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TDL二次創作「A twinkle of Mouse」6. エディの事務所/プーさんのハニーハント①

 キャブ・カンパニーからダウンタウンへと出た一同は、ぐったりと地面に座り込んだまま、まだ自分の心臓が鼓動していることを神に感謝した。青い補色をともなう月が、街並みを見下ろしていた。トゥーンタウンの路面の石畳やレンガは、濡れたような月光を、地球の平面の如く反射させ、街灯は少し傾いたまま居眠りしており、ふらりと近くの壁に寄りかかりながら、時々、思い出したように背筋を伸ばすと、点滅を繰り返すのだった。

「スコットの背広、ディップで随分汚れちゃったんだね。僕んちで、染み抜きをしよう」

「ああ、そうだな。助かる」

「ちゃんと落ちるかな。この背広、きっと高級なものなんだよね?」

 ミッキーはスコットの上着を見下ろし、恐る恐る、といった口調で訊ねた。その声色に、懶げにキャブ・カンパニーの外壁に寄りかかっていたスコットも、微かに苦笑して、

「いいんだ、そんなのは。さあ、こっちにおいで」

「うん!」

 両手を広げると、その中にぴょん、とミッキーが飛び込み、夜気に冷えた鼻を押しつけるようにして、暖かいスコットの胸へと縋りついてくる。その大きな耳と耳の間を撫でてやりながら、ティーンエイジャーにしてはあどけないしぐさを見て、彼はこうして、ずっと誰かに甘えたかったのだろうか、と考えた。

「イタチの野郎どももとっ捕まったし、トゥーンタウンを出るのは明日だな。坊主たち、異論はねえか」

「んー、そうだなー。今日はとにかくベッドに入って、もう寝たいよ」

 呻くような声を引きずり出したエディに、デイビスが地面に大の字になって、眠そうに返答をする。

「見ろよー、ジェシカ、すっげー星。いつかどさーって降ってこねえかな」

「坊やって、やることがとことん子どもなのね」

 ジェシカは噴水の縁に腰掛け、その美しい太ももをスリットから露わにしながら、長いシガレット・ホルダーに火をつける。その艶やかな唇が、大きく一服すると、立ちのぼる白煙は見る間に夜空へ消えて、後には何も残らない。

 降るような星空は、吸い込まれるほどの闇の奥に、壮絶な数の青い星芒を浮遊させて、あたかも一面にルシフェリンの粒を振り撒いたよう。その幾億もの星屑が凝集する様に、ぼんやりと言葉を失っていると、時折り、細い流れ星が、天空の隅を走り抜けてゆくのだった。

 そういえば、S.E.A.の本拠地に存在した一室、惑星の間チェインバー・オブ・プラネットも、こんな風に数え切れない星の気配を解き放っていたな、とデイビスは思い出す。ガラスが触れ合う楽の音、そして巨大に吹き攫う神の息吹の中で、響き渡るのはあまりに荘厳に重なりゆく聖歌。あの瞬間、砦の壁は消え果て、信じるものが何もかも崩れ去り、誰もいない世界に、人類のうちたった一人で、あの無辺際の宇宙と対峙させられたように思った。

 フォートレス・エクスプロレーションは、嫌なことを思い出す。特にこんな、風の肌寒い夜には。デイビスは静かに長い睫毛を瞬かせ、じりり、と砂粒と擦れ合いながら、冷たくなった地面で寝返りを打った。

「なあ、ジェシカ。あんたも、俺たちとクリッターカントリーに行くか?」

「あたしは、明日もインク・ペンキクラブで、歌手の仕事があるのよ。悪いけど、ロジャーの救出は、坊やたちにお任せするわ」

「りょーかい。必ず助け出して、トゥーンタウンに帰してみせるよ」

 ジェシカとデイビスの会話を聞きながら、スコットはようやく重い腰をあげ、ミッキーの脇の下に両手を差し入れると、肩の方まで高く抱きあげた。それから、地べたに大の字になっている人影に近づいて、

「こら、デイビス。こんなところで寝るな」

と革靴の先で小突く。ほとんど睡魔に襲われかかっていたデイビスは、猫のような声をあげながら、ゆっくりと身を起こした。

「あーあ。ミッキーの家まで帰るの、面倒くせえなー」

「ミッキーアベニューは、ダウンタウンからは、少し離れているからな。まあ安全に、ジョリートロリーで帰るつもりだ」

「それじゃ明日は、八時に、トロリーステーション前に集合で構わねえか。旅に相応しい準備をしてこいよ」

「了解。それより、エディ」

 そろそろ就寝時間なのか、うとうとと眠そうにしているミッキーを片腕で抱え直しながら、スコットはいきなり、ぐい、とデイビスの背中を押して、

「こいつを何とかしてやってくれないか。昨日からずっと、着たきりスズメなんだ」

「へえ、坊主、せっかく天使みたいな顔してるのに、ずっとその格好は悲しすぎるぜ」

 エディは上から下までじろじろと睨め回し、呆れた声で言った。

「ま、独身の野郎のうちだ、おもてなしなんぞはとてもできねえけどな。旅の準備くらい、見繕ってやるよ」

「ああ、悪いな。よろしく頼む」

 当面の身づくろいの心配がなくなりそうだと判断したデイビスは、さっそく揉み手をして、

「へー、エディの家か、楽しみだなー。へへ、お世話になりまーす」

「事務所を兼ねてるからな、ロサンゼルスの、ちっちぇえ家だぞ。ベッドはかろうじて、二つあるが」

「いいよいいよ、服と寝床を貸してくれるだけで、充分すぎるくらいだって」

 二人の平和なやりとりとは別世界にいるように、スコットは片腕だけでミッキーを抱きかかえながら、ぼんやりと満天の星を見あげていた。デイビスは、ふと、背後を振り向いた。紫黒の夜闇と対峙して立ち尽くしているスコット。肌寒いほどの夜半の凛気に満ちた、果てのない暗黒に吸い込まれそうだった。ポート・ディスカバリーでも、よく星を眺めている光景を目にしたから、もしかしたら、何か個人的な思い入れがあるのかもしれない、と思っていた。そして、そんな風に天を仰ぐ時は決まって、父親の役目からも、パイロットの職からも解放されて、どこか儚いまでに孤独の匂いを漂わせているのだった。限りない星々は、立体的な光芒の青を放ち、幾つかは橙で、しかしその殆どは、錐で空けたかのような無色に瞬いていた。

