あって、瞑想ワークに関して丁寧に書かれているものも多いので、言葉で誘導してイメージをすることで、自分を癒したり、ヴィジョン描くことで望んだ未来をつくることが簡単に出来るようになってきてる。いい時代だ。


意識を手放したり感情を癒すことは、ゲームと似ている。コントローラーの使い方を覚えて、キャラクターの動きを確認したり、町人たちにヒントを得たり、武器を手に入れたりしながら敵をやっつけて、徐々に難易度が上がっていく中で、成長しながらラストの大ボスを目指していく。癒しもそんな感じ。

ただ、ゲームは敵を倒すけど、自分の中にあるものを癒す時は、それを憎んだり倒したり否定するのではなく、存在していることを認めてから手放していくという違いはある。

意識の中にある手放すものの量って計り知れないレベルで存在しているけど、その中には人それぞれ、ボス的なものがいくつかある。

癒しを進めて数年が過ぎた頃、ボス的な痛みに向き合う時がやって来た。私は幼い頃から「どうして私はこの世界に生まれたんだろう?」という思いがあった。家から約半径5kmが世界の全てだった頃の、純粋な気持ちで抱いていた疑問は、意識やたましいについての学びを深めることでシンプルな疑問じゃないことに気づいていくことになる。

自分の感受性の強さを責め、抑圧した色んな感情を隠すために“いい人”を演じることをやめて、素直に自分の気持ちを表現してもいいことを知り、自分らしく在るために心の苦しみを丁寧に癒してきたのに、癒せば癒すほど私の命に対する疑問には、どこからどう手をつけていいのか分からないほどのドロドロの感情が絡みついていることに気づいてしまった。それは、目眩を起こしそうになるほどで、何かをぐちゃぐちゃにしたいくらいの気分の悪さだった。

学びはじめの頃ってあらゆる感情が爆発して
コントロールも下手でいちいち苦労したなあ

ただ、私の人生は、ありがたいことに家族や犬と猫たちと暮らして、衣食住や教育を十分に与えてもらっていた。悩みを話せる友だちもいて、先生や先輩たちが未熟さを指摘してくれ育ててくれたし、病気やピンチの時には必ず助けてくれる人たちも沢山いた。

どう考えても自分の命や世界に悲観したり絶望することが出来ない人生だからこそ、最初に真っ直ぐこの疑問や感情と向き合った時は、苦しかった。スーパーで地団駄を踏む子どもみたいに手足はバタつかせなかったけど、言語化出来ない感情が止めどなく溢れて1人でめちゃめちゃ泣いたこともあった。


自分の今の人生の中では覚えのない感覚と感情は強烈で、色々やってみたけどなかなか抜け出せなくて、当時意識について習っていた先生に相談したら「よかったね!大きな痛みが出てきたね〜!」と笑顔で褒めてもらえた。ええ…こんな苦しいのに?とちょっと引く私。でも、そこで改めて、小さなものを癒して成長してきたからこそ向き合える、ゲームのボスキャラの話(先生の例え話は違ったけど)をしてくれた。

感情は、溺れ続けると現在地も目的地も見失ってしまう。ただ、出し尽くすと落ち着くという特徴もある(底までいったからこそ、もう上がるしかないような感覚)。先生に相談ができるようになった頃、私の感情もピークを越えて落ちつきはじめていたので、「感情が落ち着いてきた今なら手放せるかな」ということで、次のステップに進むことになった。それが、自分が誕生した日のワークだった。

ちょっと前置きしたいのだけど、私はこのワークを、時期をずらして別々の2人の方に受けたことがある。初めて体験した時は「こんな短時間でこれほど感情が落ち着いて、意識が変わるんだ…」と感動したんだけど、時を経て、もう1人の方に受けた時(1回目は去年、2回目が先日)「え?これってみんな本当に起きてることなんだ…!」と、細部に多少の違いはあっても、ほぼ同じ流れというか内容であることに衝撃を受けた。

