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TDL二次創作「A twinkle of Mouse」17.スプラッシュ・マウンテン①

「スコットーーー! スコット、スコット、スコット!!」

「なんだよ、やかましいな。ずっと蛙になって飛び跳ねていたせいで、足が痛いんだ」

 ホーンテッドマンションを後にした面々は、ようやく、溢れ返る眩ゆい朝の光の中に網膜を洗った。全員徹夜である。怠い体、ぼーっとする脳、目がシパシパする……と瞼をこするメンバーの中で、デイビスだけは自分が最も傷だらけということも忘れ、ニヤニヤとほくそ笑みながら、スコットの後ろにしつこく付き纏う。

「ふーん。夜になったら、また蛙に戻っちまったりしてな?」

「不吉なことを言うな、馬鹿者!」

「あだーっ!」

 じんじんと痛むたんこぶを抱えてうずくまるデイビス。ついでに全身に拵えたあちこちの傷も疼いて、しばらく動けなくなったようだが、一方のスコットは気にも留めずに、頭から吹き出す湯気とともに、カッカと煙をたなびかせる。

「まったく、信じられん不躾な野郎だ。あのバカの顔を見ていると、煙草が不味くなる」

「というか吸わないでよ、パーク内でさ……」

 当たり前のように吸ってるけど、普通に現実世界だと困るんだよなぁ、と呆れるミッキーが、何気なくデイビスの方を振り返ると、誰の目も届かないところで涙目になりながらも、薄く、嬉しそうに微笑っているのが見えた。

 スプラッシュ・マウンテンへと向かう山道を前にして、彼らは足を止めた。ここがファンタジーランドの終焉、そして新たなエリアの始まりである。大きな木を削りあげて造られた素朴な看板には、動物たちの彫刻と茨の蔓に囲まれて、CRITTER COUNTRY、という文字が刻まれている。彼らは中腹の郷へ向かって、陽光と朝靄、そして紅葉の交互に差し交わす鮮やかな登り坂の続いてゆく先、まるで雲を突き抜けるようにすら錯覚する、真っ青な空に高く頂く尖った影が。午前中の爽やかな風を浴びるそれをはるばると振り仰いで、周囲から一斉に呻き声があがった。

「うへー、たかだかロジャー捜索のために、あんなところまで登んなきゃいけねえのかよ!?」

「大丈夫、スプラッシュ・マウンテンのてっぺんまでは行かないよ。僕らが行くのは、せいぜい中腹までだよ」

「しかし問題は、本当にここにロジャー・ラビットがいるかということだな。私たちは当て推量だけで、ここまで来てしまったわけだし」

「彼が笑いの国へ行ったというのなら、たぶん、ここだと思うのだけれど……地道に探すしかないのかなあ?」

 今後の展開を憂い、フウ、と嘆息するミッキー。しかし、求めよ、されば与えられんと唱えたのはどの本だったか、彼らの探すウサギへとつらなる足跡は、向こうから静かに近づいてきたのである。





「ん? なんだ、これは」

 エディは不審げに眉をひそめた。不思議なことに、クリッターカントリーの看板の真上、目の前の何もない虚空には、真昼の白い月のようなものが浮かんでいるのである。眺めていると、それは急に、つるんと弓を真下に滑り落として、尖った両端がにたにたと笑い出し、奇妙な節をつけて歌い始めた。


「♪こーのおーれはー まっかふっしぎー
 ♪まーりょくーをーもったー ねっこだー
 ♪そーこらーのー やーつらっとはー
 ♪えーらさーがー ち〜がう〜

 よっ」


 歌に合わせて、まるで刑務服のように縞模様をした体、プラムのような大きな鼻、そして最後に、キョロキョロとよく動く、妖しい黄色の目が浮かびあがると、みるみるうちに姿を現した紫のデブ猫が、優雅に看板の上に寝そべっている。何度も見慣れたその光景に、デイビスははっと息を呑まざるをえない。

「げえっ! チェシャ猫——」

「お久しぶりだにゃー、ストームライダーのパイロットたち。無事、王様や飲んだくれと合流できたみたいで、何より、何より」

「なんでこんなタイミングで出てくるんだよー!」

「そりゃ、このエリアにおいては、俺がキーパーソンならぬ、キーキャットだからにゃー。どーぞよろしく、アリスたち・・・・・

 チェシャ猫は尻尾を器用に動かすと、ひょっこりと、まるで帽子をちょっとあげるかのようにして、紫のボサボサ髪と両耳を持ちあげて挨拶した。そうして、その髭をいじりながら、楽しげに顔を揺らしつつ、嫌そうに眉を顰めるデイビスへと近づけてゆく。

「そうそう、ところでだにゃあ、あんたらは知りたいんだろにゃ。あっちへ——行ったよ!」

「誰が?」

「白いウサギさ」

「おお! 本当か?」とデイビス。

「何が?」

「え、行ったんだろ?」

「誰が?」とチェシャ猫。

「だーかーらー、ウサギだよ! お前が言い出したことだろうが!」

「どのウサギ?」

 相変わらず、とりとめのない言葉がワンサカと返ってくるのに、変わらねえなあとイライラしてくるデイビス。しまいには隣にいるエディにまでイライラが感染し、

「やい、冗談言ってるんじゃねえ、俺はあいつの居所をさっさと知る必要があるんだ。教えてくれ、ロジャーの糞野郎はどこだ!」

 するとチェシャ猫は、ニヤリと笑って、

「Who Framed Roger Rabbit(ロジャー・ラビットを陥れたのは誰だ)?」

「はぁ?」

「Who Censored Roger Rabbit(どいつがロジャーが検閲しやがった)?
 Who Wacked Roger Rabbit(どいつがロジャーを打ちのめしたんだ)!」

 げらげらと大笑いしている頭を、玉乗りのように後ろ足で回転させるチェシャ猫に、エディもついに呆れ返って、とうとう会話を打ち切った。何となくわかったが、話すだけ無駄だ。

「とにかくにゃあ——わたしが白いウサギを探すんだったら、真ぁっ先に、ヘンテコで有名な気狂い帽子屋マッド・ハッターに訊くね」

「マッド・ハッターだって? 誰だよ、そいつ?」

 チェシャ猫は何も言わずに、その豊かな紫の毛の生えた尻尾を、くるりと回転させた。よく見ればクリッターカントリーの看板の下には、「MaD HatteR↑」と書かれている帽子のついた板が貼りつけてあるではないか。

「でも、俺たちは——「じゃ・な・きゃ! 三月ウサギのいるのは、あーっちの! 方角っ」

 ニヤニヤとその見事な歯並びを見せつけながら、チェシャ猫はさらに、短い紫の指を差し向けて、新たな情報を告げる。デイビスたちは目を凝らした。スプラッシュ・マウンテンの山頂付近から、どうも雲のように真っ白な煙が、まるでポットのようにポッポッと絶え間なく吐きだされているのが見える。

「もちろんウサギも、相当ヘンテコだにゃ」

「オイ、そんな変な奴らには会いたくねーよ!」

「そんなこと言ってもどうにもならんにゃ。このクリッターカントリーじゃ、みーんなが、ヘンテコなのさ。ウフフッ、ウフフフヒヒヒ!」

 いつもの不気味な笑い声をこぼすと、チェシャ猫はさらにそのニヤニヤ笑いを深めて、網膜に焼きついて離れないほど、その黄色い目を爛々と輝かせた。まるで緑の茂みの中に、二つの月光を透かすトパーズが、ふわふわと浮遊しているかのように見える。


「もう、気づいているだろう。

 
 もちろん、
      このわたしだって、
              ヘンテコ……」


 そうしてニヤニヤ笑いを浮かべたまま、ゆっくりと尻尾の方から、紫の縞が巻き取られてゆくのである。最後に、あの真昼の三日月がひらひらと揺れ動いたったきり、いつのまにかチェシャ猫は、真っ青な空の底へと姿を消してしまっていた。

 一行は肩をすくめて、互いに眼差しを交わしあった。

「うー。開始早々、嫌な奴に会っちまったなあ」

「しかし、早々に目的が決まったな。とにかく、マッド・ハッターと三月ウサギという輩に聞き込みすればいいんだな」

「そうだね。それじゃ頑張って、スプラッシュ・マウンテンを登ろうか」

 そうして頷きあうと、彼らはついに、目的地である新たなエリアに足を踏み入れた。地面の色が変わる。モスグリーンから、ひび割れた赤っぽい胡桃色の大地へ。靴底が、じゃくじゃくと騒がしいほどに溢れかえる柘榴色の山を踏み、その枯れ葉の洪水を蹴りあげた。ついついと赤とんぼが飛んでゆき、茜色に色づいた古葉の天蓋の合間から、可愛らしく艶やかな緑の実を垂らしているホルトノキを横切ると、朝露の光るスダジイのどんぐりが井戸に転がり落ちてゆく。まぶしー、と蒼穹からサンサンと降りそそぐにこやかな太陽光線に目を細めながら、やおら山道への入り口に向けて、最初の一歩を踏みだそうとした、まさにその時。ムクムクッ——と、ミッキーのドタ靴のそばを、何やら赤土が盛りあがってきたかと思うと、見る間に地表まで掘り進められていったその穴から、一匹のもぐらが、ひょっこりと顔を持ちあげるなり、軽快に麦わら帽子を振った。

「How-dee-doo、ミッキー!」

「Howdy、もぐらどん! やあ、久しぶりだね!」

 動物と動物が爽やかに挨拶しあう様は、まるで鳥獣戯画さながらの光景である。ぎょっとして後ずさるデイビスたちには構わず、ミッキーは地面にしゃがみ込んで、楽しそうにもぐらと会話を始めた。

「おい、聞いたかい。ずるギツネとどじグマが、近くをウロウロしてるってさ!」

「へええ、それじゃあ、うさぎどんは大変じゃないか!」

「アイツほど厄介事を抱えているやつもいないね。うさぎどんが笑いの国を探してるっていうのは、わしに言わせりゃ、災難探しさ!」

 そう言うなり、すぽんっとマヌケな音を立てて、もぐらはふたたび地下の世界へと潜り、その姿を消してしまった。口をあんぐりと開けて呆気に取られていたデイビスたちは、足元の地面をチロチロと動き回る影を見て、ふたたび、驚愕の色を隠せない。何せそこには、野薔薇の実をいっぱいに抱えたオポッサムが、一丁前に日の光に眼鏡を煌めかせながら、せかせかと手押し車を押していたからである。彼女は、地面に落ちた特徴的な耳の影を見つけると、即座にミッキーを見あげて、丁寧にスカートを持ちあげてお辞儀した。

「ああら、ミッキー、How-dee-doo! 秋のクリッターカントリーへようこそ!」

「Howdy、ありがとう。美しい季節にここに来ることができて、とても嬉しいよ」

「「「ハーイ、ミッキー。スプラッシュ・マウンテンを、楽しんでいってね!」」」

 勢揃いした、幼く、くぐもった声。オポッサムが尻尾で自分のドレスをたくしあげると、そこには、まるで三色すみれのように小さな仔オポッサムが、その細い尻尾で母親の尾を掴み、だらんと垂れ下がっているのが見えた。彼らは、目を丸くしているデイビスたちを一瞥すると、くすくすと笑いあい、手を振って気軽な挨拶をした。そうしてふたたび、ドレスの裾が丁寧に戻され、さかさかと山道を登ってゆく母親の姿のみが目に映る。

 気づいて周囲を見渡してみれば、山に囲まれて楽しげにさざめきをこぼしているのは、何もTODAYを握り締める人間たちばかりではなかった。ひらひら飛んでゆくカラフルな蝶々や、樹上の巣箱の近くで唸る蜜蜂の群れ——その下にひろびろと開けて、酔い痴れるような豊穣の色に染まりゆく一本の道は、頂上への緩い傾斜を描きながらも、その傍らに、鮮やかな生命の気配を賑わせているのである。ゴロゴロと転がっている赤土の岩の陰には、硬い胡桃の殻を齧るリスの歯音や、真っ赤に熟れた山査子の合間を飛び回るハチドリの羽ばたき、冬支度を整える赤白のてんとう虫、それにもっと多種多様な、樹々や茂みや木のうろに隠れているアライグマや、ヤマアラシや、七面鳥といった生き物たちが、ひとつの陽気なリズムを歌っている。真っ黄色の楓の葉を揺らしてゆく秋風に耳を澄ませてみると、それは、こんな歌詞に彩られているのだった。


 ♪Everybody's got a Laughing Place
 誰でもあるのさ
 A Laughing Place to go-ho-ho.
 笑いの国が
 Take your frown, turn it upside-down
 しかめっつらにはおめかしを
 And you'll find yours we know-ho-ho!
 そうすりゃ辿り着くさ!

 Honey and rainbows on our way.
 蜂蜜を舐めれば
 We laugh because our work is play.
 気楽に暮らそう
 Boy are we in luck!
 素敵な日!
 We're visiting our Laughing Place
 さあみんなで出発だ
 Yuk Yuk Yuk Yuk Yuk! Ho Ho Ho,
 あっはっはっはっは!


 これぞ、長年動物を戯画化し続けてきたディズニーの真骨頂というべきか。現実的なTDSからやってきたがゆえにまるで免疫のないデイビスは、目の前に繰り広げられるあまりのファンタジーっぷりに、ぽかーんと目を見張る。

「な、なんだあ、ここ? あっちにもこっちにも、動物ばっかりじゃねーか!」

「(僕も動物なんだけど)そうさ、ここは、クリッターたちがたくさん暮らしている郷なんだよ」

「クリッター?」

「creatureの方言で、ここディズニーランドでは、小動物って意味さ」

 その時、足元の木の根に備えつけられたドアが開くと、自宅に滑り込んできた落ち葉の山を掃きだそうとしていたアナグマが、箒の手を止めて、キイキイ声で喚きたててきた。

「おやおや、そこの人間たちお三方、この愉快な山にくるのは初めてか! そんじゃ、おいらが教えてやろう。ここにきたらな、挨拶は、How-dee-dooっていうんだ!」

「How-dee-doo?」

「そおーだ、そんでもって返事は、Howdyだ! 覚えておけよ、これから先、きっと役に立つさ。クリッターカントリーの常識だぜ!」

 そうして、まるで遺言のように言い残すなり、ばたん、とドアを閉めて、視界から消え去った。そして今度は、頭上から、バサバサと舞い降りてきて、濃緑の杉の枝に留まるなり、演技がかった身振りで首を動かした。赤いバンダナを田舎風に首に巻いたこのフクロウも、当然ながらこちらを見つめるなり、大げさに驚いた振りをして、流暢に喋りかけてくるのである。

「おお、こりゃ驚いた。 そこにおいでの人間のみなさん、 森の仲間がスプラッシュ・マウンテンと言ってるところに、とうとう迷いこんできなさったねえ。

 スプラッシュ・マウンテン。ああ〜、なーんて良い名前じゃ。なーんたってここは、うさぎどんのふるさとだからな。動物たちは人間と仲良しで、人間も動物と仲良しだ。心がうきうきして、誰だって口を開くと自然に、楽しい歌が飛び出してきちまうもんさ!

 さあーて、みんな、先を急いだ方が良い。愉快な冒険が、いっぱい待ってるじゃろう」

 そうしてバサバサと慌ただしくフクロウが飛び去ってゆくと、まるで夢の名残りのように、翼から抜け去った羽が漂うだけ。この郷では自給自足の生活を是としているのであろう、次第に農業地帯へと移り変わってゆく山の景色は、歌声にあふれて、実にのどかなものだった。どこかから聞こえてくる、あの間の抜けた牛の鳴き声、グリーン、イエロー、レッドの農作物がカラフルに植わった畑からは、小さなイモムシがしゃくしゃくとキャベツを齧る音、太陽をたっぷりと享けたニンジンの葉っぱは、笑顔そのもののように揺れており、収穫された麦穂の山にはひょこひょこと隠れんぼをしている小動物の頭が見え隠れしていて、まるで幼児の空想するユートピアのようである。そして共通していることは、いずれもがミニサイズ。まるでミニチュアの世界を覗き込んでいるかのようだ。

 ここまでの一連の流れを見て、デイビスたちは、このテーマランドに共通するおおよその世界観を察し、はあ、とため息をついた。

「うわー、なんだか——ファンタジーランドとはまた違ったおとぎ話の世界だな」

「レア社のゲームとか、アメリカの古い知育アニメってこんな感じだよな。牛乳のCMにでも流れていそうな」

 自らの子ども時代を思い出しているのか、遠い目をするスコット。別にここを訪れたことは一度もないのに、この中毒ソングの流れる景色はなぜか、彼の記憶の忘れかけていた何かを刺激する。

「童心を持った人なら、景色を見るだけでもワクワクしてくるんじゃないかな。実際、小さな子どもたちがよくはしゃいでいるのを見るしね」

「」←いたたまれないエディ

「」←いたたまれないスコット

「しっかし、ここも広そうなエリアだよな。えーっと、なになに。スプラッシュ・マウンテンに、レストラン、ジュースバー。へー、カヌー体験なんてのもできるのか」

 と、枯れ木からロープでぶらさげられている、木製の看板を見あげる一行。ここでは何でも手作りである。SPLASH MOUNTAIN、と書いてある先を目指して、えっちらおっちら高度をあげてゆくと、辺りが枯れ葉の匂いで噎せ返るほどになり、この郷で生きる動物たちの暮らしを覗き見ることができた。毬栗を投げあって戦争ごっこをするハリネズミたち、黒板の前に並んだマッシュルームの椅子に座り、四季の特徴を学ぶシロアリたち、山の斜面を生かして段々に作られた、美しい黄金こがね色に波打つ麦穂、人参や芽キャベツや玉蜀黍の畑には、悪童たちがこぼしたチーズのかけらと、バラバラにされた案山子の破片が散らばっている。さらに崖の彼方を振り向くと、赤土の色濃い西部の町、ウエスタンランド、そして深い緑に覆われて種々の生活を営むアドベンチャーランドと、ディズニーランドの東側の景観を望むことができ、眼下に滔々と流れるアメリカ河には、青いドアに真っ白な灯台が——ほんの蛙サイズで——面していて、向こう岸のトム・ソーヤ島に向けて、鏡でちかちかと反射を送っているのが垣間見えた。スプラッシュ・マウンテンの渓流は、赤土の山に豊かな栄養を運びながら、ついにはこの美しい深緑の河へと合流するのである。太陽光線に照らされた埃が煌めく中、道中のスピーカーは、絶えず腑抜けたカントリー・ミュージックの旋律が流しており、頭上に張り巡らされた紅葉の天蓋からは、木漏れ陽に照らされる真っ赤な朽葉とともに、可愛い声がひらひらと降りそそぐ。普通の山道なら、動物の鳴き声としか聞こえないそれらも、このクリッターカントリーならば、はっきりと言葉の意味が通じてくるのだ。

「聞いた? うさぎどんが——」

「旅に出る話!」

「それなら、きつねどんが——」

「彼を狙ってるって話も!」

「これでうさぎどんも、年貢の納め時ってわけ。きっと今に、水柱の立つような悲鳴があがるに違いないさ!」

 ほほう、とデイビスたちが首を傾げていると、今度は足元で、尾の長いイタチが盛んに唾を撒き散らしながら、お隣のアライグマと会話していた。

「そうとも、まだたった今朝のことさ、奴がドアに板を打ちつける音が聞こえてきたのは。通りがかりのリーマスおじさんはびっくりして、考え直した方がいいってなだめたんだが、うさぎどんは聞く耳を持たずで、さらに三回、追加で釘を打ち鳴らした、

 "なーんと言われても、おれはもう、家出すると決めたんだ。二度と戻らないからな! じゃあね、おじさん、お達者で。えっへっへっへっ、心配ご無用、大丈夫だって!"

