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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」8.そうすれば、あたしもこの場限りでエンディコットの名を捨ててみせるわ

「さてっ。待ちに待った、花のニューヨークに出発の瞬間ね。ああ、神よ、この日を指折り待ち続けていました」

「その前に。あんた、今自分がどこに立っているか分かってんのか?」

 野原での読書を邪魔されたデイビスは、上に覆い被さってきて天に祈るカメリアの影を鬱陶しげに眺めた。彼女は、通常よりも一段華やかな服を身に纏い、都会に相応しい出で立ちとなっていた。蒼いラインのアクセントが効いた、真っ白なドレスにボンネット。どうも旅行に張り切って、お洒落してきたようである。

「可愛いでしょ? 特別なお出かけ用の服なの」

「あのなー。ニューヨークへは、遊びに行くんじゃないんだぞ」

「あら、それじゃあ何しに行くっていうの? まさか、たった一枚の手紙を届けたら、即帰宅ってわけでもないでしょ?」

「えっ。配達以外に、何も用事なんてないだろ?」

 カメリアは、信じられない、といった表情で彼を見つめた。そこから彼をユサユサと揺さぶって、あーだこーだのなだめすかしが始まったが、結局、一番効力を発揮したのは甘言や誘惑ではなく、脅迫まがいの次の一言だった。

「手紙を渡して即帰宅なんて言ったら、ニューヨークの雑踏の真ん中で、大の字になって泣き喚くわよ」

「やめてくれよ。頼むから」

 デイビスは泣きそうな声で懇願し、それで手は打たれた。

「それじゃあ、ニューヨークへ。しゅっぱーつ」

「待て待て待て、まさか、そのまま突入するわけじゃないだろ」

 意気揚々とフライヤーに乗り込もうとするカメリアを捕まえ、間近まで互いの顔を突き合わせる。

「あのな。大都会の摩天楼の真上を、得体の知れない物体が飛んでいたら、どういうことになると思う?」

「拍手喝采?」

「のーてんきな発言だよな、本当に……」

 ピポン、と豆電球を頭上に浮かべるカメリアに、デイビスは思いきり肩を落とした。

「マサチューセッツにケープコッドっていう漁村があるから、そこからニューヨークに行こうか。鯨がよく見られる、穏やかなリゾート地だ。ケープコッドは灯台が有名だから、きっとフライヤーの針路も取りやすいだろ?」

「そうね、ランドマークがあるのは助かるわ」

 デイビスは、手持ちの携帯機にアメリカ東海岸の地図を映し、指で方向を示しながらカメリアに見せた。

「ケープコッドに到着して、ニューヨークへ行って、それから戻る(注、本当はNYまでめちゃくちゃ距離があるのですが、ここでは目を瞑ってください)。とはいえ、帰ってくるのが夜中になりそうだから、もしかしたら、村で一泊しないといけないかもな」

「お泊まり?」

「へ、部屋は別々だぞ」

 慌てて言い添える。泊まりなんて、そんなの聞いていない、と駄々をこねるかと思ったが、カメリアは少し困ったようにくるくると髪を弄った。

「泊まるのはいいんだけど、私、凄い癖っ毛なんだよね。朝、あなたと会った時に髪がくしゃくしゃになっていても、笑わない?」

「善処するよ」

 そんなわけで、特に宿泊自体には問題がないようだった。なんとはなしに、カメリアは今日やってきそうだな、と予感していたデイビスは、簡単ではあるが自分の荷物をまとめてあった。野性の勘ともいうべきそれが功を奏し、すぐにでも出発できる状態にはなっている。
 とはいえ、宿泊は予想外だったろうから、あんたも荷物をまとめ直したらどうだ、と口にする前に、カメリアは薄い冊子を彼に手渡した。

「ん? なんだ、これ?」

「『旅のしをり』」

「はぁ?」

「”はじめに”と、簡単なタイムスケジュールと、持ち物のチェックリスト。最後のページは、メモとして使ってね」

 この短期間でわざわざ作ったのか、と仰天しながらしおりを開いてみると、思った通りというべきか、タイムスケジュールには『行く』と『帰る』しか書いておらず、それ以外は見事にすっからかんだった。こ、これのどこがどうスケジュールなんだよ。未知のエリアにしても、さすがにもう少し埋めようがあるだろ、と震えるデイビス。
 すると隣から、カメリアがペンを取り出して、

「今、スケジュールが変更になったから、追加するね」

と、空白のタイムテーブルの中央あたりに、『泊まる』と書き足した。ふわっとしているどころか、地に足のついているところがひとつもない計画に、ひたすらボーゼンとするしかない。

「か、カメリア。あんたって奴は、ほんっとーに……」

「可愛い? 天才?」

「……物凄くオブラートに包むと"脱力系"だ」

「それは光栄ね」

 さておき、二人はフライヤーに乗り込むと、ふたたび、あの飛ぶまでの長ったらしい儀式を経て、水先案内人として飛翔するアレッタとともに、ふわりと宙に舞いあがる。カメリアが、断じて一日中観光をする、だから朝早くに着くのだ、と言い張るので、とりあえず問題の手紙が書かれたのと同じ年の、朝の五時を目指そう、ということで結論づいた。元の時代では午前十時頃の出発だったので、時刻としては数時間遡る形になる。それが時差ボケを起こしたようで、ふあ、とデイビスの口にあくびがのぼった。カメリアは、東の海から顔を出したばかりの太陽を見つめ、鏡の如く輝いている無限の大海洋へ、うっすらと霧の稀薄なヴェールが滑り、その氷の粒を優しく光らせている様を熱心に眺めていた。海には、まだ青みがほとんどなかった。肌寒いまでに穏やかな潮風に誘われて、波が光と影を打ちつける以外は、とても静かで、時折り、魚の跳ねる音が良く響いた。まもなく陽射しに暖められて、むせるように甘い潮の匂いが漂ってくるだろう。

 フライヤーは生まれたての黎明のさなかを、天使のように飛行してゆき、やがて広々とした入江となっている浜辺の隅に着陸した。着地段階で少し足に散った潮水は、まだ冷たい。車輪は軽く砂に埋まっていたが、おかげで流される心配もなく、人気のない渚は、フライヤーを置いておくにはお誂え向きだった。海は清々しい朝を迎えている。静かに湿った砂の崩れる音を立てて歩くと、蟹やヤドカリがさっと蠢いて、彼らに道を空けた。風は、海藻や磯の匂いとともに渦巻き、二人の残してゆく足跡へ、ひちちかに透き通る水を流れ込ませた。

 やがて浜辺から村へとあがると、カメリアはボンネットのつばをあげた。蒼い艶のあるリボンが、蝶のように風に躍っている。何も語りはしないが、楽しそうなのが、見ているだけで伝わってくる。

 潮の気配の強い村だった。それに海老のように乾いた臭いもする。金盞花色に染まっている半透明の空が白い家々に映えて、涼しい空気の中に、朝まだきの潮風が流れていた。ピーコッド・ストリートに立ち並ぶ建物は、どれも気取りがなく、せいぜいが二、三階建てのちいさな家だった。古びたバジル色の雨戸より、濃い紫のビオラの花々が咲き乱れ、滑車のついたロープに引っ掛けられた洗濯物からは、シャボン玉を焼きあげたような、熱い匂いが鼻いっぱいに吹き渡ってきた。芝生は朝露に濡れて、新鮮な草の香りがした。少し歩くと、浜辺に小舟が揺蕩い、きらめく鱗が引っ掛かった網を乾かしている。崖の辺りは、険しく陰気な絶壁となっているが、その先には赤白の縞模様に塗られた灯台Hurricane Point Lighthouseがあった。旅の気分に煽られたのだろう、カメリアははしゃいでくるくると手を広げ、生まれたばかりの黄金の陽射しと戯れた。

 崖のそばの宿、Safe Heaven Sailors’ Homeに部屋を取り(カメリアが二部屋分の金を払ってくれた時、さすがに情けなくなった)、鍵を受け取ってから、ニューヨークへ出発する。行きの電車の中で、カメリアは朝からずっと昂奮していて、窓の外の景色に目をそそいでいた。
 
「ねー、デイビス、あれはなあに?」

「さあな。魚市場じゃないか?」

「それじゃあ、あれは?」

「あれは、梯子だろ」

「違うよー、その隣の四角いの。あら、隠れちゃった」

「じゃ、わからないな」

 なげやりな返事ばかりのデイビスに、カメリアはぶすっと膨れる。

「デイビスったら、ニューヨークが楽しみじゃないの?」

「俺はあんたを見ていた方が、よっぽど面白いよ」

 するとカメリアは、照れた表情をして頭に手をやり、いやあ、と体を傾がせた。見れば見るほど面白い。なぜ彼女はこんなにもポジティブでいられるのだろうか。

 しばらく揺られているうちに、車両は駅舎へと滑り込んだ。すでに赤煉瓦でできたホームからは大量の人々が流れ、切符を切る手は休む暇がない。これほどの人混みでは危なかろうと、カメリアはアレッタを空に飛ばし、ホームを出てからふたたび肩に載せた。高架線の上から見下ろしたニューヨークは、朝早くにも関わらず、活気に満ちていた。都市計画に沿って綿密に整備されたその街は、人間の大事業の勝利ともいうべきか、自然の大景観とは対をなす、巨大に過ぎる人工の被造物が、遙かまで尽きず連続する大空に、荘厳な稜線を描いて突き抜けていた。鉄橋にビル、クレーン、船。ここでの主役は、まさしく人間、いや、人間の連綿たる前進と刷新の輝きだった。元々は太平洋に面した大自然に恵まれ、玉蜀黍や豆や南瓜の収穫できる、レナペ族に語り継がれた豊かな大地だったが、詐欺まがいの取引によりオランダ人入植者の手に渡って以降、この地の未来は急速な息吹を携えてゆくことになる。その後、イギリスに帰属を奪われ、王弟の領地に因んでニューヨークと改名された街は、独立戦争後にさらなる発展を見せ、一時期は首都にまで登り詰める。そして祖国の飢饉や政情不安、感染病から逃れるために渡ってきた移民たちの手によって、世に類のない国際的な広がりを見せてゆくのである。