「おーい、スコット!」

 呼びかけられた声の方向を、暗鬱に振り返ると、何かが光った。燦くそれを視認する間もなく、自由の効かない体勢の中でぱしりと掴む。やや指に馴染む、冷たい硬さ。気に入っているブランドの限定品だかで大切にしている、精緻な銀古美のライターだった。

「取っとけよ。あんた、持ってきていないんだろう?」

 やや距離のある向こう側から、爽やかな天板のような声が張った。

「うん? 私より、お前の方が吸うだろう?」

「いや、なんとなく、禁煙してみようかなーって思ってさ」

 スコットは、しばらく手のうちのそれを見つめていたが、やがて胸に籠もるような、朗々とした低音のまま、穏やかに言った。

「ありがとう。恩に着るよ」

 デイビスは振り返って、にこっと笑ってみせた。

「じゃー、スコット、ミッキー、ジェシカ。また明日な」

「ほら、ミッキー。別れだけは、伝えておけ」

「うん。……おやすみ、エディ、デイビス」

 小さな声が、途切れがちに聞こえる。デイビスがちらりと振り向くと、最後に見えたスコットの姿は、眠るミッキーを抱き直しながら、ジェシカを送るため、連れだって歩き去ってゆくところだった。

 エディの事務所は、ロサンゼルスの大通り沿いの一角に設けられていた。遠く、サンタモニカ丘陵の中腹に、白いハリウッドサインが見えた。まもなく、目の前に古びたビルが立ち並ぶと、エディは真っ直ぐにその中のひとつに吸い寄せられ、軋む階段を登っていった。やがて見えてくるドアは、VALIANT & VALIANT——バリアント兄弟私立探偵事務所。VERITAS(注、ラテン語で「真実」の意)、と半透明の磨りガラスに刻印されたその扉には、白馬に堂々と跨る騎士の姿が描かれており、デイビスは少なからず意外に感じた。この男が、そのような高貴な真理に服しているとは思いもしなかった。

 鍵をこじ開けると、存外広い場所であるそのオフィス内には、真っ青な空間が広がっていた。まるで夜空の月が、詩人の手に捕まるのを恐れて、一時的にこの室内へ匿われたかのようで、ブラインドからは明るすぎる月の光が漏れ、サファイア・ボンベイの壜の中のような世界に、鷹の彫刻を象った帽子かけや、多くの資料の積まれたチェスト、シーツが荒れたままのベッドなどを照らし出した。埃っぽさとともに、どこか懐かしい人の匂いと、酒臭さが漂った。部屋の最も目立つ窓際には、ふたつのデスクが向かい合わせになっており、その上にもまた、ごちゃごちゃと物があふれていた。エディは中折れ帽を鷹に被せ、上着を脱ぎながら、未払いの請求書を裏返しにして、そのうちの、白百合のように項垂れている奥のランプを点灯した。どちらのデスクも片付いていないが、特に手前のデスクは、ひとしお、放置されてきた年月が厚かった。[THEODORE J. VARIANT]と革の名札が置いてあり、それに、大きな虫眼鏡、パイプ、万年筆、吸取紙、ペン置き、ベティ・ブープの人形、蜘蛛の巣と埃だらけの灰皿——そして、たくさんの新聞に、写真立て。探偵業という職業柄なのか、窓を覆うブラインドの前にも紐が渡してあり、そこから木製の洗濯ばさみが、幾らかの乾いた写真を吊るしている。

「おめえはこっちに寝てくれ。ちと、埃っぽいがな。本当は客人にいい方のベッドを振る舞うべきなんだろうが——俺は、こっちには寝られねえんだ」

 エディは、戸棚に見えた家具の把手を引っ張り、もうひとつの壁面収納ベッドを引き出した。シーツは色褪せており、その上を乱暴にエディの手が払うと、窓を開けて夜の空気を流し入れ、埃の立った部屋を換気した。

「死んだ弟のだ。怖がらなくていい、客人に怒るような輩じゃねえよ」

 ようやく、空虚の座が誰によって占められていたのか理解したデイビスは、エディの方を振り返り、

「まだ、大事に取っておいてあるんだな」

「ああ、またあいつがひょっこり帰ってきても、困らねえ程度にはしてある。
 待ってろ。あいつの服の方が、おめえの身長には合いそうだからな」

 そう言い残したエディは、背の高いクローゼットに頭を突っ込み、またごそごそとやり始めた。

 手持ち無沙汰になったデイビスは、ぼんやりと窓辺に寄り、ブラインドの向こうに並ぶ HOLLYWOOD の文字を見つめた。禿げかかったリー山は、その白いアルファベットを波打たせ、このロサンゼルスの麓に生きる人々や、眠らぬ街のぼんやりとした街灯の等間隔を見下ろした。もうすっかり深夜だった。人気は絶え、時々路肩に停められている車が、黒々とした影を引いている。薄明るい車道とのそのコントラストが、目を閉じても離れないと思わせるほどまでに、頭上からそそいでくる月の光は強かった。月明かりは、夜空を濃密に青くし、周囲の星々は、光の圏に圧されて立ち退いた。そして不意に、ブラインドの手前に垂れ下がる紐から吊られた、何枚かの写真が目に入った。ずいぶん前からそうして陽の光の中へ干していたのだろう、それはカナリヤ諸島のビーチの写真で、恐らく現物であれば、色鮮やかな鞠のように見えたであろうパラソルが、モノクロの砂浜の上に突き刺さっている。エディ——だけではなかった。隣に映り込むのは、目鼻立ちはよく似ているが、眼鏡をかけ、もっと背丈のある男性。同じソンブレロを被り、波飛沫の中でズボンをたくしあげ、エディとともにこちらを見つめていた。