 そうして奴は口笛吹いて、笑いの国へと出かけていったのよ。リーマスおじさんはもう、ただ呆気に取られるばかり。どんなトラブルが待ち受けているか分かりゃしないぜ、なんたって後ろには、くまどんときつねどんがつけ狙っているんだからな!」

 一行がとろとろと山を登り、山頂付近から流れてくる渓流の近くへと差し掛かると、今度は柵の下から、潺々と流れる音に混じって、枯れ枝のように嗄れた声が響いてきた。

「みんなあ、聞いとくれえ。うさぎどんが家を出ーてくってさあ。言っとくがこの先いいこたぁないよ」

 そこで彼らが柵を見下ろすと、深緑色の沼に張りだした岩場は、船着き場となっていて、日なたに置かれた肘掛け椅子が揺れていた。よく見るとそこには、かぼちゃ色のチョッキを着て、パイプをくわえた老いぼれガエルが、小枝を竿に釣りをしているのである。休日の道楽を満喫中なのか、時々、バスケットに詰めたスイカを齧り、ひらひらと舞い落ちてゆく楓の黄金に目を細めて、頻りにしゃっくりをこぼしていた。

「言っとくがね、近いうちに、ずるギツネとどじグマは、うさぎどんを捕まえるよ。まあ、見てなって、うさぎどんが茨の茂みを出てゆくってこと。言っとくけど、いいことはないよ。ナーハハハハハ!」

 かえるどんの響かせる笑い声に合わせて、ぷかぷかと池に浮かんだアヒルの三人娘も、黄色い嘴をそろえ、品の良いコーラスを唄いだす。それは天気の良いお日様のように明るいメロディで、延々とリピートされているせいか、何かカルト的な中毒性を秘めているように思える。


 ♪Everybody's got a Laughing Place
 誰でも笑いの国がある
 A Laughing Place to go-ho-ho.
 笑いの国に出発よ
 Take a smile there, for a while
 ちょっとにっこりしてごらん
 and You'll find yours we know-ho-ho!
 ほうら たちまち見つかった!

 Honey and rainbows on your way.
 虹の橋は目の前に
 Take that frown, turn it upside-down
 くるんとさかさになってみて
 And soon you'll find you're here to stay.
 ほうら おうちが見えたでしょ

 Everybody's got a Laughing Place
 誰でも笑いの国がある
 A Laughing Place to go-ho-ho.
 笑いの国に行かなくちゃ
 Come on in, give us all a grin,
 にんまり前歯を見せてごらん
 And you'll find yours I know-ho-ho!
 ほうら 辿り着いたわよ!


 太陽は徐々に光線を振り絞るようにのぼり、透き通る蒼穹の中で、その存在感を高めてゆく。色とりどりのさつまいもの皮を素揚げしたような落ち葉をさくさく踏みしめながら、デイビスは隣にいるミッキーに訊いてみた。

「なあ、さっきから同じ奴の名前ばっかり聞こえてくるけど、誰だよ、うさぎどんって? お前、知ってるか?」

「うん、この郷に住んでいる、有名なチンピラだよ」

「もうちょっと言い方があるだろ」

「しばらくここに来ないうちに、妙なことになっていたんだなあ。うさぎどんがクリッターカントリーを出てゆくなんて、彼らにとっては、大事件だよ」

「おう、もっと詳しく聞きたいか、そこの人間の坊主?」

 いきなり鼻先まで飛んできた、団子のように太ましいマルハナバチに、今度はデイビスだけでなく、ミッキーまでぎょっとした。ここでは虫も喋るらしい。しかし、クリッと、どことなく愛嬌のある大きな目がついているあたり、虫嫌いのデイビスでも、まだギリギリ我慢のできるレベルである。

「ええっと——How-dee-doo?」

「おお、おめえも立派なクリッターカントリーの仲間だな。耳かっぽじってよく聞けよ。誰にも洩らしていないとくダネ情報だぜ」

 そうしてマルハナバチは、そっと差し出されたミッキーの指に止まると、その上をずんぐりと這い回りながら、一段とその羽を恩着せがましく震わせ、こう言った。

「こいつはほんの噂にすぎねえがな、このスプラッシュ・マウンテンにはな、ある日、激しい水流に乗って、有名な映画スターのウサギが迷い込んできたのさ。うさぎどんの奴ときたら、すっかりヘソを曲げちまって、家のドアに看板を打ちつけ、旅に出るGONE FOR GOODって決めたんだ。へへん、やっこさんの映画は、とうの昔にお蔵入りになっちまってるからな。内心、悔しくって仕方がなかったんだろ」

 デイビスとミッキーは、顔を見合わせて、同時に同じ結論に逢着する。

「その有名な映画スターのウサギって——」

「きっと、ロジャー・ラビットのことだ!」

「とうとう奴の短いシッポを捕まえたな。早いとこ回収して、あのウサギを、トゥーンタウンに連れて帰ってやる」

 ついに因縁の相手の手がかりを見つけたエディは、ぱしりと己れの拳を叩き、意気揚々と声を張る。するとマルハナバチは、ますますブンブンという蜂特有の呻き声をあげて、今度はエディの鼻先へと移動して、

「ほほーお、あんたが、あのモヒカンウサギの保護者ってえのかい。なら、急いだ方がいいぜ。奴はこのスプラッシュ・マウンテンで、とんでもねえ事態を引き起こすに決まってる」

「なんでそんなのがお前に分かるんだよ」

虫の知らせ・・・・・ってやつだ。俺を信じろ、宝くじだってよく当たるんだぜ」

「それじゃ、教えてくれ。肝心要のロジャーは、今、どこにいるんだ?」

「フフン、そんなこと、俺は知るかい。自力でこつこつと捜すしかないぜ。ぶんぶんぶーん」

 そう言い残すと、マルハナバチは、プリッと丸い尻を振りながら、自由自在の弧を描いて逃げ去っていった。その軌道を見送りながら、肩をすくめるミッキーとエディ。

「やっぱり、ロジャーはインスタント穴を通って、ここに流れ着いていたんだね。変ないざこざを起こしていなきゃいいけど」

「そうさな、面倒事になる前にさっさと見つけねえと、このエリアとロジャーは、あまりに親和性が高すぎる気がするぜ。一言でいやあ、その——ク——クレイ——」

「いいよ、エディ、クレイジーって言っても。実際、TDLで最も頭のおかしなテーマランドは、僕らの住んでいるトゥーンタウン以上に、このクリッターカントリーだと思うよ」

「えっ」

 沈黙を絡めて、エディとミッキーの視線がぶつかる。まあ、お互い考えていることは同じようである。

「……登ろうか」

「そうだな、とにかく登らねえことには、話が始まらねえし。まさか第一話目から、カオスっぷりが極まることもなかろう」

 自らに言い聞かせるように告げて、ふたたび、さくりと土を踏む。目指すは、煙突から煙の立っている中腹。多くの登山客が、そこに繰り広がる平和な郷へと至るのである。

 水しぶきの山スプラッシュ・マウンテンは、人々を螺旋状に山頂へと導く、低く緩やかな渓谷、湿度、勾配ともに実に多種多様な自然環境を誇っている。元は荘厳な米杉ウエスタン・レッド・シダーに覆われて穏やかな起伏を呈し、目に沁みるような緑が美しい、鶏冠の丘チカピンヒルと呼ばれる高原だったのが、とあるアライグマが密造酒作りに利用していた蒸留器の爆発によって、ビーバーの貯えていたダム水が一気に大放流となり、柔らかな土は一気に削り取られて切り立ち、地形の根底から変えられてしまったのである。ここに、古くより人間と動物が協力して住居を構え、人間は大規模な灌水や農業の技術を、動物は自然全般に関わるきめ細やかな智慧と文化を交換した。「人々が動物たちに近く、動物たちが人々に近い場所」——今、この郷に住まう人間は大きく減少し、動物の方が圧倒的な比率を占めているが、未だに両者の友好的な関係は変わっていない。はるばるやってきたゲストの暖かな歓迎っぷりは、その破天荒と言ってもよいほど楽観的な住民たちの気質にもまた由来するところであろう。かつては規則正しく、コツコツと季節に応じて働き者の暮らしを送っていた動物たちも、例の蒸留器爆発事件で全てが吹っ飛ばされた瞬間から、一切考えるのをやめた。そこで、明日は明日の風が吹く、をモットーに、気さくで剽軽ひょうきん、楽観的、そして隙あらば怠けようとする抜け目のない気風に舵を切ったのである。

 元々が肥沃な大地だ、少しの農作業と、冬眠の準備さえあれば、後は何の憂いもなく生きてゆけるので、一日中、朝も昼も夜も関係なく、どこか気の抜けるバンジョーと、土臭いハーモニカの絡みつく、あっけらかんとしたカントリー・ミュージックが、あちこちの窓辺からびよんびよんと奏でられていた。水源の栄養分は豊富で、清流からは実に新鮮な川魚が釣れ、シンプルに塩を振って焼くのも良いが、幾つかの木の実や干しきのこ、葡萄、蜂蜜とともに煮込むと、悶絶級に美味い。住民たちは、季節の変わり目には土を耕し、自らの肥やしを肥料として畠を育て、日なたの花に水をやり、庭をいじり、屋根の下にはしばしばニンニクやかぼちゃ、唐辛子などを縄に吊るして干していた。彼らはこれを持ち込んで、蝋燭入りのカンテラが灯る暗いトンネルをくぐり抜け、暖かな我が家の中で冬を越すのである。

 こうした朴訥とした生活が営まれているのは、何も地表だけではない。元は典型的な湿原ムーアであったため、柔らかな赤土と石灰岩で培われた岩棚には、数多くの巣穴が見受けられ、そこから通じる地下には溶岩洞が繰り広がり、よく音の響く鍾乳石や神秘的な地下川に至るまで、ざっと数百種は下らない生き物たちが棲みついている。これがスプラッシュ・マウンテンの内部を形成しており、いわばこの山は、表と裏の両方でもって、動物たちを養っていることとなる。穴倉や洞窟を身を寄せた暮らしは、地上よりもさらに興味深い様相ではあるのだが、残念ながら小動物用に作られたその入り口の狭さにより、人間たちはなかなか詳細をうかがうことができない。しかし真のクリッターカントリーの世界は、まさにこのほら穴を抜けた先に広がっているのだった。

 謎に満ちた地下世界を抜きとしても、クリッターカントリーの地上は、ディズニーランドの中でも極めて秋が似つかわしい場所である。春の山肌には白や紫のツツジが咲き乱れて一面に美しいが、この時期には揺れる葦とすすき、渓流や滝壺から立ちのぼる水の粒を燦爛と輝かせながら、まるで黄金の産毛のように静かに波打っている。あちらこちらにほつほつと、ロープで吊り下げられたり、岩の上に置かれている洋燈は、分厚いガラスにほっくりとした蒸し芋色を絡めて、今はその揺らめきに照りつける朝陽を透き通らせて、寝ずの番をする小動物たちの手で、蠟燭に火影が灯されるのを待っている。昨夜はカナブンの番だったので、夜が明けてようやく役目を終えた彼は、岩棚の上で落ち葉の枕を敷いて、日向ですやすやと眠っていた。朝まだきの山の清々しい精気に誘われて、風の中に漂ってくる生活の痕跡は、驚くほど豊饒な情報量を含んでいる。苔や栗の実を集めた香りに、削りたての樹皮の呼吸、桟橋に繋がれたボートの軋みや、肴籠びくに魚を入れる水音、畠を掘り起こすくわ・・、ピシリと細枝が落ちてくる響き、卵がまもなく割れる音、洞穴ほらあなからの生ぬるい風と、赤い格子柄のカーテン、洗濯されたエプロンの衣擦れ、それに——誰かがキッチンのドアを開けて、煙突から煙を吐き始めると、その湯気に混じるものは一気に、よだれの垂れるほどかぐわしく匂いたった。どこかの壺の中に煮詰められたプラムの砂糖漬け、ブルーベリーが弾けるマフィン、風味豊かなサフランケーキ、脂たっぷりの炒めたベーコン、燃えるような林檎酒、さっくりと切り分けられてゆくレモンパイ、バターを入れたお茶、オーツ麦のミルク粥、とろけるような蜂蜜、お弁当に持たされた熱いさつま芋、——それから、まるでそれらを郷中に運び、素晴らしい生命の洞窟が幾重にも幾重にもさざめきを震わせて広がってゆくかのように、あちこちから絶えず機敏な気配が聞こえてきて、その物音はひとときも休まることはない。姿は容易には見せないけれども、上に、下に、右に、左に、人間には聞こえない鳴き声で、くすくすと会話を交わしているのである。よく見れば、赤土に覆われた地面には小さな足跡があれこれと走り、井戸端会議をしたり、寄り道をしたり、居眠りしたり、大股で駆け去ってゆく様子が見て取れる。やがて足跡の吸い込まれてゆく先には、木のうろ・・の形にぴったりくり抜いて嵌め込んだドア、どんぐりの殻をランプにした入口、根っこに擬態して見過ごしやすい玄関などなど、スモールサイズのさまざまな家へと通じていた。その慎ましくもこぢんまりとした社会を覗き見て、デイビスも微笑み、はしゃいだ声をあげる。

「へええ、ちーいさな家がたくさんあるんだ。足跡もいっぱいついてるぜ、可愛いなあ!」

「見て、あそこの家には姫林檎の籠と、小さなウッドチェアが置いてあるよ」

「ははっ、あそこに座って、毎日ぼーっと夕陽でも眺めているのかな。クリッターカントリーでの生活も、なかなか気楽で良さそうじゃねえか」

 僅かな風を受けて落ちた松ぼっくりが、数度跳ねると、静かに坂道を転がってゆく。徹夜明けということも忘れ、童心に目をキラキラとさせて辺りを見回していたデイビスは、ふと振り返って、遙か後方にいる人影に声をかけた。

「おーい、エディ、何してんだよー! ちんたらしてたら、置いてっちまうぞ!」

「ひい、当然のことだけど、ずっと坂道なのかよ……」

「頑張れ、エディ。これで少しは痩せられるといいな」

 ぜいぜいと息を切らすエディの背中を押して、何とか登坂してゆくスコット。そばにいたアメリカモモンガが、ふと、すばしっこい足を止めると、

「あらあら、人間っていうのは、鈍臭いのねえ。リーマスおじさんだったら、こんなにノロノロとは進まないわ」

と、クスクス笑いながら駆け抜けてしまう。エディのストレスのボルテージが急上昇していったのは、言うまでもない。

 とはいえ、麓付近の傾斜は、それほどキツいとも言えず、子どもでも容易に登攀が可能なものである。山風に誘われるように枯れ葉がこすれあい、枝から剥がれ落ちた紅葉の洪水が、霏々としてそこここを飛んでゆく。どこか懐かしい、パリッと噛み砕けるほどに薄い蜂蜜キャンディに似た角灯が、べたついた反射光を地面へ黄ばませており、それらがやがて、カラメルを焦がしたような街灯に代わってゆくと、荒々しい岩の連綿と続く先に、景色が一挙にひらけてきた。そして、舞茸の如く房状に群がった幾つもの赤い岩棚を積み重ねて、頂上より、水飛沫で真っ白となった滝をしぶかせる山峰が現れる。デイビスたちは目を見張った。これこそが世に名高い奇妙奇天烈な山、スプラッシュ・マウンテンの姿である。そう標高の目立つわけではないが、滝壺付近の、無数の針を光らせて絡まる葡萄色の茨の茂みと、そこから赤土の露頭を剥き出しにして、ゴロゴロと巨岩が転がる中を急激に迫りあがってゆく孤峰は、とりわけ小動物にとっては大層な見応えがあろう。このスプラッシュ・マウンテンの最高点にずっしりと根を張り、青空へ向かって堂々と突き立つ、鶏冠チカピンそっくりの枯れ木こそが、この田舎の郷のシンボルである。蒸留機の大爆発によって真っ二つに引き裂かれたそれは、生命としては完全に息絶えたものではあるが、今も数多の微生物、それに惹かれた苔や小動物の棲処を提供し、豊饒な恵みの種となっているのだった。

 しかし、ここの生態系に最も寄与しているのは、鶏冠の枯れ木以上に、その周囲を徘徊するビーバーであろう。彼らの棲息する土地は、人間のそれに匹敵するほど大きく環境を変えると言われており、単なる川だけでは棲みつかない生き物も、ビーバーがダムを生み出して貯水することで、多様な渡り鳥がやってきて、栄養のある土が溜まり、植物がよく育つようになるのである。ラケッティの引き起こした爆発事件により、長年培われてきたここのダムは、見るも無惨に決壊してしまったがゆえに、巨大な茨の蔦に囲まれた滝の周囲には、鏡のように澄んだ湖がみなぎっていた。まだ朝早いせいか、周囲をうろつく人影もまばらで、ちょうど、観光には良い時間帯である。満々と湛えられた水上を、薄い朝靄が滑りながら広がってゆき、岩棚に草原を成している、柔らかな雑草の頭をそよがせる。鶏冠チカピンの陰翳と透明な光に揉まれて、滝壺から力強く跳ね散る水飛沫は、轟音を立てて煌めきながら、今まさに、この山頂を超える我々の頭上に、輝かしい太陽が微笑んでいることを祝していた。

「サイコーーーー!」

 デイビスが思いきり叫ぶと、スプラッシュ・マウンテンの中腹にぼうぼうと揺れるすすきから、入り組んで積み上げられた岩々に至るまで、あらゆる空間が響きを重ね、円やかな木霊となり消えてゆく。季節はまさに秋、豊穣と収穫の時期を迎え、大自然に満ち渡る雄大な息吹すら感じられた。