 朝靄と旭光を浴びて、美しくその姿を映えさせながら、碁盤の目のように配置された大きな建築物は、個性豊かな外装を曝け出していた。煉瓦に鉄骨、漆喰、大理石、それに掲げられた数々の広告……色もデザインもばらばらで、まるでそれぞれが信奉する文化のモザイクだ。咲き乱れる春の花の植木鉢は、まだ朝露に濡れていて、遠くに広がる海へと向かって、その若い花びらを微風にそよがせていた。街燈がのっぽの紳士のように立ち並ぶ下で、靴磨きの男が通行人を呼び止め、新聞売りの少年は、さっそく朝刊を売り歩いている。何といっても、ニューヨークは人通りが多い。そばにはニューヨーク港があり、セントラルパークの東にはメトロポリタン美術館、西にはアメリカ自然史博物館。イースト川ならブルックリン海軍工廠、エリス島へ赴くなら、自由の女神像へ。その他、数多くの観光名所がゲストを呼び込むのに加え、それ以上にそこで生活し、成功を目論む人々で溢れ返っているのだから、客足が途切れることはなかった。
 この頃のニューヨーク港は、合衆国の輸出入の過半数を一挙に引き受けるほどの重要な拠点になっていた。まだ飛行機が登場していない以上、まさに世界各国への玄関口として大きな扉を開け放っていたといえる。またトーマス・エジソンの発明した白熱電球を導入し、世界で最も早く電気照明都市となったのも、この眠らぬ大都会、ニューヨークである。十七世紀の入植以来、めまぐるしい貿易や戦争、都市計画と改善を繰り返してきたこの大都市は、眠ることのない疼きの中で、世界に跨る繁栄を推し進めてきた。それは何も、この輝かしい現在の一点においてのみ、頂点を極めるのではなく、船乗りたちが順に手渡す積荷のように、遠い先の未来においても、脈々と引き継がれるものだったのだ。

 二十世紀を代表するジャーナリスト、トム・ウルフは、ニューヨークの気風に触れながらかく語る、
「Culture just seems to be in the air, like part of the weather.(文化が空気のうちに流れている、まるで天気の一部のように)」

 また第一〇八代ニューヨーク市長、マイケル・ルーベンス・ブルームバーグは、自らの精神を宿すビッグ・アップルについてかく謳う、
「This is the city of dreamers and time and again it’s the place where the greatest dream of all, the American dream, has been tested and has triumphed.(ここは夢見る人の街、時を超えて最高に素晴らしい夢、アメリカン・ドリームが試され、何度も勝利を重ねてきた街なんだ)」

 かくも美しい形容を並べてみると、さぞかし高邁な思想で固められたウォーターフロントの如くにも思われるが、しかし何も偉大な夢だけが寄り集まるのではなく、ほんの僅かな生活、下卑たスラングの中にも、明日へと向かってたくましく生きる人々の希望が息づいていた。街全体を呑み込む大きな潮の匂いに入り混じる、金属の匂い、ペンキの匂い、縄の匂い、革の匂い、靴墨の匂い、香水の匂い、それにベーカリーの甘いバターや、冷たいサウザン・ドレッシング、弾けるようなグレープフルーツ、焼けたトマト、深いコーヒーの香り。そのふわっとした、何ともいえない素晴らしい匂いを嗅いで、ようやくデイビスの胸にも、カメリアと同じ興奮が流れ込んできた。

 やはり、見知らぬ街を前にするとワクワクする。何より、そこには海がある。独特の匂いも、打ちつける水の音も、何より自由へと向かって解き放たれているかのような水平線も、何もかもが未知の味を呈している。海辺の街に生まれ育った二人は、無限に広がる蒼海に対して格別の思い入れがあるのかもしれないが、それにしてもこの沸き立つような港湾にはひときわ、胸が躍った。空はやや雲が多かったが、晴れ間から陽射しが射して、いっそうのこと、神々しい明るさを露わにしている。まもなく、地上の賑わいを吸い続けるうちに、この灰色の雲も風に吹き払われ、鮮やかなサマーシャワーの色合いが顔を出すだろう。そして、その瞬間を何よりも心待ちにしているのは、五四番埠頭、涼やかに水の上に浮かべられている豪華客船かもしれない。

 その埠頭には、巨大な蒸気船が寄港して、次なる目的地へと向けた出港を待っていた。この時代、数多くの移民たちを運んできた大洋航路船は、広大な海に隔たれた大陸間を繋げ、国家の威信を賭けて意気揚々と蒼い海面を断ち割ってきたのである。その美しい外装は、下半分は濃紺に塗られて高級感を漂わせる反面、客室側は真っ白で、まだ浅い陽の光を浴びて、無限の夢を描くように光り輝いている。海面を切って進めば、なおのことその勇姿が美しく映えるだろう。さらにその上部、黄金の陽を受けて、燃えるように紅い煙突は三本、石炭の煤煙を落とさぬよう、船尾へと向かって斜めに設置され、今はめくるめく白雲に溶ける煙を吐いていた。すでに内部の食堂のうちで、朝食を給仕しているのかもしれない。ベルトコンベアを利用して、手早く荷物を運び入れる中で、プロムナードには乗船を終えたばかりの紳士淑女が歩いていて、高いデッキに佇み、風に吹かれている乗客もいる。その他、数え切れないほどの見物客が押し寄せて、この物珍しい巨大船を一目見ようと集まっていた。近い将来、数年前に沈没したガルガンチュア号の精神を受け継ぐ新しい蒸気船が、このように多くのニューヨーク市民を集めて祝宴を催させることになる可能性もある。

 無論、このように大々的な客船以外にも、多くの小型船が寄せられているハドソン川付近のドックは、ボトルグリーンの海面に枯れ葉の屑を浮かべ、石を積んだ停泊場に係留されて貨物船が揺られている。積荷を下ろし始めているらしく、たくましい船乗りがめちゃくちゃな英語を話しながら、口論したり小突きあったりしつつ、次々にクレーンに乗せて木箱を輸送している。何人かはサボタージュを見せて、心地良い風の中で生ビールを飲んだり、立ったまま肉汁たっぷりのソーセージを齧っていた。桟橋には即席の食事処があり、ドラム缶や古い木箱を積んで、その上にか細いランプを置いていた。幾つかは、朝だというのに橙色の灯りがか細く瞬いているので、昨日から夜通し飲み続けて消し忘れた人間があるのだろう。肉を齧り終わった船乗りが骨を捨てると、たちまち鴎が寄ってきて、その残り滓を突つき始める。そばに浮いた帆船からは、「Fragile, fragile!」と叫び続ける声が聞こえ、時折り、鳴き喚く鳥を鬱陶しげに追い払った。ドックの手前、早くからポップコーンを熱く炒っている複数のワゴンは、互いに商売敵の関係にあるようで、腹の減っている船乗りを呼び止めようと、香料を使った強い匂いを醸し出している。その間の道を、ゆっくりと移動してゆく車は、信号も見ずに渡り歩くニューヨーカーたちに抗議して、盛んにクラクションを鳴らしていた。とにかく、この街は個々人の主張が激しい。それぞれがすぐカッとなって喚き立てるようだったが、それでいてその喧騒は、なぜか不思議な調和を見せているのだった。

 着いて早々、新聞売りから新聞を買い、日付を確認した。1891年、4月15日。到着の時空としては申し分ないようで、カメリアは得意げにデイビスに見せつける。

「ほーら。見直した?」

「ああ、さすがだな。これなら問題なさそうだ」

 彼の口調を真似てふふんと鼻を鳴らすカメリアを褒め称え、デイビスは何気なく彼女を振り返った。

「海、行くか?」

「いいの!?」

「見たかったんだろ? せっかく来たんだ、行きたいところへ行こうぜ」

 明るく微笑みかけるデイビス。結局、はしゃいでいるのは彼も変わらないようで、そんなみずみずしい昂奮とともに、声をかけてくれたのだろう。カメリアは笑顔を花咲かせて頷いた。

