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TDL二次創作「A twinkle of Mouse」7.プーさんのハニーハント②/ピノキオの冒険旅行①

 百エーカーの もりの なかに、一ぴきの くまが すんで いました。
 なまえは、「プー」。
 ぬいぐるみだけれど、おはなしも するし、うたも うたいます。
 プーさんは、はちみつが だあいすきでした。(*1)

 ある日のこと。くまのプーさんは クリストファー・ロビンに、風船が ほしいと いいました。

「風船なんか、何に使うの?」

 するとプーさんは、誰にも聞かれないように そっと声をひくめて こしょこしょと 話しました。

「ハチミツ とるの!」

「風船じゃ、ハチミツはとれないよ?」

「とれるよ!」

 ないしょ話をした 二人の 鼻に、ぷうんと 枯れ葉の匂いが ただよったかと思うと、魔法がかかったみたいに キラキラとして 百エーカーの森へと 導かれてゆくのでした。

 さあ ここからが くまのプーさんの おかしなおかしな ぼうけんの はじまりです。それはとても 風の強い ある日のこと。いつもとは 違う 風の ごうごうという音が 世界を かけめぐり、金に そまった うつくしい 森の中は、なんとも おかしな お祭りさわぎのように にぎやかです。

「ひえええーっ!」

「な、なんだ、この風速はー!」

 あらしに慣れているはずの デイビスと スコットも ふたりそろって ひめいを あげました。森が ざわざわと かれらのひめいより さらに大きく さわぎたてます。そう だって 風が強い日って いったでしょう? いったい こんな 強さでは プーのような ぬいぐるみは ひとたまりも ありません。

「ハチミツのところまで飛ぶよ、ハチみたいに。あー、たいへんだ」

 ところがどっこい、もうれつな速さの とっぷうが吹いても、プーは まるで 気にするような ぬいぐるみでは ありませんでした。青い青い 風船にまかせて どこまでも へいわな 口調のまま ものすごい とっぷうに 飛ばされてゆくのでした。

「すげえよ、スコット、あいつはすげえ……何がとは言わねえが、すべてが凄い」

「あんなに度胸とガッツを合わせ持った熊を見るのは初めてだ」

 デイビスと スコットの二人が ポカーンとして プーを見つめるなか 大あらしは ますます強くなる ばかりです。おかげで じめんは 水びたし。あちこちに ハチミツのつぼが ぷかぷかと 浮かんで、デイビスと スコットの二人は なんとか つぼを たどってゆきながら 風の 吹きあれる先を 追いかけてゆくのでした。

「おーい、プー、待ってくれよ!」

「こんなことになるのも ハチミツが だぁ〜いすきなせいだ」

 いっしょうけんめい デイビスが 手をふっても、プーは ちっともかまわず ハチミツの ことばかり。風船をつかんだまま ぼやいている かれのそばで、つむじ風が ぐるりとかけぬけ、樹々の葉は ざんざと ざわめきます。なんという さわがしい 一日なのでしょう。こののどかな森が 始まっていらいの にぎやかさかも しれません。

 この世の 秋を迎える 場所のなかでも、百エーカーの森ほど すばらしいところは ひとつもないと いってよいでしょう。なにしろ、目にうつる すべてのしぜんが 収穫期をむかえ、こっくりと 色づいた森は 橙色の ランプを 透かして見た 暖かな げいじゅつ そのものでした。百エーカーとは、東京ディズニーシーより 少し ちいさいくらいの めんせきで、そこを ぬいぐるみたちが あるくのですから、それは それは 広大なもので、まるで 世界ぜんたいが おちばに うめつくされたみたい といっても かごんでは ありません。足もとに しきつめられた かさかさとした じゅうたんから オウルの家の てっぺんより ずっと高く、トンネルのように つぎつぎと 積みかさなる 何百まい 何千まいもの 大きな カエデの葉っぱは、うっとりするほどの 黄金と 琥珀色で、その葉っぱを 透かすと、ひるのひざしですら うつくしい こがね色に 光るのです。どんな おしろの りっぱな たれまくも この 金の カエデの みごとさには かないません。森の いっぽんいっぽんの 木には それぞれ ジョー ヘンデル レオナルド パトリックと すてきな名まえが あって、どれも紅く 黄色く 緑に ほうせきのように 染めあがり、その豊饒なことと いったら、この世じゅうの 絵の具を ふざけて まきちらしたみたい なのでした。

 聞こえる風は すばらしい 秋の けはいで、立ち止まっても けして 聞きあきることが ありません。少し 風が ふくと まぶしい どんぐりが ばらばらと 降って、胸が 締めつけられるほど なつかしい 枯れ葉の においで いっぱいに なります。そうです ここには なんでも あるのです。ほほえみあったり ちょっぴりおこったり おとしあなを つくったり みんなで 会議をひらいたり。だれにとっても たいせつな きおくは この森のなかで いつまでも 光って けして なくなったりは しません。だから みなさん なぜか むしょうに さみしくなったときは この森を さまよって ごらんなさい。たちまち 何に なやんでいたかも 忘れて、ただこうばしい ハチミツのかおりに こころを ひかれながら、壮大な 秋の 葉ずれを きき とびきり 優しい ゆめを みはじめるでしょう。

 けれども もしも みなさんが この森にあそびにくるなら 明日からに した方が よいかもしれませんね。なんといっても 今日は この大あらし ですから、葉っぱは つぎつぎと 宙を舞って、すこしも きちんと 立っていられません。ラビットの せんたくかごや にんじんの 台車は むざんに 横だおしになり、じめんの穴から 顔をだした ゴーファーのそばを かんいっぱつ、あぶない ダイナマイトが すっ飛んでゆきます。ひゃー、すげえ ばくはつだぜ、と ばくふうに おいだされて 穴からとびでる ゴーファー。年とったオウルの おうちは りっぱな枯れ木の いちばん 上です。黄色い壁に きれいな 板ぶきの やねが ごじまん。けれども今は とっぷうに押されて けたたましい 軋みをたてながら 右へ左へ。ちいさな こぶたのピグレットが 風でひっかかった タオルのように 必死で はしごにつかまっています。

「六十七年の 風に くらべれば 今日のは ただの そよ風じゃ。七十六年 だったかなあ、まあー、どっちでもいい。すごい 風だってことは 忘れも せん」

「あああ! どどど どうしよう? たすけて! だれか たすけて!」

 あしもとの お友だちにも 気づかず オウルは タライに つかまって 考えに ふけっているので、あわれな ピグレットは めにもとまらぬ 高速で ゆさぶられて、まあまあ、ピンクの ぼんやりとした ふわふわなものが なにかうごいている くらいにしか 見えました。

 どうですか。この森の なかまたちの けなげに生きていることったら、なんといじらしい ものなのでしょう。にんげんから すれば それほど 大したことのない きょうふうも、かれらにとっては 一大事なのですよ。でも ひとりだけ そんなこととは かんけいない じょうぶな ぬいぐるみが いるようです。

「プーのやつ、めちゃくちゃはええな……」

「異様にシュールな速度だよな」

 すいー と 逃げてゆく プーを 見つめながら デイビスとスコットは たまたま 流れてきた ぼうをつかって ハニーポッドを こいで おいかけました。えっちら おっちら はいどうどう。この風の中では だいこうずいを オールで こぐのも ひとくろうです。

「は〜あ、こんな時こそ、ストームライダーがあったらいいのに。デイビス様の華麗なる活躍で、こーんなチンケな風、一瞬で消し炭にしてやれたのによ」

「馬鹿いうな、この程度の風速で発進させられるか。まったく、これだからパーティ気分で搭乗するお気楽キッズは困る」

「あ゙あ゙!? お気楽キッズってのは俺のことかよ、このネクラ朴念仁野郎!」

「お前はパイロットとしての責任感が足りないんだ、発進のコストも考えろ、万年甲斐性なし!」

「ケチ!」

「ノータリン!」

「頑固オヤジ!」

「分からずや!」

 もめあう デイビスと スコットには おかまいなく、森のなかまたちは 大あわて。きれいに 晴れあがった 空の下で 大きな にんじんや キャベツ おばけかぼちゃを 育てている はたけは いつもは 牧歌的なのですが、この日 ばかりは そういう わけにも いきません。

「飛ばされるう! うー、うわあ!」

 あれあれ、ラビットときたら せんたくものを干す ロープに つかまりながら、なんとか その場にとどまろうと けんめいです。風の いきおいは とても強くて、見ている こっちまで ハラハラ。せんたくものは ばたばたと あおられ、空にうかぶ 雲も ものすごい スピードで 流れてゆきます。

 森は ほんとうに いろんなにおいがしました。胸を かきみだす においでした。大すきな おかあさんの かおりも おろしたての シャツの かおりも なんども めくった 絵本の かおりも、草の かおりも 空の かおりも カーテンの かおりも しゃぼんだまの かおりも やきたての レモンシロップの ケーキの かおりも しました。