いのちは、祝福そのもの

今回は、記憶にしっかり残っている方の直近で受けたワークの流れをざっくり書いてみたいと思う。

呼吸を整え心身をリラックスする。目を閉じているけど、そこが薄暗くてぬくい羊水の中だと気づいて安心している自分を感じる。
でも、そろそろ誕生のタイミング。その時が来て、暗いトンネルのような産道を1人で進みはじめる。世界に対しての期待とワクワク感と、僅かな心細さや寂しさを抱きながら進んでいくと、おそらく部屋にいる人数よりも沢山の声援が聞こえてくる。その声援に勇気をもらって応えるようにさらに進んでいくと、一気に光に包まれる。この世界に誕生した瞬間だ。

ぴったり触れ合った肌をつたって、お母さんの心臓の音を聞きながら、へその緒を通して流れてくる、栄養や酸素、愛情が自分を満たしていくのを感じていると、周りに存在している目に見えない沢山の存在たち(ご先祖様たちを人で、他の存在を光としてイメージしてもいい)も、こちらを愛おしそうに覗き込みながら、「生まれてきてくれて、ありがとう」という祝福と愛情のエネルギーが波のように流れ込んでくるのを全身で感じとっていく。

最後に、今の自分の視点に変えて、祝福と愛情で安らぎ満ちた赤ちゃんの自分を抱き、自分のエネルギーと統合して、おしまい。

誰もがみんな赤ちゃんの時期が
あったと思うとなんだかほっこりしちゃう

私のボスキャラの1つ「自分がこの世界に存在している意味」についての痛みを癒すために誕生の日へ遡った時のワークを初めて体験した時、はじまりは「視覚的にはっきり見えないからなあ」「そもそもこの流れ自体、本当なのかな?」と、もだもだ考えていた。でも進んでいくにつれ「あれ?なんだそっか、ああ、そうだったわ」という、ずっと忘れていたことを思い出したような感覚が自然に溢れて、揺るぎない真実に触れたみたいな、まるでお伽噺のような内容なのに不思議としっくりくる感覚が心に広がっていた。

家族や親族、関わってくれた沢山の人たちとの繋がりを含めて、肉眼では見えていない繋がりを、時間軸を超えて肌感覚で「感じる」ことが出来たその体験は、なんていうか、愛に触れた時間だった。

そしてそれは、私の存在に対する痛みや、愛についての勘違いを溶かしていって、何かを持っているから価値があるのではなく、「ただ存在すること」に価値があるんだなと思えた。同時に、存在している全ての人たちは望まれて愛されていることも、知識じゃなくて心で理解することが出来た。命ってもの凄い。

あと、これまた誘導してもらったお2人からワークの前の説明でほぼ同じことも教わったことがある。

例えば、お母さんから「あなたを産むんじゃなかった」みたいなことを言われたとしても、それはお母さん側の事情であること。赤ちゃんが…というか、1つの命がこの世界に誕生する根本的な原因は、この宇宙や地球がそれを認めてOKを出したから。最初は疑ってもいい。でも、その“霊的事実”に目を向けることを続けてみてね、と。

いわゆるスピリチュアルという分野を学び始めた時は、分からないことが多かったけど、それでもずっと、分かりたいと思いながらここまで来れてよかったなと思う。

シンクロが起きるとその意味を知りたくて
ちょっとわくわくする…!

少し前から、この瞑想のこと、その時の自分の気持ちを書きたいなって思ってたけど、先延ばしにしていた。偶然にも先日のワークショップで再体験をして書き始めてみたけどやっぱり進まず、全消去を3回した。

まあ、またいつか書けばいいかなと思っていたけど、なぜかご先祖様の話とか恋や愛について話す機会が増えてきて、なんとなく今、このタイミングで振り返ることに意味がある感じがして、やっとこさ書き終えることができそう。よかった。

今夜はとても冷えるなあ。もうすぐ冬至がやって来る。

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