「ホーンテッドマンションとの落差が凄いなあ。いいぜ〜イイ! クリッターカントリーは、イイ!」

「朝の空気は気持ちいいね!」

「徹夜明けだけど、頑張って登った甲斐あったなあ。ぼーっとしてた頭も、スッキリ冴えてきたぜ!」

 体力も気力も充分なデイビスとは反対に、エディは湖の縁の土壁に縋りついて、げっそりとへばっていた。のどかな風景を呈する山道に、ミッキーやデイビスは大いにはしゃいでいる様子だったが、筋肉男のスコットはともかく、中年のエディには辛いものがあったのだろう。汗だらけの顔を真っ青な天に向け、太陽の眩しさに顔を顰めながらぼやいた。

「高低差の激しいエリアだな。中年男にゃあキツすぎるぜ」

「なんだよ、エディ、もうへばっちまったのか? 太りすぎだよ。もっと体を絞らねえと」

「うー、分かってらぁ」

 目の前をさらさらと揺れ動く涼しい水を見ながら、デイビスは腕を組んで溜め息を吐いた。

「スコットを見習えよ。冷たい山の清水にプロテインぶち込んで飲んでる奴なんて、あいつくらいだぞ」

「蛙になってた分、筋力が衰退した気がする。一から鍛え直さなくては」ゴッキュゴッキュ

「浴びるようにタンパク質を摂取する人だなあ」

 マグカップに汲んだ清水にプロテインを盛ってイッキ飲みするスコットに、さすがのミッキーもドン引きだった。それを羨望の眼差しと勘違いしたのか、彼は口元を拭いながら不気味な笑みを浮かべ、

「フフ、ミッキーもどうだ? 自分の肉体をいじめ抜いた暁には、私のような素晴らしい上腕二頭筋が手に入るぞ」

「う、うん。やめとくよ」

「プロテインが入ると本当面倒くせーんだよな、こいつ」

 それにしても、とデイビスは改めてスプラッシュ・マウンテンを見あげて、眩しさに顔を顰める。空は素晴らしく晴れ渡っていて、過ごしやすい気温が一日中続きそうである。新天地を散策するのに、これ以上に好都合な天気はなかろう。

「さーて、ロジャーの聞き込みを始めないとなー。さっきチェシャ猫が言ってた、三月うさぎの方角ってのは、ここらへんだったよな?」

「そうさにゃあ——ここだよ、こ・こ!」

 「「「「ウワーーーッッッ!?!?!?」」」」


 完全に不意打ちで降りかかってきた声に、ぎょっと飛びあがる一同。崖を掘り抜いたらしい、今にも岩に押し潰されそうな家の真上には、やはり、真昼のんびりと寝そべる肥った影が、真昼の三日月の如くにんまりと笑っていたのである。

「あっ、また出たな。チェシャ猫!」

「フ〜ン? 誰だと思った? ウサギだと——思ったの?」

「そんなことないけど——」

「ウフフフフ、もうすぐ、愛しのウサギにも会えるよ。この洞窟の中を、一番底まで降りてゆけばね」

 チェシャ猫はふたたび、箒のようにふさふさとした尻尾を回して、自らの横たわる家に掲げられた看板を撫で回した。瀟洒なフォントで、「Grandma Sara’s Kitchen」と書かれている。

「さあ、お入り、暗闇の中へ。愛しの白うさぎへの道は——きっと——もうすぐ——」

 まるで子守唄のように穏やかな口調で語りかけながら、今度はチェシャ猫は、瞬きひとつのあいだに、影も形もなくなってゆく。残された一行は、ぽつねんと、目の前の田舎風の店の外観を見つめるしかなかった。

「もー、なんなんだよ、あいつ。出てくるたびに寿命が短くなるんだが」

「ここは——僕の知り合いの、お婆ちゃんの家だ」

「えっ、本当?」

「うん、そうだよ。サラお婆ちゃんは、このクリッターカントリーで、一番美味しいお料理を作ると言われているんだ」

「よーし、そんじゃ、入ってみるか。ここに三月うさぎやら、帽子屋やらがいるのかなあ」

 点々と続いてゆく足跡たちに誘われて、こわごわと入り口のドアをくぐり抜けると、浴びせられる五感が一気に変わり、暖房とは一線を画する、まるで地底に守られているようなぬくもりが浸してきた。ゆったりと Tennessee Waltz が奏でられる中、食べ物の匂いが漂い、生き物の身じろぎをするたび、柔らかい風が空気を撫でて、この洞窟を満たしてゆく。それまで太陽の下を歩き回っていたデイビスたちは、少しの間、明度の落差に戸惑っていたが、やがて目が慣れてくると、そこはひとつの宇宙樹ユグドラシルのようなものなのだと感じた。二階の天井から、吹き抜けを通って、一階の底に至るまで、虚空の及ぶ範囲は驚くほど広く、地中を縦にくり抜かれた空間には、木の枝から吊り下げられた深いオレンジのランプが、五等星をちりばめたかのように光っている。しかしデイビスたちが圧倒されたのは、もっと根本的であろう、この洞窟の、複層に跨る存在感だった。体長六十インチ前後の人間にとっては、開放的な食堂に過ぎないかもしれないが、しかし動物たちにとっては、そこは何十階という多層世界が枝葉を伸ばして、すみずみにまで広がる大伽藍の住宅地にも等しい。それは何も面積に限った話ではなく、部屋の目立たぬ箇所をよく見ると、花柄を散らした可愛い扉が取りつけてあり、格子窓から中を覗き込んでみると、律儀にランプがついており、隅にはまたもやちっぽけな扉が散らばっている、という具合なのである。ミッキーの甲高い鼻声が、この洞窟を簡単に説明した。

食堂キッチン——兼——動物たちの棲家——兼——二階は一部図書館——希望者には、宿泊部屋も提供」

「はあ、すげえなあ。それで、グランマ・サラっていうのは、この洞窟のどこにいるんだ?」

「きっと、一階の厨房で、ケーキを焼いているはずだよ。まずは、彼女に挨拶しなくっちゃね」

 彼らは改めて、薄暗い内部を見回した。西部開拓時代の大地を感じさせる素朴な風合いは、アーリーアメリカン・スタイルで統一されているらしい。石灰岩の露出した天井には木組みの梁がめぐらされていて、バター・クリームを塗ったような漆喰の壁の上を彷徨う、ゲストの微妙な陰翳の濃淡の差が美しく、中央の大きな吹き抜けを取り囲むように、亭主の若き日の肖像画を飾った暖炉や、あちこちに備えつけられたフリルつきの調味料棚、それに、枝や切り株で手作りしたらしい写真掛けが、昔年の思い出を飾っていた。踏み締めるたびに軋んだ呻きをあげるフローリング板は、蜂蜜酒のように流れてくる蜜蠟燭の灯りを柔らかに吸い、全体的にほの暗いこの空間の底に、果敢ないほどの光線を浮かびあがらせている。吹き抜けの手すりから見下ろすと、そこにもまた、広い空間が横たわっており、夢のように人々の影がすれ違って、どのメニューを頼もうかとウロついていた。そして、上下階のどちらにも共通しているのは、腰に突き当たるほど数多くの椅子とテーブルが用意されており、食事している者たちはみな、鈍く輝くスプーンでシチューを掘り進めながら、音楽を妨げないくらいの声でさざめいているということだった。

 独特のしめやかな空気に包まれ、めぐるように螺旋階段を降りてゆくと、より一層、土の匂いと薄暗さが濃くなり、壁架けの写真から、クリッターカントリーの変遷をなぞった末に、ランプに照らされた階下へ辿り着く。このクリッターカントリーで建設会社を営むビーバー兄弟、クラレンスとブリュースターは、増築に増築を重ねていったが、最も初期に着工したのが、この一階部分であった。経験値の差のせいか、石やら木の根やらが飛びだしているこのフロアは、あちこちの採寸が足りておらず、何やら奇妙に歪んでいると思えるのだが、しかし女将は、長年慣れ親しんできたこちらの方にこそ愛着があるのか、幾つもの野薔薇の束を吊るし、ドライフラワーにするために乾かしたり、ずらりと壜の輝くワインラックを拵えたりと、居心地をよくするのに手間を惜しまないようである。多くの者の手に触れられて滑らかになった飾り棚は、丁寧に艶出しを施され、藁籠に積みあげられているみずみずしいザクロ同然にぴかぴかだったし、暖炉にはとろとろと火が入り、熱いミンスパイを焼いていて、壁から張りだした小さな梁には、カッコウが巣の外に落とした鳥の卵が、つやつやと大切に暖められている。ここにもまた、小動物たちの健気な息遣いが吹き流れていた。

 ミッキーは慣れた足取りで、レジカウンターの前をトコトコと歩いてゆき、

「How-dee-doo、サラお婆ちゃん。こんにちは!」

と奥の厨房へと声をかけた。するとまもなく、奥の棚に置かれた真っ黒な壺の陰の、ほんの小指サイズしかない扉が開かれると、中から小さな影が這いだしてきた。影はそのまま、スパゲティで渡された梯子をするすると伝ってゆくと、壁に吊るされているお玉の柄の上に次々と飛び移り、キャストの操作によって勢いよく紙コップへと飛び出してゆくコーラの滝を避け、籠から垂れ下がった玉蜀黍のめしべ・・・に掴まるなり、反動をつけて反対側のカウンターへとジャンプし、今まさに湯気をあげてトレイに配膳されようとするトマトシチューの影をくぐり抜けてミッキーの前に立つと、その尖った鼻先から放射状に生えている髭を、一斉にひくつかせた。

「あらあらあらあらまあまあまあまあ、よく来たわね、ミッキー! 遠いところをどうもわざわざ、ご苦労様。さ、座ってちょうだい。今、とびっきりのいいお茶を温めますからね」

 目の前に現れたのは、手のひらサイズ——よりもっと小さい、鼻眼鏡をかけ、水玉模様の頭巾を被ったジャコウネズミである。二十日ネズミであるミッキーと比較すると、どうもサイズ感が間違っているような気もするが、深く考察してはいけない。これこそが郷一番の料理名人として誉れ高い、サラ・マスクラット(注、かつてはマスクラットをジャコウネズミと翻訳していたが、実際は二つは全く別の生き物である)であった。

「随分とお久しぶりねえ。クリッターカントリーには、何か用事があって?」

「うん、僕たちはウサギを探しにきたんだよ」

「うさぎどんのこと?」

「違うよ、ロジャー・ラビットだよ。オレンジ色のモヒカンを生やしている、お調子者の白いウサギのことさ」

「モヒカン……? ああ、そういえばそんなウサギも、一度、うちに来たわねえ」

「「「「なにー!?」」」

 思わぬ手がかりを得て、一気に色めき立つ一同。その時になって初めて、ジャコウネズミのグランマ・サラはくいっと眼鏡の位置を直し、己れの何百倍という大きさの成人男性が三人、ミッキーの後ろに聳え立っているのに気づいた。

「まあま、ミッキーのお友達は、随分と大きなこと。そのまま雲を突き破っちゃいそうね」

「あんたから見ると、三体の巨人にしか見えないだろーな」

「それより、ロジャーのことを聞かせてくれ。あの下品なウサギは、ここに、何しにきたんだ?」

 グランマ・サラは困った様子で首を傾げると、つい先日の記憶に思考を馳せ、しずしずと語りだした。

「まだほんの昨日のことよ。随分と酔っ払った様子だったわねえ、やけにビクビクとしたウサギが、二階の窓から、ホーンテッドマンションの方を見下ろしていたの。すると、窓向こうに人影を見つけたのか、嬉しそうにエディ、と呼びながら手を挙げて——けれども、次の瞬間に大声で叫ぶなり、慌てて、逃げ去ってしまって。それっきりよ」

「ち、ちなみに奴は、去り際に、なんて叫んだんでえ?」

 ごくりと、喉を鳴らして先を促すエディ。グランマ・サラは腕組みをして、懸命に記憶を掘り返した。

「『うわあ、ミッキーだ! 僕を殺しにきたんだあ!』……だったかしら?」

「「「「………………」」」」

 容疑者の名前をきっかけにして、じとーっと、ミッキーに湿っぽい視線が集まる。ハッ、と硬直し、慌てて尻尾と両手を振るミッキー。

「おい、ミッキー。お前……」

「僕——僕、彼になんにもしていないよ!」

「怒らないから打ち明けてみろよ、な? 同じトゥーンタウンのキャラクターとして、覇権争いなんか勃発していたんだろ?」

「そんなこと、あるわけないよー!」と、尻込むミッキー。

「おい、デイビス、ねちねちとミッキーをいじめるな。問題なんかなかったと言っているだろ」と、突如乱入してきたスコット。

「それじゃあ何か、あんた、ロジャーの奴がデタラメ叫んだって言い張るのかよ?」とデイビス。

「ミッキーだって、嘘はつかん! 証拠もないのに勝手に決めつけるな!」とスコット。

「おい、坊主に兄ちゃん、喧嘩すんじゃねえ!! 他のゲストがこっち見てるじゃねえかー!」とうとう、エディの悲鳴が遮った。

 そこでようやく、周囲からの眼差しに気づき、穴があったら入りたい様子のデイビスとスコット。頭上で交わされる舌戦に困り果てて、長い尻尾をくしゃくしゃに絡まらせていたミッキーは、急に、ポン、と手を打ち鳴らして、

「あ、でも……ロジャーはそそっかしいし、もしかしたら、また何か勘違いしているのかも」

「ウッ、その可能性は大アリだな。あいつ、以前もそれで大暴走を引き起こしたしな」

「とにかく、三月うさぎと帽子屋に聞いてみようよ。彼らなら、何か知っているかもしれないよ」

 すると、それまで黙って喧嘩の様子を見守っていたグランマ・サラが、にっこりと笑って口を挟んだ。

「あらあら、ちょうどよかったわ、その二人は、もうすぐ始まるパーティーに参加する予定なの。彼らが到着するまで、ここで待っていたらどうかしら」

「え? パーティー? パーティーって、何の?」

「それは、始まってみてのお楽しみ。でも、期待していて、凄いごちそうを出す予定だから」

「ごちそう……」

 そう告げられた瞬間、その場にいる全員の腹の虫が鳴った。そういえば、ホーンテッドマンションに飛び込んで以来何ひとつ、マシなものを口にしていなかったのである。

「あらあら、うふふ」

「えーっと。すみません。できれば四人分だけ、先に何か食事を出してもらえると……」

「それなら、美味しい二色のオムライスはいかが? おほほ、有名なシェフ・レミーにレシピを教わったの。今からソースを作るので、ちょっぴり、時間はかかるけど」

 早速、グランマ・サラはすちゃ、とオーダー表を取りだすと、ドリンク付きのスペシャルセットの欄に、Tallyの棒を四つ書き加えた。頭上から垂れ下がっている、どんぐりをくり抜いて作ったランプが、手元の表を、柔らかな琥珀色に照らしている。

「これでよし、と。十五分ほどお待ちになって。じっくりコトコト、愛情こめて煮込みますからね」

 と言って帰ろうとするグランマ・サラの尻尾をつまんで、スコットが重ねて問いかける。

「失礼ながら、ついでに。どこか一室、空いている部屋はあるかね」

「えーえ、どこでもお好きなところをどうぞ、お構いなく。誰も使っていなければ、ですけど。おほほほほほほ」

「では一緒に、薬箱も。このボロボロの頓馬には、手当てをしてもらわなきゃ困るんでね」

「今、頓馬ってほざいたよなぁ、スコット?」

「キャストルームにありますから、自由に持っていってちょうだい。お気遣いなくぅ」

「エディは……ダメだな、ありゃ。しばらく寝かせておいてやろう」

 振り返ったスコットは、完全にエネルギー切れとなったエディを見つける。徹夜明けに山道で相当なダメージを受けたのか、早々に食堂の隅のテーブルに倒れ込んで、スウッと透き通る魂を手放していた。

 一方の最も若いミッキーは、疲れなど知らぬ様子で、元気にぴょんとぴょんと跳ねる。

「僕は目が冴えてきたよ!」

「ん……それなら、サラお婆さんの料理を手伝ってやれるか、ミッキー?」

「うん、もちろんだよ!」

 と元気よく答えたものの、ミッキーはその場から動かず、尻尾をチョロつかせながら、何か忘れちゃいませんか? という目で待っている様子だった。その期待を察したスコットが、同じ目線までしゃがんで頭を撫でてやると、ようやくミッキーはにこっと笑って、嬉しそうに尻尾を振りながらキッチンへと吸い込まれていった。

「さあ、行くぞ、デイビス」

「おい、あんたは厨房の方を手伝わねえの? 良いご身分だなー」

「ああ。一度お前とは、大事な話をせねばならんからな」

「あ?」

 ドアノブを回し、適当な宿泊室に入ってゆくデイビスについてゆきながら、ぽつりとスコットが漏らす。話って、何の話だよ、と訊ねかけたその時、ばたんとドアを閉まる音が響き、居心地の悪い沈黙が部屋を満たしてゆく。そして息苦しいほどのこの圧迫感には、何度か覚えがあるものだった。

 も、もしかして、俺に説教をしようとしてんのか、コイツ?