「風の日 おめでとう。ルー」

「坊や、気をつけて」

「ママー 見てー! プーだよー!」

 カンガと ルーは あおむらさきの あさがおや まっしろな マーガレットの さきこぼれる 家のまえで、赤い凧を あげて 遊んでいましたが、このきょうふうで ルーは ふきとばされ、凧の しっぽに ぷらんと ぶらさがっていました。そこへ ていくうひこうで プーが すいーと 通りすぎると、かれらは 空のうえで げんきよく あいさつしあうのでした。

 秋の あしおとが きこえる きんいろの野原に 木の枝を つんで ちいさな 三角家をつくっていた ロバのイーヨー。そのしっぽにむすばれた ピンク色のリボンは 落ち葉と ともに 空へひらめき、そうかと思うと 大きな風で 見るまに 家も ばらけてしまいました。ひらひらと おうごんの カエデの 葉っぱが その上に おちてゆきます。

「風の日 おめでとう。イーヨー」

「ごていねいに ありがとう……」

 いんきな ロバの イーヨーも、もちろん 低い声で ぷうんと ハエのように 空をとぶ プーに あいさつしました。

「やあ、みんな! この俺が、ハチミツの取り方を 見せてやる。ティガー様の とくいわざは、ハチミツを 取ることだぜ!」

 おやおや。ハニーポッドのうかぶ こうずいを こいで ぜえぜえと 息を切らした デイビスと スコットの前に、くさのしげみから ふしぎな 一ぴきの トラが あらわれました。もちろん ほんものじゃ ありませんし かみつきだって しないのです。このこは ティガー という名の ぬいぐるみで、いつだって 元気いっぱい。ティガーは うっとりするほど かがやかしい 紅葉を くぐり抜けて、うっそうたる 樹々のしげる おくへ おくへと ぶううんと あやしい 羽音に まじって はずみだしました。さっきまで あたりが かすむほどに さんぜんと 降りそそいでいた 太陽は すっかり 遠くなって、みあげると まだらもように 降ってくる こもれびは うす暗い 葉のどうくつのなかで 千々に ももいろに うつくしく、デイビスや スコットのかおが さくらふぶきのように そまる中、ミツバチの かなでる 音色は どんどんと ふあんていに 高まってゆきます。それに このたいそうな ゆれときたら! ティガーのしっぽは たいそう特別なものですから、それではねると 世界中が びよよん びよよんと 元気よくゆれるのです。デイビスと スコットは ひっしで ハニーポッドに しがみつきます。なみうつ森の 地面をはね回り、ティガーは じしん たっぷりに 歌いだしました。それは かれが じぶんでつくった曲で、みみを すまして みると、こんなへんてこな 歌詞だったのです——


 Hoo hoo hoo hoo——!

 ♪俺様はティガー 世界一のトラ!
 はずーむ体 おしゃれなしっぽ!
 ぴょんぴょんとんとん ジャンプする!
 世界一のトラは 俺一人!
 お〜れ ひと——


 たぐいまれなる ベルカントしょうほうで、まさに オペラ風の すばらしい クライマックスをむかえる そのしゅんかん、ぼちゃり。おやおや、とびはねすぎた ティガーが、勢いあまって ハチの巣に つっこんでしまったようです。ぶんぶんと うなる ミツバチの声が まるで あざわらうかのように きこえてきます。ほうほうのていで しっぽをからませ 枝につかまり、ティガーはまだ ぶんぶんと うなる ハチの巣を 頭に のっけたまま、おおごえで さけびました。

「うへー! ティガー様は ハチミツなんて きらいだ。こんなの 好きなのは、ズオウと ヒイタチ だけだぜ!」

「ズオウと ヒイタチ?」

 その言葉をきいて プーは がたがたと ふるえあがりました。

「ズオウと ヒイタチって なんだろう。ハチミツどろぼう かな」

 おお、なんと おそろしい ことでしょう。今までプーが せっせと つぼにあつめた ハチミツも すべて どろぼうが うばいさってしまうと いうのでしょうか。もしかして、チュウチュウと ながあい 鼻から ミツを 吸ったり、らっぱを ふきならして ぶきみに こうしんしたり するのでしょうか。ふらふらと プーは よろめきましたが、頭のなかは なぞの ハチミツどろぼう ズオウと ヒイタチが ぎゅうぎゅうに つまって やすみなく ねりあるいて いるのでした。

 デイビスと スコットは むっつりと ハニーポッドに だまって ほおづえを つきながら、

「なーあ、スコット。なんだか、果てしなく嫌な予感が臭ってきてるのは、俺だけかな?」

「奇遇だな。私も、まったく同じ気持ちだ」

「まあ今の段階で、すでに頭がおかしくなりそうなんだけどよ。これから、カートゥーンスピン以上のクレイジーさがやってくる気がする」

「デービス スコット」

 するとそのとき とても しんけんなかおをした プーが こっちに


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 ちかよってきて、


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「なんだ?」

「ハチミツどろぼうに そなえよう。僕 ぶそうするよ」

「武装?」

「僕んちに 銃が あるんだ。それで ハチミツどろぼうに 銃弾を たたきこんで ハチの巣に 変えてやろうよ」

 とんでもないことです。デイビスも スコットも あわてて ねじきれそうなほどに くびをふり、

「プー、ここはディズニーランドだ! さすがにそんなガチの抗争を繰り広げるのはやばいって!」

「血で血を洗うヤクザかよ」

「それじゃ 僕といっしょに たたかってくれる デービス スコット?」

「そりゃ、いいけど……」

「僕のハチミツを ねらったことを やつらに しぬほど こうかい させてやろう」

 さて、森は 風の 強い日から 風の強い 夜と なりました。プーにとっては きみのわるい 夜でした。きみのわるい 音が あちこちから 聞こえてきます。

 さて、もし ティガーの いったとおり、ズオウと ヒイタチが ほんとうに いるのなら、なすべきことは ひとつ。ハチミツを 盗られないように、うんと ようじん することです。

「じゃ、君は あっち行って。スコットは そっち。僕は あっちだ」

「なあプー、つかぬことを聞くんだが、これって本当に意味があると思うか?」

「ある!」

 きりりと いつになく まゆげを ひきしめ ナイトキャップを かぶった プーは、ロンドンの えいへいのように ちからづよい かおで なまいきに デイビスと スコットに めいれいしました。おおきな 木の ねもとに つくられた プーの家を みんなか ばらばらに まもって いちに つきます。プーは ゴムの弾のついた 銃を だきしめ ずんずんと ねり歩き 目は らんらんとひからせて てつやしました。しっかりと 抱きしめている このたのもしい あいぼうが あれば しんにゅうしゃに まけることは まず ないといって よいでしょう。

「ハチミツどろぼう……ハチミツどろぼう……」

 そうはいっても ひるまの ティガーのことばは たいそう深く 胸に きざまれ プーは だんだん ふあんになってきます。ちらりと ひるまの 青い風船をみると なんだか あやしい目が ぱちぱちと ちいさな まばたきをする音が 聞こえた気が してきました。まっくらな へやに ランプは ちらちらと ゆれ かみなりが なりひびきます。風の強い 夜は いつしか 凄い 雨の夜に かわりました。三人は あれから なんじかんも みまわりを続けていたのですが、やがて まどに 身をあずけると ねむりに おちてしまい ゆめを 見ました。

 すると ふしぎなことが おこりました。

 だしぬけに、まっくらなまわりが キラキラしたかと おもうと、あたりいちめん それはそれは 深い 星空となり、なんと いう ことでしょう、プーの からだから すううっと 前まわりしながら すきとおる たましいが ぬけでてきたのです。いわゆる ゆうたいりだつ という やつです。風と 監視で すっかりつかれ はなちょうちんを ふくらませながら うつら うつらと ふねをこいでいた デイビスは、ぱちんと ちょうちんが はじけるのと どうじ、まるで マリアさまが こうりんなさるような 目のまえの 崇高な 光景に ポカ-ン( ゚д゚)と 口をひらいていましたが、あわてて そばで うたたねをしていた スコットのくびをしめると あらんかぎりの力で 前後に ゆすりだしました。

「ぐえっ」

「スコットー! プーが、プーが!」

「デ、デイビス、馬鹿ーっ! てめえ、この俺を殺す気かーッ!!」

 すぱこーんと いっぱつで デイビスのあたまを じめんに しずめたスコットは ぜーはーぜーはーと 涙目に なって えりもとを おさえながら じりじりと こうたい しました。

「き、貴様、ついに寝込みを襲う畜生にまで成り下がりやがって、このドクズが——」

「変な誤解を与えること言うなーっ!!」

「なんだ。ついにハチミツ泥棒がやってきたのか?」

「ちげーよ! プーが、プーのやつが、一言ではいえないけど、大変なことになってるッ!!」

 かれの言葉に つられて 宙をみあげた スコットは おなじように ポカ-ン( ゚д゚)と 口を開けました。今や プーは 星空の中を くるくると ちゅうがえりして、ふしぎな 声に あやつられているのです。