 笑顔だった。

 その笑顔ひとつで、互いの存在がどれほど魂に近いものなのかが、濁流のように流れ込んできた。二人とも、もう良い歳の大人ではあったが、パン種を捏ねたような屈託のなさで、お揃いのウクレレを手にしている。太った丸顔に、完全に弛緩し切った眉、悪戯そうな笑みを引く唇、足並みを揃えて組まれた肩、そのいずれもが、完全なる同志を得て安らぎ切っている、この世でたった二人きりの兄弟を示していた。

 人影は、夢のように次々と写真を抜け出して、勝手に月明かりの中へと遊んでしまうように思われた。それらがそこにあるという沈黙は、啜り泣きよりもよほど重く、拭い切れない濃いものとして目の前に現れた。

「あった、あったぜ」

 デイビスに背を向けて衣類を漁っていたエディは、小さく叫んで、シャツとスーツ類を一式、それにネクタイを抱えて戻ってきた。そしてデイビスを呼び寄せると、テイラーの如くせっせと働き、彼にひと揃いのスーツを着せ、軽く首にネクタイをかけてやった。

「窮屈じゃねえか。サイズはまあ、それほど問題ねえが、後は趣味だな。さすがにおめえの歳で、ブラウンのスーツはおかしいよな」

「エディ」

「なんだ?」

「これ……」

 ネクタイを結ばない類いの男であったデイビスは、眉尻を下げて、彼に助けを求めた。エディは、頼られて少し嬉しいように、ふっと微笑を投げた。

「大の男なら、タイくらい締められるようにしとけ」

「首回りがきついの、嫌なんだよな」

「でも締めなきゃいけねえ時はくるんだよ、冠婚葬祭とかな。ふん、この柄は、おめえには合わねえか」

 ベッドへ無造作に投げていたネクタイを、幾つか胸許に合わせて替えながら、エディはぼそりと言った。

「これから先、おめえの周りでも、どんどん人がいなくなってゆくだろう。面白くねえ話だがな。黒のネクタイくらいは、持っていた方がいい」

「弟さんは、病気で亡くなったのか?」

「いいや、殺人だ。即死だったよ。トゥーンの落としたピアノに頭を潰されて、たった一秒で、あの世行きだ」

 それを聞いたデイビスは、ふっと地面のなくなったような、肺の詰まった感覚が湧いて、呼吸ができなくなった。彼の言葉に気圧されたまま、何も言えずに眼を揺らめかせていると、エディは月明かりに透かされた、オリーブオイルのように澄んだ眼を、虚ろに瞬かせ、

「俺ぁ、あいつの葬儀では泣かなかった。その後も、一度も泣いたことはねえ」

「涙が出なかったのか?」

「……いや」

 平静を装っていたが、その息は微かに震えていた。窓の外から忍び込んでくる冷たい夜気が、ロープに括りつけて乾かしてある、セピア色に褪せている写真の何枚かを揺らした。

「いったん泣き出しちまったら——もう、涙が止まらなくなるって、分かってるからだ」

 エディは、短い腕をデイビスの首に回して、ようやく、お眼鏡にかなうネクタイを締めてやった。そして一歩下がって、彼を上から下まで眺めると、月明かりの中で、微かに、その目をまぶしげに細めた。

「いいじゃねえか、似合ってるぜ。あいつよりは、ちょいと色男すぎるがな」

 それから、白い豚皮のスーツケースを引きずり出してくると、埃を払い、生活必需品を乱雑に放り込んでやった。エディは確かに泣かなかった。僅かに肩を震わせることもなかった。そうすることに、慣れているのかもしれなかった。

 月光が降りてきていた。時間が経つごとに、そのしらじらとした光は一層強くなり、冴えた輝きが、ブラインドの向こうを音もなく移動した。窓の外を風が吹くのとは裏腹に、部屋の中は一切が静けさに満ちて、埃が舞いあがっていた。エディのがなるようないびきが、遠くから聞こえていた。デイビスは冷たいベッドに寝転んだまま、ネクタイを手に取り、考え事をしていた。ウイスキーの酒壜が、月明かりに、小さな水晶の如く輝き、部屋の隅に微かな光を反射させた。やがてその光は、デスクの上に並べられた写真立てにまで手を伸ばし、ロサンゼルス警察学校を卒業した時の、ピエロの鼻をつけた陽気な二人組、サーカスで巡業をしていた頃の、父親と映る幼い道化の姿、そして十年近く前に独立した事務所設立時の、美しいブルネットの髪の女性を挟んで乾杯する、輝かしい兄弟の姿を、そっと撫でさすってゆくのだった。




「さあ、着いたぞ。ここが、ファンタジーランドの入り口だ!」

 ようやく、トゥーンタウンのゲートをくぐり抜けた一行は、朝陽に揉まれて伸びをしながら、新しいそのエリアを見回した。タウンの深く映える硬さの葉と比較して、この付近一帯の植物は、目の冴えるようなうやうやしさと新鮮さがある。その清新な色合いに馴染む、土色の街並みは、のどかでありながら、どこか背筋の一本通ったような直線が覗き、短い秋の訪れを喜ぶように見える。格調高いヴィクトリア様式のパブや(こんな時間だというのに、立ち飲みをしているシルエットが見えた)、数々のイギリス田園風の家屋が立ち並び、色づき始めた黄葉がかさつく下に、色褪せて黴の生えつつある、牧草色の雨戸のついた格子窓、それに木組みTimber Framingに塗り込めたクロテッド・クリーム色の漆喰が、ざらついた手触りを微かに汚している。素朴な柵は、何百、何千と多彩な花々の咲き乱れる庭園へと繋がり、その濡れた石の隙々に、湿り気のある土やウッドチップが溜まり、朝靄の中を、ゆっくりとなめくじが這い回っていた。

