見出し画像

「悲劇」はどこにあるのか。 【アリストテレス『詩学』など 】

劇団いちいちの次回公演『吐息のおもかげ』の本番が着実に近づいてきている。『吐息のおもかげ』の作中に登場する『オイディプス王』ギリシア悲劇として名高い。

画像1

では、そもそも悲劇とはなにか。


悲劇とは

『美学辞典』によると、悲劇とは「人間の意志と行為を、精神的な力の間のさけがたい葛藤から生ずる苦悩の相において表現し、事件の全経過を通じて悲壮の美をあらわす種類の戯曲」 であるらしい。

悲劇は憐みと怖れを喚起する事件の劇的描写で一種の苦痛感をともなうが、しかも全体を貫く普遍的精神によって観る者の心に深い震感と内面的昂揚をあたえ、いわゆるカタルシスをもたらす。(中略)悲劇においてもっとも直接に体験されるのは人物の苦悩であり、その苦悩を通じて現れる人格的価値の感情である。主人公の没落は悲劇的葛藤に結末をつけるとともに、その人格の全体としての価値をはじめて完全に純粋に感得せしめる効果をもっている。

悲劇において、作者は複数人の複数の行為から一つの連綿的な構造を読み取り、一つの行為として劇中で再現している。

そして、悲劇は①筋、②性格、③語法、④思想、⑤視覚的装飾、⑥歌曲で構成される。再現の媒体となっているのが③語法と⑥歌曲、再現の方法が⑤視覚的装飾、再現の対象が①筋、②性格、④思想である。

筋は悲劇の原理であり、いわば魂である。

つまり、筋こそが悲劇の最重要要素だ。

また、悲劇とは「悲痛な感情を、それを生み出すものに対して虚構としての距離をおきながら経験すること、それは激情を通常の仕方で経験するのではなく、純化された仕方で経験すること」 であり、「この通常の感情を転化すること自体によって、悲劇の快が生まれる」 ことから、悲劇は好まれている。


筋とは

さて、ここで重要であると述べた筋とは、「出来事がありそうな仕方もしくは必然的な仕方で次々と起こり、不幸から幸福へ、あるいは幸福から不幸へ転じること」であり、筋の部分部分は引き抜かれたり置き換えられたりすれば支離滅裂になるよう組み立てられる必要がある。
すなわち、因果関係がある物事だけが起きるように組み立てられている。

例えば、一つの筋の中で起こる二つの出来事は、一方が起これば他方が必ず起きる、ないしは起こりそうだと感じられるだけの結びつきがなくてはならない。「ありそうな仕方もしくは必然的な仕方」で「起こる可能性があること」が描かれ、出来事の因果関係を明示し一つの行為として構成することでその行為が普遍性を帯び観客に「あわれみ」と「おそれ」を抱かせることができる。


「あわれみ」と「おそれ」とは

と、ここまでをまとめるとつまり、悲劇は完結した高貴な行為の再現であると同時に「あわれみ」と「おそれ」を抱かせる行為の再現である、ということになる。

観客は、登場人物が不幸に値しないにもかかわらず不幸に陥る時にあわれみ、またそれを見て自分も同様に不幸に見舞われるのではないかとおそれる。
この「あわれみ」と「おそれ」は観客が出来事の因果関係を理解することで生じるものであるので、怪異的恐怖(ホラー)とは違う。

「徳と正義において優れているわけではないが、卑劣さや邪悪さの故に不幸になるのではなく、何らかのあやまちの故に不幸になる者」 が幸福から不幸へ転じる時、観客は「あわれみ」と「おそれ」を感じる。

ここで言われる「何らかのあやまち」とは、悲劇的な結末を迎える人物が起こしたあやまちのこと。
その些末なあやまちで悲劇的人物が陥る不幸がそのあやまちに対して不当に大きなものである場合、あわれみとおそれ以上に忌まわしさを助長するため、ある程度「大きなあやまち」である必要がある。つまり、ある程度の【自業自得】が必要なわけだ。

これが、悲劇的人物の不幸への転落が「ありそうな仕方もしくは必然的な仕方」で起こるものとして、…つまり、最も大事であるところの筋(=因果関係)として捉えることができる。