「気をつけろ——気をつけろ——」

 それとともに なにやら ちゅうこくと 不穏な おんがくが 聞こえてきます。
 デイビスと スコットは ひくうっと 顔を ゆがめました。




 デイビスとスコットがプーの物語の中を冒険している間、エディとミッキーは、ころころと転がる落ち葉を見つめながら、清らかな水の洩れるちいさな噴水の縁に腰掛け、憂鬱に満ちた溜め息を吐いていた。例えるなら、グループのうちの数人が、ファストパスでアトラクションに乗っているようなもので、やることがないのである。

「どうする、エディ?」

「暇だよなあ、せっかく良い天気なのに。ま、仕方ねえから、ポップコーンでも食えよ」

 そう言って、ミッキーとエディは、昨日、スコットに買ってもらったバケットの中へ、新たに満たされたハニーレモンのポップコーンをさくりと食べ、悦に浸った。うららかな鳥の囀りが降りそそいできて、また通りすぎた。

「俺たちはなーんも手出しできねえし。物語の結末に至るまで、待つしかねえんだよな」

「そうだね。デイビスたちは、今、どのあたりまで行ったかな?」

 挟んでおいた楓の葉っぱをしおりとして、ページをめくろうとすると、さっと流麗な身振りでそれを奪い去る手が現れた。

「あっ!」

 ミッキーが顔をあげると、見目の整った、琥珀色の狐が、赤毛の猫と一緒に、こちらを無遠慮に覗き込んでいるところだった。緑のシルクハットに、伊達なマント、手袋、そして細いステッキと、一瞥する限りは紳士の装いに身を包んでいるが、よく見ると、つぎはぎや色褪せ、破けが散見され、まるで質屋で間に合わせた、ちぐはぐな衣装に思えてくるのである。

「ちょっと! ファウルフェロー、返してよ!」

「なるほど、うーん、たーいした勉強家だねえ。ほおら見ろ、ははっ、偉い学者さんだ。ハッハッハッハッ、はい、本を」

 狐は手を突き出して、勝手にバケットからポップコーンをしゃくしゃくと拝借すると、代わりに上下反対に読んでいた本を、ミッキーに慇懃に返した。

「まったくもう、こんな朝から、ヴィランに会うなんて」

「そんなに邪険にしないでくれたまえよ。同じオンステージで働く仲間だ、挨拶くらい、いいじゃないか」

「じゃ、君たちはここで何をしているんだい、ファウルフェローに、ギデオン?」

「おやおや! 私たちヴィランズが、君への意地悪のために、馬車馬の如く働いていると思っているの?」

「じゃ、悪巧みはしていないっていうんだね?」

「もちろん、そうだとも。私たちが何をしてるかなんて、見たら分かることだよ——フリーグリーティングさ」

 ひらり、と青いマントを翻し、ファウルフェローが優雅にお辞儀すると、猫のギデオンも慌ててそれに倣って、ほとんど顎が地面につきかねないほどに腰を折った。その頭を、ステッキの先でコンコンとノックでもするようにひっぱたきながら、

「しかしこの頃は、情勢下なものだから、ゲストの入場数も、随分と減ってきちまってね。無論、熾烈なチケット戦争を勝ち抜いてきた連中だ、大抵が東京ディズニーランドの熱烈なファンではあるが——」

と、ファウルフェローは大袈裟に咳払いをし、

「年パスは抽選以外使えないご時世だからね。以前は毎日のように私に会いにきていた連中も、すっかり見ることが少なくなってしまったよ」

「仕方ないじゃないか。あまり多くの人を密集させるわけにはいかないもの」

「もちろん、そうだとも、そうだとも! しかし、めでたく正常運転に復帰した暁には——足を運ばなくなった連中は、どうなるんだろうね?」

 ミッキーは、どきりと心臓を震わせ、不審げにファウルフェローを振り返った。

「せめても、エンターテインメントだけでも、開催できたらいいんだがねえ。残念なことに、今我々ができるのは、パレードと、花火だけだから。おお、哀しいことよ、実に残念至極」

「僕らは、リスクを考慮して、この運営にしているんだ。その安全への態勢を、崩すわけにはいかないよ」

「ほほう、ほう! で、その分、ディズニーの基本方針を捻じ曲げるってことだね、君?」

「何について言っているのさ?」

「いやいや、とてもヴィランの口からは、おこがましくて言いにくいんだが——つまりね、ミッキー・マウス君、未曾有の情勢下となった今、この王国の夢と魔法は、いったいどこにいったんだろう、ってことを言いたいのさ」

 ミッキーはむっとした上で、急いで、口笛でも吹かんばかりのファウルフェローに叫び返した。

「僕らは健康を最優先にした上で、最善策を取っているさ! キャストは全員、普段の業務に加えて、消毒や声かけ、イレギュラーな対応も含めて、限界まで頑張ってくれているんだ。それでも君はまだ、努力が足りないっていうのかい?」

「とーんでもない、キャストたちはとてもよくやっているさ。我々が話しているのは——つまるところ、コンテンツに起因する問題さ。
 端的に言おう。君はここ数ヶ月の間、ゲストの前で魔法を使ったのかな?」

 たちまち、ミッキーの耳はたたまれて、心なしか、強張った声が漏れた。

「使って、ない。ゲストの前じゃ——」

「おお、おお、分かっているとも、何とも気の毒に! さ、涙を拭いて! 小耳に挟んだ限りじゃ、君は休園中にすっかり、魔法が使えなくなってしまったんだってね! だがね、その秘密も、いつまでゲストに隠し通せるものなのかな? ねえ、ミッキー・マウス君、ひとつ謎かけだ。ゲストたちは、何のために足を運ぶと思う?」

 ミッキーは少し考え、馴れ馴れしく肩を抱いてくるファウルフェローへ、慎重に考えながら、その問いに答えた。

「アトラクション?」

「それだけかな?」

「美味しい食事?」

「もちろん、それもあるとも」

「素晴らしい音楽に、バックグラウンドストーリーに、個性豊かなキャラクター。たくさんのプロップス!」

「だめだめ! 全然なってない。大事なことを忘れてるよ、ミッキー・マウス君。ゲストが何よりも求めているのはつまり、一大スペクタクル・ショーさ!」

 それを聞いた瞬間、さっとミッキーの顔色が青くなった。ところがファウルフェローは、今や興奮のあまり、譫言のように盛んに舌を繰り、目を爛々と輝かせて叫び出した。

「ミッキー君、ゲストは常に夢を見たがっているんだよ、素敵な熱を孕んだ、とびきり愉快な、おかしくなりそうな、頭を吹っ飛ばしてくれるような夢と魔法を! そしてディズニーパークは、期待以上のサービスで、その欲求に応えるのさ! 今やウォルト・ディズニー・パーク・アンド・リゾートは、二位以下の入場者数に大差をつけて、世界のテーマパーク業界を牽引してる。これだけの資本を費やして、真剣にエンターテインメントを発展させる場所が、この地球上の、他のどこにあるって言うんだい? 君はまさしく、その素晴らしい世界の最先端だよ、そしてショーとは、君がいかに大変な魔力を持っているかを誇示するために、大変な資金を投入して開催するわけさ。花火に音楽、素晴らしい映像、照明に演出、最新技術——これほどのエンターテインメントの粋は、他にない! そしてもちろん、ラストを飾るのは、ミッキー、君の偉大なる魔法だとも」

「けれども、僕は……僕は、そんなことは……」

「おやおや、弱腰になっている暇なんてあるのかね? 熱狂的なファンが、君の登場を待ち侘びていて、そして君は、その期待に応えなくちゃいけない立場にあるんだよ。ゲストは飢えてる、ここ最近の地上のゴタゴタでね。そして魔法とは、言わば奇蹟、よだれを垂らすようなご馳走、とっておきのゲストを魅了するサービスなんだ。さて、君はそれを授けることができるのか? できないのか? それはまさしく、この国の王の沽券に関わる話じゃないか?」

「だけど。でも、でも——」

「ここは夢と魔法の王国なんだろう? ところがどうだい、君はゲストのために魔法を使えない。そうだよ、キャストたちはこれ以上なく頑張っている、なのにたったひとり、足を引っ張る輩がいる。この王国で一番役立たずなのは、ミッキー・マウス君、君じゃないか!」

 ピアノでも弾くように指を順繰りに動かしながら見下ろすファウルフェローへ、いよいよエディは立ちあがって、横槍を入れた。

「やい、さっきから突然現れて、こいつに変なことを吹き込むんじゃねえ! ミッキーだって、頑張ってるじゃねえか!」

「部外者は黙っていてくれたまえ。これは、王国の根幹に通じる問題だよ」

 すっ、と片手をあげてエディを制するファウルフェロー。ミッキーはおずおずと言った。

「ゲストは——でも——分かってくれるはずだよ。今は緊急事態だから、仕方なくて——僕は、僕は……」

「君は間違っている。ゲストは刺激を求めてる。毎日毎日、地味なことをしていれば、彼らはすぐに離れていってしまうんだよ」

「ここから離れてゆく、だって?」

「そうとも、そして君は、ひとりぼっちだ」

 ミッキーは飛びあがり、急いで噛みつくように言った。

「君は何の権利があって、そんなことを言えるんだ!」

「もちろん置いてゆくとも、ゲストは誰も彼もが、熱烈なファンだと思っていたのかい? 彼らは冷酷な消費者であり、ご立派な裁判官だからね、興味がなくなればさっさと荷物をまとめ、すぐさま新しいテーマパークに引っ越しちまう。だけども、いったい誰がそれを責められる? だってまさしくそいつは、消費者の権利ってもんじゃないか、そうだろう? まさか、彼らの基本的な権利を認めないってわけにはいかないよねえ、ミッキー君?」