 ショップの窓辺には、愛らしい黄色のテディベアが飾られている。早朝、微かな音も鳥の囀りのようによく響き、一般市民らしい人々は、青空の下にテラステーブルを出して、笑いさざめいている。美しい彩色の施された陶磁器に、繊細なカトラリーを響かせて、卵白のオムレツや、イングリッシュ・スコーン、それにターキーの胸肉をゆっくりと食しており、ぼんやりと葡萄色に発光する紅茶のカップには、怒濤の時を止めたような紅葉が映り込んで、その白磁に微かな楓の影を賑わせていた。あちこちの窓辺やハンギング・バスケットからは夢のような赤が咲きこぼれ、そのしとやかな花びらの先に、朝露を滴々と輝かせている。エディは、パブの曇りガラスをしきりに覗き込み、本場のウイスキーを傾けたがっていたが、夜、紅葉の下から一面の暖かい豆電球が灯る時間になったら、またここに来よう、ということで片がついた。

「このファンタジーランドを通り抜けると、クリッターカントリーに辿り着くよ。そうしたら、ようやく、ロジャーを捜しに行けるね」

 そう話しながらもミッキーは、やっぱりはしゃいで、霧にかすんだ金色の朝陽へ差し向け、ヤマボウシがすずなりに群がらせている、その疣のついた真紅の実を取ろうと、飛び跳ねていた。背の高いスコットは、腕を伸ばして、それを摘んでやりながら、

「もうすっかり秋だな。綺麗なところだ、観光客も多い」

と感嘆した。道は実にことごとく燃えて、紅蓮の世界に迷い込んだかのようである。雨あられと数限りない落葉が朝露に濡れ、地面という地面を鮮やかに、掘れるほどに堆く埋める。頭上からも、圧巻の紅葉が押し寄せ、金糸縫いの如く天を縢り合わせていた(注、実際の東京ディズニーランドは、潮風を考慮して植えられているため落葉樹は少なく、紅葉もあまり見られません)。通り過ぎるたび、光と翳が複雑に入り乱れ、走馬灯のような色を遊ばせてゆく。

 ミッキーは、喜んで尻尾を振って、熟れたヤマボウシの茎をくるくると回しつつ、

「うん、ファンタジーランドは、おとぎ話の国を舞台としているからね。王国の中でも、ひときわロマンチックな場所さ」

と言って、丁寧に皮を剥き、その実をぱくりと食べた。

「ふうん。俺には優雅すぎるところだなー、ポート・ディスカバリーと全然違うし。それにしてもここらへんは、蜂蜜の匂いが凄いなあ」

「ここには、養蜂用の巣箱があるんだよ。蜜蜂は温厚な性格だから、危害を加えない限り、僕たちのことを刺したりしないんだ」

「へええ。だからさっきから、蜜蜂が多いのか」

 デイビスの指摘する通り、あたりに漂う匂いは、少し吸い込んだだけでも、肺が透明な橙色に煮詰まるほど甘ったるく、その中で物憂げに羽ばたいている、黄色と茶色の毛を持った蜂が、うたた寝の如くあちこちの宙を漂っていた。田舎の伝統が息衝く地域で、濃厚な蜂蜜の香りが、陽だまりでふわふわと暖められ、自然に溶け込んでいる。自然といっても、付近の植物はすべて庭師の念入りな手が入ったもので、その実態は人工的な藝術である。流れゆく小川には落葉が浮き、さんざめく紅や黄の色合いを散らしているが、その水の潤いも、この蕩ける匂いの中では、蜜の流れに見えてくるのは不思議なものだ。家屋の立ち並ぶ背後には、広大な森が広がっており、これからの季節にかけては、時折り、鹿も見られるという。この辺りの家々に生まれついた住民たちは、幼少期は森へ探検に出かけたり、大人になれば瞑想や詩作に耽ったりして、その田舎道を散歩するのだった。

「なーんか、蜂蜜の匂いを嗅いでたら、食いたくなっちゃった。なー、みんなで食おーぜ、食おーぜ。甘いのがいい」

「お前ほど三大欲求に忠実な人生を送る人間も、そういないよな」

 スコットは苛々しながら、自分の財布にたかろうとシャツを掴んでくるデイビスを押しのける。その頭に、ひらりと山吹色の楓の葉が載った。

「いやあ、そんなに褒めなくっても」

「褒めてない。どうしたらお前の単細胞には、私の言葉が礼賛に聞こえるんだ」

「腹減ったんだよー! 何でもいいから、食いもんくれよ!」

「カラスか、お前は! 頼むから、周りに恥ずかしくないように鳴き喚かないでいてくれよ!」

 頬から湯気の出るような思いで叫ぶスコット。このように長閑な雰囲気のなかで大声を出すと、大層目立つ。臆面もなく甘えれば、大抵のことは叶えてもらえる、ということを、派手な夜遊びの経験から熟知しているデイビスのことを、紅葉の翳を浴びているミッキーは、耳をぴこぴことはためかせたまま、この人、本当に大人なのかな、と見つめた。

「んー? なんだよ、ミッキー。変な顔して」

「前から思っていたんだけど。……デイビスって、欲望丸出しで生きているよね」

「分かった分かった、お前も本当は、甘いもんを食いたかったんだな? そんじゃ、スコットの丸め込み方を教えてやるよ。あのなー、罵倒されようとも右から左に聞き流して、情に切々と訴えながら、なおかつしつこくしつこく食らいついてゆけば——」

