若冲の蓮

蜘蛛の糸の上と下

      一

 ある日の事でございます。天女様は極楽の蓮池の淵をひとりふらふら御歩きになっていらっしゃいました。
 蓮池には朝の涼しい風が吹いて、新鮮な空気と、蓮の花の香りでしょうか、何とも言えない良い匂いを運んできます。池の水はまるで水晶の様に透き通り、蓮の葉の下では水草のゆらゆらと揺れ、赤や黒や白の美しい魚たちが楽しそうに泳いで居ります。天女様が蓮の花を御取りになられて、ぽんと投げられたと思えば、ぽちゃり、水が可愛い音を立てます。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 天女様はぷかぷかと浮く蓮の花の先に、ふと下の容子をご覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当たっておりますから、針の山やら血の池やら、罪人たちのうごうごともがき苦しむ姿がはっきりと見えるのです。天女様は黒々と燃え盛る地獄の窯を覗いて、静かに微笑まれています。
 天女様はふと目を側にやり、極楽の蜘蛛が、翡翠色をした蓮の葉の上に美しい銀色の糸を掛けて居りますのを見付けられました。天女様はその糸をそっと御取りになり、地獄の底へ真っ直ぐ御下ろしなさいました。


      二

 地獄の底では、数えきれないほどの罪人たちが、まるで蛆の様に蠢いて無間の苦しみを受けております。それは生前の悪行が然らしむる罰でございますが、罪人たちの喘ぎ悶える容子は見るにも耐えないものでございます。
 地獄の風は身をも焼き尽くす様な熱風で、所々に黒い血の飛び散った跡や人の手やら頭やらがごろごろと転がる荒野を吹き荒らし、あてなく歩き彷徨う罪人たちを血の池に追い立てます。しかし飛び込んだ先も、また身体を茹で上げるような湯でございますから、どろどろとした赤黒い血の池でございますから、悠長に泳いでいられるものではありません。絡みついた血は罪人たちを沈ませようとその四肢をずるずると引きずり込み、息をすることも許しません。そのうち、罰に耐え得るよう頑丈につくられた地獄の身体も朽ち果てて、浮いたり沈んだり、最早生きているのか死んでいるのか、当の罪人たちでさえ判らなくなってしまいます。運よく対岸に泳ぎ着いたとしても、そこは針の山でございます。足という足に鋭い針が刺さり、億劫の間、抜けることはございません。足の痛みに耐えきれず倒れてしまえば、途端に針が身体に喰い込み、全身にその苦を受けることとなります。その罪人たちの傷口から流れる血は河をつくり、血の池に新たな血を給す仕組みになっております。例えその苦しみを耐え抜いても、地獄には食べる物などひとつもありません。ですから、力のある罪人たちは腹を満たす為に共喰いをします。しかし、髪を引き、指に咬みつき、腹を引き裂き、目玉を刳り貫き、口に放れば、その肉塊は忽ち炎となって罪人たちの口を焼き焦がすのでございますから、永遠に飢えから逃れることはできません。
 地獄では、例えその身が引き裂かれても罪を償うまで死ぬことはございません。罪人たちは気の遠くなる程長い間、この苦しみを受け続けなければならないのです。
 この様な中に千年も閉じ込められますと、流石に地獄落ちるような罪人の中でも改心する者が現れるのでありまして、その名を未我陀也(ミガダーヤ)と言います。
 未我陀也という男は生前必要以上に多くの事を望み、その為には手段を択ばず、人から物を奪い、無数の命を傷つけ殺した大悪党でございますが、地獄での苦の生活によって疲弊したのか、非常に大人しい人間になって居りました。それは一種の諦めの様なものでありましたが、それでも修羅の如く殺し合う罪人の苦しみに比べれば、救いのある生き方でございましょう。未我陀也は血の池で浮いたり沈んだりしながら、もがくこともせず、ただ他の罪人たちの立てる波に揺らされて居りました。
