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恩送り

3日目、行きましょうかね。
昨日はちょっと重い話になってしまったので、今日は軽めの話にしたいなぁと思ってるんですけど。
そうですねぇ…。
さっき、ちらっとのぞいたXのタイムラインに「恩送り」の話が出てたので、今日はそのことについて書こうかな。
永六輔さんの言葉だったんですけど、こんな感じ。

生きているということは 誰かに借りをつくること
生きていくということは その借りを返していくこと
誰かに借りたら誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう

永六輔さん著「大往生」

江戸っ子の永さんの言葉を解説するなんて、とっても野暮だけれども…。
カンタンに説明すると、恩ってたいがい目上の人から受けるもんでしょ?
たとえば若いとき、得意先とのお付き合いのしかたを教えてくれるのって、すぐ上の先輩というよりも、ずっと年の離れた大先輩のことが多いはず。
だけどねぇ、そういった話が響いてくるのって自分が一人前になってからだから、ずっと後になってからなんですよね。
だから教えてくれたご本人に対して恩返しをしようと思っても、物理的に難しいことがある。
なので、受けた恩は、次の人に返しましょうねって考えかたが、この「恩送り」です。
また上の例に戻ると、大事なことを教えてくれた大先輩に恩を感じたのならば、そのとき身近にいる若手社員にその話を教えてやる。
代々それを続けていくことでその会社には、その会社イズムが代を越え、脈々と引き継がれてくってことになるよって話ですよね。

個人的に私それ、落語の世界から教わったんですよ。
もう亡くなってしまったけれど、柳屋小三治師匠が大好きで。
寄席に通ったり、落語の本を読んだりしててはじめて、この考えかたを知ったんですけど。
落語の世界って、師弟関係で成り立ってるじゃないですか。
つまり大の落語好きが、とにかく惚れに惚れた噺家さんの元に乗り込んで行って、玄関に土下座して床に頭こすりつけながら「弟子にしてください!」って頼み込んで。(ムッチャ、私のイメージです)
受け入れられてはじめて、落語家への道が開かれる__。
まぁこの話自体、もしかしたらいまではファンタジーの部分が大きいのかもしれませんけど、当時の私はそのように信じてました。
で、そんなこんなで入門したら、まずは師匠の身の周りの世話からですよ。
もちろんいまは違うみたいですけど昔は住み込みで、家の掃除から楽屋での着替えの手伝いから、とにかく四六時中師匠といっしょにいる。
なのに、師匠によっては、めったに稽古なんてしてくれないみたいで。
小三治師匠が言ってましたけど、小さん師匠から稽古つけてもらったのは、後にも先にもたった一回きりだったそうです。
その代わりこの住み込みの時期に、師匠は弟子に、それこそケツの穴の中まで(はしたない言葉使ってスミマセン…)余さず見せるわけですよねぇ。
カッコいい言いかたをすれば、生きざまを見せる。
落語と格闘している姿はもちろん、リラックスタイムにおかみさんとイチャイチャしてる姿まで、隠すことなく全部さらす。
そういった数年の見習い期間を経て、さらにそこから長い年月を掛けて、噺家さんたちは一人前になっていくわけです。
で、一人前になるとこんどは逆に、家に乗り込んできて玄関の床に頭こすりつける輩が現れ始める。
こんどは自分が、師匠をやる番になるわけですよねぇ。
そんな落語の世界の中で、この「恩送り」は間違いなく、しっかりと息づいているように私には見えました。
師匠に受けた恩を、弟子に返す。
そうやって脈々と落語の世界はこの日本に、受け継がれてきたんです。
私は落語のそこが素晴らしいと思ったし、そういった文化が生まれる土台となったこの日本に、生まれてきてよかったなぁと感じました。

だからね、私はそれ以降、私たち日本人の生きる力ってこの「恩送り」だと思ってるんです。
いただいた恩を、次に返す。
それを受け取った人が、また、次に返す。
さらに…、って。
すべての人がそれをすれば、やがて自分の元に巡り巡った恩が戻ってくる。
これぞ、自分の出したエネルギーが、やがて巡り巡って自分の元へ戻ってくるっていう宇宙の法則そのものだし。
日本人はみんな、DNAレベルでそれを知ってるはずって、私はいまも信じてます。
大覚醒のタイミングが迫っているいま、それがまさに、証明されようとしてるんじゃないですかねぇ。

なんかちょっと、今日はファンタジーくさい話になっちゃったけど。
最後まで読んでくれた人がいたなら、ありがとうございました。
では、また明日。

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