 デイビスの顔からさっと血の気が引いてゆく。CWCでコンビを組んで以来、やれ始末書の提出が遅いだの、勤務態度が悪いだの、禁煙の場所で吸うなだのと、この男が説教を始めたら、くどくどと過去の事例にまで摘発が及び、優に三十分は身じろぎもままならないことは周知の事実である。しげしげと目新しそうに部屋の内装を見回しているスコットを横目に、そ〜っとベッドの上へ薬箱を置いたデイビスは、引き攣った笑いを貼りつけながら、ドアの方へそそくさとカニ歩きをしていった。

「わ、悪いなー、スコット、ちょっと野暮用を思い出しちゃって。そんじゃ、俺は、このへんで……」

「初めて訪れた地に、いったい何の用があるというんだ?」

「うぐっ」

 スコットは腕を伸ばすと、問答無用で、踵を返そうとするデイビスの首根っこを捕まえた。ずりずりと引きずられる彼の目の前へ、天井からぱらぱらと土が散ってゆく。

「うううううううううううううう」

「治療しにきたんだろ? とにかく、座れよ。邪魔するつもりはないから」

 そう言われては抜け出すことも叶わず、デイビスは仕方なしに、こわごわとベッドの端に腰掛けた。ドアを閉じ切っているせいか、室内は停滞した空気で濁っているように感じる。スコットは腕組みをしたまま、テーブルの上に飾られたマスクラット一族の写真に目をやり、こちらを見ようともしない。なるべく視界に入らないようにと、慎重に気配を殺して、ぺり、とキズパワーパッドの剥離紙を剥がそうとしたその時、ようやく、スコットが顔をあげると、

「デイビス。もっと早く言うべきだったとは思うが……」

「なななななななななななななななななななななななんだよ!?」

 追い詰められた虫の如く、即座にザザザッと壁まで後退しながら、全力で応答するデイビス。それを見たスコットは、どこか避けられた人間のように傷ついた顔をしながら、一瞬、口を閉じた。それから瞼を伏せると、おもむろに、

「悪かったな。お前に、随分と無茶をさせて」

と呟いた。

 ……いち、に、サン、少しの間待ってみたものの、それ以上に話題が展開されることはなく、デイビスは数度瞬きをして、拍子抜けのように膝を崩す。

「な、なんだよ、突然気持ちわりーこと言うヤツだな。んなことでわざわざ謝んなくていーよ」

「だが、日常生活で負うレベルの傷じゃないだろ」

「オイオイ、別に、あんたに刺されたわけでもないんだし———」

「私が負うべきだった。まだ二十代の人間が、そんな風に傷つくものじゃない。申し訳なかったと思っている」

 こちらを心配する、というよりは、寧ろ自分を責めたがるように苦々しく呟く様に、違和感を覚えざるをえない。違和感——というよりは、疑問に近いものだが。

 自分が負うべき傷だった、とはどういう意味だろうか。それに若い、とは、彼にとってなぜそれほど重要なのだろう? なるほど、確かに自分は十ほど歳下であったが、すでに成人し、社会人としての年月も短くない。たった十年の差が、そう簡単に、人の責任の重みを変えるものとは思えないが。

 デイビスは迷ったが、変に問い返すのを避けて、窓からテーブルの上を温めている、朽葉色の陽光の柱にぼんやり目を向けた。茫然と時間を固めたようなその光は、舞いあがる埃を孕んで、生まれたばかりの産毛のように見える。

「誰がどうのの話じゃねえよ。俺たちは、相棒だろ? お互いのために何をすべきかなんて、俺たちが一番分かっているさ。それに———」

 茫漠たる陽光を見つめながら、デイビスは言葉を切ると、少しのあいだ沈黙した挙句、ぽつりと低い呟きを付け足した。


「———あんただって、俺たちの見えないところで闘ってくれたんだろ。唇、切れてるぜ」


 そこまで言われて、スコットは初めて気づく。そういえば、暗闇に包まれたあの占い部屋で、頭をテーブルに打ちつけられた衝撃で傷つけたはずだったが、デイビスに指摘される今まで、すっかり忘れていたのである。

(闘った?)

 スコットの胸を、ちらと思考が過ぎる。

(そんな高尚なことはしていない。私はただ——あの男に、自分の心を見透かされたくなくて)
 
 それきり、石のように黙りこくるスコット。彼がそれ以上話を続ける気もなさそうに思えたので、デイビスの方は、ほっとした。僅かに緊張感の緩んだ部屋に、湯気に包まれたような声が、キッチンから滑り込んでくる。あの広大な吹き抜けの空気が、声を根本から拡張させ、ここまで響かせるのだろう。

「わああ、とっても美味しそうだね!」

「シーフードクリームとカニトマトソース、どっちが好き?」

「どっちも!」

 微かな空気の流れに乗って、ほんわかと、暖かい匂いが漂ってくる。洞窟の厚い壁に包まれたこの空間では、微かな肌寒さで強張っていた全身も、溶けたバターの如く弛緩してゆく。

「だとさ。デイビス、さっさと手当てを済ませろ。俺は熱々を食いたい」

「ちぇー、好き放題言いやがって」

 しぶしぶ、ベッドに薬箱をひっくり返して、散らばる薬の中から軟膏を手に取るデイビス。スコットは、淡々とこなされてゆく手当ての様子が面白かったのか、興味深そうに眺めていたが、とりわけ深い腕とふくらはぎの矢傷については、早々に目を逸らすばかりだった。血は苦手らしい。

「うわ、やべー、見てよコレ。ちょっと腫れてるよ」

「貴様の汚い足なんぞ見たくもない。ましてや傷口など、ただ痛そうに思えるだけで……」

「だいじょーぶだいじょーぶ、痛いのには慣れてるんだぜ、俺って! はは、昔っからやりたいほーだい美人に手を出してはさ、掻っ攫われた男に、ボッコボコにされてきたから!」

「」←ドン引きするスコット

「おかげで回復力も鍛えられたしさ、このくらいはかすり傷にも入んねえや。へへ、ラッキーラッキー!」

「」←聞いたことを後悔するスコット

 ペラペラと要らぬことを語りまくるデイビスの、思った以上の放蕩具合に驚いたのか、目を真ん丸に見開いたまま、壁際をずり落ちていった。最近の若者って、みんなこうなのか? とてもじゃないが、私はついてゆけん。

「クズだな……(ぼそ」

「あ゙あ゙?」

「おっと、すまない。つい、ぽろりと本音が」

「今さら口を押さえても、もう遅いよ」

「軽薄な体質が変わってなくて呆れた。筋金入りの助平野郎だ」

「だって見てみろよ、国宝級の顔だろー? エロスの伝道師として平等に愛を振り撒かねえと、世の中にあふれる女の子たちが可哀そうだから——」

「誰かに、殴られたかったのか?」

 ふと、デイビスは顔をあげて、穏やかに自分を見下ろしてくるスコットの目を見つめた。それから僅かな間を置いて、躊躇しながらも、その首を横に振った。

 スコットは目を細めて包帯を見ていたが、やがて瞬きをすると、世の常識を諭すように静かな口振りで、

「お前は本当に馬鹿な奴だな。痛みになんか慣れてはならない。武勇伝にもしてはいけない」

「なんだよ、やっさしーなぁ、スコット。心配してくれてんの?」

 ヘラヘラと茶化すように笑いながら包帯を締め直したデイビスは、その言葉の続きを、息をひそめて待った。スコットは、紙箱から引き抜いた煙草を唇に咥えると、

「さて、どうだかね」

と壁に凭れたまま天井を仰ぎ、火のついていないそれを、いつまでも子どものように上下させていた。







「「「「いっただっきまーす」」」」

 全員が手を合わせ、趣深いランプに照らされてテラテラと底深く光るテーブルの上で、戦争のようにオムライスを掻っ込んでゆく。しばらくはめいめいが無言でカロリーを取り込むと、一緒に、気力までもがみるみる復活してゆくような思いがした。広いがその薄暗さにより、洞壁に囲まれていることを感じざるを得ないためか、必然、周囲の会話はぼそぼそとした内緒話に近い声量に抑えられ、暖炉に始終薪がくべられていることもあって、まるで夢に包まれているように心地よい。やがて腹が満たされてきたのか、頬にご飯粒をくっつけたデイビスは、スプーンを持ったまま、こっくり、こっくりと舟を漕ぎ始める。見かねたスコットが、そっと肘で小突いて、

「おい。寝ながら食うなよ」

「ハッ」

「気持ちの良い室温なのは分かるが、食い物を喉に詰まらせても、私は助けてやらんぞ」

「へえ、坊主、今日も兄ちゃんに怒られてんのかよ」

「毎日だよー。俺にいったい、何の恨みがあるってんだよー」

 しょぼついた目を擦すり、ふらふら揺れながら、スプーンをパクリと口にするデイビス。一方、隣のスコットは、好物のオムライスだというのに、なんとなく食欲なさそうに卵をスプーンをもてあそんでいる。その眼差しはどこか遠く、鈍くニスを反射させているテーブルの木目を見つめていた。

(こいつ本当は、何か俺に言いたいことでもあんのかなあ。さっきも大事な話って前置きしてたくせに、なんとなく、はぐらかされちまったような気がするしな)

 眠い頭でぼんやりと考えていると、目の前のミッキーがオムライスを掬って、ぐいぐいとスプーンを押しつけてきた。

「デイビス、よそ見しないで、ちゃんと食べてちょうだいね。僕が一生懸命作ったんだもの!」

「わーった、やめろやめろ。窒息する」

「おいしいかい?」

「おー、うまいうまい。お前シェフになれるぜ」

 そこへ、グランマ・サラが、旦那との二匹がかりで、四杯の泡立つジョッキを載せたお盆をちょこちょこと運んでくる。

「これは、ザカライア(注、サラの夫)からのおまけ。ルートビア、サービスしとくからね」

「ほーお、ルートビアかあ。俺ぁ、ほとんど飲んだことねえなあ」

「ワーア、僕も初めてだ!」

「じゃ、せーので飲んでみるか。みんな、取っ手を掴んで——」

 と、デイビスの掛け声で、ぷうんと甘い薬草臭の漂うジョッキを一気に口の中へ傾け、

「「「「うっ」」」」

 一斉にノーコメントで下を向き、口を押さえながら、悶絶を耐え忍ぶ。色々と舌に合わなかった模様である。

「な、なんでえ、一体何が入ってるんだこれは?」

「サルサパリラの根っこ、リコリス、ヴァニラ、サッサフラスの葉、コリアンダー、樺の木、シナモン、ホップ、蜂蜜、エトセトラエトセトラ」

「し、湿布の味がするよう」

「なんでこんなキョーレツなもん飲んでるんだよお」

と散々なコメントが飛び交う中で、スコットだけは無頓着に首を傾げて、

「なんだ、みんな、そこまで口に合わないのか?」

「「「えっ」」」

「? 割と体に良さそうな味だと思うが……」

 グビグビ、と一人爽快な音を立てて飲むスコットに、他の全員が半目になって彼を見る。

「おいてめえ、正直に言えよ、ぜってー無理してんだろ。俺には分かる」

「馬鹿っ、お前とは違うんだ。こんなくだらんことで意地を張るか」

「ほー、そういうなら兄ちゃん、俺のも飲んでいいぜ。ままま、遠慮せず、グイッといけよ」

「僕のも」

「俺のも」

「オイ、炭酸なんだぞ。ジョッキ四杯も飲めるわけないだろうが!」

 三方から突き出され、ずらりと目の前に並ぶルートビアに、スコットが悲鳴をあげてテーブルを殴りつけた瞬間、堪えきれなくなったのか、ミッキーがくすくすと笑い始める。

「Ha-hah! みんなで口にいっぱい泡をくっつけて、こんなことをしているだなんて、なんだかおかしいや。みんな、小さな子どもみたいじゃないか!」

「ば、ば、ばかっ、ガキはお前たちだ! いついつまでも好き嫌いなんかするんじゃない!」

「ハッハッハッ、この中でちゃんとした大人ってえのは、兄ちゃんだけだな」

 実に無邪気に発せられたその言葉に、ばつが悪そうに顔を赤くする——深い色の肌のため、見た目は変わらなかったが——スコットと、ニヤニヤしながら水の入ったコップを煽るエディ。洞窟特有の、柔らかな温もりを感じていたデイビスは、その時不意に、不思議な感覚へと溶け入ってゆく心地がした。なんだろう、ふと時間が息を止めたような、この感覚。流れゆく時のねばりすら、耳元で聞こえてくるような。そういえば、遠い昔、自らの幼年期だった頃には、こんな深い想いに囚われながら、目の前で食事する、母や父や妹を見つめていた気がする。噎せるほどに濃い空白の中で、家族とはこういうものなのだ、と言葉にならない安心感を味わっていた、何気ない日々。……このディズニーランドで誰かと食事をしていると、なぜだろうか、あの時と同じような切なさ、そして儚さが、風のようによみがえってくることがあるのだ。

 目の前で、仲間たちが他愛もなく会話するうつつと、もうここには存在しない幻とが、二重映しになる。あの、秋の蒼穹の下、スコットと静かにワッフルを食べた朝。酒場の屋上で、ゆきずりの人間たちと大騒ぎをしながら、輝くシンデレラ城を眺めた夜。ミッキーの家で、勘違いの産物たるチーズティーを口から噴き散らかしたり、こびとたちの家で、白雪姫を迎えるための温かいスープを作ったりしたあの時間は、今はこの薄暗い洞窟の中では遠く、二度と手に入らない泡のように消えてゆく。いつのまにか、思い出になってしまった——まだ旅も終わりが見えないというのに、さまざまな記憶だけが胸をよぎり、すでに過ぎ去ってしまったものは数多い。

 そしてデイビスは気づく。彼らとこうして何気ない時を重ねられるのも、ほんの束の間だけなのだと。自分はミッキーと一緒に住んでいるわけでも、スコットと家族なわけでも、エディと人生をともにするわけでもない。やがて夢の終わる時刻になれば、ここにいる仲間たちと手を振って別れ、数限りない黄金の明かりを背にして、それぞれの日常の中へと戻っていってしまうのだろう。だからこそ、終わらないでほしいと願っている。永遠に明日のやってこないふりをして、夜でも遊び回る子どものように、何もかもが、何もかもが変わらぬようにこの時間を結晶化してしまいたかった。……けれども生きる以上、それはけしてできないことなのだということも分かっている。身動きの取れない今はただ、過去も、未来も、すべての時間が、ここに溶け込み続けるだけだった。


「———こうやってみんなで一緒に飯が食えるのも、幸せなことなんだよな。……ディズニーシーに帰っても、俺、きっと忘れないよ」


 万感の思いを込めて、デイビスは低い声でつぶやいた。まるで、それを口にすることで、胸に秘めている本当の願いの代替とするように。すると、エディもミッキーも、まるで花のほころびるかのように静かに微笑んで、

「ああん? 何そんな先のこと言ってんだ、坊主。遠い未来のことより、さっさと、目の前のもんを片付けやがれ」

「そうだよ。そこに避けてあるプチトマトも、残さず食べてよ」

「(……とことんドライな奴らだなあ)」

 思った以上に塩味の対応に、センチメンタルな感情にはぱたぱたと羽が生えて、どこかへ飛び去ってゆく。恍惚と物思いに耽っていた自分が、ちょっと恥ずかしい。

 スコットは椅子を引くと、おもむろに立ちあがりながら片手を挙げた。

「悪い。少し手を洗ってくる」

「おー。スコット、残ってるオムライス、食わねえの?」

「ああ、腹減ってるなら、お前たちで食え。あまり口をつけていないから」

「ヒョーーー、お前ら、山分けだぜ! おい、がばっと独り占めするなよ。ひとさじずつ、順番に取ってくんだぞ」

「…………」

 ことごとく貧乏っぷりを見せつける自らの相棒の言葉に、スコットはなんだか情けない気持ちになった。一緒にいるとこっちまで貧乏人の匂いが染みつきそうで、ひとまずぱたぱたと風を送る。

 トイレのドアを押して、清潔なハンカチで手を拭きながら出てくると、遠くから、

「あっはっはっは!」

と吹き飛ばすような笑い声が聞こえてくる。姿を確かめる必要などない。二年間、毎日聞き続けてきた声だった。それを耳にしているうちに、いつもは頑なに引き結ばれているスコットの唇の端に、見えるか見えないかほどの微笑が浮かんでいたが、やがて無言のまま踵を返して反対側のドアへ向かうと、そのまま仲間の元へは帰らず、外に出た。

 秋一色だった。ざあっと葉擦れを集めて、まるで黄金の玉をばらまいたような木漏れ日が降りそそいでくる。洞窟の温もりを吹き消すようにあざやぐ風、その香りを嗅ごうとした瞬間に、皮の突っ張ったように鋭い痛みが、口の下の方を走り抜けた。

「痛っ……」

 唇を切った箇所が、染みたのだろう。軟膏でも借りればよかった、と少しばかり後悔したものの、表面に僅かに血が滲もうが、風に痛もうが、何かが変わるわけでもない。ゆっくりと赤土を均した階段をあがりながら、ふたたび、スプラッシュ・マウンテンへと向かう山道へ辿り着くと、人数を増してきたゲストたちが、楽しそうに落ち葉を踏み締め、動物の足跡の写真を撮っていた。その人波の声に耳を澄ましながら、スコットは何気なく、自らの右手を見る。その人差し指の先は、柔らかな血が固まっただけで、まだ傷は塞がっていなかった。あの占い師のタリスマンの牙がつけた、人差し指の咬み傷——デイビスは、目につきやすい方に気を取られて、こちらの傷は見つけられなかったのだろう。しかし本当に重要なものは、容易に触れることのできない領域にあるのだ。そして、それを抱えたまま漫然と過ごす日々は、もう終わりにしなければならない。

 胸に込みあげてくる感情を押し殺して、スコットは拳を握り締めた。


 あいつとは、話さなければならないことがたくさんある———


 まだそのうちのひとつも口にできたことはなかったが、けれどもいずれはすっかり、腹を割って打ち明けなければならない。ミッキーに呼ばれて、偶然彼と行動をともにすることになった旅ではあったが、内心では、こうして多くの時間を与えられることについて、半ば、運命に近いものを感じていた。こんなにも彼とじっくり言葉を交わす機会は、この先の人生に、もう二度とやってきはしないだろう。しかし、常ではありえない時を分かちあい、楽しそうにディズニーランドを見回しているデイビスの姿を見ると、ふと、焦げるような感覚が胸を灼き、用意していた言葉が掻き消えた。どうしても言えない。そして押し黙っているうちに、心の中に不思議なまでに静謐な風が吹いて、置いてゆかれる気がする。人々の話し声だけが満ちる、がらんどうの、あの場所へ。

 ———頼れる相棒? 優しい父親? 違うね……本当のお前は、足掻いても足掻いても十も下の若造にすら追いつけない、無様で、滑稽で、人一倍弱さを渦巻かせている男。

 風が流れた。土と、薄い松の香りがした。小高い赤土の岩に手をついて上に腰掛け、一段高くなった場所から崖に向きあうと、多くの落ち葉をたゆたわせるアメリカ河の縁に高架橋をかけて、宙にカーブを描いてゆく線路が見えた。非常に旧式で、高く木材を組みあげた上には単線が敷かれ、軌条の光る鉄筋が、陽光を浴びる周囲の枝枝に馴染んでいる。背後の動物たちの世界とは違い、紛れもなく、これは人工の創造物だった。エリアとエリアを隔てる木製のその道は、光に照らされて、音もなく温まっていた。

 その枕木に溜まった枯れ葉が、小さく震えた。彼は顔をあげた。遠くから、鐘の音が聞こえた。崖から崖へと横倒しになった樹の下をくぐり抜け、おもむろに近づいてきたのは、真紅の車体を陽射しに煌めかせ、白煙を吐きつらねてゆく、テンダー式の蒸気機関車である。艶のある車体には次々と樹々の影が映り込んでゆき、車体の前面は風を切って、小さな緑の旗が翻る。炭水車の側面には、黄色に青い影を帯びた車体番号が燦然と輝き、柔らかな笑顔で通行するゲストに手を振る機関士、乗客たちは屋根から顔を突き出して、蒸気が噴きだす爆音に鼓膜を震わせながら、流れゆくクリッターカントリーの景色に見とれていた。その中で一人、小さな男児が、彼に向かって、手を振っていた。彼は一瞬、目を見開いた。走るにつれて、枕木がごとごとと揺れ、秋の底から、真紅が、沁みるように鮮やかに照り映えてくる。男児の手には、その幼い体には大きすぎる、ポップコーンバケットが握られており、感動で大きく開かれたその二つの瞳は、今まさに出会うものすべてを吸収しようとして、世界の新たな光景に心を奪われていた。