 ところがある時の事でございます。未我陀也が、何気なく頭を挙げて、どんよりと曇った血の池の空を見上げて居りますと、その地獄の闇の中を、銀色の糸が一筋、細く光りながらするすると自分の上へ垂れてくるではありませんか。未我陀也はその糸の頑丈なのを知ると、今までの諦めがすっと消え去り、これを登ればきっと極楽へ行ける、という希望が芽生えてきました。そうすれば、この阿鼻地獄で苦しみ続けることもありません。
 未我陀也は早速糸を掴んで、その身体を血の池から引き上げました。あとは簡単です。細い糸に身を託し、少しずつ上へ上へと登って行きます。次第に、空気はひんやりと涼しくなっていき、鼻を衝くような血の臭いもしなくなりました。
 しかし、地獄で消耗した肉体にとって、何万里とある極楽と地獄の間を抜けることは容易ではございません。極楽は黒く厚い雲に隠れて見えませんから、あとどれだけ登れば良いのかという見当もつかないのでございます。未我陀也は草臥れて、もうひとつも上へ登ることができなくなり、ふと今まで身を沈めていた血の池を見下ろしました。
 其処彼処から噴き出す炎、逃げ惑う罪人たち。その燃え盛る石炭窯の様な世界からは、ごおぉと不気味な音が聞こえてきます。それは未我陀也を苦しめたあの熱風の立つ音なのか、罪人たちの呻き声の成す音なのか、地獄から離れて初めて聞こえてくるものでありまして、この様なおどろおどろしい世界に自分が千年も居たという事が俄かに恐ろしく思えてくるのでございます。
 ところがふと気が付きますと、糸の下の方には無数の罪人たちが自分の後をずらずらと一列に付いて登ってくるではありませんか。その容子はまるで虫の死骸に群がる蟻のようで、未我陀也は肝を冷やし、思わず手に掴んだ糸を一瞥しました。
 いくら頑丈な糸と雖も、あれだけの罪人の重さに耐えられる筈がございません。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れてしまうでしょう。そこで未我陀也は大きな声を出して、「おい、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に許しを得て登ってきた。下りろ。下りろ」と喚きました。しかし、この距離です。地獄の風の鳴る中を必死に登ってくる罪人たちに、未我陀也の声が届く筈もございません。
 こうなれば、糸の切れる前に極楽へ指を掛けるしか、手はございません。未我陀也はありたけの力を振り絞り、その手を上へと伸ばしました。しかし、それも一時のことであり、力尽きた未我陀也には最早新たに糸を握ることもできず、地獄へ真っ逆さまに落ちて行きました。
 ひゅるるるるるる。すっ。
 風の音が已みました。未我陀也がゆっくり目を開くと、その身体は宙に浮いて、誰かが手を掴んでいました。
「あんた大丈夫か」
 手を掴んだ主は言いました。
 次第に意識がはっきりしてきますと、未我陀也は自分が救われたことに気が付きました。
「どうして助けた」
「理由などない」
「さっき俺が言ったこと聞いていただろう」
「ああ、聞いていた。だがな、そんなことは関係ない。誰が地獄に戻りたいものか。さあ、自分で掴め」
 手を掴んだ主はそう言うと、未我陀也の手に蜘蛛の糸を黙って引き寄せました。そうして彼はその細い糸を握りました。先程までの疲労などまるで嘘のように、強く、その細い糸を握りました。


      三

 天女様は極楽の蓮池の淵からこの一部始終をご覧になられていましたが、急に興が醒めてしまったのか、「疲れちゃったわ」と、それまでその美しい指先で摘ままれていた銀色の蜘蛛の糸を放されました。蜘蛛の糸は下界の事などまるで頓着しない様に、ひらひらと渦を描いて蓮池の底へと沈んで行きます。
 天女様は極楽の涼しく芳しい空気を目一杯に吸い込んで、またふらふらと逍遥に行かれました。
 蓮の葉の上では、極楽の蜘蛛が先程絡め捕られてしまった巣を掛け直して居りました。池の水を被ったのか、水滴を携えたその糸は高く昇った日の光を浴びてきらきらと美しく輝いて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

画像:伊藤若冲 蓮池図

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