 巨大な客船へと向かって足を進めてゆくと、五四番埠頭のそばに備えられた高台が見出せる。主に展望台としての意味が強く、出航の際には、一際手を振る姿が目立つとして、別れを惜しむ人々で溢れ返る場所だった。また後年、とある日本人の考案によって、乗客への出発の挨拶を握手の代わりに紙テープで行う風習ができたが、その際にも大いに活躍することになる場所である。もっとも、今は出航の時期ではないので、高台に人影は疎らだった。登ると、目の前の豪華客船以外、何も目を遮るものはなくなる。全長二〇〇メートルを超過する鉄塊と、比較すれば点にも満たない人との、圧倒的な対峙。近くで見ると実に巨大で、鉄で造設された山に丸ごと呑まれるかと思うほどである。その下には、蟻のように働く船員たちの姿があった。

「カメリア、見えるか? あそこに海亀がいるぜ」

「わあ、海亀なんて初めて。もっと近くまで降りられないかしらね?」

 カメリアはきょろきょろと辺りを見回したが、デイビスの方がずっと行動が早かった。高台の下へと降りてゆく階段を見つけると、そこへの道を隔てる鉄柵に手をつくなり、かしゃんっ、と音を立ててそれを飛び越えてしまい、たちまち彼女に手を振った。

「カメリア! あんたもこっち来いよ」

 立入禁止であろう場所に当たり前のように踏み込むので、生粋の不良だなあ、と呆れ返るが、こういうことは無論、かねてより彼女も得意だ。ドレスを着ているにも関わらず、羽の生えたように柵を越えると、逸る胸をおさえて、硬い石でできた階を駆け下りてゆく。
 眼下は、広々とした港湾に数多くの木箱が積みあげられて、迷路のようになっていた。博物館に輸送するのだろうか、恐竜の骨といった、物珍しいものもある。遠くへ視線を移すと、蒼い沖合に停泊した船の積荷を載せて、点々と散りばめられた艀がハドソン川へと向かってゆく。彼らは家族とともに、海の上で生活を営む者たちだ。夜、真っ暗な波間を漂う中で、遠くに煌めくニューヨークの街燈を見つめながら眠りに入るのは、どんな気持ちなのだろう、とカメリアは想像した。

 彼は階段の下で彼女を待っていて、潮風にドレープを描くそのドレスの波模様を、少しまぶしそうに見つめていた。それから、そばに寄ってくる彼女に笑いかけると、あっち、と悪戯そうに親指で行き先を示す。

「怒られない?」

「構いやしないさ。……おっと、来やがった」

 カメリアの腕を後ろ手に捕まえると、そのまま木箱の隙間に押し込んで、自分も無理に身を滑り込ませる。その少し後から、怒鳴りつけるように会話する輸送会社の人間が、乱暴な指示を飛ばしていた。彼らの会話が響いてくる木箱の合間は、お世辞にも臭いがよろしいとは言い難く、何日も船底に置かれていたせいで、饐えた黴臭さがあった。アレッタはすぐに、こんなところはごめんだと言わんばかりに飛び立って、彼らの上で円を描きながら飛翔してゆく。それに苛立ったのか、木箱を通り過ぎようとしていたその二人の男は、ふっと大空を見上げて悪態をついた。アレッタの影に気を取られて、木箱に隠れていた彼らの姿は、ぎりぎりで見つからなかったようだった。

「あのバカ鳥め、忌々しいったらありゃしねえ」

「ありゃ、ハヤブサですね。魚でも狙っているんでしょうな」

「今度俺の昼食を奪いやがったら、銃で撃ち殺してやる。あの野郎、俺のマグロのパニーニを掻っ攫っていきやがった」

「へえ、短気ですね。昼食泥棒に見合うだけの銃弾なんざ、ありゃしませんぜ」

 物騒な言葉とともに後方に去ってゆく。言い方は乱暴だが、まさか、本当にピストルの引鉄に手をかけることもあるまい。

 そっと、男たちの後ろ姿を見守りながら、デイビスとカメリアは木箱から上半身を覗かせる。飛んでいってしまったアレッタの姿を探すと、すでに遠く、大型客船のマストにはためく国際信号機の近くに止まっていた。猛禽類がいるせいで、鴎たちは客船に近づけず、他の船へと逃げ去っている。デッキを散歩していた、一等客らしいパラソルをさした貴婦人たちが、アレッタを指差して何か話している姿が見えた。

 彼らは周囲を見回し、人影が近づくたびに慌てて荷物の裏に隠れながら、少しずつ開放された海の眺めへと近づいていった。学生時代に、こうして教師の目を掻い潜って、同級生とハイスクールを抜け出したことが何度もある。帰ってくると毎回こってりと絞られたものだが、あれは若き日に刻み込んだ、誰にも譲り渡すことのできない彼の青春だった。あれから十年ほど経ち、久しく味わっていなかったあのスリルが胸を占めてきて、健康な動悸が脈搏つようにどきどきした。木箱の陰に隠れながらやり過ごしているうちに、自然と彼女と目が合う。カメリアもまた、高鳴る心臓を秘めながら、労働者たちに気づかれぬようにくすくすと笑っていた。笑っちゃだめだ、と少し叱るほど、二人とも楽しくなってきて仕方がない様子だった。

 ようやく海まで辿り着くと、渺々として地球を浸す大西洋の、そのほんの一部を覗き込む。ぞっとするほど鋭利な、桑の実色のフジツボがへばりつき、水しぶきは岸まで跳ねて、一瞬、潔白に煌めきながら岩に染みてゆく。ぐん、と磯の匂いが濃くなった。深緑の水面のうちに、蛾の紋様のような波が現れ、たちまち呑み込まれてゆく。その隙間を縫って、ゆるりと水底を泳いでゆく一匹のアオウミガメの影が見えた。水の抵抗を受け流す流線型の滑らかな甲羅は、蒼い海の波紋に照らされて斑らに輝き、前脚を使ってまるで羽ばたくように優雅に水を掻いている。

「わー、本当に海亀だ。可愛いなあ」

 可愛いかな? とも思ったが、そっと冷たい海水の中に差し込んだカメリアの手へ、亀は警戒することもなく、緩やかに匂いを嗅ぐように近寄ってきた。人懐こい黒い目がその指を眺めている。こんにちは、と彼女が語りかけると、偶然なのだろうか、海亀の姿勢には珍しく、その両前脚をふわりと上に伸ばしながら、白く冴えた腹甲を見せた。

「おっ、見て見て、デイビス。いえーい、って」

「んなアホな」

 真偽の程は分からないが、ひとまず気に入られたようである。呑気に亀と戯れる様子を後ろから見守りながら、デイビスはふとジャケットを脱いで、朝の燦然と輝いている曇り空を仰ぎ、

「気持ち良いな。やっぱり、海辺の街は好きだ」

と独り言のように呟いた。銀鼠色に渦巻く雲の合間から、まばゆい光芒が幾筋もこぼれ射してきていて、蒼鉛とも見紛うほどに深く艶やかな海に、光の帯をそそぎ込んだ。太陽と真っ直ぐに繋がるその反照のうちで、波は生きているかの如く絶えず揺らめいて、その水底までもを温めてゆく。彼は潮風に吹かれ、心地良さそうに目を細めた。その横顔は、薄い光の中に解き放たれて、自然と一体化したように涼やかだった。

 胸の中まで洗い揉まれるような潮風の底で、そうして海を見つめていると、気分が晴れ晴れとしてくる。カメリアは笑って、海辺に住んでいる人は、みんなそう言うんだよね、と語りかけた。朝の光に照らし出されて、白いドレスが、百合の花のように目に滲みる。と、その時。

「すぐに出て行け、発情期の溝鼠ども! 木箱にぺしゃんこにされてえか!」

 大音量の罵詈に、心臓が飛び出そうになる。即座に声の出所を見ると、そこでは別の着飾った男女が、船乗りに怒鳴り散らされていた。自分たちじゃなかったのか、と胸を撫で下ろしつつも、鼓動は依然としてうるさいほどに全身に鳴り響くままだ。どうもここは、好奇心旺盛な人間が入り込みたくなるスポットらしく、パートナーの前でそんな勇気と体面を傷つけられたと感じた男の方は、一歩も譲らずに船乗りの前に立ちはだかった。かくして、港中に聞こえるような大声で口喧嘩が繰り広げられている隙に、これ幸いと、デイビスとカメリアは泥棒のような足取りでこそこそ階段へ帰り着いた。石段を登って、最後の鉄柵を越えると、ようやく二人して安堵の溜め息がのぼってくる。

「ああ、ドキドキした。あなたといると、いっつもこんなことばっかり」

 口笛を吹き、ばさばさと戻ってくるアレッタを頭に乗せながら、カメリアはへなへなと崩れ落ちる。デイビスはジャケットを肩に掛けながら笑った。多少の文句も恨みがましさも一瞬で吹き飛ばしてしまうほどの笑い声で、それが曇り空に響くと、まるで太陽のように明るく聞こえた。

「ははっ。生まれつき危ないことが好きな性分なんだから、仕方ねえよなあ」

「もう! ちゃんと反省してよね」

「そんなこと言って、あんただって怒りながら笑ってるぜ」

 デイビスは、にやっ、と歯を見せながらカメリアの表情を指摘する。それに負けて、思わず彼女も笑い出し、誤魔化すように顔を隠してしまった。

「さーて、次はどこに行くかなあ」

「行きたいところに行っていいんでしょ?」

「おー。あんたに大の字になって泣き喚かれたら困るからな」

「そうだなあ、気になるところは色々あるけれど……」

 潮風にドレスを翻しながら、華やかなニューヨークの街並みに紛れてゆくカメリア。遠慮なくクラクションを鳴らす自動車に、少し驚いているようだったが、その奇怪な乗り物が道を走ることなく、自由に乗降して良いらしいところを見つけた。