しかし、その「大きなあやまち」と悲劇的人物が陥る不幸が完全に見合うものである場合、悪人が幸福から不幸に転じる場合と同様にあわれみとおそれを引き起こさない。故に、このあやまちはある程度彼の不幸に見合うものでありながら、完全に見合ってはならない。不幸に値しない人物の不幸をあわれむことが肝要だ。

この性質ゆえに、悲劇は高質かつ高尚・高級な芸術として神格化されてきた。喜劇が滑稽で愉快な世界を描くのに対し、厳粛で本質的な世界を描く 。さらに、ただプロット的スリル・サスペンスから観客を焚きつけるメロドラマとも区別される。


日常語としての「悲劇」とは

 日常語としての悲劇は「ほとんど無制限に、あらゆる種類の苦痛、死、失敗、悲惨、混乱等の事実または体験を指すものとして広く使われている」 。これは「悲劇的なもの」を「悲劇」と同一視しているともいえる。

「悲劇」において描かれる、特定の不幸・悲惨な世界や体験が極めて実感を伴うために、それらの不幸や悲惨を総じて「悲劇的」とみなすようになったのだろう。

ここで生じる問題は、この言意の曖昧さが「不幸なり悲惨なり、そこに悲劇的な事柄が描かれてさえいれば、その作品は悲劇だ」 と感じさせることである。「悲劇的な事件・不幸な結末=悲劇」ではない。


特定の悲惨な体験とは

その「特定の悲惨な体験」とは、すなわち、自己の内部から与えられる悲惨だろう。

悲惨は外部から我々を被害者として襲うが、悲劇は内部から我々が自己または他者を襲う 。
つまり、悲惨においては「主人公VSヴィラン」の葛藤が成立し、主人公は自然・社会・悪人といったヴィランに蹂躙され他人や環境の不完全性に注目させる。悲劇においては「主人公VS主人公」の自己内部の葛藤が、主人公及びその周辺を犠牲として主人公自身の過失に着目させる

無論、悲劇において自己内部の葛藤を描く過程で、苦悩や悲惨な体験が主人公を分裂させる原因などとして強調されることは少なくなく、メロドラマなどの悲惨なストーリーと似ていることもあるだろう。しかし、悲劇は単なる悲惨な体験や苦悩、状況を描くものではなく、それを越えようとする意思や分裂する人格などの精神のあり方を描くものである。

悲劇はどこにあるのか

悲劇」とは出来事のことではない。主人公が死ぬだとか、努力が徒労に終わるだとか、そういうことは「悲劇」の本質ではないわけである。
その特定の不幸…、悲惨な出来事を通じて、それでもなお抵抗を見せる、人間の憐れで愛おしくて逞しく柔らかい精神にある。

劇団いちいちの公演『吐息のおもかげ』では、主人公の双子が高校演劇の演目で『オイディプス王』に出演する。本来は存在しない役を与えられ、役作りを始めることになる。今公演を悲劇と重ねて話したことは何度かあったが、先述した通り、これは結末が悲しいということではない。

以前の記事で、悲劇と芸術に関してまとめたことがある。演劇という「行為の再現」が現すのは何か。ぜひ、興味がある方は一見してほしい。


公演/劇団情報

劇団いちいち
Twitter:https://twitter.com/gekidan_11
Mail:theater111999@gmail.com
※お問い合わせやご依頼は各SNSのDMまたはメールまでお願い致します。

劇団いちいち 春ごもり公演
『吐息のおもかげ』
脚本・演出:豊田莉子
【日時】2022年
    3月5日(土)14:00 / 18:00
       6日(日)12:00
    ※開場は開演の30分前です。
    ※上演時間は80分を予定しております。
【場所】東山青少年活動センター 創造活動室
【料金】※当日券は各+300円です。
    学生前売:1000円(要証明)
    一般前売:1500円
【予約】カルテットオンライン

画像3

編集後記

画像2

わたしが『吐息のおもかげ』を好きなので、わたしと趣味嗜好が似ている人はきっと好きだ、とかいたことがあった。
悲劇、そして言葉…からわたしは今公演を見ている。きっともっと、他にも視点があるだろう。ぜひ、足を運んで、そしてできれば、感想を伝えていただきたい。

この記事が参加している募集

#学問への愛を語ろう

6,263件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?