「聞こえているぞ、デイビス。貴様には今後一切、奢ることなどありえんからな」

 ボソボソとミッキーに耳打ちするデイビスを一喝し、スコットはすたすた歩き去ってゆく。エディはその様子を、興味深そうに見つめて、

「へえ、坊主と兄ちゃん、随分仲が良いんだな。どういった関係なんだ?」

「スコットは、俺の元上司! んでもって今は、同僚になった!」

「出世したのか、坊主。そりゃいいぜ」

 エディは感心したように口笛を吹くと、懐に手を入れ、財布の紐を緩めた。

「出世祝いに、クレオズで奢ってやる」

「へへ、話が分かるぅ。エディは気前がいいぜ」

「おーい、兄ちゃん、あんたも食うか?」

 エディは大声で呼びかけたが、しかしスコットはひらりと片手を振っただけで、背を向けて紅葉をじっと眺めている。拗ねたり、借りを作りたくないといったわけでなく、ただ単に、一人でその光景を見ていたい、という思いかららしかった。

 遠く、淑女の笑い声がこぼれてゆく朝の秋の風景に溶け込み、どこか物のあわれを感じさせる憂愁を秘めたスコットの後ろ姿を見つめながら、エディ、デイビス、ミッキーは、無言で互いの顔を見合わせた。足元をころころと枯れ葉が転がっていった。

「クールな男だなあ。一匹狼って感じだぜ」

「まーな。出会った時からずーっと、あんな調子。お前はどこのジェームズ・ボンドなんだよ、っていう」

「でも、ああいうのがよく言う、ダンディっていうやつなんじゃないのかい?」

「あー、ミッキー、変な妄想はやめとけ。格好つけてるけど、あいつはあいつで、なかなかアホなところがあるぞ」

 デイビスは、軽く肩をすくめた。

「ま、職場じゃ、スコットは色んな奴から頼られちゃいるけどな。一匹狼なのは、むしろ俺の方」

「ハッハッハッ、そりゃいいや。おう、坊主、人は孤独に堪えてこそ、タフになるってもんだ」

「エディ、古いなー。この時代、独りになるってのは、死活問題なんだぜ?」

 石の上に腰掛け、エディから手渡される、キャラメルクリームの詰まったカステラケーキにぱくつきながら、デイビスはモゴモゴと言った。脇の下からミッキーが潜り込んできて、彼の膝を椅子代わりにして座った。

「いいじゃねえか、独り身ってのは身軽なもんだ。どこまでも遠くまで行ける。自由なのは良いことだ」

「ふーん、なんだか、独身貴族の発言って感じだな。別にそれでもいいけどさあ、恋人いねえの、エディ?」

 そう訊ねた途端、顔を赤らめたエディは、慌てて矛先を変えて、

「いいじゃねえか、そう詮索するもんじゃねえぜ。坊主の方こそ、良い奴はいねえのか」

 頰についたカステラケーキのくずを、親指ですくって舐めとりながら、少し考え、

「んー。俺、色んなところをフラフラしてるからなあ」

「とんだクズ男の発言だな。いつか地獄に落ちるぜ、坊主」

「だって向こうが、俺のことを放っておいてくれねえんだもん」

 エディは呆れ返って、包み紙をくしゃくしゃに丸めた。そこへ、それまで黙って彼らの会話を聞いていたミッキーが、やはり口の端にカステラのかけらをくっつけながら、ひょいと話題に参入してきて、

「僕は、ミニーひとすじだよ」

「ミニー? あー、あいつ、浮気すると怖そうだもんな」

「怖くなくても、ミニーひとすじだよ!」

 そう言ってミッキーは、手持ちの旅行用かばんの中から、明らかに入り切るとは思えない分厚いアルバムを、次々と引き出してきた。ぎょ、と身を引くエディとデイビス。

「な、なんだこのアルバムの分厚さは」

「ミニー・コレクション。九十年分あるんだよ」

 手渡されたそれは、ずし、と重力の影響をふんだんに受けて、漬け物石のような迫力である。震える手でアルバムをめくってみると、果たしていつこんな写真を撮る暇があったのか、絶妙なアングルに絶妙なタイミングで、シャッターチャンスを逃さなかった結実が大量に並んでいる。

「ひええ。本当に、全部ミニーだ」

「これ、旅の持ち物に入れてくる必要があったのかよ」

 狂気を感じる。ただ単に写真を入れているだけでなく、それぞれにびっしりとキャプションをつけているのが凄い。

「僕、こうやって、ミニーがいつ何をしたのか、忘れないようにしているんだよ」

「(やべえよ、やべえよ)」

「こ、ここまでしなくても、ミニーとは毎日顔を付き合わせてただろうが。なんでこんなに写真を溜めといたんだよ」

 ドン引きするデイビスの言葉に、ミッキーはにっこりと頷いて、

「うん。でも、いついなくなっちゃうか分からないから、取っておいているんだよ」

 その時、秋風が大きく樹々をしならせ、ちょうどスコットが、咥え煙草に火を灯しながら、ゆっくりと戻ってきた。さっそく、膝の上に座っているミッキーのしっぽがチョロついているのを見て、俺と知り合いだった期間の方が長いはずなのに、すっかりスコットに懐いたなあ、と考える。やたらガタイがいいし、仏頂面だしで、一見すると威圧感垂れ流しのオッサンなはずだが、人に好かれやすい電波でも出してるのかねえ? 俺にはさっぱり分っかんねえけど。

「あー、朝からビール飲みたいし、ブランデー煽りたいし、強いカクテルかっこみてえなー」

「脂っ気が足んねえよな。熱々に燻したベーコンに粒マスタードを乗っけて、ウイスキーで流し込みてえぜ」

 そして、アルコールに飢えている人間が二人。酒飲みにとっては、長らくパブ(注、元々はパブリック・ハウスから。原型は千年近く前から生まれ、複数人での購入時の、Round of Drinksという習慣も有名である)文化を培ってきたイングランドは、なかなかに魅力的な国で、ジン、ウイスキー、サイダー、エールなどといったアルコール類と比較すれば、紅茶もコーヒーも目に入らないのである。こんな秋晴れの日には、朝からほろ酔い気分で外を散歩すれば、どれほど気分が高揚することだろう。

 一方のスコットは、デイビスの目の前に立つと、おもむろに影を落として、手を差し出した。

「これ、返すよ。ありがとな」

「ああ、どーも。少しはニコチンが抜けたかなー、これで」

 伸ばした掌に、弧を描きながら綺麗に収まってきたライターを、ぐっと握り締めるデイビス。何気なく、もう片脳の手に持っているカステラケーキの包みに目を配って、スコットは首を傾げた。

「美味かったか?」

「え?」

「エディに買ってもらった、菓子は」

「ああ……うん」

「そうか」

 その時、煙草をふかしながら柔らかに目を細めたスコットが、ふっと、よく見なければ分からないほどに薄い微笑を浮かべているのを見て、こいつ、俺のこと息子だとでも思ってんのかなー、と首を捻った。歳が離れているとはいえ、せいぜい十程度だし、そんな風に見られても不気味なだけなんだが?