「デイビス! あれ! あれに乗ろうよ!」

 カメリアはきらきらした目で指を差す。見たところ、蒸気自動車の類いだろう。全体的にキャビンの壁は取っ払われており、タイヤはソリッドタイヤで、座席も硬くて冷たいベンチである。しかしその車体は鮮やかな赤色に金の蔦が描かれ、さながら藝術品のような美しさを湛えている。最大の特徴は、座席の前の床から垂直に生えたハンドルと、蒸気を送り込むためのボイラー。エンジンの始動に時間はかかるが、ガソリンエンジンに取って代わられるまで、当時はよく用いられていた自動車である。花屋の店先で、鉢植えを置くオブジェとして飾られているようで、括り付けられた看板には、FREE TRIAL、と書かれている。

「乗っていい? 乗っていいんだよね?」

「ディスプレイみたいだな。乗っていいんじゃないか」

 聞くが早いか、カメリアは兎のようにぴょんと運転席に乗り込んで、物珍しげな顔でハンドルを回した。花に彩られた車の中で、ほんの少し、新鮮な匂いが掻き乱された。

「ふーん、変なの。これは何だろう?」

「車だろ?」

「車って何?」

「あんた、そんな昔の時代からやってきたのか!?」

 デイビスは愕然とするが、無理もない。自動車の誕生は一七六九年と古く、カメリアの生きた時代とも被っているのだが、性能も価格も実用化に耐えるものではなく、普及するまでにはまだまだ時間がかかる。元々、フランスの国家事業として発明されたその業界は、馬車の既得権益を争うヨーロッパから、やがて広大な国土が理由で、より迅速な移動手段を求めていたアメリカが牽引するようになり、二十世紀初頭、フォード・モーター・カンパニーのヘンリー・フォードがライン生産方式により大量生産を可能とし、一気に大衆化したことは大変に有名である。

 デイビスも彼女の隣に乗り込むと、興味深そうに構造を調べた。元々、飛行機以外の乗り物も好きなので、車にも少しは通じていた。

「すっげークラシックカーだな、乗るのは初めてだ。これがステアリング。こいつで方向を操って、足のペダルで前進や後退をするんだ」

「へええ、手足ばらばらに動かすの? 器用だねー」

 まるでピアノのようだ、と彼女は感心した。彼が軽くクラクションを鳴らすと、道端に破裂したように大きな音が響き渡る。カメリアは目を丸くし、次いで楽しそうに笑い声をあげた。

「凄いわ!」

「かっこいいだろ?」

 デイビスは機嫌よくして、カメリアに笑顔をこぼした。彼女も彼に寄り添い、次に何をするのかをワクワクと見守っている。

「車の運転技術ってのも奥深いんだぞ。ドリフトっつって、こうやってぐーっと傾けてなぁ——」

「あはは、デイビス、もっともっと回してみたら——」

 ばき。

「……あ」

 握り締めたハンドルの下で異音がした。
 沈黙。

 だらだら、と二人の背中に冷や汗が流れる。
 そのまま、何も言わずにスムーズに降車するカメリアとデイビス。

「……ディ、ディスプレイだし」

「実際に運転するわけじゃないしな」

「気のせいって可能性もあるわよね」

「むしろ幻だったのかも」

 ぼそぼそと語り合い、互いの罪悪感を打ち消し合う姿は、浅ましいとしか言いようがなかった。ふと顔をあげると、そんな二人の前を青い車が横切ってゆき、途端にカメリアの眼がキラキラと輝きだす。

「見て見て、カッコイー! じゃあ次は、あれに乗りましょ!」

「あれは囚人の護送用ワゴンだ、馬鹿ッ!!」

 駆け出していってしまいそうなカメリアを捕まえ、無理矢理引き戻す。ともかくあっちこっちに行きたがるカメリアは、時代の無知も手伝って、少し目を離すとたちまち厄介ごとを引き起こしそうだった。

 エレクトリック・レールウェイの高架下には、先ほどはなかった光景に行列ができていた。朝食時に差し掛かって、移動してきたのだろう。ケチャップとマスタードのカラーに染めあげた、派手やかなキッチンカーが駐車してあり、熱い湯気をポッポと吹いている。簡単なターポリンのオーニングを作り、その下の販売口で、キャストとゲストが食品の受け渡しをしていた。二人は列から離れて、そのキッチンカーの看板を仰いだ。

「デランシー・ケータリング、が店名ね。お店のマークの真ん中の、青い羽を羽ばたかせている食べ物は何かな?」

「カメリア。たぶんだが、あの青いぴろぴろは、ただのリボンだと思うぞ」

「紛らわしいわね」

「あんた以外に間違える人はいねーよ」

 まあ、見たことのない人間には想像しにくいのかもしれない。デイビスは、パンにソーセージの挟まったその絵を指差して。

「あれは、ホットドッグって言うんだ」

「ほっとどっぐ」

「熱い犬じゃねえぞ」

「あついいぬ」

「違う。インプットするな」

 涙目になるデイビス。

「しゃーねーなー、待ってろ。アメリカのソウルフードだ、これだけは食ってもらわないとな」

「え、やったあ。買ってくれるの?」

「おー、いいぞ。このくらいだったら、財布に余裕があるからな」

 そう言って、ワゴンの前の列に並ぶデイビス。ふと気になって、彼女を振り返ってみると、大きな音を立てて電車の影の過ぎ去る高架下から、不思議そうに鉄骨を見あげていた。

 実際、何もかもが不思議なのだろう。柱に貼り付けられたたくさんの広告も、多くの人々の行き交う雑踏も、彼女にとっては生まれて初めての体験のはずだ。いや、それ以上にもっと多くの事柄、もっと広大な質量の世界が襲いかかり、一斉に五感を揺さぶってきているのだから。

 希薄な青空の色、湿度の感覚、空気の遠大さ、人々の活気。目を刺すように鮮やかな看板が驚くほど美しかったり、喫煙所に流れ落ちてくる光が波紋のように静かに揺れ動いていたりと、彼女の言語を絶した奇妙な光景が現れ、そして聞き知れぬ物語を語っていた。未来のどこかの、地球の裏側では、このような朝を生きている人々もいるのだ——そんな実感が胸に込みあげてきて、ただ目を見張るしかないようだった。

 彼女は一秒たりとも退屈な時間を過ごしはしなかった。騒音に混じる発声練習に耳を傾け、ショーウィンドウに飾られた衣装に陶酔し、地下鉄の微かな振動に驚き、夜に開くだろう地下のバーに目を凝らす——なるべくデイビスから離れまいと目を配りつつも、それでも好奇心はいっぱいで、世界中のありとあらゆるものを見たがっていた。

 次から次へと、ふつふつ浮かびあがる興味と喜び——ああ、人が生活している、とはなんと美しい光景なのだろう? 毎日が特別で、溢れんばかりの驚きと発見に包まれている。ぐるりと見回すと、世界が躍り出して、彼女に豊かな情報の雨を降らせた。新しい世界とは、未知の海だ。抱え切れないほどの光と翳、不文律と黄金律の洪水だ。その大海原に浸かって、人間がどのように生きているのかを、清々しい風の合間に少しずつ認識してゆくこと。それはまるで、未知の理解こそがこの世に生まれた最大の恩恵であるように、大都会に立つちいさな彼女を魅するのだった。

 まもなく、デイビスがホットドッグを二つ抱えて戻ってくると、包装用の新聞紙に包まれた熱いそれを、無造作に彼女に手渡した。

「ほら。冷めないうちに食おうぜ」

 ぱぁっと表情が明るくなり、礼を言いながら宝物のように大切そうに受け取った。こういうところは、彼女の愛嬌が前面に出てくる部分である。落書きや張り紙、ウォールペインティングだらけの駅の壁を背にして、高架下の柱の土台部分に腰掛けると、パリッと良い音を響かせ、二人してソーセージに噛りつく。

「美味しい!」

「そいつはよかった。あんた、本当に嬉しそうに食うなあ」

「うん。それに、デイビスが私に買ってくれたのが嬉しいの」

 にこにことしてそう答える。デイビスはそれを聞いても、無愛想に口を曲げながらそっぽを向くだけだったが、そんな彼をよそに、カメリアはもうひとつ手渡されたものを訝しがっている。

「デイビス、こっちはなあに?」

 ケチャップとマスタードが半々に詰められた、ディスペンパックを掌に載せて、彼女はしげしげと観察していた。

「あれっ、つけて食わなかったのか。まあいいや、これを二つ折りにしてな……」

 パキ、と軽い音を立ててパックを山折りにしたデイビスが、設計によって容器に空いた小さな穴をソーセージに向けて押し出すと、勢い良く二種類のソースが迸った。それらは軽く回転するように絞り出されながら、ソーセージの上に赤と黄色のリボンを残してゆく。