「もちろん認めるよ、それは当然の権利だもの。でも彼らは、僕たちのことを——」

「話の腰を折らないでくれたまえ! せっかちな性格は収めた方がいい、そうでないと、とんでもない損をすることになるかもしれないのだからね。
 さて、君にはどこまで話したっけ? ああ、そうだ、消費者の権利の話だったね……そう、寛大にも君は、その事実を認めるってわけだ! そして、彼らが消費者だというのなら、当然、我々が属しているのは、この資本社会経済の中枢を担う、巨大企業だという事実も、認めないわけにはいかないね?」

「そんなことは——」

「曖昧に、口の中でモゴモゴと言わないで! いいかい、我々は会社だ、れっきとした大企業だ! けれどもそれは暗黙の了解となっていて、誰も口にしてはいけなかったんだ——なぜなら、我々は夢を売る企業だから! だが、この百年間の歴史上、類を見ないパンデミックの中で、いついつまでもユートピアのように振る舞うなんてことは、限度があるに決まっているのさ。現に、我々の夢の石垣は崩れ始めて、その下を支える、現実の基盤がのぞき始めてきているじゃないか、え? 我々がふたたび、この綻びを取り繕い、私たちの提供する商品に集中させるためには、せっせと商品のクオリティーをあげるしか、道はないんだよ。さあ、今こそ、大々的に見せつけようじゃないか、我々はいかなる惨事の中でも、夢を売ることができるんだって! パンデミック? 関係ない! 他のテーマパーク? 糞喰らえ! 愛するゲストたちよ、どうぞご覧あれ、どこよりも立派な、ピカピカの、我らがディズニー・サービスを!」

「ちょっと待ってよ、ファウルフェロー! 君の言うことは、あまりにも机上の空論すぎて——休園中は、売り上げもまるでなかったのに——そうだよ、現実的に見せかけているけど、そんな言葉通りにゆくはずがないじゃないか!」

「簡単にゆこうと、ゆくまいと、それが我々の進む一本道なのだよ、ミッキー・マウス君! これまでのパークは、娯楽は娯楽、運営は運営だった。それらをきっぱり分けて、ゲストには見えない裏側で、キャストが折衝点を見つけていればよかったのさ。ところが今回の件については、夢の住人である我々は、少しも言及できない、けれどもなかったことにもされない、それこそ、ゲスト自身が夢と現の渦巻く様を見て、その折衝点を自ら見つけなければいけなくなってきたじゃないか? だからこそ、来る者は来るし、去る者は去る、少しでもこの愉快なパークに、現実が入り混じることの耐えられない者は、みいんな退いてしまったのだよ。
 だから今こそ、彼らを夢中にさせ、ここに踏みとどまってもらわなくちゃ! 我々ヴィランズは、まさにそれにうってつけ。なあに、主役になろうなんて贅沢は言わない、君のサポート役をしたいだけだよ。私たちは毎回、ゲストの溜飲を下すお手伝いをする、そのお芝居に不可欠の、大事な大事な役者仲間というわけだ」

「また、違う話になってきたよ。どうして、そこでヴィランズが出てくるんだい?」

「なぜって、こんな世の中だからこそ、ヴィランズは必要とされているからだよ! 人々は実に抑圧され、鬱憤が溜まり、ムシャクシャしている。そして我々はいつでも、そんな連中に追い回されるのが仕事だったわけさ!
 社会に不安が渦巻けばたちまち、人は悪人をでっちあげ、そいつにすべてをなすりつけ、袋叩きにする。そんなことは、古今東西のありとあらゆる扇動者の例を持ち出さずとも、歴史の何百という事例が、それを証明しているじゃないか! だからこそ君たちは、その捌け口として、我々ヴィランズを生み出したんだろ? ヴィランズは勝手に出てきたんじゃない、善良な人々こそが、我々の存在を望んだのさ!
 さあて、それじゃあ改めて、善人諸君に尋ねようか。我々ヴィランズを懲らしめるってのは、気持ち良いだろう? 私たちを滅ぼして、勝利の輝きに浴したいんだろう? 無論、我々はその声に応えてみせるさ、いくらでも! それが我々ヴィランズ、運命の星に生まれついた者たちの、偉大なる誇りなのさ!
 さあ、もう一度、私たちと君とで、偉大なる闇と光のショーを復活させよう! お任せあれ! 我々はいかなる時でも、悪事を働いてみせる! 他人の耳に毒を吹き込み、どす黒い光を撒き散らしてみせる! 主役は君だ、我々は善良なるミッキー・マウスの引き立て役さ! これこそ、真の役者! 真の英雄! 素晴らしき名優に、人々は拍手喝采だ!」

 このめまぐるしい議論に、ギデオンの頭はついてゆけず、ぶすぶすと黒い煙をあげながら、ファウルフェローの命じるがままに拍手を送るしかなかった。エディは、口を挟む暇もなく、ただ不安げにミッキーを見守っていた。

 ファウルフェローは、ミッキーの大きな耳に唇を近づけると、まるで地獄の風を齎すように、冷たく低い声で呟いた。


「そうさ、ヴィランズは役目を果たしてる。本当の悪人は、役立たずのミッキー、君の方だ」


 その発言は、覿面の効果を与えたようだった。今やミッキーは毛を逆立たせ、信じられないというようにファウルフェローを見た。一歩、彼が近づくたびに、一歩、ミッキーは追い詰められた。狐の鋭い目には、得体の知れないものを躍らせる、形容し難い焰が宿っていた。

「東京ディズニーランドは、非日常の場所」

「そうさ、だからこそ——」

「日常をぶっ壊す輩が必要、なんだろう? そんなら、派手にやらなくちゃ! ゲストはそれを求めてる。ごらん、メインエントランスで列をつらねて、また傷病兵たちがやってくる。さあ、そこで我々の出番さ。これこそ、ショータイム! 派手にぶちかませ! 華麗なる対決、悪の悲鳴、そして善の大勝利! ここが私たち役者の腕の見せ所だとも!」

「待ってよ、ファウルフェロー、誰も彼もが傷ついてここにやってきているなんて、そんな馬鹿な話はないよ!」

「今さら取り繕った言い訳は結構。君たちは、ヴィランズを毛嫌いしながら、結局、ヴィランズなしには生きていかれないのさ、そうだろう? 我々は、偉大なるミッキー・マウスの言うことなら、なんでも聞くよ」

「僕らは、ヴィランズをそんな風に扱ったりしないよ!」

「それでは、なぜ我々は滅びず、何度も復活するのだろう? なぜ、映画が終わった後も、パークをウロウロとしているんだね?」

「それは——」

「君は完全に我々を倒すつもりなどないのだよ。だって、ヴィランズがいなくなると困るのは、君たちなんだから! 我々が笑うと、ゲストは恐怖する。我々が泣くと、ゲストは笑う。大衆心理っていうのは、一言でいえば、そんなカラクリでできあがっているんだ、そうだろう?」

「ゲストを馬鹿にするな!」

「何だって?」

「ゲストは、君の言うような見せかけの筋書きに拍手するんじゃない。僕らのゲストは、そんな人間たちじゃない!」

 その言葉を引き出したファウルフェローは、いきなりミッキーに顔を近づけると、水を得た魚のように語り出した。

「真に大衆を馬鹿にしているのは、君の方じゃないかね、ミッキー・マウス君! 君はたった今、ゲストはそんな人間ではないと言ったね、では彼らは年がら年中、重苦しい現実を一手に引き受け、いい子ぶって微笑み、ニコニコし続けなければいけないのか? 毎日毎日、不平不満を漏らさず、何にも悪を見出さず、汗水垂らして、清く正しく歩き続けなければならないのか? 君が言っているのはそういうことだ、そうとも、大衆文化の中心でいながら、君は最も大衆文化を軽蔑している。とんだ傲慢さだね! ルサンチマンと、カタルシス——娯楽を駆動する秘密は、たったこの二つ、その間で大衆の精神は絶え間なく揺れ動く。闇も、光も、その精神を救うものだ、いいかい、人間の核心から目を逸らそうとする、潔癖症の輩には、真に人の心を震わせるエンターテインメントなんか、けして創れるまい!」

「そんなのは違う、そんなのは——僕らは確かにカタルシスの役割を担っている、でもそれだけですべてが構成されているわけじゃない!」

「ここは遊園地だよ、ミッキー・マウス君! 彼らはここに、遊びにやってきているんだ! この未曾有の災害下で、少しでも遊びたい、外の世界を忘れたい、気晴らしをしたいという思いは、そんなに非難に値するものなのかい? そうさ、第一——」

とファウルフェローは、火花の立つような目をぎらつかせて言った、

「ウォルトも言っているじゃないか、『I don't want the public to see the world they live in while they're in the Park. I want to feel they're in another world(パークにいる間は、ゲストたちに、自分たちの暮らしている世界を見てほしくないんだ。彼らは違う世界にいるんだって、そんな風に信じたいんだ)』と、え? まさか君は、まったく相反することを叫ぶのかい? この世で一番、ウォルトの誰よりも愛していた、あのミッキー・マウスが! いいかい、ここは夢と魔法の王国だ! 我々は、ゲストに夢を見せる義務があるんだよ。悪をやっつけろ! この地上に平和を取り戻し、世界をふたたび秩序で支配しよう! それこそがまさしく、大衆の抱いている夢じゃないのかい? そのためなら、どんな手段を使っても叶えねばならんのだ!