「なんだ、その気色悪い表情は。私の顔に、何か不満でも?」

「…………」

 と思っていたのは相手も同じようで、イラッ、と向かっ腹を立てるデイビス。この悪友に近い関係は、当分は変わりそうになかった。

「やあ、おはよう、ミッキー!」

 木陰からこちらに向かって挨拶してきたのは、柔らかなダークブロンドの髪を流した、細身の少年。大きな石の上に腰掛けていたのが、ちょうど知り合いを見かけて、声をかけたのだ。ミッキーはぱっと顔を輝かせて、彼の前に走り寄った。

「クリストファー・ロビンじゃないか! おはよう、とっても良い朝だね」

「学校に行くまでに時間があるから、ぼく、本を読んでいたんだ」

 まだ変声期を迎えていない声を、紅葉の天蓋に響くように軽やかに放ち、クリストファーは微笑んだ。スコットが見ると、まだ十代にも遠いと思われるその年齢にしては、かなり分厚い書物を開いているようだった。

「ぼく、学校に通って、随分たくさんの単語が読めるようになったんだよ」

「そういえばクリストファー、今年から君は、学校にあがることになったんだっけね」

「そうさ。もう何人か、遊び仲間もできたんだよ」

「それは凄いや」

「ママにも、素敵だねって、褒められたんだ」

 濡れた何枚かの美しい落ち葉を拾って、ハンカチに包みながら、クリストファーは無邪気に答えた。朝の陽射しに透けて、ダークブロンドは、見事な金髪の群れに見えた。

「学校って、楽しいね。ぼく、もっともっと、色んなことを勉強したいんだ。そうしていつか、とっても偉い学者さんになるんだよ」

「そうか、勉強に精を出すのは、とてもいいことだ。坊やは今、何の本を読んでるんだ?」

「うん、今読んでいるのは、ぼくの一番好きな本だよ。たくさんの友だちが出てくるんだ」

 するとクリストファーは、降りそそいできた楓の葉を払うと、おもむろに、その幼い声で音読し始めた。



 わたしたちの ものがたりは、ほかの多くの お話と おなじように くまの プーさん という名まえの ちいさな くまから はじまります。世の中の お話の ぼうとうに よくあるとおり、くまの プーさん という名まえの ちいさな くまは、なにかを 探しているようです。その なにかとは ハチミツのこと でした。

 ものがたりの 流れに よくあるとおり、くまの プーさんが ハチミツを 見つけるのは、なかなか かんたんな ことでは ありません。そうそう、とくに みなさんが すっかり ハチミツを たいらげて しまったような ときにはね。

 そうです、だから このものがたりは、くまの プーさんの ハニーハントから 幕を 開けるのです……

 このものがたりを はじめるには もうひとり とうじょうじんぶつが 必要です。みなさんは 百エーカーの森という とてもすばらしい 大きな森を しっていますか。このあたりにすむ 人々にとっては そこは とても たいせつな ばしょでした。とくに この少年、クリストファー・ロビンに とっては そこは なににも かえがたい ばしょでした。だってそこには くまのプーさんや かれのお友だちが たくさん すんでいるのですからね。

 森のちかくには うつくしい ていえんがあり 名の知れない 紫の花の 大きなハンギングバスケットが いくつも つりさげられ、日どけいや チューリップや こかげのベンチや はすの花の ういた 池がありました。ていえんの ちかくには 納屋があって、ここは 空想にふけるのに うってつけの ばしょでした。クリストファー・ロビンにとって 納屋とは、百エーカーの 森と おなじくらい たいせつ でした。さあさあ みなさん、どうか えんりょせずに はいって ごらんなさい。ふわりと あたたかな 空気が むかえてくれる そこはなんて すてきなところ だったでしょう! この ふしぎに みちた 納屋は きっと 長年の あいだ、かれの たぐいまれな 想像力を やしなってきたに ちがいないのです。

 みなさんは イギリスの おうちの 納屋 というものを 見たことが ありますか。このくにでは 誰もみんな ていえんを 愛するものですから その 手入れする 用具を どこかに 入れておかなけりゃ ならないのです。けれども みなさん ごぞんじのとおり 花というものは 冬には あまり 咲きません。なので まちにまった クリスマスが ちかづいてくる ころには そこは だんだん ねむりが 深くなってくるのです。

 葉っぱが 色づいてきた いまの季節は とくに、壁に シャベルや はしごが 立てかけられ、ベンチや 戸だなや 飾りだなには ごちゃごちゃとしたものが たくさん ありました。クリストファーが くっつけてきたのでしょう、なかには 数枚の 燃えるような カエデの葉が まぎれこんでいて、つめたい風から たいひさせた はちうえの 花や くわや 小麦粉の ふくろに 混じって かれの 遊びどうぐが いっぱい。赤い さんりんしゃや それに くくりつけた 青い 風船、ゆらゆらと 揺れる 木馬 赤い 凧 ふねや アヒルや ひこうきに きかんしゃ、ガラスびんの なかに 葉っぱと 閉じ込めた シャクトリムシも 忘れてはいけません。戸だなの 上には ランプの光を はねかえして ツヤツヤとした りんごのお皿や 洋梨の かご。そして 戸だなの とびらを 開いてみると、たくさんの キラキラ ねばねば したものの 入った ガラスびんが ならんでいるのでした(ひょっとしたら ここで おいしい ジャムを 作っているのかもしれませんね)。ガーデニングの本 ぐんて 虫採りあみ つりざお きいろい レインコート ドライフラワー つみき ロッキングチェアにすわるくま タンバリン。ほかにも たくさんの たくさんの わくわくするものが、この 納屋の せかいに あふれているのでした。