 度肝を抜かれた顔をするカメリア。衝撃だった——らしい。みるみるケチャップとマスタードにまみれてゆくそのホットドッグを、ぷるぷると祭壇に捧ぐように掲げながら、

「———か、開発者を、呼んでちょうだい」

「いねーよ、ここにはッ!!」

 全力で叫ぶデイビスを気にも留めず、カメリアは目を爛々と輝かせ、波打つように神妙な声を震わせた。

「これは、オーニソプターの研究に使えるわ」

「ほー。俺にはさっぱり分からねえけどな」

「いい? これが翼ね、そして設計、ここが面白いところよ。曲がっているだけで、別の部品を組み合わせたものじゃないの。つまり素材の弾性を活かしてひと連なりの翼を創った場合、より一層背筋を生かして羽ばたく鳥の肉体に近い構造を再現できるわけで。それと比較すると、今までのオーニソプターの柔軟度は——」

 カメリアは熱心に説明を始めたが、デイビスの頭の中には、ケチャップとマスタードがぱたぱたと空を飛んでゆく光景しか思い描けない。想像力が貧困なんだな、俺、と少し落ち込む隣で、彼女は意気揚々として使い終わったパックをハンカチに包んだ。

「帰ったら、早速モデルを創ってみよっと」

「あ。フライヤー以外も発明しているんだな」

「もちろん。天才発明家ですからね」

 得意げにピノキオのように鼻を伸ばすカメリアに、ふーん、と返しつつも、相変わらず発明に余念がないんだな、と感じた。食べ終わっても、包み紙の新聞にすらしげしげと目を通して、一言一句から何か吸収できるものはないかと探す好奇心には、さすがに恐れ入る。この隙にトイレに行っとくか、と一言断って、デイビスはそばの手洗い場に姿を消した。

 新聞紙には、様々なことが書かれていた。主に広告で、漁師保険や、船長の募集、質屋、それに喋る鼠の漫画まで。ああ、こんな紙一枚にすら、人々の生きる姿が、素晴らしい情報量で満ち溢れているのだ。それはどんな名作小説の一ページよりも現実的で、尊いものなのかもしれない。できれば持ち帰りたいほどに名残惜しかったが、すでにソーセージの脂が染み出してきて、保存には向いていない。仕方ない、トラッシュボックスに入れよう、と身を起こした時に、通りがかった清掃員らしき人物が、くしゃくしゃになった包み紙を摘んで捨ててくれた——奇妙な効果音付きで。

「?」

 思わず、アヒルの雛のように、その清掃員の後をとてとてとついてゆくカメリア。その清掃員は、一歩歩くごとにカートゥーンの国らしい音をまき散らして、ばゆん、だとか、ピンポン、だとか、とにかく聞き慣れない効果音の宝庫だった。大道芸人の一種なのだろうか、噴水の音が絶え間なくしぶくウォーターフロントパークへと吸い込まれてゆくと、たちまち人だかりができて、この不可思議な清掃員に注目が集まる。ほぁー、とカメリアは感心した。

 と、ぼんやり遠くから大道芸を見ているカメリアに、きゃん、とちいさな声をあげて、柔らかなものが足下にぶつかった。今の声は何かしら、と下を向くと、若干鼻の赤くなっている少女が、きりりと凛々しい目を張って、彼女を見上げていた。

「あら、ごめんね。怪我はなかったかな?」

「鳥さん!」

「え?」

「よく見せて。あたしに」

 ああ、少女は自分の肩に載ったアレッタについて言及しているのだ、とカメリアは悟った。そばに大道芸人がいるだけに、自分もまた、ショーマンの一人として見られたのかもしれない。
 カメリアはしゃがみ込んで少女と目線を合わせ、アレッタの美しい金緑色の羽がよく観察できるようにした。

「いいわよ。でも嘴と爪が鋭いから、この子に触ってはだめ。約束できる?」

 アレッタは慎重に少女と距離を測っているようだったが、警戒心はあれども威嚇する気配はない。少女は、撫でたそうに少しそわそわと片手を彷徨わせていたが、結局カメリアからの言いつけを守って、健気に堪えている姿は微笑ましかった。

「鳥はいいわね。どこにも行けて」

「ええ。翼があるって、羨ましいわよね」

「鳥の世界には、お父様がいないからいいわ。船に乗る必要もないし」

 芝居がかったしぐさで肩をすくめる少女に、カメリアは軽く首を傾げた。

「あなた、迷子なの?」

「ううん、勝手に抜け出したの。お誕生日パーティとか言って、よく分からない人たちにあたしの姿をお披露目されるのよ。プレゼントもケーキも、全部くだらない。そんなものを貰うくらいなら、一日くらい自由な時間をくれたっていいでしょう?」

 どうやら大分とお喋り好きな少女のようで、それに気が強いらしく、流れるように語られる彼女の口調には、こうと感じたことにはてこでも動かない頑固さが漂っていた。カメリアは微笑んで、なんとなくこの子とは気が合いそうだ、と感じた。くりくりとした眼は大きな野心に満ちて、ヘーゼルナッツの色が香ばしい。機転に恵まれた目つきだった。

「それは素敵ね。じゃああなたは、秘密の冒険をしているところなんだ」

「あら、話のわかるお姉さんだわ。そうね、あなたに決めた」

「?」

 花のニューヨーク——ブロードウェイを始めとする多くのプレイハウスを抱いたその地に育ち、数多くの舞台に触れてきている少女は、たちまち自身に隠されていた演劇的な才能を見せつけた。頬を可憐に染めると、うりゅ、と宝石のような目を潤ませて。

「ねーえ、あたし、お家に帰りたくないの。お姉さん、あたしを一晩泊めてくださらない?」

 なまじ愛らしい顔立ちをしているだけに、涙ぐまれてはどうしようもなく庇護欲が疼く。なるほどー、美人局に引っかかる男性って、こういう気持ちなのかー。カメリアはだらだらと冷や汗を垂れ流した。




 一方、その頃のデイビスは、やたらと噴射された消毒アルコールの量を持て余すように手に揉み込みながら、エレクトリック・レールウェイの真下の手洗い場から出てきたところだった。

「あれ。おい、カメリア?」

 先ほどまで高架下の柱に寄り掛かっていた彼女が、忽然と姿を消していた。

 あーあー、どっか漂流していったのか、どうするかな、と呆れるデイビス。しかしこういう時のためにこそ、無線機は使えるのだ。

 フローティングシティのフェスティバルで(カメリアが)購入した片割れを手に、彼は電源を入れ、事前に取り決めておいたチャンネルに合わせて、通信を開始した。携帯電話と違って、双方が繋げていなければ会話はできないが、たまたま彼女も電源を入れたところらしかった。

「カメリア? 今、どこにいるんだ?」

《あ、ごめん、すぐにそっちに戻る。ただ一点、困ったことがあって》

「困ったこと?」

《ねえ、この街って、警察はいるんだよね?》

「そりゃ、どこかにはいるだろうけど。……まさかあんた、泥棒でも捕まえたのか?」

《うーん、そんなことはないけれど、それに近いような》

「?」

 話しているうちに、ちょうど彼女が高架下へと戻ってきた。いや、ちゃっかり、一人増えている。カメリアと手を繋いでいるのは、勝気そうに吊り上がった蛾眉が印象的な美少女。まだ幼いにも関わらず、艶のあるカールした茶髪は当世風で、きっちりと手入れがされており、大きく見開かれたハシバミ色の瞳は、好奇心に溢れた目つきで辺りを見回していた。それにホイップクリームのようにたっぷりとリボンやフリルをくっつけたドレスが、彼女の整った器量をよりアンティーク人形らしく見せる。

「まーた、新たなトラブルを拾ってきたのか……」

「うん。とりあえず、放って置けなくて」

 オロオロと狼狽えているカメリアに、デイビスは溜め息をつく。

「服装から察するに、相当な金持ちのガキだぞ。そのへんに、ボディーガードとかいなかったのか?」

「勝手に抜け出してきてしまったみたいで。とりあえず、警察を捜さないと」

「そうだなあ。交番を見つけた方が早いかもな」

 頭上でやりとりされる会話は、まさしく彼女の処遇を決定するものなのだが、それにすら気を取られることもないほど、少女はすでに別のことに心を奪われているようだった。目をキラキラとさせて——いや、全身からまばゆい星でも撒き散らすように、その輝きは光彩陸離として、当人の目元まで届いた。

「ん?」

 なにやら眩しい光につられて、何気なくデイビスは、子どもに眼差しを向ける。その瞬間は、少女の眼には、さながらコマ送りのようにスローモーションで流れていった。

 さら、と艶やかな髪が潮風に弄ばれる。
 すらりと引き絞られたしなやかな手足に、透き通るような肌、彫刻のように秀麗な顔立ち。瀟洒なシャツの襟がはたはたとはためいて、紅みの強い唇に微かな光を反射させる。高身長な彼は、子どもが見あげれば、なおのこと逆光を浴びた偉丈夫に見えるだろう。
 何より、長い睫毛に縁取られて輝く緑眼グリーン・アイは、吸い込まれるような青葉の虹彩を揺らめかせながら、鮮烈な美しさで彼女を見つめていた。