 夢とは、現実から逃避する力だ! 君はその事実から目を逸らして、また詭弁をこねくり回すのかね? 今最もこの社会に必要とされているのは夢だ、傷ついた彼らを匿い、蕩かし、泡のように束の間の安らぎを与える夢だ!」

「ゲストたちの夢は、そんなものじゃない! 君が勝手に、彼らの心を決めつけないでくれよ!」

 ところがミッキーは、今やじわじわと押し迫る徹宵の感覚、あの毛穴という毛穴が少しずつ磨り減らされ、何か無駄なことに向かって、声を荒げているような肌寒さに支えられ始めていたのだった。風という風が、彼の激情を揺すぶった。燃えることは、瞋恚にとっては苦しみだった、そしてますます頭は混乱し、冷たい風の中で、何かを掴もうとするのだった……耐え難い何かを。

「何を言われても、僕らがヴィランズと結託することは、永遠にないだろう」

 途方もなく静かな声だった。その声は空虚を孕み、震えていた。

「なぜだい? なぜ君は、そんなことを言うんだい?」

「ようやく怒ったね! 私はね、ミッキー・マウス君、私は君に、ほんのささいな真理を授けてやりたかっただけさ——」

 念入りに語るファウルフェローは、逆撫でるというよりはむしろ、抑え切れない震える興奮と、理由の分からない感動に満ち溢れた口調で、自ずから言葉を止められないようであった。

「善も、悪も、同じ役者だ。そしてたった今、善は、何よりも悪役を必要としてる」

「そんなものが真理なわけはない! 何が真理かは、僕が決める!」

「ほほう、大層自信にあふれた哲学家だね。いつから君はそんなに偉くなったんだい、え? もしかしたらこの王国は、隅から隅まで、嘘で塗りたくられているかもしれないじゃないか! 善と悪も、喜びと哀しみも、みんなみんな、作られた、出来合いの、嘘っぱちかもしれないじゃないか! この王国はまったく責められるところのない、地上のユートピアだとでもいうのかい? とんでもない、ディズニーランドなんてものは——所詮——すべて偽物なんだ!

 さあ、ここまできたなら、根本的なお話に入ろうじゃないか。この未曾有の社会の混乱の中で、ゲストたちを満足させ、そして溜飲を下げさせるには、役者たちが力を合わせて、スペクタクル・ショーの息を吹き返すしか道はないのだと、そうは思わないのかい? それに反対するような輩は——それこそが平和を乱す悪の黒幕だと、そう断言はできないかな? どうなんだ、答えられるか? 答えるんだ、今すぐに。この私に反駁できるというなら、言ってみろ、さあ!」

 いよいよミッキーは、真っ直ぐに地面には立っていられないコンパスのように、呆然としてファウルフェローを見た。ごうごうと唸る血流の音が、耳元に聞こえた気がした。小指の破けた手袋をはめた手が、彼の前に差し出された。

「お手をどうぞ、ミッキー・マウス君?」

「いやだ——」

「おやおや、この正直ジョンの手を取らないというのかね? これは驚いた、なんたる侮辱だ!」

「取らないよ! 僕は——僕は——」

 ファウルフェローは、軽蔑するように彼をじっと見下ろしていたが、そのうちに、すっと通った鼻筋からゆっくりと開かれてゆく口にかけて、まるで刃物で切り裂いたかのように冷艶な笑みを浮かべた。そして、その鬱金色に輝く柔らかな長毛を、目に見えない風に遊ばせると、まるで無数の湯気が逃げてゆくような膨らみの中心で、口元の毛をばら撒くように、ひそやかな息を洩らした。


「良いことを教えてやろう、ミッキー・マウス君。この世は舞台、人はみな役者。与えられた役を立派にこなすこと、そいつが世界のためってもんだ」


 ミッキーは耳をわななかせ、ほとんど祈るような声で囁いた。

「なんだって?」

 ファウルフェローは素早く舌なめずりをすると、燃える恍惚に身を溺れさせながら、その目を煤けたランプの如くあかあかと輝かせ、世界の秘密を語るような早口で囁いた。

「何もかもは君次第。このショーの運命、そしてすべての魔法は、君が鍵を握っている」

 手袋をしたその片手が、ミッキーの手を握った。そして、その掠れるように喉に絡みつく囁き声を、突然、大きく張って、

「さあ、証明してみたまえ! ミッキー・マウス君、君の絶大なカリスマ性で! ここがどこよりも幸せな夢を見られる場所であると、ゲストに訴えてみたいのなら、それには君の魔法が不可欠なんだ! 夢を! 夢と魔法を! ミッキー、お前が観客に差し出すんだ!」

 蜂が唸り、甘い匂いが溢れ、そのさなかを、秋風がざわめいた。幾枚かの枯れ葉が散った。ミッキーは、もはや脅え切った表情に変わり、長い間沈黙していた。まるで、注射した薬がゆっくりと回っているのを確かめるかのように、ファウルフェローはまじまじと覗き込んできて、唇を歪めて言った。

「君はスター、なんだろう? それとも、こんなことは、私の勘違いだったのかな?」

「僕は——僕は、そう、スーパースタアだよ……」

 するとファウルフェローはいきなり、ステッキを顎に潜らせ、彼を自分の方に向かせると、その口角を軽く杖の先で小突いて、微笑んだ。

「それなら、笑って、そう、にっこりだ。いつだってゲストの前では、笑顔を絶やしちゃならない。さあ、笑って! 笑い飛ばそうじゃないか。すべてはショーにすぎない。楽しくやろう。死ぬまで、楽しくやろう!」

 ミッキーは心を奪い去られそうになったが、その途中で、稲妻のようにまた不穏な響きを感じた。

「でも、僕は魔法を使えない。舞台にあがったって、何もできないんだ。何も……」

「それでは君は、魔法の取り戻し方への近道を、聞いていないな?」

「まだだよ」

「そおか、では教えよう。ぶ た い だ!」

 ファウルフェローは、両腕を広げると、マントをひるがえしながら、高らかに宣言した。

「ライトに、音楽に、拍手に——名声。君はまさに生まれながらの大スターだ! 何を恐れる必要がある? 舞台を踏めば、たちまち、求めるものは手に入るじゃないか。魔法を使えないからショーを開かないんじゃない、ショーを開かなかったからこそ、どんどんと魔法を使えなくなっていったのさ! 幸い、この先に知り合いの劇場があるんだ。人気すぎて、いつも人手に困っていてね、けれども君のような大スターなら、すぐにでも出演させてもらえるはずだよ。さ、しゃんと立って、蝶ネクタイを締めて! 私がついていてあげるよ、今から支配人に、挨拶しに行かなくちゃ!」

 ミッキーは戸惑いながらも、その勢いに押されて、想像をめぐらせる。休園前の日々、そしてたった今、自分たちの対面している状況を。

 もう一度、拍手を浴びたい。ゲストたちの笑顔を見たい。心置きなく、魔法を使って、喜ばれたい。忙殺されるような毎日の中で、彼は自分の存在意義を、そこに見出していたのだった。

 ここは、幸せに満ち溢れた場所でなければならない。不安があってはならない。脅えがあってはならない。そうでなければ———


 そうでなければ、この王国の明日など、どこにある?


「君はもっと、自分に正直にならないと! どうだい、早く魔法を手にして、ステージに戻り、ショーをやりたいだろう?」

「もちろん、やりたいよ。でも、でも——」

「ゲストはしびれを切らして、もうここに来なくなってしまうかもよ。そうしたら、どうだい? ここは鴨の代わりに、哀れな閑古鳥が鳴くだけさ」

「みんな、僕を置いてゆくの?」

「そうとも、そうなったらおしまいさ。光り輝き続けることが大事なんだ。飽きられちゃいけない、彼らの期待に応え続けなけりゃいけない。さあ、元気を出して、頑張ろうよ! 君のゲストが待ってる。ここからが、新しいショータイムの始まりだ!」

 そう断言したファウルフェローは、ぐいとミッキーの腕を掴むと、ステッキを振り回し、陽気に、愉快に、素晴らしく艶のある声で、歌を歌い始めた。


 ♪ハイ・ディドゥル・ディー! 素敵な稼業!
 シルクハット被り 銀のステッキ 粋な姿
 ハイ・ディドゥル・ディー! 役者稼業は
 スポットライト浴びて 素敵な商売!