 輝かしい鐘が前後に振られて、まるで、彼の心臓を直接、槌で響かせるようだった。子どもは、もう次の面白いものを見つけて、甲高い声で盛んに母親に喋りかけていた。機関車は、大きくうねる線路に沿って、右手に曲がった。乾いた枯れ葉が空に揺れ、宙を震わせてゆく汽笛が遠ざかった。スコットはしばらく、機関車の消えた先を見つめていたが、やがて秋風に震えるように、その肩がすぼめられ、小さくなっていった。




 一方のデイビスはといえば。

「もー、どーなってんだよ、この家の作りは。トイレはどこだあ?」

 完全に迷っていた。ビーバー兄弟が気ままに拡張していった間取りだったために、薄暗さとも相まって、なかなかに迷宮然としているのが、このレストランである。がしがしと頭を掻きむしりながら、洞窟内をウロウロしているうちに、足元の岩を照らしだす白い光が漏れてきて、薄闇へ射し込んでくるそれに呼ばれるように、外へと踏み出してみる。先ほどまで遠ざけていた陽光が、滲むように鮮やかな秋の筋雲を支える光線となって、たんぽぽの綿毛とともに吹き抜けてゆく。溢れんばかりの自然の香りが、鼻を撲った。ざわめく葉擦れや、舞い落ちる枯れ葉、卓を守りつつ打ち震えるパラソルの下で、スプラッシュ・マウンテンからの渓流を間近まで望むテラス席には、淡やかな柵の影が地面に落ちて、静寂に包み込まれていた。

 まだ午前中だからだろう、人の影は皆無で、絶え間ない水音が鼓膜の底を叩くばかり。時折り、遠い記憶を呼び起こすような汽笛と、次第に接近しながら繰り返されるピストンの金属音、枕木を揺るがす重厚な震動にまみれて、絶えず気筒から吐きだされる蒸気の圧力が、2-4-0で配置された車輪を目まぐるしく回転させ、機関車の車体ごと運び去ってゆく。ポート・ディスカバリーに張りめぐらされている、電動式のエレクトリック・レールウェイとは違って、もう数百年も前の旧式だ。

(スコットの奴、黙って単独行動取るなよなー。ホーンテッドマンションであれだけはぐれまくったのに、あいつだけ、ちっとも反省していやしねえんだから)

 イライラを踏み締める足に込めて、トントントン、と赤い粘土を固めた階段を登り、地上へとひょっこり頭を覗かせてみると、スプラッシュ・マウンテンに向かう人々の影の向こう、こぶだらけの木の根が突き出ている岩の積み重なる上に、見慣れた姿が見受けられるではないか。その人物は一人、まるでビーチのサマーベッドにでも寝転がるように岩に寄りかかり、優雅に長い足を投げだしているのである。

(な、なんだあ、あいつ。なんであんな岩の上に登ってるんだ?)

 子どもでさえあんな危険な場所へは登らなそうに思えるものを、いつも落ち着き払ったスコットにはあるまじき光景だった。ひょっとして、山の向こうの景色でも眺めて、ひとりで黄昏てんのか? うわー、あいつもそんなことするんだな、うぷくくく、とデイビスは笑いを押し殺した。足音を抑えて、こそこそと忍び寄ってゆくと、デイビスはにんまりと嫌な笑いを浮かべ、驚かせるために大きく息を吸った。そして、その途中で、動きが止まる。息を奪われるように、デイビスはその場に立ち尽くした。

 晴れ渡る蒼穹。透明な秋の陽射しを浴びて、そのカカオ色の頬には、薄く、光るものが伝っていたのである。

「……な、泣いてんの? スコット」

 馬鹿、と心の中で叫ぶ声がした。なぜ話しかけてしまったのだろうか? そっとしておけばよかったものを。

 自分の名を呼ぶ声で、スコットは我に返り、自分を見あげているデイビスを目に入れた。風向きが変わるように、ふっ、と一瞬乱れた息は、確実に、嗚咽を押し殺したものだった。だが次の瞬間に降ってきた声は、いつも通り平静で、ぶっきらぼうとも言えるくらいの声色だった。

「何でもない。ライターを貸せ」

 その言葉に躊躇しながら、ごそ、とポケットをあさって、指に触れる冷たいそれを手渡すと、スコットはそれをつまみあげ、彼に一瞥を送ることもなく、火をつけると、溜め息のような一服を漏らした。それでおおよそは、気が済んだらしい。手元にちらと目を落とすと、手の中にあったライターをいきなり、投げて寄越した。

「どーも」

「わっ」

 ぽい、と放り捨てるような適当さで落とされたそれを、慌ててキャッチするデイビス。いつもなら喧嘩腰で怒鳴るところだが、この時ばかりは、何も言えない。まるで彼の心も、虚空へと投げ捨てられたかのように思えて。

 立ち去るべきか、そばにいてやるべきか決めかねて、デイビスは困惑しながらもそこに佇むしかなかった。静かな、危うい空気を鳴動させて、アメリカ河から、機関車とは別の長い汽笛が流れた。やがて、真っ白な蒸気船が動きだすと、外輪に掬いあげられた水飛沫は光の滝のようにきらめき、深い川の上に広がってゆく曳航の余波を残していった。遠く、鷲の張り裂けるような声が、地平線へと消えていった。

 やがてスコットは岩に手をつくと、足を伸ばして、地面に降り立った。そして、まだ火のついていた咥え煙草を、自分の携帯灰皿に押しつけて揉み消す。デイビスはおそるおそる、彼の表情を窺いながら囁いた。

「大丈夫か?」

「ああ」

 スコットは俯いたまま、とん、とデイビスの胸許を拳で小突いた。それから、彼の目を見ることもなく、

「昔のことを思い出しただけだ」

と、ぽつりと言った。




「……で。これはいったい、何の儀式なんだ?」

「あっ、スコット、デイビス! 困っているんだよー!」

 さて、彼らがグランマ・サラのキッチンに戻ると、様相はすっかり様変わりして、予想もしていなかった光景が広がっていた。ちょっと目を離した隙に準備を整えたのだろう、洞窟の一際大きく開いた空間には、幾つものテーブルを繋げて、長々とひとつらなりに並べられており、少し黄ばんだテーブルクロスの上には、実に色とりどりのポットの群れが、天井まで真っ白になるほどの蒸気を噴いて、騒々しい音楽を奏でているのである。天井からは、世界観にそぐわない杏色と蜜色の紙提灯が数多く吊り下げられ、ポットの音楽に合わせて陽気に点滅しつつ、真下に行列を作る幾十ものポットの艶を、さらに鮮やかに滑らせている。そして、そのうちのひとつを持ちあげると、そそぎ口からほとばしるお茶をティーカップへそろそろと流し入れながら、宴席の片隅でクダを巻いている人物がいる。紛うことなき、それは彼らの旅仲間のうちの一人である。

「ちくしょうめ、ロジャーの野郎、どこまで迷惑をかけやがったら気が済むんだ! ひっく、あいつの長い耳を輪ゴムで束ねて、ちょん切ってやる!」

((もう酔ってる!!))

 焦点をあやふやな方向に飛ばしながらカップを煽るエディを見て、デイビスとスコットは、ゾ〜ッと背筋を凍らせた。慌てて、横でオタオタとしているミッキーを捕まえ、素早く耳打ちする。

「お、おい、ミッキー。いったいどういうことだよ、これは?」

「エ、エディがここに置いてある紅茶を飲んだら、あっという間に酔っ払ってしまったんだ!」

「ンなわけあるかよ!」

「だって実際、そうなんだもの!」

 ミッキーの哀しげな訴えを聞いて、デイビスもスコットも、テーブルいっぱいに用意されているお茶の中身を見た。縁の欠けたティーカップを満たしているのは、ポッポッとリズミカルに湯気を吐いたり、茶葉占いのお告げを浮かばせていたり、とにかく自然界ではありえない謎の液体ばかりである。

「な、なんだあ、これ? エディはこんなの飲んだのかよ!?」

「しかも、変な匂いがする。これ、本当に紅茶なのか?」

「わ、分からないよ。あそこにいる二人が大量のポットを持ち込んで、このレストランをあっという間に、パーティー会場に変えてしまったんだ!」

「はあ?」

 ミッキーの指差す方向を見ると、もくもくと立ちのぼる煙の彼方で、確かに、互いのカップにお茶をそそぎながら、大騒ぎしているふたつの影が透けて見えた。そして、聞こえてくる奇妙な歌声——何か焦燥を煽るというか、ある意味では実に遊園地らしい、目の回る・・・・ようなゆめゆめしさに溢れた旋律だった。デイビスもスコットも息を殺して、その先のシルエットに目を凝らした。


   ♪なーんでもない日 ばんざーい!

 ♪ぼくの!
    ♪誰の?
               ♪ぼくの!
            ♪君の?

   ♪なんでもない日 ばんざーい!

   ♪君の?
 ♪おれの!

         ♪そうだ!
              ♪おれだ!

 ♪乾杯しよう 祝おう おめでとう!


      ♪なーんでもない日 ばんざい!


   ♪ヤッホー! ヤッホー!


 ぽかんと立ちすくんだデイビスとスコット。最初から最後まで、まるで意味が分からない。

「……どーいう歌なんだ?」

「さっぱり分からん。なんだこれは、ドラッグパーティーか?」

「とにかく、あいつらとは目を合わせないようにしよう。なんだか嫌な予感がするからな」

 デイビスとスコットはシルエットに背を向け、エディの介抱をするためにこそこそと両隣の席についた。しかしその瞬間、立ち込める湯気の彼方から、きちんと正装をした三月うさぎ(注、Mad as a March hareという、繁殖期のウサギを表す慣用句からもじった偶像)と帽子屋(注、Mad as a hatterという、水銀で発狂した帽子屋から成る慣用句をもじった人物)がめざとくそれを見咎めると、彼らに向かって前へ後ろへ追い抜き追い抜かれつつ、こう叫び散らすのだった。

「「だめだ、だめだ、席はないんだ! 本当だよ!」」

「は? いやいや、席なら、そこら中にいっぱい空いているだろ?」とデイビス。

「だが招待もされないで座るのは失礼さ!」と焦点の合わない、金髪のウサギ。

「そう、失礼だよ。とてもとても失礼だね! フン」と団子っ鼻をした、銀髪の帽子屋。

「とってもとっても、失礼ですね」とついでに、ポットの蓋を頭に載せてつぶやく眠りネズミ。

 散々に非難され、ムッと眉を顰めるデイビスとスコット。しかし、その個性を極めた風貌を目にして、ふと、チェシャ猫の妖しい言葉がよみがえり、

「あ、あれ? もしかしてあんたら、三月ウサギとマッド・ハッターか?」

「「正解!」」

「じゃ、じゃあ、ロジャー・ラビットの居場所も知ってるのか? 俺たち、そのウサギを探してるんだ。教えてくれよ!」

 三月うさぎはそれを聞くと、長い耳をぴよぴよとはためかせるなり、ティーカップを縦にスライスしている帽子屋と見つめあった。

「ロジャー・ラビットぉ? なんだい、それは?」

     「ぼく?」

 「誰だい?」

            「ぼくかい?」

       「君だ!」

   「なんだい、なんだい、ロジャー・ラビットって?」

    「君か?」

          「おれなの?」

 「そうだ!」

     「おれだ!」

「だあああああああああああああ、うだうだとはぐらかすんじゃねえ、白いウサギのことだよ! お前ら、知ってるんじゃねーのか!?」

 すると、三月うさぎと帽子屋は、くるりと揃った動きでこちらを見て、

「「招待されてもいない奴には、教えてあげる理由なんてないもんね!」」

「ぐっ。足元見やがって、コノヤロ〜……」

 そこへ、エプロンに山ほど氷砂糖を抱えてきたグランマ・サラが、ポットの合間を忙しく歩き回りながら、それぞれのティーカップにコロンと入れていった。ミッキーもまた、彼女の抱える氷砂糖をつまんで、ティーカップのひとつひとつへ落とすのを手伝ってやる。

「まあまあまあ、帽子屋さん、三月うさぎさん、主催者に免じて許してやってちょうだいな。このかたがたは、わたしが招待したんですから」

 そうして彼女が、ゆっくりとスプーンで紅茶の渦を掻き回してゆくと、やがてティーカップの上に、ゆっくりとドーナツ型の湯気が漂っていった。

「今日のパーティには、たくさんのお客様がいらっしゃるんだから。少しばかり増えたって、勘弁してくださいな」

「だが、この人間たちとネズミは、ちっともウサギに縁深い作品に出演しちゃいないじゃないか」

「頭がおかしい!」

「気が狂っとる!」

「どうかしてるよ!」

「やっぱり、失礼だ!」

「なんだよ、パーティに招待されるのに、なんでウサギとの縁が必要なわけ?」

 そう訊ねるデイビスの鼻へ、ぐい、と横から勢いよくポットの口をめり込ませながら、

「つまりね。今日はウサギたちの何でもない日アンバースデーを、盛大にお祝いする日なんだよ。……お題目は、ほら、あそこに」

 帽子屋は一息にそう言うと、後ろの壁を、クイ、と親指で示した。紙の花やバルーンを飾られ、派手に張り出されたレターバナーには、


A VERY MERRY UNBIRTHDAY
TO RABBITS



と書いてある。

「「「ウサギたちのアンバースデー?」」」

 デイビスたちはそろって、レターバナーの綴る内容を読みあげる。三月うさぎと帽子屋とは、無数のポットの吐きだす雲海のような湯気にまみれながら、その笑顔の奥に出っ歯を光らせた。

「そんなことも知らんのかね? ウフフフッ、それじゃあ——説明してやろうかねえ!」

「誕生日は、一年に、一度っきり——」

「そうとも、たったの一回さあ!」

「あーっ、でも何でもない日は三百六十四日! ってえことはあ——」

「年がら年中、お祭りだあ! ばんざーい!」

「なんだい、そんなの、ちっとも分からないよ!」

 ミッキーの叫びにも構わず、三月うさぎはそこら中一面に踊り狂うポットをスプーンで指揮し、帽子屋はカップ半分の紅茶ならぬ、半分のカップにそそいだ紅茶の香りを吸い込み始めた。グランマ・サラは、腕の中に抱えていた最後の氷砂糖をティーカップに落とすと、ほんの少しばかり尻尾の先をカップに浸して、

「つまりですね、あなたがたもこのキッチンに辿り着くまでに、たくさん噂を耳にしてきたでしょう? うさぎどんがここを出ていってしまうというなら、お祭り騒ぎをすれば、この郷へ戻ってくる良い口実になるかと思って——」

 言いながら、ぐるぐると掻き回したその尻尾の先を口の中に含み、甘さの味を見る。

「——誰の誕生日でもないけれど、わざわざこうして、ウサギたちのためのパーティを開催したんですよ。あの子には、我が家で過ごす日常の素晴らしさを、うんと思いだしてもらいたいの」

「さ、これで分かっただろ。ウサギに縁のないキャラクターは、お茶会の参加資格なし!」

「そんなあ」

「思ったよりケチな二人組だね」

 すげなく断られて、すごすごと退散するしかないデイビスたち。頼みの綱のエディだけは相変わらず、お茶会の席についてお茶を流し込んで、うぃー、とゲップを漏らしている。

「つーか、どうするんだよ。俺たち、ロジャー以外に知ってるウサギなんていねーぞ」

「ストームライダーって、アトラクションにウサギが出てきたりしないの?」

「逆に、どう考えればあの世界観にウサギが出てくると思うんだ?」

「困ったなあ。あとはもう、偶然、そこら辺を通りがかったウサギに協力してもらうしか……」

「オイオイ、物事が、そんな簡単にうまくいくわけないねえだろ〜」

 もはや匙を投げたデイビスが、テーブルの上にあるお砂糖をたっぷりまぶされたお茶菓子をつまみながら、何気なく、テーブル上のティーカップの揺れる水面に目をやった、その時。

 ゆるゆると静まってゆくその水鏡の影が、

「あ——?」

 気取った鼻眼鏡に、
 真っ黒なこうもり傘、
 赤い上着をきっちり着込んだ、


 ———白いうさぎの像を、結んでいった。


「あれれれれれれれっ」

「?」

 見間違いかとゴシゴシ目を擦するデイビスと、不審げに彼を覗き込むスコット。その瞬間、ジリリリリ、とまるで開演ベルのようにすら聞こえる何かが鳴り響いて、店内にいる者たちが全員、そのウサギを振り返る。けたたましい音の正体となった白うさぎは、急いでテーブルの合間を走り抜けながら、懐から取りだしたファストパスを見た。

「急がないと遅れるぞ、大変! 大変! 大変!」

 なんという僥倖なのか、ただの偶然か、それともフラグだったのか? 歌ともつきかねる奇妙な文句を叫んでいる白いウサギは、上着の隠しから、ジリジリと喚く大きな金ぴかの懐中時計を取りだすと、ころげ落ちそうなほど大きな目を見開いて、ファストパスに記載されている時間と見比べた。デイビスは慌てて、隣ですっかり気持ちよさそうにいびきをかいていたエディの頭をぽかんと叩く。

「お、おい馬鹿、エディっ。起きろ!」

「うぃー、ひっく。おう、なんでえ、坊主?」

「う、ウサギだ。真っ白なウサギが、あそこにいるんだよ!」

「白うさぎなんて、珍しいものでも何ともねえだろーが! ひっく」

「違うって! あのな、ウサギを捕まえたら俺たちはウサギのお茶会に招ばれて、そうしたらウサギが新たなウサギの話を——」

「何を寝ぼけたことを言ってるんだ、坊主! 目を開けたまま夢でも見てんのか!?」

「だああああっ、話の通じねー奴だな! おいスコット、俺たちであのウサギを捕まえるぞ!!」

「えっ!? あっ、おい、どのウサギのことだ、デイビス!?」

 しかしながら、折しもちょうどその頃、それぞれの家のドアをくぐり抜けて、招待客がパーティに続々と集まり始めたのである。広々としたレストランを埋め始めた彼らは、レストランを走り回るその一羽の白うさぎの姿を見るなり、遠慮のない声を喚き散らした。