 ————王子様みたい……

 と、一目見たら誰もが思うことを、この少女もまた心に浮かべる。肝心の中身といえば、全くそんなことはないのだったが、しかし少女は矢で射抜かれたように痛む胸を押さえ、その全身を、雲間からそそいでくるホーリーな日の光に洗われていた。

「あなた、名前は?」

「あ? 俺? デイビスだけど……」

「デイビス、あなたに最高の名誉を授けてあげるわ。このあたしと、今すぐに結婚しなさいッ!!」

 その声は、喧騒溢れる往来の中でも、大空を切り裂くように響き渡った。


 ぱちくり、とカメリアが瞬きをする。
 デイビスは、ぽかん、と口を開けたまま。
 アレッタが軽く、あくびをしていた。


「さあ、デイビス、返事は? もちろん、YESよね? こんな可愛いご令嬢と結婚できるんだから、あなたの人生にこれ以上の僥倖はないわ」

 長い睫毛をひらめかせて瞬きし、うっとり彼を見つめる美少女。デイビスは、滝のような冷や汗を滴らせながら、しゃがんで子どもの目線を合わせ、説得を試みる。

「……え、ええーっとだな。気持ちは有難いんだが、俺とお嬢ちゃんだと、年齢が違いすぎるってのは、分かってくれるよな? ざっくり言って、二十くらいは離れているんじゃないかと」

「デイビス、知らないの? 偉大なる愛の前に、歳なんて関係ないの」

「俺は大いに関係ある。残念ながら、幼女萌えの気質はねえんだよ」

「それなら、婚約を前提としてあたしの両親に紹介させて?」

「より具体的になっただけで、主旨は何も変わってねえな?」

「ええ。愛は海の如く不変で、山の如く永遠なんですもの」

 カメリアの強引さにプラスして、負けん気の強さと、押しの強さを併せ持ったようなアプローチで迫りくる少女。要するに、個性キャラが濃すぎる。なんなんだこれは、と頭を抱えるデイビス。そのままごとめいたやりとりを通行人に鼻で笑われると、いっそう顕著に死にたくなった。

 一方のカメリアといえば、悔しげでも哀しげでも、冷淡ですらもなく、きょとんとしてデイビスを見つめている。
 あんた、何も言わねえのかよ。前回、愛人だの夫だのしくしくやっていたのは、ただ酔っていただけなのかよ、と恨みがましく睨みつけるデイビス。その眼差しのじりじりとした陰湿さに気づいたカメリアは、にこっ、とアホ丸出しの笑顔を浮かべてそれに応えた。何をどう受け取ればそのような表情になるというのか。一気に肩透かしを食らった彼は、脱力しながら、改めて目の前の少女に向き直る。

「えーっと。お嬢ちゃんの名前は……」

「ベアトリスよ。意味は、喜びの運び手。あなたに、盛り盛りの幸せを届けます」

「オーケー、ベアトリス。あのな、俺が幼女と婚約したなんて噂されると、世間的に非常に困ったことになるんだが」

「それでは、故郷と縁を切り、家名をお捨てになって。そうすれば、あたしもこの場限りでエンディコットの名を捨ててみせるわ!」

 アカン。この子ども、ありとあらゆる世の中のラブ・ストーリーに心酔していやがる。

 その間にも彼女は、ぺたぺたと彼の体を触り、この歳で何をどう磨いてきたのやら、独自の審美眼をきらめかせて検分している。

「見れば見るほど、申し分のない外見ね。美男子という形容に恥じない、完璧な容姿(注、ベアトリス・ビジョン)。ニューヨーク随一の、均整の取れた肉体(注、ベアトリス比)。上流階級にも通じる気品(注、ベアトリス・パースペクティブ)。あなたには私の夫となるのに、ふさわしい素質を持っているわ。

 ただ言葉遣いが粗野だから、その点は教育が必要ね。さあ、私の後に続いて。The rain in Spain stays mainly in the ——」

「待った。こんな都市のど真ん中で、国語の青空レッスンか?」

「当たり前じゃない、お父様に見つかる前にジェントルマンになって、生まれ変わってもらわなくちゃね。筋書きはこうよ、夕陽に燃える大海原、豪華客船で出会った上流階級の令嬢と、下層階級の青年との運命的な恋。父親は反対するけれど、立派に着飾った青年の姿を見て口をつぐみ、涙、涙の父子の感動のお別れ。ああ、なんて素敵なの。そして誕生日パーティは結婚披露宴に変わり、船上のロマンチックなキスを交わして、二人はいつまでも幸せに暮らすのよっ!!」

 カーンコーン、と妄想の鐘の鳴る中、羽の生えたハートを飛ばすベアトリスに、ついていけん、と頭を抱えるデイビス。なんとかそばにいるカメリアに縋ろうとして、彼らは目だけで素早く会話する。

(た、助けてくれよ、カメリア)

(そうだなー、とりあえず、エンディコットという姓は分かったわけだし、警察に届けやすいかもね)

(警官は俺が捜すから、代わりにこいつの面倒を見てやってくれよ。あんたの方が、ガキの相手は得意なんじゃないか?)

(でも、あなたに懐いているみたいだし。意外に相性良さそうじゃん)

(こ、こいつが勝手に擦り寄ってきているだけだぞ。俺はロリコンじゃない)

(うーん。というより……)

 すぅ——とカメリアは目を細めた。

 その目線の先では、すでにベアトリスが、ポケットに隠し持っていた缶切りを、しゃがみ込むデイビスの首元に突きつけて。

「うふふふふ、デイビス、あたしを警察に突き出したら、あなたがエンディコット家の令嬢を誘拐したと証言するわよ? それとも、お父様のお金と権力で根回しされて、ハドソン川に沈められる方がお好みかしら」

「アコギなところが、あなたそっくりかと」

「俺にどんなイメージを持っているんだ?」

 銃口を突きつけられた逃亡者のように手を挙げながら、デイビスは自らの所業を反省せざるをえなかった。

「ま、拾っちまったもんは仕方ねえか。あんたも一緒に、ニューヨークを回りたいのか?」

「ええ、もちろんよ! ああ、信じられない、これであたしは自由になれるんだわ!」

 ベアトリスは大喜びして、弾けるようにデイビスを仰いだ。そのヘーゼル色の眼は、折から顔を出した太陽を映して、無限の輝きを湛え始めた。まるで、真新しい領域へと解き放たれるこの瞬間を、ずっと心待ちにしていたかのようだった。

「分からず屋のお父様なんかいない。歩いて、走って、陽の光の中をどこまでも散策できるのね。ついにあたしも、この世界の仲間入りよ!」

 素晴らしく感嘆した声で叫ぶ声は、まさに青空を初めて目にした人魚姫そのもの。そのきらきらとした眼のまま、さっそく彼女は張り切って、デイビスとカメリアに指図する。

「それじゃあ、ここからは新しいドラマが展開するのよ。みんな、あたしの脚本に従ってもらうわ。デイビスが夫で、あたしがその妻。お姉さんは、ペットの隼の世話係」

 実に彼女の都合に満ちたキャスティングに、まあそんなところよね、と苦笑いするカメリア。悪気はないのだろうが、完全に脇役となっている扱いにちょっと傷つく。

「世話係がいやなら、召使いでもいいわ。あたしの恋の悩みを聞いて励ます、メイドの役をやってちょうだい」

「そうね、それで構わないわよ」

 カメリアが静かに頷くのを認めると、すぐさまベアトリスは振り返り、今度はしゃがんでいるデイビスの首に纏わりついて、蜂蜜のように甘えて言った。

「ねーえ、デイビスも、いいでしょ? あたしの夫! 妻のことがうんと好きで、色んなところに連れ出してくれるの! それでね、二人は手に手を取って、世界中の冒険に出かけるのよ」

「あー、もう、勝手にしてくれよ」

 じゃれつく彼女に根負けしてそう言うと、ベアトリスは満面の笑みを浮かべた。頭の中で、勝手にしてくれよ、を、君の好きにしたらいいよ、に変換したらしい。それで見事にプロポーズは受諾され、新婚生活が幕を開ける、というわけだった。

「ありがと、デイビス。それじゃ、お礼にキスしたげるね」

「えっ——」

 栗鼠のようにデイビスの腕の中に飛び込んできたベアトリスは、そのまま彼の首に手を回して、無邪気に顔を傾けた。何の反応もできぬままに、ふわりと、唇に柔らかな感触が押し当てられる。

 ほんの一瞬の間を置いて、みるみる離れてゆくベアトリスの瞳には、呆然としたまま動かない自分の顔が、克明に映し出されていた。逆光を浴びた子どもの笑顔が、まぶしくて目に痛い。

「どお? デイビス、感激しちゃった? こんなに可愛い女の子にキスしてもらうのって、初めてなんじゃない?」

 デイビスは硬直していたが、正確には、これほど年下の異性にキスされるのは初めてだった。なにかの犯罪にでもなるような気がする。同じ六、七歳の少年であれば、初恋よろしく、ぱっと頬を染めでもしただろうが、あいにく、そんな純情な時期はとうに過ぎ越してしまっていた彼は、困惑して、カメリアの方を偸み見た。

 さすがの彼女も、そのベアトリスの行動には虚を突かれたと見えて、すぐに別の方向へと視線を移したようだった。しかしその横顔は、悲痛な狼狽えと、嫉妬と、自制心や自問自答が入り混じったような、複雑な表情に支配されていた。