 ハイ・ディドゥル・ディー! 今夜はスター!
 銀の馬車が走る みんなの拍手の中
 ハイ・ディドゥル・ディー! 素敵な稼業!
 指にダイヤ光り ピンクの薔薇の香り!
 レストランで食事 素晴らしいのさ!


「お、おい、ミッキー!」

 エディは慌てて、噴水の縁から立ちあがったが、ミッキーはいかなる音も耳に入らず、ただ青い顔色のまま、何かに強迫されているようにファウルフェローを見ていた。その手には、握り締めたままの『プーさんのハニーハント』の本が、ぶらぶらと空しく揺れていた。

「ピノキオ!」

 と、その時、噴水の前の花壇から、美しい鈴の音がまろび出たかと思うと、一匹の虫が、足元に飛び出してきた。エディは目を丸くして、その一張羅に身を包む、ちっぽけな虫を見つめた。ぴかぴかの糊の利いた燕尾服、それにそら豆のような顔のコオロギで、頭にはちいさなシルクハットすら被っているのだった。

「なんたることだ、ミッキーまで! 奴らはきっと、とんでもないことを画策しているに違いないぞ!」

 りん、と涼しく一声鳴いて、コオロギはさらに跳躍し、エディの掌に飛び乗った。傘の先の金細工が、午前の陽射しを反射して、ぴかりと光った。

「へーえ、こいつは珍しい、歌うコオロギならぬ、喋るコオロギか! そういや今は、秋っていう舞台設定だもんな」

「突然失礼。あなたは、ミッキー・マウスの保護者だね?」

「ああ、そうだな。エディ・バリアントだ」

「私の友だちのピノキオも、あいつに連れて行かれてしまったんだ。あの子は、まだ赤ん坊のような心しか持っていない。何が正しいことなのかなんて、まるで分別がつかないんだよ」

 コオロギは、燕尾服の隠しからハンカチを取り出すと、まるまるとした顔の汗を丁寧に拭いた。

「私立探偵の俺からしたらな、あの狐野郎は、詐欺師の匂いがぷんぷんするぜ」

「詐欺師だって?」

「奴ら、ああやって言葉巧みに、子どもをさらっていってるんじゃねえか」

「ということは、ピノキオはもう——」

 コオロギは、はっと息を呑んだ衝撃で、エディの掌の上に尻餅をついた。

「まさか——そんな! 奴ら、プレジャーアイランドに連れて行こう、なんてことは——」

「まーったく、世話のかかるネズミだぜ。やい、コオロギ、いっちょおめえんとこの友人とまとめて、助けにゆくか」

「君、コオロギと言わないでくれたまえ! 私にはジミニー・クリケットという立派な名前があるんだから」

「へえへえ、じゃ、ジミニー、しっかり俺の帽子のつばに掴まってな。行くぜ!」

 路肩に止められた荷馬車や、跳ね躍る陽射しが美しい石畳の上を、エディは中折れ帽を押さえながら、風を切って駆けていった。もう昼食を仕込み始めているのだろう、神々しいまでに熱いゼッポリーニの香りや、まだソースを絡めていないリングイネの匂いがした。南伊の果実を思わせる、柔らかに色褪せたオレンジの瓦の屋根は、抜けるように青い空と強烈なコントラストを描き、土壁に立てかけた車輪や、工房の窓辺に置いてある古い槌も、細かく目に撒き散らされるような太陽光線で温められ、そして潮風に乾かされた。石灰質の土が、じりりと靴の下で踏み躙られ、路地裏で縄跳びをして遊んでいた子どもたちは、慌てた様子の大人を振り返り、首を傾げた。頬が真っ赤な中年の婦人も、竈の前で汗をかいていた鍛治職人も、みな、風の方向を振り向いた。彼方にアペニン山脈の、胸に沁みるように青い尾根が連なっていた。その麓で、まばゆい生クリーム色をした壁に四方を囲まれ、まるで出口の見えない路地の迷宮の中、二人は必死に、名前を呼んだ。

「ピノーキオー!」

「ミッキー!」

「ピノーキオー!」




 そのころ デイビスと スコットといえば。

「どうしてこうなったーっ!?!?」


 ズオウと ヒイタチの だいこうしんに まきこまれ ノリノリの トロンボーンが ドラムと ともに なりひびく なか、どこまでも ハニーポッドに のって ふきとばされて いました。あまい ハチミツが ながれに ながれて ゆかが ベタベタの中、最高に かがやくのは ミラーボール、ハチミツ たいほう、そして ハチのす ライトです。さあ これこそが ショータイム! ちょっと みなさんも そこに立って くるくる くるくる 回ってみなさい。くるくるくるくるくるくるくるくる。もっともっと。くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる。だんだん あたまが ボーッと なって すべてが ぐるんぐるんと 重力に ゆれ 血の気は どこかに なくなってしまって、目に見えるもの あんなものや こんなものが サイケデリックな ブルーに とけてゆくでしょう。ところが ズオウと ヒイタチと きたら そんな ぽーっとした れんちゅうを ねらいに くるのです。ほら あなたの あたまの 上。ほら あなたの おしりの下。うしろにも いますよ ふりかえって ごらんなさい。そうそう、かれらの わらい声が だんだん きこえてきましたね。ブーーーーンと ずがいこつに ひびく ミツバチの はおとが うるさく、ミラーボールに 目を チカチカ させていると、まっしろな けむりが とつぜん はっしゃされます。あらあら そんなに せきこまないで。だいじょうぶ ちっとも わるいやつじゃない、ただ ズオウと ヒイタチは あなたが 死ぬほど 好きなだけなのです。

「俺たちは平沢進の頭ん中でも覗き込んでんのか? こんな荒唐無稽な光景は見たことねえぞ」

「いや、違うな。これは——」

 スコットは ごくりと のどを 鳴らして、

ウォルトの目を盗んで『ピンク・エレファンツ・オン・パレード』を仕込み激怒させたノーマン・ファーガソン監督から影響を受けてこどもにトラウマを植えつけることに快感を覚えるようになったナイン・オールドメンたちの精神を忠実に再現しようとしたイマジニアたちの頭の中だ」

「より酷くなってんじゃねーかッ!!!!」


 しかし こんな サイケデリックな カーニバルの中に とじこめられては さすがの デイビスも スコットも げっそりと やつれてきます。とくに 前作では あまり でばんがなく ネタに たいせいのない スコットの方は つかれぎみでした。

「出番がなくて悪かったな。これでも、ちゃんと主人公の相棒キャラは全うしたんだぞ」

「むしろ出番がない方がよかったぜ、スコット。ただでさえ広大なTDSを小説に落とし込もうなんて無謀な真似したから、展開のあちこちに破綻をきたしてる。今だってそうだ」

「(説得力が凄い)」

 そんなおり、ミラーボールで ぴかぴかと光る かれらの 目のまえに うかんできたのは こんな形の ものでした。






「ん? 何やら、見覚えのあるマークが」

 それは ふしぎな しろい みかづき でした。そして どこからか けたたましい わらいごえが 聞こえたかと 思うと、それは 急に つるんと 弓を すべり落として、ニタニタと にやつきながら 歌いはじめたのです。なんだか 聞いたことの あるような きょく でした。


「♪こーのおーれはー まっかふっしぎー
 ♪まーりょくーをーもったー ねっこだー
 ♪そーこらーのー やーつらっとはー
 ♪えーらさーがー ち〜がう〜

 よっ」


 くうちゅうに にくきゅうが うき、ついで むらさきいろの まえあしが あらわれました。デイビスは しんちょうに それを つまみながら、

「あ、あれ? これってもしかして、チェシャ猫の一部分か?」

「バラバラ死体みたいに言うなよ、気色悪いな」

「どーもどーも、キャプテン・デイビス。お前ってば、前回は随分なことをしてくれたにゃー。俺が赤の女王なら、無裁判で死刑モンだったにゃ」

 めと みみと ひげが ついかで あらわれました。

「え、えーと。俺、何かしたっけ?」

「忘れてるのかよー! お前、俺のしっぽを掴んで、ディップに向かってぶんぶん振り回したのにゃ! 末代まで呪ってやるにゃー!」

 とうとう りっぱな しっぽが あらわれました。スコットは、うでを くんで 記憶を ほりおこしました。

「……してたな」

「だってこいつから、俺に喧嘩売ってきたんだ! 仕方ねえだろ!?」

「イケメン主人公枠の割には、とことん言うことやることがチンピラなんだよなー、お前って」

 フウ とため息をつく スコットの そばで、チェシャねこは シーハーと ひげを つまようじ がわりに 歯を みがいて、

「で、お二人さんは、なにかお困りじゃにゃいのかにゃ? 夢関連なら、この俺の専売特許にゃ。大船に乗った気分で、どーんと任せろにゃー」

「あれ。ここって、夢の中なのか?」

「もっちろんにゃ。ほーら、証拠に、ほっぺたをつねってみ? ちっとも痛くにゃい」

 そこで ふたりとも 言われたとおりに ぷにっと ほっぺたをつねってみましたが たしかに ちっとも 痛くありませんでした。

「だーからこれは、安らかに眠っていらっしゃるプーの夢の中にゃ。あいつの深層心理って、こうにゃってるの? なかなか、闇が深いのにゃー」

「闇なんてどうでも良いよ、つーかこの小説、闇深な奴しかいねえだろ? 俺たちはとにかく、夢の中から脱出したいんだ」

「おう、そいつはベリーイージーなご相談だにゃ。教えてやろう愚民ども、夢オチに仕立て上げればいいんだにゃー!」

「ゆ、夢オチ?」

 いまいち なっとくできない デイビスの まえで、チェシャねこは ぱっと にくきゅうを ひろげると、とくいげに ぱちぱちと まばたきをして、みずからの 考えを さかんに PR するのでした。