「おお!? 見ろー、うさぎどんが帰ってきた!」

「違うぞ、ありゃうさぎどんじゃない! あいつの毛の色は灰色だったろ!」

「パーティにつられて、帰ってきたんだ!」

 「「「おかえりなさい、うさぎどん!!」」」


 そうして諸手を挙げた動物たちが、帰還の喜びを分かちあうか、もしくはその正体を確かめようとして、ワッと群がっていったのである。彼らの衣服があちこちの食器を引っ掛け、けたたましい音をあげて割りまくる中、白うさぎは、誰も彼もが自分の方へと突進してくるのに仰天し、より速度を増して逃げ回った。すると必然的に、追手たちも手のつけられない速さで追い回すこととなり、ポットから噴射される湯気がぐんぐんと立ち込めてゆく中、こうしてレストラン中が、たった一匹のウサギをめぐって、上へ下への大混乱に陥ったのである。

「ロジャーだ!」

「うさぎどんか?」

「「いや、白うさぎだ!」」

「俺がロジャーを見間違えるはずがねえ! 俺をからかおうとしたって無駄だぜ、坊主!」

「だから、そういうことを言ってるんじゃねえって! なんでもいいから、ウサギが必要なんだよ!」

「鼻眼鏡をかけて——」

「モヒカンのない——」

「そりゃ、ロジャーじゃないって言ってるんだよ!」

「そんじゃ、うさぎどんだ!」

「いいや、うさぎどんでもない!」

「「「それならいったい誰なんだ!?」」」

「みなさんやめてちょうだい、ああ、せっかくのパーティが!」

「ひいいっ、なんだい、この頭のおかしいレストランは!? そんなことより、ないないないない、時間がない!」

 ギャーギャー飛び交う勝手な憶測と、狂気的な追いかけっこに巻き込まれて、せっかく用意した飾りつけがしっちゃかめっちゃかになり、グランマ・サラが悲鳴をあげる。そんな中、ミッキーだけは努めて冷静に、息を切らした白うさぎに声をかけた。

「おおい、そこのウサギさん、どこへ行くつもりなんだい? お茶会に来たのではないのかい?」

「大変! 大変! 遅刻しそうだ! こんちわどうもさよなら——って言う暇ない!」

「あっ、待ってよう、ウサギさん!」

 ミッキーは慌てて、穴の空いたティーカップをメガホン代わりにして、走り回る白うさぎに向かって質問を投げた。

「ねえ、ウサギさん、僕たちはロジャー・ラビットを探しているんだ。彼がいったいどこにいるのか、君は知ってはいないかい?」

「それどころじゃないよ、わたしには探している人が——ああ! ようやく見つけた、あなただ!」

「何?」

 白うさぎは猛スピードで突進してゆくと、キョトンと突っ立つスコットの手に、何かを押しつける。彼が手の中を見つめると、それは金の懐中時計だったのである。

「な、なんだ、これは? 私はこんなものいらないぞ!」

「そいつはわたしからの、生まれなかった日・・・・・・・・のお祝いだよ!」

「なんだと! ふざけるな、何のタチの悪い冗談だ!?」

 途端、ジリリリリ、とふたたび、懐中時計がけたたましい音で鳴り響き、唖然とするスコットの元へ、次々と暴徒と化した動物たちが殺到してゆく。

「「「「「捕まえろ、ウサギだ!!」」」」」

「や、やめろ、私はウサギじゃない! ウサギはあいつだーーーー!!!!」

「だめだめだめだめだめだめだめ、もう間に合わない! あ〜どうすりゃいいんだろう、今はさよならこんちわどうも、って言う暇ない——!」

 かくして、襲いかかる動物たちによって連続的に勃発する玉突き事故のせいで、押し潰されるわ、すっ転ぶわ、衝突するわの凄まじいパニックとなり、遠くで震えあがるデイビスとミッキー。そして、それとはまるで反対側の方向で、まるで早回しのように駆け抜けてゆく白うさぎは、洞窟の隅に空いている小さなウサギ穴へ、あっという間に飛び込んでしまったのである。倒れ伏す体でテーブルクロスが引き寄せられて、最後のカップの、がちゃん、と床に落ちる音が響くと、先ほどまでの大騒ぎも嘘のよう、今や洞窟中はしん、と静まり返り、後はテーブルで噴射音を射出しているポットの音楽が、虚しく奏でられ続けるだけである。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「………お、お〜い、スコットぉ——(ぼそり」

 「私は金輪際ウサギなんざ追いかけないからなっっっ!!!!」


 折り重なった動物たちの山から、突然の怒鳴り声が聞こえたかと思うと、ずぼっとたくましい腕が伸びてくるなり、握り締めていた懐中時計を、床に叩きつけた。衝撃で、びよんびよんとぜんまいや歯車を剥き出しにするそれを遠慮なく踏みつけ、ずんずんと詰め寄ってくる恐ろしい形相のスコットから逃れようと、デイビスは一気に後退りをしながら、

「す、スコット。そんなに怒んなよお——」

「いいや、この機会に言わせてもらう。いいか、俺たちがディズニーランドをウロウロする羽目になったのは、貴様が! あの下品な酔っ払いウサギを追いかけようと持ちかけたからだ! そして今も、貴様がウサギを捕まえようとしたせいで、めちゃくちゃになった! 導きだされる教訓は、ただひとつ!

 貴様が——アホな——ウサギを——追いかけようとすると、ロクなことになりはしない!

「分かったよ、分かったよ! だから俺の首を絞めるのはやめろってばー!!」

 ぐぎぎぎぎ、と細まる気管の隙間から、何とか声を絞りだすデイビス。しかし、三月うさぎと帽子屋は、はっと息を呑んで、その足元に注目した。地面に叩きつけられて破壊された懐中時計——それを神妙にピンセットでつまみあげるなり、ガタガタと震えながら、互いの耳へ囁きあうのである。

「こいつは驚いた!」

「この方々は——ウサギ追いかけ病・・・・・・・・患者じゃないか!」

「「ハァ?」」

 耳なれぬ病名を聞いて、思いっきり、眉を顰めるデイビスとスコット。ニヤニヤとほくそ笑む帽子屋は、自分の首元へと熱いポットを傾け、襟から袖口へ、そしてその先のティーカップへとお茶を注ぐと、ようやく丁寧に襟の皺を直して言った。

「やれやれ、お客人はなんにも知らない。ウサギを追いかける運命に取り憑かれた病だ!」

「それはこいつのことだ! 私はウサギとは何の関係もない!」と湯気を立てるスコット。

「いいや、あんたもだよ。間違いない、この顔、この声、この身長」

「全部関係ないだろーがっ!!」

「いいから聞くんだよ、昔、チェシャ猫に聞いた話によるとだね。ウサギ追いかけ病にかかった人間は、ウサギを追いかけて穴に飛び込み、物語の主人公になるんだよ」

 帽子屋が背伸びして、まるでボタンのようにスコットの鼻を押す。その瞬間、たった一度だけだが、スコットの眉がぴくりと動いた。

「そうそう。『ロジャー・ラビット』も、『ふしぎの国アリス』も、そしてこのスプラッシュ・マウンテンのお話も、どいつもこいつも、みーんな、ウサギ追いかけ病に罹っているからこそ、できあがった物語なのさ! 君たち、なあんにも知らないんだね——ウフフフフッ」

「どーしてウサギを追いかけると、主人公になるんだよ?」

「オーホホホ、そいつは、世界の七不思議!」

「奇妙なことに、世界っていうのは、そういう風にできているんだなあ!」

 そそぎ入れるお茶の流れを長い耳でチョッキンと裁断しながら、三月うさぎは自信たっぷりに、デイビスたちに言い切った。

「いいかい、ウサギっていう動物は、物語の扉をこじ開ける鍵なんだ。ウサギを追いかければ、たちまち、不思議な物語が幕を開ける。ネズミの夢の中で、俺たちは夢を見る」

「もう少し、お茶を飲まんかね?」

「もう少しったって、まだ一口も勧められちゃいないんだけどさぁ……」

「さあさあ、もっともっと飲んでくださいよ。遠慮しないで」

 帽子屋はまるで聞く耳を持たずに、小粋に腰に手を当て、三連口のポットで、青、赤、黄色のティーカップにお茶をそそいだ。その流れとは対照的に、眠りネズミはひょっこり、蓋を頭に乗せて、ポットから頭を覗かせてくる。

「ネズミ? 今、だれか、ネズミの話をしていなかった?」

「ややっ、貴様は呼んでいない! ひっこんでいろ、でしゃばりめ!」

「ねえ、そのネズミって、もしかして、ぼくのことぉ——?」

「ジャムだ! 早く!」

「そうだ、ジャムだ! 鼻に塗れ、鼻に!」

 口を挟むのは許されないのか、ティーポットの中から現れようとした眠りネズミを取り押さえ、ぎゅうぎゅうと押し込めながら叫ぶ二人。スコットが慌てて、真っ赤なジャムを——おそらくはビーツのジャムだろう——小さなバターナイフで掬って鼻に塗ると、途端に眠りネズミの瞼は重みを増して、ゆっくりと口をもぐつかせるなり、ふたたび、快い眠りの中に落ちていった。

「ふう。これでもう安心だ」

「(やっべえ。こいつらの頭の中身、全然分かんねえな)」

「さて、と。ところで——ヘッヘッヘッ、さっき、何か訊きたいとか言ってたな。失礼」

 帽子屋は受け皿ソーサラーをお茶に浸け、それを自慢の前歯でぱりぱりと食べ散らかした。

「君たちはいったい、何が知りたいのかね?」

 理由はまったく理解できたものではなかったが、どうやら無事、この奇妙なお茶会の参加資格を得ることができたらしい。にゅっとマリーゴールド色の美しいティーセットを突きだされて、デイビスとスコットは、イギリス風に受け取り、丁寧に湯気の香りを嗅ぐ。とにかく、彼らからロジャーの手がかりを掴まないことには、事態は何も進まないのだろう。なるべく彼らを刺激しないように言葉を選びながら、デイビスは慎重に問いかける。

「ええっと。俺たち、実は探している奴がいて——」

「なんだって! ウサギを探してる!? 席を替えよう!」

「お、おい!? まだ飲んでいないんだけど——!」

「耳が長くて——」

「逃げ足が早くて——」

「とんだトラブルメーカー!」

「何をぐずぐずしているんだ、ウサギを追いかけるのが、この小説における君たちの仕事なんだ!」

 帽子屋はいきなり立ちあがると、紅茶を傾けようとしていたデイビスの手を掴み、三月うさぎは飛び跳ねながら狼狽するスコットの背を押して、手当たり次第にティーカップを放り投げた。がちゃん、ぱりん、とあちこちで無残な音が砕け散り、ミッキーは思わず両耳を覆う。

「「♪座って、座って、飲んで、飲んで! 楽しくっやろう!」」

「うわあ。な、なんなんだよ、こいつら!」

「慌てないで。ほおら、探し物はいつだって、目の前に!」

「そうそう、追いかける者だけが、それを捕まえる権利を得る!」

「追いかけるんだよ、アリス、穴の向こうには、君たちの夢が待っているんだ!」

 そうして叫びながら、飛び跳ねる彼らが強引に連れていったのは、

(な、なんだ。——さっきの白うさぎが飛び込んでいった、ウサギ穴、か?)

 ちらりと見えた闇の空間に、覚えず尻込むデイビス。しかし、三月うさぎと帽子屋は、片手に持ったティーカップを高々と掲げつつ、洞窟の隅に空いた真っ暗なウサギ穴を示して、意気揚々と言った。


「「さあ、勇気を出して、飛び込んでごらん。ふしぎなふしぎな、夢の世界へ!」」


 沈黙する彼らの合間を、ウサギ穴から立ちのぼる、不思議な風が吹いた。デイビスも、スコットも、目をぱちくりとさせて、彼らの真剣な顔を見つめた。三月うさぎと帽子屋の示したその真っ暗な穴は、他の動物たちの家ならば、可愛いポーチが整えられ、小さなドアまでついて、暖かい明かりを漏らしているのに、この穴だけはどこまでも黒々として、まったく先が見えないのである。全体的に暖かな風合いを醸すこの田舎風の家には似つかわしくなく、まるで飛び込んだ者をそのまま、異世界へと迷い込ませてしまうように思える。

「ええと、つまり、あんたらが言いたいのは——ロジャー・ラビットは、この穴の先にいるってこと?」

「オホホ、その通り、その通り」

「さっ、ウサギを追いかけて、早く穴に飛び込まなくっちゃ」

「飛び込むったって、もの凄く深いみたいだけど……」

「この穴の奥は、一体どこへ繋がっているんだ?」

 ミッキー、デイビス、スコットのら三人は、こわごわとウサギ穴の中を覗き込んでみた。冷たい風が静かに唸る底から、ぴちゃり、ぴちゃり、と水音も響いてくるようである。

 そこへ、慌てて駆けてきたグランマ・サラが、小さな体で必死にスコットの靴に縋りつき、止めようとした。

「ああ、みなさん、近寄っちゃだめ! ここは危ないから、普段は封鎖しているのに——」

「危ない?」

「ここは、うちからスプラッシュ・マウンテンへの、唯一の入り口よ。うさぎどんがよく使っていた洞穴なの」

「えっ。そんじゃ、うさぎどんは——」

「ええ、ここから出発していったのよ。笑いの国を目指すんだ、とかなんとか言って」

 打ち明けられる彼女の言葉に、待て待て待て、こんがらがってきたぞ、と三人が神妙な顔で腕組みをする。今日はウサギの厄日なのか、やたらとウサギが出てくるらしい。そして、目の前の事態に囚われている彼らは、このクリッターカントリーに足を踏み入れる前から、すでに物語が始まっていることを知らないのだった。いつのまにか彼らの迷い込んだ、夢の中の世界。それは、デイビスとスコットがインスタント穴に飛び込んだその瞬間から、暗闇をくぐり抜けて、遠い夢の記憶へと繋がっているのだった。

「整理すると、この穴の向こうには、
①アリスの白うさぎ
②ロジャー・ラビット
③うさぎどん
の、三匹のウサギがいるってことか?」

「さあさあ、アリスたち、追いかけるんだよ、何をぐずぐずしているんだ、早く!」

「ま、待てよ、三匹もいるんだぞ。俺たちはいったい、どのウサギを追いかければいいんだよ?」

「白うさぎと、ロジャー・ラビットと、うさぎどんと、全員おっかければいいじゃないか。さ、早くしないと、別のアリスに追い抜かれちまうよ!」

「なんだよ、別のアリスって?」

「言っただろ、『ロジャー・ラビット』も、『ふしぎの国アリス』も、そしてこのスプラッシュ・マウンテンも、みーんなウサギ追いかけ病に罹ってる連中ばかりだって。ぐずぐずしていると、主人公の座を出し抜かれちまうんだから——」

 デイビスたちを急き立てる帽子屋の言葉は、皮肉にも、別の動物を引き連れてくることとなったらしい。ポットの噴射音や歌声、咀嚼音、ルートビアの泡の弾ける音、それにひっきりなしの大笑いでやかましいくらいのこの洞窟に、どこからか、遠い諍いが混じってきたのである。


 ———おーん。ねえ、今、うさぎどんってことばが、この中からきこえてきたよお?

 ———だからここにいるって言ってんじゃねえか、何度同じことを言わせやがるんだよ、この間抜けグマ!


 グランマ・サラがさっと顔色を変えた時には、もう遅かった。運の悪いことに、ちょうど、みなが料理に舌鼓を打ち、宴会が徐々に盛りあがりを見せ始めた頃合いだった。高らかに諸手をあげて、勢いよく戸口に登場したのは、キツネとクマの凸凹二人組だったのである。

「「ハッピー・アンバースデー!
トゥーユ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」」


 突然の非招待客の乱入に、集まった動物たちはしんと静まって、楽しい食事の手を止め、そちらを振り返った。デイビスらも、三月うさぎも、帽子屋も、口をつぐんだ。キツネとクマは、どしどしと床が揺れるほどの体重で歩いてゆくと、レストラン中に響き渡る大声でどやしつける。

「やいやいやいやいやい、ウサギのパーティだと!? おれたちに秘密にしやがって、おめえらまさか、おれたちに逆らって、ここにうさぎどんを囲っているんじゃねーだろうなア!」

「酷いよう、おれたちをノケモノにしてえ」

「ひいいっ、くまどんに、きつねどん!」

「おっと、全員動くなよお、静粛に、静粛に。なんだいなんだい、こんなに大勢の動物たちが、パーティに参加していたってのか? おめえらみーんな、どうなるか分かってんだろうなあ」

 きつねどんと呼ばれたキツネはニヤリと笑って、地下にひろびろと掘られた食堂をぐるりと見回しながら、ちっちっちっ、と鋭い指を振った。

「えー、みなさん、ご注目! このレストランには、うさぎどんという名の、凶悪犯蔵匿罪の容疑がかけられている! というわけで、このおれが直々に、現場捜査してやるぜえ」

「「「「「きょっ、凶悪犯ー!?」」」」」

「おぉっとお、動いちゃだめだめ。誰一人、ここから逃げることは許さないかんな! おい、どんくま、ドアを閉じろ!」

「りょうかいだよお、キツネの兄ぃ」

 妙に生々しい単語が投げ込まれて仰天する一同に構わず、ぱたり、ぱたりとクマが出口を閉める。矢も盾もたまらず、グランマ・サラが料理の皿を掻き分けながらテーブルの端に飛びだしてくると、涙ながらに身を投げだして懇願した。

「ああ、どうぞご勘弁ください、くまどん、きつねどん。ご覧の通り、うさぎどんはここにやってきちゃいませんよ。それにほら、今日は、せっかくの楽しいパーティなんですし———」

「おいおいおい、だから帰れっての? 冷たいじゃねえの、おれたちもクリッターカントリーの仲間なんだぜ!」

「そうだ、そうだあ。仲間だあ」

「でもあなたがたは、うさぎどんを——」

「ありゃ、害獣駆除ってやつ。うさ公なんてのは、イタズラばっかりしでかす、害にしかなりゃしねえってのよ!」

「そうだ、そうだあ。ガイチュウだあ」

 ブンブンと腕を振り回すきつねどんと、訳が分かっていないので、とりあえず冷やかしに徹するくまどん。

「なななななんだ、あの田舎の暴走族みたいなアニマルヤンキーどもは」

「ああ、また話がややこしくなりそうだ」

 キツネとクマのコンビを見つめてぽかんとするデイビスの隣で、そろそろディズニーランドの雑多感に慣れてきたスコットは、ただちにトラブルの匂いを嗅ぎ取った。

 そこへ、三月うさぎと帽子屋は、ニコニコ顔でキツネの肩をつつき、

「ウサギなら、この穴を通っていったさあ!」

「今なら、お得セール。この先に、三匹もいるよ!」

 「馬鹿やろーッッッ!!!! なに教えてんだーッッッ!!!!!」


 すぱこーんとデイビスがハリセンで帽子屋たちの頭を叩いたが、もう遅かった。ガクガクと肩を掴んでゆさぶられても、てへぺろと言わんばかりに帽子屋は申し訳を開く。

「おれたちの見立てじゃ、あのキツネとクマも、ウサギ追いかけ病・・・・・・・・に罹ってる。ウサギの居所を教えないのは、フェアじゃないったらないね」

「ハァ!?」

「さあ、みんなみーんな、息せききって、ウサギを追いかけるんだ! アリスがひとりとは限らないだろう?」

「そうだ、物語の主人公になりたいなら、早い者勝ちだあ!」

「うさ公が三匹? 意味がわからねえが、まあ、いいや! うさ公を追いかけるのは、おれのライフワークだぜえ!」

 きつねどんは、今やごうごうと水流の鳴り響く穴へ向かって、意気揚々と滑り込む準備も万端だった。前足に唾をつけて、自分の耳に擦り込み、ピンと立たせると、真っ暗なウサギ穴に向かって、敢然と胸を張る。

「ありがとな、クレイジーウサギに、おかしな帽子屋! おい、どんくま、なにノロノロしてるんだよ、さっさとスリルに飛び込め!」

「わあい、スプラッシュ・マウンテンに、しゅっぱつだあ」

「ケケケケケ、おれたちの笑いの国は、この先にあるってもんだぜ! 待っていろよお、うさぎ公!」

「お、オイ、待てーっ!! せめて、俺たちとは関係ないところでやってくれーっ!!」

 ウサギ穴に飛び込んでいったかと思うと、真っ暗にうねる底へ、さながらウォータースライダーのように、勢いよく吸い込まれていった。残念ながらくまどんの方は、何度かつかえたような悲鳴と息切れが穴の底から聞こえてきた。それでも、最後にはすぽんと抜けたのであろう、遠くの方で、盛大な水飛沫がぶちまけられるのが響いてきて、それを皮切りに、一同はしんと静まり返ったのである。

 スコットも、デイビスも、ミッキーも、まるでブレーメンの音楽隊の如く、上から順に片手をあて、よーく洞穴の方へと耳を澄ませた。どうやら、穴は相当深く、こことはまったく別の、新たな世界へと繋がっているらしい。小石の落下する音や、水滴のしたたる反響がわんわんと鳴り響く中、確かに、さきほど聞いたきつねどんの声が、夢のように空気を震わせてくる。


 ———見てろよ、うさ公! 今度こそ、絶対に逃がさねえ!