 そのなかでも みなさんは 納屋の 土壁に 貼られている地図に 気がつきましたか? これは 百エーカーの森の マップです。プーと その仲間たちがすむ森は とてもとても 広いために、百エーカーの森 とよばれていました。こうこうと カラメル色に 焦げた 光をはなつ ランプにてらされた かわいい 地図は 森のなかまたち それぞれのおうちや ハチミツの樹や はねまわる ティガー、ピクニックに うってつけの 野原などが かきこんであります。デイビスが よくよく 鼻を 近づけてみると、ほっきょくへと 通じる 道や 「BEWARE...BEWARE.」と、なにやら 気になることも かかれてあるじゃ ありませんか。デイビスは おもわず かんたんの声を あげました。

「へええ。見てみろよ、スコット。探検の地図みたいだぜ」

「どれだ。お前の頭で、よく見えん」

「ほら、可愛いじゃないか。クリストファーは、絵が上手いんだな」

 デイビスが 壁にはられた 大きな地図を 手で たんねんに 延ばしながら 話しかけ、スコットも そのうつくしく 色づけのされた 大作に 目を見はります。クリストファーは とくいまんめんに 鼻を うごめかしました。

「そうだよ。それは、僕がかいたの」

「そうか、坊やが作ったのか。凄いぞ」

 いつになく にこにことして 頬をゆるませる スコット。かれの むすめも 絵を かく のですが、まだ こんなには きれいに 色を ぬれません でした。それに この 遊び どうぐや ガーデニング ようひんで ごちゃごちゃとした 納屋は、すこし 埃っぽい ですが、きっと 彼の 大切な ものを かたちづくる 世界と なったのでしょう。

 納屋の 外は すばらしい てんきでした。小鳥は さえずり ひだまりは あたたかく カエデは 秋にふさわしい 香りを ふりまいて 世界は こがね色に そまっていました。スコットは うーんと 腕の きんにくを 伸ばしながら、

「坊やは将来、絵描きさんになれるかもしれないなあ」

「はずかしいや、あまり見ないでよ。あ、もうすぐ八時半だから、読書の時間はおしまいだね」

 ぱたむ。

「きゅっ——」

 小さな 悲鳴とともに 本は閉じられ そこで 空想の なにもかもが 終わりました。振り返ると となりに いたはずの デイビスと スコットは 影も かたちも ありません。ぽかんと 口をあけた いっしゅんの後で、ミッキーたちは すべてを悟り、

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


「ちょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」


 クリストファーは 本を さっさと かばんにつめながら 大声を出す ふたりに ふしぎそうに 首をかしげて、

「なんだい?」

「ちょっと、クリストファー! 今のページの続きを読んでよ!」

「えー、どうして? ぼく、もう、学校に行かなきゃ」

「え、えーと、じゃあ、その本を貸してくれないかい? 続きが気になっているんだ!」

「うん、いいよ。汚したりしないでね」

 とても やさしい 少年である クリストファーは、ミッキーに 気まえよく 本を てわたして、

「『Pooh's Hunny Hunt』っていうんだ。僕の大切な本なんだよ。読み終わったら、ポストに入れておいてね」

「うん、分かったよ」

「またね、ミッキー、おじさん」

 にこにこと つくりえがおで クリストファーに手をふりふり 見送ったあと、ミッキーとエディは ものすごい勢いで 本の ページを めくり始めました。

「どうしよう! 物語の中に閉じ込められちゃった!」

「坊主、兄ちゃん! 無事でいるか!」

 二人は ようやく 先ほどの ページまで 辿り着きました。すると なんということでしょう。挿絵の 納屋の なかには あのデイビスと スコットが こちらに むかって ページを たたいているではありませんか。かれらは けんめいに こういいました。

「なんっっで毎回毎回、こうなるんだよ!?」

「貴様といると、本当にろくなことがない! いっぺん、地獄に堕ちろ!」

「う、うわあ。彼らの乱暴な口調は、このほのぼのとした地の文の雰囲気とは、まるで合わないよ!」

 頭を かかえる ミッキーの よこで、エディだけが にやにやと 悪い かおをして、

「よお、坊主、兄ちゃん。ついでに二人とも、その本の中で、綺麗なお言葉遣いってやつを学んできたらどうだ」

「馬鹿なことを言うなーッ!!」

「どうしたらいいんだろう。なんとかして、出てこられないのかなあ」

 ミッキーは あわてて 本を ひっくり返し、その 背表紙を ぽんぽんと 叩きました。おかげで 本に えがかれている 納屋の なかみも ひっくり返り、ざざーっと 傾いた方向へ 家具が 移動して 凄まじい 勢いで がちゃついた ごうおんを 立てました。

「みみみみミッキー! よせーっ、ばかーっ、やめろーっ!!」

 ほとんど 目の前まで せまりくる 戸だなに つぶされそうに なる 寸前で デイビスと スコットは 思いきり 腕や 足を つっかえ棒にし、なんとか たなと 壁の あいだで ぷるぷる 持ちこたえているのでした。

「うう。出てこないなあ」

「おめえじゃ非力だ、貸してみろ。もっと思いっきり振ったらいいんじゃねえのか?」

 首を かしげる ミッキーの そばから エディが 腕を のばして 本を つかみます。そして ばっさばっさと らんぼうに ひとふり。

 ぷちん

「あっ」

 何やら 轢かれた ような 音がして そっと ページを かたむけ直してみると、ゆっくりと ずり下がってゆく 納屋の 戸だなの 陰には おりかさなった 二人が 押し花のように ぺしゃんこに なって いるのでした。