「世の中で、夢オチほど便利なものはにゃい! 読者ウケに背を向ければ、どんなハチャメチャな物語も、絶対に終わらせることができるのにゃ」

「それを言っちゃあおしまいだろ感あるけど、オチがつくって点じゃ、まー、その通りだわな」

「こんな適当な方向性でいいのかよ、この連載」

「小説を夢オチに仕立てるのは簡単。目覚まし時計の音が鳴っている描写を入れるか、誰かが寝ている奴を叩き起こす台詞を、一行挿入するだけでいいのにゃ。ちなみにのちなみに、この物語では、クリストファー・ロビンがプーを起こす役になってるにゃー」

「そうなの?」

「一応、原作のアトラクションではね」

 デイビスは そでを まくりあげて パイロット・ウォッチを みつめました。おそらく げんじつの じこくを 指しているらしい それは まだまだ 今が まっぴるまで あることを 教えてくれます。

「あー、クリストファーは今、学校で授業中だろうなー。当分はこの物語の中へ、帰ってきやしねえよ」

「じゃー、帰宅するまではこのままってことで、シス調のアナウンスでも流してやろうかにゃ。《立ちあがらず、そのままでお待ちください。えーっと、だいたい、300分待ちくらいかな?》」

「それだと、俺たちの方が、このクレイジーな光景に先に気が狂っちまうだろーがっ!! 周囲は百鬼夜行みたいな地獄絵図なんだぞ、こんな世界、一秒だって長居したくねえッ!!」

「じゃー、手段は後者にゃね。ま、夢を見ている奴を起こすには、ちょっとしたコツがいるのよね」

「コツぅ?」

「要は寝てる奴に、これが夢だと感じさせる、メタ用語で話しかければいいのにゃ。つまり——」

「つまり?」

 デイビスと スコットは みを のりだしました。

起きろ! という」

「超シンプルじゃん」

「難しいとは一言もいってにゃいのにゃー。にゃんにゃん」

 デイビスは あきれかえって ためいきをつきました。

「でもま、ありがとな、チェシャ猫。お前もたまには、役に立つときはあるんだな」

「でしょ? お礼に、なんかちょうだい」

「すまん、猫缶がない」

「そんなのはいいのにゃー。喉なでて」

 チェシャねこは あまえて ごろごろ と のどを 鳴らしました。しかたなしに デイビスは ふとったからだを だきあげ、チェシャねこの くびの下を かきなでて やりました。

「しかしこう見ると、お前って獅子っ鼻で、全然可愛くねーのな」

「失礼な奴だにゃー。これでもなかなか人気あるキャラにゃのにぃ」

 すると スコットが よこから ひょっこり かおを出して、

「しかし、今でもさっぱり分からない。いったい君は、私たちの敵なのか、味方なのか?」

「やめてー。俺の鼻を押さにゃいで」

「君は、『ここが悪の王国になったっていい』と言った」

「俺は敵でも味方でもない、単なる夢の番人なんだにゃー。世界を二分法で考えると、後悔するよ」

「はあ」

 しゃくぜんとしない デイビスは くびを かしげて、チェシャねこに たずねました。


「なあ、チェシャ猫。夢って、なんだ? お前はこの王国で、いったい何を守っているんだ?」


 すると ねこは デイビスの ととのった かおを じっと みあげました。そして その口が ニィ とわらうと いきなり ねこの まわりに ふしぎな風が ふきはじめました。そして その風によって さまざまなことが いちどうに 変わりはじめました。風は ぶわり と デイビスの まっすぐな 髪を もちあげ ざわり とスコットの 上着のすそを ひるがえし、何よりも しんぴてきな その風は まるで まるで 、

  ゆ
 め
    の
    か
      い
        だ
       ん
        を
          お
        り
           て
              ゆ
           く
                 よ
             う
                  な
                     

               それは
  なにか
         どきり
               とするような
ふあんな         じゆう
     それでいて

  とてつもなく 
         胸を締めつけられるような

       

          
なのでした
     。


 ねこの めは 三日月色でした。
 どこまでも まっすぐに みとおすような
 針よりも するどい 色でした。


 ねこは ひげを ピンとたてて
            こう いいました。




「What win I, if I gain the thing I seek?
A dream, a breath, a froth of fleeting joy.
Who buys a minute’s mirth to wail a week?
Or sells eternity to ‘get a toy?
For one sweet grape who will the vine destroy? Or what fond beggar, but to touch the crown, Would with the sceptre straight be strucken down?

(求めているものを得られたところで、
いったい、この手に何が残る? 
夢か、吐息か、たまゆらの歓喜の泡か。
誰が一瞬の笑いを、一週間の涙で購うのか?
玩具を求めて、永遠を売り払うというのか?
甘い葡萄の一房欲しさに、誰が蔦ごと殺す?
何を好き好んで、王冠に触れるために、
王笏で打ち倒されたがる物乞いがあるものか?)」




 風は さわさわと 音をたてて 草原のような チェシャねこのけなみを ゆらしました。その ひとみの色は あいかわらず 月の色 でした。デイビスは なんだか その目の中に しずかに 吸い込まれてゆくような 気がしました。

「よくよく考えなきゃいけないよ、海側の住人さん。俺たちは夢と同じ糸で織られ、ちっぽけな人生は、眠りによって環を閉じる」

「え、えーと。急に文学的なことをぶちこまれても、反応しづらいんだが。なんだ、今の? 何かの引用か?」

「ディズニーは引用好きだから、それに倣ってみたにゃー。あんまり気にしないで」

「は……はぁ——」

「ほんじゃ、おさらばー。俺の役目は、ここではもう果たしたのにゃー」

「あっ。待てよ、チェシャ猫!」

「聞ーかない。ばいならー」

 そういいのこして チェシャねこは すうっと まるで ゆめのように デイビスの腕の中から きえてしまいました。

 デイビスと スコットは たがいの かおを 見あわせて ぱちくりと まばたきをしました。

「で、こうして俺たちが、夢の中に取り残されたわけだが。どうする、デイビス?」

「どうするって、やることはひとつだろ? さっさと仕事を片付けちまおうぜ」

「了解。では、さっそく」

 みじかくこたえると スコットは すう と 肺いっぱいに いきを すって、



「起 き る ん だ、 プ ー !!」




 びりびりと響く とんでもない 大音量に 思わずデイビスは 両耳をおさえて 震えあがりました。そして だいじしんのような その揺れに おおさわぎしていた ズオウも ヒイタチも おどろいて ぞうきん みたいに きゅうっと しぼられ、したたり したたり そのすべてが 蜜の渦となって あめあられと 辺りを ながれおちました。やがて プーは なにやら いい匂いが 鼻をかすめた気がして 見回しました。するとそこには きらきらと 黄金にかがやく たっぷりの ハチミツが したたる すばらしい きゅうでんが ひろがっていました。ブンブンと げんきよく唸る ミツバチも プーをこうげきしては こないようです。

「クリストファー?」

 プーは しんちょうに ささやきました。

「クリストファー、どこに いるの?」

「プー!」

 すると 下から はりのある 声が きこえてきました。それは クリストファーのように あかるい おさない声ではなく もっと としをかさねた おとなの 深い 低い声なのでした。

「起きたのか、プー? 随分うなされていたようだが」

「あーもう、危なかったー。夢の中は懲り懲りだぜ」

 もちろん それは へなへなと じめんに くずへおちる スコットと デイビスの 声でした。プーは ふりかえろうと しましたが やがて じぶんの でっぷりとした お腹が その ハチミツの きゅうでんの 出口に つかえていることに きづきました。