 ———見て見て、うさぎどんよ!

 ———またきつねどんとくまどんに、追っかけられてる!

 ———ハ〜、おいらの得意技は、この笑い方さ。きっと、お役に立つぜ。


「か、カオスだ……」

 エコーをともなって聞こえてくる動物たちの叫び声に、蚊のような声でぼそりと呟くスコット。しかし、問題はそれだけではない。この怪奇な状況にケリをつけるように、地下風に乗って響いてきたのは、うさぎどん——ではなく、また別人の、酷くふざけた声色をした、こんな声だった。

 ———せっせっせー、おちゃらかホイ! そんな馬鹿なことが……ウッウッウッ、せっせっせ! せっせっせ! あうう、僕は信じない。信じられない、信じられるわけがない、誰が信じるもんか! ジェシカは僕の妻だ、そんな馬鹿なこと、絶対にありえナァイッッッ!!!!


 それを耳にした瞬間、サーッと、背筋から汗が垂れてゆく思いがした。デイビスもスコットも、第零話の段階で耳にしたことのある、あの酔っ払いのセリフだったからである。それまでお茶会のテーブルで呻いていたエディは、急にふらりと立ちあがると、鼻息も荒くウサギ穴へ飛びかかっていった。

「おい、今のバカ声は……ロジャーだ!!」

「ま、待て、エディ! 気持ちはわかるが、行っちゃダメだ!」

「何言ってやがんだ! 早いとこいかねえと、ロジャーが、あのキツネどもにとっ捕まっちまうだろうが!」

「だから! いったん落ち着けってばー!! 考えなしに飛び込んだら、やべーことになっちまうぞ!!」

 鼻息も荒くウサギ穴に入ろうとするエディを、デイビスとスコットは、ギリギリと歯を食いしばりつつ、懸命に後ろに引っ張りながら、

「エディ、俺たちじゃ無理だよ。大の大人にとっちゃ、このウサギ穴は小さすぎるんだって!」

「なに? 小さい?」

「見ろよ、これは動物専用だ。こんな狭い穴に入ったところで、すぐに俺たちは詰まっちまう。そうしたら、一巻の終わりだぜ」

 言いながら、デイビスがライターを点火し、薄暗い穴の中を照らしだす。そう、そこにある洞穴は、奥に行くにつれてどんどんと狭まってゆき、せいぜい、ほんの子ども一人ほどが限界。そう、おそらくは、本物のアリスくらいの身長でないと、窮屈な奥へはとても進めない細さとなっているのである。絶え間ない水滴や、何やらごうごうという水流の気配は、まるで滑り込んできた者たちを呆気なく呑み込むようである。いや、つーか、絶対入りたくねえ、こんな穴。きつねどんもくまどんも、なかなかの豪胆の持ち主だったんだなあ。

「おい、ロジャー! 俺の声が聞こえるか!」

 エディは、穴の向こうに乗りだして、力一杯叫んだ。しばらく待ってみても、返事はない。

「貴様、この俺にここまで手間をかけさせて、絶対に許さねえからな! 今にトゥーンタウンに引きずり帰してやる、首を洗って待っていやがれ!」

 相棒に対するものとは思えない物騒な言葉遣いで言い捨てると、ようやく、情けないしゃくり声とともに、洞穴の底から返答が返ってきたのである。

 ———あーんあーん、まさかミッキーが、この僕を裏切るだなんて! 次に会ったら、この僕が、あいつをギタギタにやっつけてやる! 早く助けにきてよう、エディ・バリアントーーーーッッッ!!!!


 どうにも分からないが、穴の底で、エディの助けを待ち続けているらしい。イライラしたエディが、ティーカップをウサギ穴に投げ入れると、十数秒経ってから、きゃん、という物哀しい悲鳴が響き渡ってきた。

「ったく、あいつ、まだ酔っていやがるみてえだな。一発殴ってやらねえと、とても気が済まねえ。ひっく」

「しっかしあいつはいったい、何をミッキーに対して誤解してるんだろうなあ」

「ああ〜っ、ミッキー、なんとかしてうさぎどんを助けてあげてちょうだい! きつねどんときたら、それはそれは、うさぎどんに深い怨恨を抱いているんだから」

「そしてロジャーは、どうやらミッキーに対して、深い恨みがある、と」

「なんて複雑な郷事情なんだ」

「うーん、どうしよう、でもこのウサギ穴は使えないよ。どこかに、ここにいるみんなが入れるような、大きな入り口があるといいんだけど」

 弱り果てたミッキーたちが、パーティに集まったクリッターカントリーの動物たちに目を向けたものの、きつねどんとくまどんは大層恐れられているのか、波が引くように、さあっとみんな退いてしまった。彼らはみな、東の外れにある木の見張り穴を通してきつねどんを監視しては、その乱暴っぷりに震えあがっていたのである。

 しかしその時、不意に、

「大丈夫。スプラッシュ・マウンテンに行く道は、ちゃあんとありますよ!」

という高らかな声が、洞窟中に響いた。そして、それまで洞窟の隅の椅子に座っていた盲人が、ぱっとサングラスを外し、マントを剥ぎ取ると、そこにいたのは、二本足ですっくと立つ、山吹色の見事な雄キツネだった。凛々しい顔立ちに、聡明に輝く瞳、それに簡易な緑の衣と黄色い帽子を纏った姿は、不思議な正義感に満ち溢れている。ミッキーは驚きのあまり、

「あっ!!!!」

と叫んで、尻餅をついた。

「驚いたなあ。ロビン・フッドだ!」

「やっ、ミッキー、How-dee-doo。こんなところでお会いできるなんて、奇遇じゃないかい」

 ロビンと呼ばれたキツネは、爽やかに片手をあげながら、床に転がったミッキーが起きあがるのを手伝った。彼の手を引き寄せるのと同時に、ふさふさとした尻尾が、さっと動いて、形容し難い艶を走らせる。そういった垢抜けたしぐさはもちろんのこと、何か内に秘められた英雄的なカリスマ性が、そのキツネの品を際立てていた。

「嬉しいなあ、まさか君に会えるなんて。どうしてこんなところに?」

「ぼくもスキッピー坊やと一緒に、パーティに招待されていたのさ。それにしても、ノッティンガム以外にも、こんなに美しい動物の国アニマルキングダムがあるなんてね」

 ロビンは気取った身振りで、羽根つき帽子を傾けながら椅子に腰掛けると、頭をぐっと後ろに反らし、テーブルの上のジャイアントコーンを宙に放り投げて、ぱくりと食べた。

「なあ、君はどう思うかい、リトル・ジョン?」

「おっほほほ、ついにキツネ・クマ連合軍の抗争に、決着をつける時がきたな。……やあ、こりゃクリッターカントリー産の、蜂蜜だ」

 のそのそとやってきた焦茶色のクマに、ぎょっとするデイビス。どことなくピーターパンにも似た赤羽根つきの帽子を被っており、体格は相当にデカい。彼は割れんばかりの音を軋ませて向かいの椅子に腰掛けると、テーブルの上の壺を傾け、うまそうに舌なめずりをした。

「こいつは、あのクマとキツネをぎゃふんと言わせてやるのに、いい機会になりそうだねえ」

「もちろんだとも。ぼくに言わせりゃあね、あのきつねどんっていうのは、キツネ界の面汚しさ。親友のニックだって、トッドだって、リーナ・ベルだって、カンカンになって怒っているんだ」

「おれだって、バルーや、コーダや、ヘンリーの奴とよく話すよ。ノロマのイメージを植えつけられて、クマ界は非常に迷惑している」

「だんだん、作品を股にかけた壮大な話になってきたなあ」とミッキー。

「つまるところ、おんなじキツネとクマの組み合わせだって、とんでもない悪事に身を染めようとする奴もいれば、貧しい人たちのために、せっせと働く奴もいる。

 そう、例えば、ぼくたち・・・・のようにね」

「いようっ、庶民の味方、ロビン・フーッド!」

 ひらひらと帽子を振るロビンへ、拍手とともに、口笛を吹くリトル・ジョン。ほお、と眉をあげるスコットの隣で、デイビスは首を傾げた。

「ロビン・フッド? なんだそりゃ」

「お前……イングランドの有名な昔話すら知らないのか?」

「なんだ、ぼくを知らないのかい? 今までに、アニマル・キングダムのどんな動物にも負けない、素晴らしい冒険をしてきたっていうのに!」

 ロビン・フッドは憤慨する様子もなく、大層爽やかなオーラをキラキラと吹き流して、遠い記憶に想いを馳せながら胸元に手を置いた。

「おお、ぼくらが活躍したのは、七百年も昔のこと——」

「もうこの時点で矛盾しているなあ」

「エドワード一世の十字軍遠征中に、弟、プリンス・ジョンが王位を簒奪し、重税によって人々を苦しめていた。ロビン・フッドたちはお金を奪い返し、感謝する民衆たちに謳われた。これが偉大なるロビン・フッドの伝説の始まりさ。
 アラナデール。音楽!」

 その一声によって、ポロン、と気怠くも懐かしいマンドリンが爪弾かれ、レストラン内は急激に静かになった。なぜかすうっと射してくるスポットライトに照らされて、物陰からのっそりとハンサムな雄鶏が現れると、その美しい濃緑の尾羽を伊達に振り、

「おれの名は、アラナデール。流しの、歌うたいなんだがね。じゃあ——これから、その噺を一席……」

 と、おもむろに、口笛を吹きながら歩き始めた。デイビスらはごくりと息を呑んで、その吟遊詩人の歌い出しを待つ。


 ♪♪ピップピ~ピッピ~ プピ~ププッ
 ♪♪プィ~プピ~ピッ ププ~ピ~

 ♪♪ピ~プピップップ-プ~ピ ⤴︎プィ~プ~⤵︎
 ♪♪ププ~ポ~パ~ピポ~

 ♪♪ビッブビ~ビッビ~ ブビ~ブブッ
 ♪♪ブィ~ブビ~ビッ ブブ~ビ~


 「早く本題に入れーーーッッッ!!!!」


「やあ、せっかちなお客さんだな。まだスタッフロールでいうと、マリアンが出てきたくらいだよ」

「本編まであとどのくらい待たなきゃいけねーんだよ!! 早くロジャーを探しに行かなきゃいけねーんだから、早送りしろ早送り!!」

「それじゃあざくっと二分くらいカットして、さっさと本編に入ろうか」

 アラナデールはふんわりと鶏冠をかきあげると、うやうやしくテーブルに腰掛けた。薄暗い庶民的な食堂に、吟遊詩人という存在はぴったりである。彼は流麗に足を組み、ダンディな声で歌い始めた。


 ♪(前奏)
 ずんちゃ〜ずんちゃ〜
 ずんちゃ〜ずんちゃ〜
 ずんちゃ〜ずんちゃ〜

 ♪ロビン・フッドとリトル・ジョンは いっつもなが〜ら〜ァ
 た〜のしっく は〜なしって 森をゆく〜ゥ⤴︎
 むっかし〜は 平和〜で よかったもんだ〜が
 ウッドラ〜リ ウッドラ〜リ なんてっ日だ〜ァ

 ♪危⤴︎険な池とも 知〜らずに が〜ぶ飲み
 うっまそに のっど鳴らし⤴︎ィ〜
 シェ⤴︎リフの企み 夢にも気〜づかぬ
 ふったりは 大浮っかれ⤵︎〜ェェェ

 ♪ロビン・フッドとリトル・ジョンは 罠に気づ〜くと〜ォ
 森じゅう 夢っ中で 逃っげ回り〜ィ
 飛っび降り 飛っび越し ようや〜く逃げた〜
 ウッドラ〜リ ウッドラ〜リ なんてっ日だ〜ァ

 ♪ウ⤴︎ッドラ〜リ ウ⤴︎ッドラ〜リ なんて日だ〜ァ⤵︎
 (ポロンポロン ポロロンロン)


 いまいち必要があったのか判断のつきかねる歌だったが、終わった瞬間、子ウサギのスキッピー坊やは待ってましたと言わんばかりにガタッと椅子から立ちあがると、大袈裟に息を吸い込み、両手で口を覆って驚愕の声をあげた。

「ええっ、それじゃあ、あなたがあのイギリスのノッティンガムで有名な!?」

「そう! ぼくたちがあの有名なシャーロットの森の義賊、ロビン・フッドと、リトル・ジョンさ!」

「わああ、カッコいい! あのポスターの顔にそっくり!」

 やんややんやとスキッピー坊やが熱烈に褒めそやす声の陰で、ちゃりん、と金属の受け渡される音がする。見ると、ロビンが帽子をまさぐって飛んできたコインが、瞬く間に彼の手のひらの中に吸い込まれていった。

「……おい、そこにいるウサギの坊主。お前、買収されただろ」

「そっ、そんなこと、あるわけナイヨ!」

「さあさあ、そんなことは気にしないで。君たちはスプラッシュ・マウンテンへ、お友達のウサギを助けに行くところなんだろう? そんならぼくたちが、別の入り口を案内してあげるよ」

「何。別の入り口?」

「さあ、クリッターカントリーの地図を貸してごらん」

 ミッキーが手渡したTODAYの上に、ロビンは、クレヨンで何かを書き込み始める。デイビスたちは、横からその地図を覗き込んだ。

「さあ、よく見て。今は、こうだろ」

マップ

「ところが、こっち側に、秘密の道があるんだよ。リーマスおじさんの水車小屋は、スプラッシュ・マウンテンの物語への入り口なんだ。そこからボートを使って、地下水脈へと入り込んでゆけば、君たちのような人間でも、スプラッシュ・マウンテンの地下に入り込めるって寸法さ」

マップ

「へええ、ボートで地下へ侵入してゆくのかあ」

「もちろん、地下に辿り着いてからも、スプラッシュ・マウンテンは複雑だからね。うっかりすると、蜂の巣に迷い込んでしまう。だから、安全に進むためには、ぼくたちのようなプロの案内人が必要なのさ」

 ちちち、と指を振りながら営業マンの如く話すロビンを、スコットはちらりと偸み見た。正義の味方だとは知っても、かくして熱心に自分を売り込んでくる輩はどうにも胡散臭く、上から下まで見つめながら、

「だが、どうして初対面の私たちに、そんなに協力してくれようとするんだ? 何か裏の魂胆でもあるんじゃないのか?」

「「ぎっくー」」

「あー?」

「その……ぼくとマリアンの、新婚旅行の費用が嵩んでしまいそうでね。少しばかり、きつねどんのへそくりを、お借りしようと……」

「は?」

 しどろもどろになって答えるロビン・フッドに、明らかにデイビスたちは動揺の目を向ける。

「それって義賊じゃなくて、本物の盗「とにかくあの連中は、このぼくがやっつける! この美しい郷に、ふたたび、平和を取り戻すんだ! 今にこの街も、きっと明るくなりますよ!」

「いいぞー、ロビー!」

「かぁっこいいぞー!」

 颯爽とテーブルの上に立つと、拳を突きあげるロビン・フッドへ、レストラン中から飛んでくる、ヒューヒュー、という口笛、動物たちからの盛大な拍手に、深く腰を折って敬礼するロビンの帽子へ、次々と金銀銅貨が投げ込まれた。すっかり重くなった自慢の三角帽をゆさゆさと揺するロビンは、嬉しそうに相棒に目配せする。

「ホッホッホッホー、ホッホッホッホッ。貧しい人たちのために、またたっぷり借りられそうだぜえ、リトル・ジョン!」

「ああ——神様の思し召し! ハハー!」

 ヒュウ、と木枯らしが吹くようにだいたい理解でき、なんというか、お察しだった。

「なんつーか……ただいいように利用されてるだけっつーか……」

「もういいんじゃないか。こっちもこっちで、彼らの手は必要だしな」

「えっ、じゃあお尋ね者と一緒に行動してもいいってワケ?」

「警察にバレなきゃ問題ないだろ。ま、こんな田舎に、警察がいるかどうかも怪しいけどな」

 匙を投げたのか、デイビスに向かって、どうでもよさそうに肩をすくめるスコット。しかしその時、くまどんの手によって閉じられていた出口のドアがばあん、と開かれると、真っ白な光と、外へと誘うように吹き流れてくる秋風——それを浴びながら、またもや、新たな二匹の動物のシルエットが現れたのである。