「だめだ。物語には、外からは手出しできないよ……」

 ミッキーは すっかり 諦めて 石に すわりこんだまま ためいきを つきました。そのそばを ぶんぶんと 音をたてて ミツバチが 通りすぎて ゆきます。

「なんとかして、自力で物語の終わりまで辿り着くしかないのかなあ。デイビス、スコット。納屋の中にいつまでもいても仕方ないから、外に出て、エンディングに向かわなくっちゃ」

「お、おう。どうすればいいんだ?」

「この本のタイトルは、『プーさんのハニーハント』。デイビス、スコット。プーについてゆけば、勝手に物語は進むはずさ」

 くま ということばに ただならぬ よかんを 感じとった デイビスは ぎくっとして、

「くま? まさか、熊狩りに行くハンターの話とかいうんじゃねえよな?」

「うん、安心して。プーの物語は、すべてほのぼのとしたお話なんだよ。ヴィランズが出てくることもないし」

「あー、そうか。そんじゃ、危険な目に遭うこともねえよな」

 それを 聞いて デイビスと スコットは ほっと 胸を なでおろしました。もう きのうのように はちゃめちゃな カートゥーンスピンは にどと ごめんだと 思ったのです。

 そのとき ちりりんと ベルが鳴って、納屋の 入り口に ちっぽけな 影が 落ちました。

「これはこれは なんのさわぎ だろう?」

 そこに 立っていたのは、きいろく ふっくらとした かわいらしい くまの ぬいぐるみでした。きている 赤いシャツでは その ぽっこりとした お腹を かくせないようです。その ぬいぐるみは、たなや はちうえが たおれている 納屋の さんじょうを 見て、おそるおそる といった口調で しつもんしました。

「あのう、こんにちは。だれか いる? クリストファー? それとも ティガー、君なの?」

「あれ? 君は誰だ?」

「僕は プー っていうんだ。君たちは かいぶつ スグモドルじゃ ないの?」

「おお、お前がプーなのか。俺がデイビスで、こいつがスコットだ。怪物じゃねえよ」

「ふうん。デービスと スコット だね」

 二人の じこしょうかいを きくと、プーは、少しだけ 首をかしげて、

「ねーえ。君たちは、ハチミツは すきかい?」

「ハチミツ? ああ、すきだぞ」

 そういえば このものがたりの タイトルは ハニーハント だった、ということを 思い出した デイビスは、あわてて かれの ことばに さんどうしました。

「よかった。それなら 僕のこと てつだってくれない? ミツバチのすは とおっても 高いところに あるんだからね。クリストファーの いないあいだに みんなで とりにいこう」

 そういいながら プーが キイ と 納屋のドアを開けると、そこは 大きな青いとびらを 取りつけた 木のうろ だったのでした。なごやかな 陽射しが ころころと ボールを 外へ つれ出し、野原へと おどりました。どんな 小説家も このうつくしい 森をみれば、百万もの ページと アルファベットで 世の中を うめつくして ほめたたえたくなるに ちがい ありません。そうです、こここそが まさに、百エーカーの 森の 入り口 だったのです。

 かって しったる この森の中には、もちろん プーの たくさんの 思い出がありました。みなさんが よく知っている プーが ラビットの 家の 出口に つまった お話も、クリストファーが 雨の日の 大洪水から プーを たすけてあげた お話も、それにそれに、ティガーが とびはねてばかりで こまりはてた 森のみんなが 会議を ひらいた あのお話も、ぜんぶ ここから 始まっているのですよ。

 今はすっかり 秋でしたから、じめんの 草の 細長いものは 枯れていて、虫が のろのろと 歩いていました。うすく ももいろがかった 空は やさしい クリームソーダいろ で、かわいらしい パステルの花が いくつもいくつも あわの 噴きでるように ちらちらと さざめいて とても いい匂いが しました。プーにとって ここは 大すきなばしょでしたし、それ以上に 胸が きゅうっと なるほど たいせつな なかまたちが くらしているのでした。

 カタバミや キバナコスモスが ひらひらと 風にゆれる 野原を、プーは のんびりと 歩いてゆきました。ぬいぐるみには 少し大きい 石や さくも、あわてず ゆっくり乗りこえ、その鼻に きれいな ちょうちょが とまります。

「よいしょ、よいしょ。クリストファー・ロビンが 帰ってくるまえに いそがなくちゃ」

「プー、あの坊やは、もう学校に行く時間だ。しばらくは、帰ってこないよ」

「がっこう? がっこうって、なーに?」

 チチチ と小鳥が うたうなか、スコットのことばを よく りかい できなかった プーは、けげんな 顔をして たずね返しました。

「がっこうって、こわーい いきもののこと?」

「いや、かけ算のやり方や、ABCや、ブラジルがどこにあるかを、習いに行く場所だよ」

 デイビスが がっこう のことを ていねいに せつめい してやりました。プーには、かけ算 というものや ABCは あまり わかりませんでしたが、どうやら そこが クリストファーにとって あぶない ばしょではない ということは わかりました。そして そこには、百エーカーの 森の ように すばらしい 真っ黄色の カエデや 小川のせせらぎや ぼう投げばしも ない ということが わかりました。

「なあんだ、それなら しんぱいいらないよ デービス スコット。クリストファーは すーぐに またここに やってくるんだから」

「すぐにって、どういうことだ?」

 デイビスは ぴょんと 木の根っこを飛びながら、先頭を行く プーに たずねました。そのとき、ぴゅうっと 大きな 風が ふいて 森を ざわつかせました。森の奥に 入るにつれて だんだんと 風が 強くなってくるような 気がします。プーは にっこり 笑って、

「だって クリストファーが ここに こなくなるわけ ないでしょ。僕らは いつまでも 友だちなんだから。

 さ ハチミツを 探しにいこう」





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