 デイビスはその動向を見つめていたが、彼女の顔色を変わったのを認めると、静かに薄い笑みを引いた。残酷な優越感。暗い喜び。言葉にするならそのような感情が、胸の奥底を掠めてくる。

「ちょっとお、デイビス? 何とか言いなさいよ」

「あ、ああ、ごめん。ぼーっとしてた」

「あたしの可愛さに見惚れちゃったのね。仕方ないわ、だってあたしは、あなたの愛する妻なんですからね!」

 ちいさな胸を叩いて誇らしげにするベアトリス。徐々に彼女の憧憬に振り回されるのに嫌気の差してきたデイビスは、必死に見上げようとする彼女の眼差しにも構わず、ふいと立ちあがった。

「ごっこ遊びはもう終わりだ、同年代の男児とやってくれ。さあ、警察に行くぞ」

「えー、ニューヨークを回りたいかって、訊いてくれたじゃない。それにさっき、あたしたちは誓いのキスを交わしたでしょ?」

「あのなー。妻、妻って言うけど、俺のどこがそんなにいいんだよ?」

「顔!」

「清々しい返答だよな。まあ、いっそサッパリするけど……」

 かくり、とデイビスの肩が落ちて、シャツがずり落ちた。すると、それまで何かをずっと考え込んでいた様子のカメリアは、あ、と呟いて、思いついたように手を打つ。

「エンディコット家のお嬢さん。あなたもしかして、U.S.スチームシップ・カンパニーの社長令嬢なんじゃ?」

「あらそうよお姉さん、移民らしいのによくご存知ね。ここいらじゃ、誰もあたしたち一族に頭が上がらないんだから」

 挑戦的にカメリアを見返すベアトリスは、その家名を疎みつつも、同時に誇りにしているようだった。デイビスは首を傾げて、カメリアに問うた。

「スチームシップ・カンパニー? なんじゃそりゃ」

「蒸気船の運行会社なんですって。さっきのホットドッグの包み紙に書いてあったの」

 相変わらず妙に恵まれた彼女のセレンディピティ能力に、はー、と息をつくデイビス。ただの一企業の社長令嬢だろう、と舐めてはいけない。十八世紀以降、綿工業から出発した産業革命により、各国で急速な大量生産が可能になってきた世界情勢は、同時に製品の輸送に必要となってくる蒸気船や機関車、鉄道といった交通革命も引き起こした。とりわけ、広大な面積を誇る合衆国においては、海外からの移民を運ぶのみに留まらず、内陸でも運河が盛んに建設され、時間と費用の削減のために陸路の輸送経路を回避し、巨大な船が行き来できるように積極的に開発していたのだ。また、経済的な視点のみならず、造船技術は海軍とも直結するだけに、何重にも重要な意義を持っていた。国外的にも、国内的にも、造船業とはまさに花形産業だったのである。

 ゆえに船会社の経営者は、国家の未来の担い手として、今では考えられないほどの地位と名声に与ることになる。ここ、大都会ニューヨークにおいて、海運業を主軸に、その他製鋼所、鉱業、鉄道事業と様々な事業を展開するエンディコット一族は、文句なしに社交界のトップクラスであろう。

 すると、たまたま彼らの会話が聞こえてきたらしい警察官、もといセキュリティオフィサーが、遠慮気味にベアトリスに声をかけた。

「あのう、もしかして、エンディコット家の娘さんでいらっしゃいますかね」

「そうよ、モブキャラがいったい、あたしに何の用?」

「やれやれ、やっと捕まえた。ミスター・エンディコットから、捜索願いが出ていたところですよ。迷子センターまで一緒に行きましょう」

 聞くが早いか、逃げようとするベアトリスを問答無用で捕まえ、その両脇にひょいと手を差し入れると、デイビスは軽々と彼女を抱きあげた。

「さー、いい子は帰る時間だ。お父さんのところに戻ろうな」

「デイビスっ! 逃さないわよっ、あたし、絶対あなたと結婚してみせるからっ!!」

 空中でじたばたと暴れられても、迫力がないというか、ただただ標本箱にピン留めされた蝶が暴れている姿というか。そのうちに力では敵わないことを悟ったのか、彼女の意識は別の物事にシフトし、愛する男性に抱きあげられているという事実に陶酔したようだった。

「うふん、でも役得ね。あなたの腕に抱きかかえられるなんて。もっと高い高いして」

「このくらいか?」

「ああ素敵、鳥になったみたい。I’m flying, Jack!」

「あんたも高いところ、好きなんだなあ」

 両手を広げてはしゃぐベアトリスに、デイビスは苦笑した。

「もっともっと高いところに行ってみたいわ。うーんと高くに行って、ひやっとしたり、ハラハラドキドキしてみたいの。あたし、スリルが好きなのよ」

「そりゃ結構だ。いい冒険家になるよ、あんた」

 そうこうしているうちに、彼女の家族にも連絡が届いたのか、こちらの方が保護してくださって、と語る声が聞こえる。ぎくっ、とベアトリスは身を強張らせて、彼の腕を掴んだ。次いでデイビスも、彼女の視線の方向を見る。なるほど、資産家とは雑踏の中でも明らかに気品が異なるようで、それは本人の仕草ひとつとってもそうなのだが、何より仕立ての良い服装が、それを一目見て伝わるように差し向けるのだ、と思った。背はどちらかというと低いと言える方だが、しかし遙か以前から着こなしに慣れ、今やその糊の利いた匂いを完璧に馴染ませた姿は、地下に封じられていたワインセラーをこじ開けたような冷たい威圧感がある。

 獅子のような白髪と口髭をたくわえた男で、眉間の皺が濃く、その溝に押さえつけられて眉根を歪めさせている様は、常に陽射しから眼を守るかに見える。黒々とした燕尾服の艶は大層品が良く、最高品質の生地を使用しているのだと判断できた。それに毛皮製のシルクハットと上等な杖。しかし音もなく着実に踏み締めるような歩き方は、その精神の奥底に深い弱さをも隠し持つようだった。

 その人物はかねてからベアトリスの様子を見ていたようで、着いて早々、デイビスの後ろに隠れてしまった彼女に怒鳴り出す。

「ベアトリス! 見知らぬ殿方に抱擁をせがむなどと、なんとはしたないことをするのだ。エンディコットの恥晒しとして家名に泥を塗るつもりか」

「あたし、この人と結婚するんだもん! 未来の夫になら、何をやってもいいんだもん」

「また奇妙なことを覚えてきたな。そのような年で結婚のことなど考えて、一体何になる?」

「ふん、お父様にはあたしのロマンスなんて分からないわよ。どうせお金儲けのことしか頭にないんですからね」

 親子の口論に挟まれて、デイビスは弱り果てた顔をしていた。先ほどのセキュリティオフィサーも、非常に気の毒そうに彼を見ている。カメリアが気を利かせて、再会できて良かったですね、と言いながら、軽くデイビスの腕を引いた。その言葉に、ようやくベアトリスの父親であるエンディコットも、目の前の青年をまじまじと見る。

「いや、これはこれは。ベアトリスを保護してくださって、ありがとうございます。普段ならお礼に邸宅へと招待するところですが、生憎、パーティの真っ最中でして」

「いえ、僕たちもこの後用事がありますので。お邪魔になるわけには」

「ああ、それから、ベアトリスがあなたに何か申していたようですが、全部子どもの戯言に過ぎません。すみませんな、お宅の見かけに一目惚れしたらしいが、所詮は子どもだ、すぐに忘れ去りますよ。社交界には、あなたのような美青年はまだいくらでもいますから」

 柔和に微笑みながら、彼の肩を叩くエンディコット。そいつはちょっと失礼じゃないのか、とデイビスはむっとして口を尖らせた。

「これは末っ子で、大層可愛がっているのですが、この通りわがままな娘でしてね。どこでどうしてこんな自我を身につけたものやら」

 言動から推測する限り、小説とか劇とかの物語からじゃないかしら、とカメリアは思ったが、ベアトリスからさらにそれらが取り上げられたら酷なので、黙っておいた。一方のデイビスはデイビスで、謝礼金とか出ねえかなあ、と割と最低なことを考えていた。

「あ、ついでなんですが。ハリソン・ハイタワー三世という方を、ご存知ではありませんか? 彼への使いを頼まれていまして」

 ふと本来の使命を思い出して、デイビスが声をかける。都会に浮かれてカメリアと遊び回っていたが、そろそろ目的地へと向かわねばなるまい。

 エンディコットは、一瞬、その彫りの深さでほとんど陰のようになっている眼を光らせたに見えた。ふと身動ぎが止まり、雑踏のうちにも関わらず、静寂が濃くなったように思う。

「————存じ上げませんな」

 凍りついたブランデーのような声で、シルクハットを僅かにずらしたエンディコットは、簡潔に彼の問いに答えた。しかし裏切り者は、存外彼のそばの、それも身の丈の低い場所に潜んでいたのだった。