「プー、お前、今、木の上にいるんだよ! きっと、昨夜の風で、そこまで吹き飛ばされたんだろ!」

「なんだって。デービス、そうなの?」

 木のうろに はさまった お尻をふりふり プーは たずねました。

「でも めのまえは、たっぷりの ハチミツの うみだよ」

「木の上のハチの巣にはまってるんだ、俺たちがお前を、地面に降ろしてやるよ! だからいいか、ミツバチを刺激しないように、そのまま大人しく——」

「(チュパパパッ)
 ♪は〜ちみつが
 だいすき
 た〜べるんだ
 お〜いし〜い」

「だめだ、一言も聞いちゃいないな。太平楽というか、なんというか」

「本当にのんきな熊だなあ」

 ぺちんと 自分のおでこを たたいて あきれかえる スコット。デイビスも やれやれと 両手をあげる しまつです。

 こうして 風の強い夜 ゆめを 見ていた プーさんは、風船と いっしょに ハチミツの 木のうえに とばされました。ハチミツを おなか いっぱい たべて。
 デイビスと スコットは お腹いっぱいになった プーを ようやく ハチの巣から ひきぬくと、べたべたに なった体を 川で 洗って あげることにしました。

「プー。君はどうして、そこまでしてハチミツを食いたかったんだ?」

 スコットが ぴちゃぴちゃと 川の水をかけてやりながら プーに 話しかけます。プーは ハニーポッドに ほじゅうした ハチミツを まんべんなく ゆらしながら、

「僕は とれたての ハチミツを クリストファー・ロビンに 食べさせてあげたかったのさ」

「クリストファーに?」

「僕がすきなのは かれんちに 遊びにいって、かれが ハチミツはどーだい って いうことさ。ふふふん」

 そういいながら プーは いつもの ひみつのばしょで クリストファーが語ったことを 急に 思い出しました。それは ほんとうに べっこうのように あとからあとから 黄金のひざしの すきとおって、そして今日という日は なんてすてきなんだろうと 思った 日でした。ぜっこうの ハチミツ びよりです。プーは ピクニックに じさんしてきた ハニーポッドから ハチミツを すくいました。クリストファーは ただ じっとだまって ハチミツをたべる プーをみつめていて、やがて ふんわりと わたあめのように とおく その言葉を 口にしました。


(ねえ プー。ぼくがいなくなっても 君がここにきて 何もしないってことを してくれる?)

(僕だけ? ひとりで?)

(そうだよ それからね——

 ぼくのことを忘れないって 約束して)


 たいせつなひとに なぜ 忘れないと 約束しなければ ならないのか プーには わかりませんでした。この先も ずうっと わからないでしょう。なぜなら かれは、うまれてから きょうまで ぬいぐるみ だったからで、そして たとえ クリストファーが 百歳になり プーが 九十九歳になったとしても、そのなぞは えいえんに 胸に のこりつづけるのでした。

 まるで 金のように キラキラとする ハニーポッドを そっと だきしめ プーは 言いました。

「僕は、クリストファーのためなら なーんでも してあげるんだ。ハチミツだって あげちゃっても いいよ」

「殊勝だなあ。ひとりで食べちゃえばいいのに」

「ハチミツは 森のなかに たーくさんあるけど、クリストファーは 世界で たった ひとりしか いないって しょうこを 見つけてしまったんだ」

「証拠?」

「そうだよ。あたたかな 風のなかに」

 そうして プーは ふっと 言葉を 絶やしました。だいすきな ハチミツの においにまじって 森中が 秋の歌を うたっていました。そしてそれは ものうげなミツバチの ブンブンという音や クリストファーと 手をつないで いっしょにふみしだいた 落ち葉の かさかさとした 音がしました。空は どこまでも はてしなく 子どものように きよらかでした。


「かれの顔のなかに こうやのように 僕じゃない うれしさや あわれみが 広がった。雨の音のように あかくそまった 枯れ葉のように それは広がり うごいていた。ざわめく 世界の中で かれは ひとりぽっち だった。僕は かれの こころに さわれなかった」


 プーが しずかに ささやいたのと どうじに、とんぼが つい と かれの鼻に とまりました。茜色の 枯れ葉が むげんに 風にのって とんでゆきました。まだ かれのしらない 森の とおくへ。とおく とおく このうつくしい 朝の 空の はてへ。それが どこなのかも なにがあるのかも かれは しりませんでした。

「クリストファーは さいきん かえってくるのが おそいなあ」

 ひとりごとのように ぽつん と 言って プーは あしもとの ぼうっきれを ひろいました。そのそばを ゆっくりと ちいさな いもむしが はってゆきました。

 デイビスは、言おうか言うまいか まよっている ようすでしたが、やがて しずかに 口をひらきました。

「クリストファーは、この森を忘れてはいないよ。お前のことが書かれている本を、大切に読んでいたよ」

「がっこうは 楽しく ないのかな?」

「そんなことはなさそうだったよ」

「それは よかった」

 プーは のんびりと ほほえんで 言いました。

「僕 かえって パーティの じゅんびをしなくちゃ。もうすぐ クリストファー・ロビンが くるかも しれないからね」

「何のために?」

「何もしない ってことを するために さ」

 そのとき なんだか うっすらと 未来のかんかくが うすくなったように おもわれ、うしろを 見ると ようやく ページの 出口が あらわれてきました。出口といっても ぼんやりとした光が もれてきている だけなのですが。

 しかし ものがたりは ほんとうに ここで おわりなのでしょうか。ここで おわってしまって よいのでしょうか。なんだか まだまだ さきは つづいていて、たまたま 本の ページが 尽きただけなのかも しれません。

「じゃあな、プー」

 デイビスは 少ししんぱいそうに プーをふりかえって つげました。プーはもちろん あの のんびりと まのびした声で こたえました。


「さよなら、デービス スコット」


 たいせつなひとに なぜ さよならを 言わなければ いけないのかも プーには わかりませんでした。ずっとずっと いっしょにいれば さよならを言う ひつようも ないのですが。スコットが デイビスの 肩を 優しく たたきました。そうして 二人は プーを ひとり 百エーカーの森に のこして 光の 方向へと 歩いてゆきました。

 木のうろを 抜けると ふしぎなことに 納屋には つうじず かれらは 子ども部屋の とびらを 開けていたのでした。青いシーツを きちんと たたまれた ベッドは もう つめたくなっていて、かべには ライオンや キリンの 絵が かざってありました。いいえ それだけでは ありません。たくさんの トラや こぶたや カンガルーの ぬいぐるみが その部屋の おもちゃ箱の中に かたづいているのでした。

 もしかしたら クリストファーは どうぶつに きょうみがあるのかも しれません。大きな 古ぼけた ぼうえんきょうが おいてありました。クリストファーは せいざを たくさん 知りたいのかも しれません。そして 消しわすれた ランプに てらされて、たくさんの カラフルな つみきが つくえの上に アルファベットを ならべていました。TIGGER KANGAROO CHRISTOPHER OWL WINNIE THE POOH。ひょっとしたら クリストファーの あたまのなかには たくさんの ものがたりが たゆたっていて、それをなんとか つかまえようと がっこうで いっしょうけんめい べんきょうしている ところなのかも しれません。そして そばには ものいわぬ きいろい ぬいぐるみのくまが 窓辺にそっと おいてありました。みなさんも よく知っている そのくまのこと、もう おなじみの 名まえも つづれるでしょう。

 だれもいない ていえんでは、さやさやと 頭上を見あげる ラベンダーの 二番穂が すきとおるような 紺碧の 空に ゆれて、かなしいくらいに さわやかなかおりを とおく ふきちらして いました。じこくは 八じ 三十二ふん でした。いまごろ クリストファーは くるくると ちきゅうぎを まわしたり、ほしの べんきょうを しているのでしょうか。

 そのころ プーは ぺたりと いつもの かんがえるばしょの 丸太に こしをおろして、雲ひとつない あおぞらを 見あげていました。

 その日も 百エーカーの森は とてもいい てんき でした。小鳥は さえずり ひだまりは あたたかく カエデは 秋に ふさわしい 香りを ふりまいて 世界は こがね色に そまっていました。きのうとは なんにも 変わることはなく けれどもすこし 秋の色が つよまりました。さわさわと プーの 家に からまった あおむらさきの あさがおが ゆれうごきました。

 プーは むずかしいことは 何も わかりませんでした。ただ この森が もうすぐ 凍てついた さみしいきせつを むかえる ということは わかりました。ことしは どのくらいの ハチミツの つぼを たくわえておけば よいのでしょうか。どのくらい らいきゃくようの シーツが ひつようでしょうか。

 ティガーが近寄ってきて しずかに プーのそばに すわりました。

「ねえ、ティガー」

「なんだい?」

「ぼう投げを しようよ」

「よしきた!」

 ティガーは さっそく 小川の ほうに とびはねました。プーも そのとなりを のんびり ついてゆきながら げんきいっぱいの かれの すがたを じっと みつめました。


「友だちでいてくれて、ありがとう。ティガー」


 そうして ふたりは 連れだって ぼう投げばしに でかけてゆきました。

 いい てんき でした。百エーカーの森は みごとな 秋を むかえていました。







*1 『ディズニースーパーゴールド絵本 プーさんとはちみつ』講談社、2016年


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