「そこまでだ!」

「警察です、あなたには黙秘権があります! 供述は不利な証拠として……あら?」

 思わぬその闖入者の叫び声によって、洞窟中に響き渡る、ロビン・フッドへのやんややんやという歓声も、瞬く間に底尽きた。逆光を背負う二匹の影。それは真っ青な警官服を身につけ、拳銃に手をかけている灰色のアナウサギと、赤銅色のアカギツネだった。しかし向こうもキョトンとした顔をさらしている限り、まさか現場が、これほどのんきな雰囲気に包まれているとは思いもしなかったのだろう。間がいいのか、悪いのか、しいんと蔓延する無音の膠着状態を破るように、エディが混乱した様子で言う。

「お、おい。なんで速攻、サツ公のフラグを回収しやがるんでえ!」

「しまった。僕がついさっき、サラお婆ちゃんを恐喝している輩がいるって、無線機で110番したんだった」

 図ったようなタイミングで現れた警察に、あちゃー、と頭を抱えるミッキー。自然と、警官二匹の眼差しはそちらへ吸い寄せられ——ウサギは目をまん丸くするや否や、ダッシュしてエディの前へ向かうと、上から下まで、矯めつ眇めつ眺めて、感激の声を放つ。

「あなた、もしかして——ロスの元凄腕警察官、エディ・バリアント!」

「ああん? なんでえ、こんなちっちゃなお嬢ちゃんが警官をやってるのか」

「そうよ、立派な警官になるのに、体の大きさは関係ないわ。それを、あなたが教えてくれた!」

「ま、俺も平均身長よりだいぶ下だしな」

「それに——わああ! あなたがあの有名な、トゥーンタウンのミッキー・マウス!? 本当に本物がいたなんて! サインください!」

 それまで腕組みをして見守っていたアカギツネだったが、やおらひとつあくびをすると、ワクワクと警察手帳を取りだして差し出そうとするアナウサギの首ねっこを捕まえる。

「おーい、ニンジン。仕事中だろ?」

「わたしをニンジンって呼ばないでくれる? いーい、わたしの名前は、ジュディ——ホップス」

「やれやれ、事件の匂いがするからって、はしゃいじゃって。のこのこやってきた田舎者は、これだから困るんだよ」

 しかし、その皮肉げに細められた目が、急激に大きくなると、まるで砂漠の中の水を見つけたかのようにキラキラさせながら、嬉しそうにデイビスたち一行を通り過ぎてゆく。彼の眼差しの先には、同じ種族である、ハンサムな雄ギツネの姿があった。

「ワーオ、こりゃ驚いた。——ロビン! ロビン・フッドじゃないか!」

「やーあ、ニック、調子がよさそうだね。アイス・キャンディーは儲かってる?」

「おいおい、おれはもうとっくの昔に足を洗ったよ。見ての通り今は、張り切り屋のウサギのお世話をする係」

 とアナギツネが旧友と肩を組もうとしたところで、その機嫌よくひょこんと揺れていた尻尾が、掴まれて止まった。振り向くと、今度は灰色のアナウサギ、ジュディの方が、半目になって相棒のことを見つめる番だった。

「……仕事中よ、ニック」

「おっと、悪い、悪い。つい誰かさんのせいで、気が緩んじまってね」

「あなたにもフィニック以外に、古いお友達がいたってワケ? ……あら、あなた——どこかで見たことあるような——」

「気のせい、気のせい。さー、仕事に取り掛かろうぜ。おれたちの目下のタスクは、通報してきた一般人からの、事情聴取だ」

 腕組みをして、遠い記憶の底を掘り返そうとするジュディと、彼女の肩に手を置き、くるりと方向転換させるアカギツネ。しかし彼が振り向きざま、ぱちっとロビンへウインクするのを、デイビスは見逃さなかった。

「ミッキー・マウスさん、あなたからの通報を受けて、ZZootopia PPolice DDepartment から駆けつけてきました。殺ウサギをほのめかした動物が現れたというのは、本当ですか?」

「本当です! ここにいる人たちはみんな、僕と一緒に、あの嫌な奴らを見ました!」

「そうだ、見たぞ見たぞ!」

「目撃者多数、っと」

 ジュディは、その珍しい紫色の瞳をきらりと輝かせると、プラスチックの葉が生えているニンジン型のペンで、手帳にサラサラと聴取内容を書きつけた。

「犯人の特徴は?」

「キツネとクマです! 牙がギザギザしていて、二匹とも麦わら帽を被って、うさぎどんに深い恨みを抱いているみたいでした!」

「キツネとクマのコンビ……?」

 と、そこまで聞き込みをした段階で、ジュディは書き取る手を止めた。そしていきなり、スケッチブックを取り出すと、そこにさかさかと新たな似顔絵を描き始めたのだった。

イメージ図


「も、も、もしかして、その犯人たちって、こんな格好をしていませんでしたか?」

「わあ、全然上手くないスケッチなのに、雰囲気だけは伝わってくるぞ! まさにこの人たちだよ、おまわりさん!!」

「まあ——指名手配中だった、殺ウサギ未遂罪で起訴されている、二人組じゃないの!」

 ジュディは驚きのあまり、危うくニンジン型のペンを取り落としそうになった。床に落ちる寸前のそれを受け止めながら、ニックも横からにゅっと顔をだして、スケッチブックの似顔絵を覗き込む。

「くまどんときつねどん——まさか! こんな平和な郷に、ヴィランズが潜伏していたんですって?」

「そ、そのう——さる事情により、今、東京ディズニーランドのあちこちでは、ヴィランズの力が増していてね——そうさ、これから倒しに行こうかと——」

「なんてラッキーなのかしら!」

 しどろもどろになりながら誤魔化そうとするミッキーだったが、なぜかジュディの方はといえば、拳を握り締め、俄然闘志を燃やしている様子である。ニックと呼ばれるアカギツネは、ちょいちょい、と相棒を指で招き寄せると、その柔らかな毛に覆われた灰色の耳に、ごにょごにょと耳打ちした。

「こいつは大物だぜ、ニンジン。まさか、ヴィランズの尻尾を掴んだなんて!」

「トーゼンよ、ボゴ署長に知らせたら、出世間違いなし! もちろん、わたしたちの担当も———」

「あ〜あ、そうさ! 駐車違反取り締まりの毎日にも、これでおさらばできるってワケだ」

「で、目下の課題といえば——」

 ばっちん、とウインクするジュディ。相棒からのその合図を受けて、ニックは、ふわふわとした尻尾を妖しく宙に揺らめかせながら、親友であるロビンの肩に前足を乗せ、やたらと馴れ馴れしく擦り寄った。

「それで、お前さんはこいつの隠れ家を知ってるんだろう、ロビン?」

「もちろんだよ。ここいらで悪党たちが悪巧みをする場所といったら、あそこしかない」

 ロビンははきはきと答えて、ウサギ穴の上の土壁を、ぱしりと叩く。

「奴らは、この穴の向こうに隠れてる。スプラッシュ・マウンテンを登り詰めた、一番高いところ。鶏冠チカピンこそが、彼らのアジトなのさ」

「ほうほう、なるほどね」

 そう頷くニックの顔にも、にやー、といやらしい笑みが浮かんだ。ジュディもまた、お気に入りのニンジン型のペンを振りながら、

「そして、ミッキーさん、お話によれば、あなたがたは今から、そこへ行こうとしている」

「う、うん。そうだけど」

 徐々に追い詰められているような予感を覚えながら、ミッキーはおずおずと言った。それを聞いた瞬間、満を辞して、ジュディとニックは声を合わせて叫ぶ。


 「「じゃあ、わたし/おれたちも、スプラッシュ・マウンテンのてっぺんに連れていってください!!!!」」


 きっ、きたーーーー、いやもうフラグが充分すぎるほどビンビンに立っていたから、分かってはいたけれども。一斉に頭を抱える一同の中で、真っ先に反論したのは、ツッコミにひたすら磨きをかけ続けるデイビスだった。

「ちょっと待てよ! 俺たちはただ単に、ロジャー・ラビットを探しに行きたいだけなんだってばー!!」

「なんですって、それは大変! 失踪者ですか!?」

「うわあ、逆に食いついてこないでくれよ!」

「それならなおのこと、人手はうんと多い方がいいわ。ねえ、ニック?」

「ああ。おれたちも捜索隊の一員として加わるよ。人助けもまた、警官の仕事のうちのひとつさ」

 ニックは自分の髭をいじりながら、ジュディと顔を見合わせるなり、ニヤッと、意味深長な笑みを交わしてみせた。

「おほん。もとい、世界をより良くするため!」

「お困りとあらば、ズートピア警察署にお任せあれ」

 ピカーッと真面目オーラを発して敬礼するジュディの隣で、ニックは器用にもくるるっ、と拳銃を放り投げて、皮肉げに口角をあげてみせる。どう考えても、目の前に立ち塞がるこの壁を突破できそうにはない。

「ど、どうしよう、デイビス。なんだか大事になってきちゃったよ」

「こんな大所帯で行けるようなとこかよ、スプラッシュ・マウンテンって?」

「大丈夫さ、スプラッシュ・マウンテン行きのボートは、定員八名なんだもの。それじゃあ、最近noteのエディタに新規追加された番号付きリストを使って、イカレたメンバーたちの人数を数えてみよう」

  1. ミッキー

  2. デイビス

  3. スコット

  4. エディ

  5. ロビン

  6. リトル・ジョン

  7. ジュディ

  8. ニック


「ほおら、ピッタリだろ。ね?」

「ね? じゃねーよお」

「しかし、これで準備は整った。それじゃあウサギたちを追いかけて、みんなで、スプラッシュ・マウンテンに出発だ!」

「「「「おーーーーっ!!!!」」」」

 掛け声に合わせて、四つの拳が、勢いよく突きあがる。ご覧の通り、メンバーリストの後半はやる気に満ち満ちているが、前半のメンバーといえば、ひたすらに元気を削がれるばかりなのである。と、そこへ、あの耳慣れた声が不意に被さってきて、全員がぎょっとして辺りを見回した。


「行ってみな、おかしなクリッターカントリーへ。君たちを待ってる奴がいる。奴の名前は、ロジャー・ラビット。飲んだくれの奴を叩き起こして、話を聞きな」


 不思議な声の響きに導かれるように、一同が天井付近を見あげると、歯がずらりと並べた口がひとつ、不気味な笑みを携えていたが、それだけ・・だった。というのも、その口はいたくニヤニヤしながら、虚空にぽっかりと浮いたまま、催眠術をかけるかの如く蠢いて話しかけてきたのである。やがて、包丁でレモンピールを剥くようにして、紫色の縞模様の尻尾が現れると、デイビスは目をまん丸にして大声をあげる。

「あー! チェシャ猫! またまた現れやがったな、てめえっ——」

「おっほほほほ、これでようやく、役者が揃ったのにゃ。追いつ、追われつ、走り回って、これこそウサギとキツネとクマの三重奏」

「他人事のように言うんじゃねえっ! そのウサギとキツネとクマたちに、こっちは無理矢理巻き込まれてんだよー!!」

「うほほほほ、そいつがスプラッシュ・マウンテンの筋書きの骨格だからにゃー。『笑いの国に出かけるウサギ、その後を追いかけるキツネとクマ。さてさて、彼らの見いだした笑いの国とは?』。今回は大増量サービスして、なんと四羽のウサギと、三匹のキツネと、二頭のクマでお届けするにゃ」

「意味の分からん大増量をするなーっ!! もはや誰が誰だか全然分かんなくなってるじゃねーかっ!!」

「ワーワー文句を喚いても、あんたがたは、どうあっても出発しなければならないのだよ。
 なあ、うつつの時間に追われた、哀れなアリスちゃんたち。よおーく、聞くがいい」

 チェシャ猫はいつもの通り、あの、ニィッといやらしいニヤニヤ笑いを向けると、妙に頭に響く神秘的な声色で、口上を締めくくった。


「すべての道は、スプラッシュ・マウンテンに通ず。森の義賊ペアも、都会の警官コンビも、過去に囚われた私立探偵も、未来に生きるパイロットたちも。……そして、始まりのネズミでさえも。ウサギを追いかけて、それぞれのドアをくぐり抜け、真っ逆さまに穴を落ちてゆけば、同じ出口へと辿り着くだろう」


 かくして。
 デイビス一行も、ロビンとリトル・ジョンも、ジュディとニックも、心の中に吹き渡る、不思議な風を感じた。それはまるで、魔法のかかるような。自らがまさに、これから読まれる物語の一員として入り込んでゆく、その始まりのように胸のざわめく、不思議な風だった。

「また、訳のわっかんねえことを……」

「とにもかくにも、行ってみるこったね。スプラッシュ・マウンテンのおかしな連中が、君たちを待っているのにゃ」

「それからなー、そんなに急に出たり現れたりするのは、やめてくんねえかな。心臓に悪いんだが」

「分かった」

 と言うと、今度のチェシャ猫は、大層ゆっくり消えていった。尻尾から、お腹へ、前足へ、目玉へと消えてゆき、最後にはニヤニヤ笑いが残った。そしてとうとう、猫がすっかり消えた後でも、しばらくニヤニヤ笑いだけが残っていたが、それもやがて、すうっと薄らいで、なくなってしまったのである。

 グランマ・サラはおろおろとして、スコットのズボンの裾を引っ張った。

「ああ、これでうさぎどんは帰ってくる? あなたがたが連れ戻してくれるんですね?」

「乗りかかった舟です、仕方がない。ま、実際には舟というより、ボートと言った方が正しいかとしれないが」

「どうか、お気をつけて……しかし、あなたたちもスプラッシュ・マウンテンに行くんですね。心配だわ、心配だわ」

 隣で不安そうにオロオロとするグランマ・サラ。隣にいるデイビスの胸ポケットからライターを奪い去ったスコットは、咥え煙草に火を灯し、くゆる白煙を長々と棚引かせながら、

「サラ夫人。そうまでしてあなたがうさぎどんを連れ戻したいと考える理由は、いったい、なんなんです? 彼が出発を決意したというなら、その意志を尊重して、放っておけば良いじゃないですか」

 グランマ・サラがしばらくの間、迷ったように尻尾をぱたぱたと揺らしていたが、やがて静かに口火を切った。

「———『クリッターカントリーには、二種類の動物がいる。スプラッシュ・マウンテンの外に住む動物と、中に住む動物だ』」

「は?」

「『Critter Tails』に記載されている、有名な言葉ですわ。そしてうさぎどんは、あの悪名高い、スプラッシュ・マウンテンの中へと出かけてしまったんですよ。
 ええ、ええ、分かっています、あそこに住んでいる連中は、けして意地悪ではないし、きつねどんのように危害も加えません。ただ、確かなことは———

 ———あそこの動物たちは、気が狂っている。一緒にいると、確実におかしくなるに決まっています」

「みーんな、頭のネジがジッパ・ディー・ドゥー・ダーな連中なんですよ。思い出しただけで——ああ、おかしい」

「こいつはケッサクだあ!」

「あそここそ笑いの国!」

「動物たちの天国!」

「素敵な桃源郷!」

「思い出しただけで——アーッハッハッハッ!」

「どんな人だって——オーッホッホッホッ!」

「ななななな、なんだ、こいつらは!?」

 突然横から乱入してきた大笑いに、スコットはぎょっとした。サラの言葉を皮切りに、周囲にいる動物たちは突如として発作の如く笑い転げ、レストラン中、笑い声の大合唱となったのである。


 ♪Everybody's got a Laughing Place
 誰でもあるのさ
 A Laughing Place to go-ho-ho.
 笑いの国が!
 We've found one and it's filled with fun
 愉快でもう大変
 And you'll find yours we know-ho-ho.
 君を待ってるのさ!

 Everybody's got a laughing place (high ho!).
 誰でもあるのさ
 A laughing place to go-ho-ho! (high ho!).
 笑いの国が!
 Take that frown, turn it upside down
 頭をごっつんこ
 And you'll find yours we say-hey-hey.
 そうすりゃ気づくだろう!


 まるで阿片でも飲んだのではないかというそのコーラスの一糸乱れぬ見事っ振りに、デイビスたちはゾ〜ッと怖気を走らせた。

「この通りなんです」

「なんだなんだ。集団幻覚でも見てんのかよ」

 ドン引きするデイビスとスコットを見あげて、グランマ・サラは肩をすくめながら、

「スコットさん。あなたのように真面目な方に、スプラッシュ・マウンテンへの出発を依頼するのは、とても申し訳ないことだとわかっています」

と、その小さな手を、そっと彼の靴の上に置いた。

「どうかお気をつけて。あの電波ソングと住人たちの笑い声に毒されて、気が狂ってしまわないよう、ご用心なさってくださいね」

「サラ夫人、ご忠告ありがとう。あなたの言いたいことはよく分かりました。ですが……」

 スコットは、それまで咥えていた煙草を二本指に挟んで、紫煙をフーッと唇から吐き尽くすと、地を這うように艶のあるバリトンで言った。


「———ゆーて、ここにいる奴らも大概だと思うぞ?」

「新婚旅行はロンドン! ノッティンガム! 花咲くスペイン!」

「フッ、今、ロビンの頭にあるのは、あの長ーい睫毛と、鼻いっぱいにあの悩ましい香水——」

「ロジャーの野郎、見つけたらぶっ殺してやる!!」

「ずるいキツネ!」

「まぬけなウサギ!」

「「何でもない日、おめでとー!!!!」」

 かくして洞窟内のキッチンは、勇ましい鬨の声、プロポーズ、喝采、罵詈雑言、乾杯の音頭で鼓膜の破れるほどとなり、あちらでは紅茶をぶっかけ、こちらではパイ投げをしたり、それぞれが凄まじいやり方で謳歌する、無礼講のパーティー模様と化していた。すでに治安の悪さはこれ以上ないほどに極まっている気がするが、グランマ・サラの言葉から察するに、これはまだほんの序の口ということなのだろう。

「俺たち動物の国でも、ロビン・フッドは、ちゃーあんといたよ。そしてこれが、本当の、クリッターカントリーの物語———」

 まるでオチでもつけるかのように、アラナデールが牧歌的な口笛を吹いて、その美しい青緑色の光沢を携えた翼でマンドリンを掻き鳴らした。


 ♪Pu-puh-puh-puh-puhhpupuuuh
 Ti-titi-tatido-dodo-pari-tidoo


 否応なく、ぺらり、とめくられるページの感覚に、デイビスたちは逃れられない運命を悟った。

 あ、もうこれ、冒険決定なのね。






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