「ハイタワー三世は、この先を真っ直ぐ行ったところにいるわ!」

 自らの知識を吹聴して——というよりは、父親の鼻を明かすことに残虐な快感を覚えて——ベアトリスは、大声でエンディコットの欺瞞を告発した。

 エンディコットは、ゆっくりと娘を振り返った。その冷酷な瞳——彫刻のように無気味に見開かれた瞳は、一切の加減も温度もなく、冷え切ってベアトリスにそそがれていた。

 しかし彼女は、その内部に叱咤の意図しか見極められない。復讐の時機を得て煥然と快楽に震える少女は、自分の父親を見つめながら、勝ち誇った笑みを唇に浮かべ、声高に主張するのだった。

「お父様の言っていることは嘘よ。ハイタワー三世をこの街で知らない人などいないわ。お父様と肩を並べる、大の有名人ですからね。

 なんなら、あたしが案内してあげる。ホテルの裏口を知っているのよ。デイビス、きっとあなたの気に入るような、びっくりするものを見せてあげるから」

 言って、ベアトリスは勝利の滴を舐めるように舌を少し出し、唇を濡らした。そうして公衆の面前で、化けの皮を剥がされた父親の恥を窺おうと笑っていたのだが、しかしエンディコットの方がずっと怒りに満ちていて、早かった。突然、ベアトリスの両肩を掴むと、食い入るように彼女と同じ色の眼を見開いて、視線を注ぎ入れる。子どもの肩に置かれた老いた手には、計り知れぬほどの力が込められていることは明白だった。

「ベアトリス、お前はいつ道案内などで他人から小銭をせびるろくでなしどもと同じに成り下がった?」

「何よ、その言い方。あたしはただ——!」

「言ってみろ! 何がお前をそこまで堕落させる? 裏口とはなんだ? あの悪趣味で下品で穢らわしい場所に立ち寄ったのか? お前には足を踏み入れることを禁じていただろう!」

 威すような声が、何人かの通行人を立ち止まらせ、おずおずと迂回させた。エンディコットのその迫力は、まるで大声を出せば出すほど、相手は萎縮し、自らの剣幕に従うということを知っているようだった。ところがベアトリスの場合は、ぎり、と噛み締めた歯を剥き出しにして、父親に向かって苛立たしげに叫び返した。

「ねえ、どうして? いっつもそうよ、あたしだけ過保護にして! あたしはお父様のお人形? アメリカの威光も、ニューヨークの将来も、エンディコットの名声も、そんなのどうだっていいわ。あたし、ただ冒険がしたいだけなのよ!」

「世の中にはな、悪どい人間がいるのだ。お前はまだ子どもだ。それを知るまい」

 エンディコットは獅子の如くぎらつく眼を動かさぬままに言った。

「一見、人を熱狂させるような事柄の裏にも、深い邪悪と陰謀が隠されていることもあるのだ。それに触れたら一体どうなる? お前の若さに満ちた人生は、たちまち腐れ爛れて転落する始末だ。どの人間の背後にも、災厄は確実に潜んでいる。ベアトリス、お前のように頭が空っぽで軽薄な人間が、最もその深淵に近づいて、人を闇へと突き落とす」

 意味深長に吐かれたそれは、この華やかな街に、終末論者の予言のように奇怪な響きを落とした。そのあまりに謎めいた言い回しには、曖昧さゆえに反論することもできず、ベアトリスはじっと黙り込んだ。この瞬間、年齢に見合わぬ聡明さを培ってきた彼女は、これからの人生の先々で、自身の父親の影が色濃く落ちることを予期していた。その未来を見透した末に、まだ幼い少女とは思えぬ、暗闇の底で人を憎み尽くしたような執念深い眼で、彼の髭に覆われた奥の双眸を静かに見返した。

「覚えておくことね、お父様。今日という日は、あなたがあたしの夢を叩き潰した日よ。いつかきっと、この仕返しはしてみせるから」

 エンディコットは、自らの血を受け継いだ子どもの呪いとも言える憎悪を、鼻でせせら笑った。

「帰るぞ」

 彼の逞しい体に軽々と抱えられ、ようやく親子は元のパーティ会場へと足を向ける。その背の低い肩から顔を出し、ベアトリスはよよと歌いながらハンカチを振った。

「ああ、さようならデイビス、あなたのことが本当に好きだったわ。気が向いたらあたしのこと、たまには思い出してちょうだいね。Won't forget, can't regret. What I did for love.(♪忘れない、後悔なんてしない。愛のためにしたことを)」

 潮風のように去ってゆく二人の親子。街路樹から落ちた枯れ葉が、から、と侘しい音を立てた。

「なんだったんだろ?」

「さあ?」

 残されたのは、状況の掴み切れない二人だけ。アレッタが首を振って、軽くカメリアの頭の上で翼を羽ばたかせた。

「やれやれ、だいぶかかっちまったな。パークプレイス一番地は、ここを真っ直ぐ行ったところか」

「悪趣味で下品な場所って言っていたけど、いったいどういうことなのかね?」

 ガラス瓶の中に持ってきた生肉を、頭の上のアレッタに食べさせてやりながら、カメリアは呟いた。ま、行けば分かるだろ、と能天気に返すデイビス。

「しかしお嬢様ってのも、大変なんだな。気ままな一般家庭で育ってきたから、あんなに厳しい躾なんて初めて見たよ」

「ふふ、社交界に出入りするともなれば、大変なんでしょうねー。私は田舎の貴族だったから、あんな風に人目を気にするような少女時代はなかったな」

 き、貴族。何気なく発せられた言葉に、デイビスはぎょっとする。その顔を見て、カメリアも疑問符を浮かべたようだった。

「あんた、イタリアのお姫様なのか?」

「生まれとしてはそうかもしれないわね。でも、そんなガラじゃないんだよね」

「えっと。じゃあ、俺にはよくわかんねえけど、上流階級どうしの付き合いとか——」

「一度だけ、フランスのフォンテーヌブロー宮殿に招かれたことがあったけど。そのくらいかな?」

 絶句するデイビス。アメリカには王族も貴族階級も存在しないので、宮殿などという単語は、それこそおとぎ話でしか出会うことのない言葉である。そんなところに出入りしているのかよ、と思うと、いつものほほんとしている彼女との距離が、一気に遠くなった気がする。

「へ、へええ。一般人とは生きる世界が違うんだな。俺はてっきり、もっと身近な存在なのかなって、勘違いしてて……」

「やだ、そんなことないよ、貴族同士の交流なんてほとんど機会がないし。サロンなんかも性に合わなくって、いつも断っているの」

「そんなことでいいのか?」

「うん、だって気取った会話で時間を過ごすより、木登りしたり、地元の人たちとお喋りした方が楽しいじゃない? 私、気楽に暮らしている方が好きなの」

 にこにこと両手を合わせて語るカメリア。ああ、根っからの庶民派なのか——その頭が空っぽに見える笑顔に、ほっと息をつくような安堵を得る。

「じゃ、あんなおっかない親父さんは、あんたの家にはいないわけか」

「そうだね、全然違う。お父様はもっと穏和で、自然を大事にする方よ」

 そう紡がれたカメリアの言葉は、妙にのほほんとしていて、焦りやせせこましさがなかった。石に齧りつくようにして成功の階段を登っていったアメリカの大富豪と、受け継がれる伝統を守り続けるヨーロッパの貴族との、それが違いなのかもしれない。
 考えてみると、ベアトリスとカメリアは、似ているところも異なるところもある。恵まれた家に生まれ、自由のために突っ走り、妄想の激しい点はさきほどのベアトリスとそっくりだが、彼女は薔薇のようにアクの強い華やかさを誇っているのに対し、カメリアはもっと大らかで、のんびりとした雰囲気がある。その差異は、カメリアも同じように感じていたらしく、少し迷ったように俯き、

「あなたは、ああいう溌剌とした子が好きなの?」

と尋ねた。自然体を装った声色ではあったが、それでもいつもより少しばかり、声が小さかった。

 それにちらりと視線を送ったデイビスは、口笛でも吹きそうな口調で答えると、横目でカメリアの反応をうかがった。

「さー? ま、スペックの面から言ったら、そうかもな。金持ちのオジョーサマなら、遺産でも狙えそうだし」

 肩をすくめて言った後で、彼はすぐにその発言を後悔する。
 その時のカメリアは———

 酷く哀しげな、仔犬のような眼で彼を見あげてきたから。

「じょっ——」

 瞬く間に胃の底が冷えてゆくのを感じたデイビスは、慌てて自分の言葉を撤回した。

「じょーだんだよ、じょーだん! 金目当てなんて、そんな……そんなこと、考えるはずねえよ!」

「本当?」

 幾分かほっとして、けれどもまだ憂慮の消え去らないように、カメリアは彼を仰ぎ続けた。

「え、えーとな、違う、違うぞカメリア。俺のタイプは、一緒にいて楽しい奴だ。あと、自立してて、論理的で、面倒臭くない奴」

「……はぁ?」

 思いっきり眉根を寄せて不審がるカメリアに、デイビスは饒舌になっていた口をつぐんだ。何、馬鹿なことを言っているんだ俺は、と髪をぐしゃくしゃに荒らすと同時に、焦げつくような自己嫌悪だけが残る。

 やがて人々の行き交う道は尽き、目の前が大きく開けて、万人の注目をひとつの建物に集中させた。禍々しい、というのがぴったりのそれ。うお、ものすっげー外観だな、とデイビスは顔を痙攣らせた。



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