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ソアリン×ストームライダー二次創作「空の上の物語」9.あの顔のむかつくビーバー、人を馬鹿にしているったらありゃしない

「ここね」

「ああ。どう見てもここだな」

 疑問符すらいらずに確信するデイビスとカメリア。彼らが見上げているのは、悪趣味、という三文字で確かにすべてを表せる、首が痛くなるほどに巨大な建物。妖しく紫がかった赤煉瓦の壁を空高くまで聳え立たせ、翡翠色の屋根を葺いたその摩天楼は、例えるなら、悪魔の耳が生えたデコレーションケーキとでも言おうか。古今東西の建築様式をグロテスクに寄せ集めたその合成獣(キメラ)は、見れば見るほど様々な特徴を奇々怪々に繋ぎ合わせており、ざっと見出せるだけでも、ロンバルディア帯、渦巻装飾、小尖塔、浴場窓、ペディメント、バイフォレイト窓、パラーディオ窓、ランセット窓、モザイク、ステンドグラス、狭間飾り、多弁系アーチ、尖塔アーチ、三連アーチ、エトセトラ、エトセトラ。これほどまでの意趣を選別することもなく、すべてをつぎはぎとすることでよしとするのは、なるほど、設計者は相当に欲深く、諦めの悪い人間と言える。その建築物は調和なき混乱、指揮のない喧騒であり、そしてそれを貫通するものといえば、飽くなき執念、そのひとつに尽きた。

「HOTEL HIGHTOWER……ホテルなんだな、これ」

「こんなところに、人なんて住んでいるのかなー」

 二人は顔を見合わせた。正面入り口に人気はなく、両開き扉のガラスを透かしてみると、中には調度品や荷物が雑多に置かれているのも確認できることから、どうもまだ開業を迎えていないように見える。
 メールボックスはどこだろう、と二人してしばらくウロウロしているが、掲示板以外に目立ったものは見当たらず、そのうちに、徘徊する人影を不審に感じたらしい関係者が、キイ、と軽く軋む音を立てて、ファサードの扉を押し開いてくれた。

「そこな方々、何かご用でしょうか?」

「あ。ラッキー」

「突然失礼します。私たち、ハイタワー三世さんに用事があってまいりました」

 慌てて、入り口に立つその人物へと駆け寄るデイビスとカメリア。彼らの前に立つのは、綺麗に撫でつけられた口髭を蓄え、山高帽を被った、鉛筆のように痩せている小男である。深い漆黒のベストにネクタイを合わせた姿は清潔感があるが、シルクハットではないあたり、この豪奢なホテルの経営者ではないだろう(注、山高帽は中流階級が被る帽子です)。

「ハイタワー三世の執事、アーチボルト・スメルディングと申します。誠に恐れながら、主人は非常に多忙を極めておりまして。ほら、なんといっても、ホテルの運営準備の真っ只中でしょう? 申し訳ありませんが、私めがお取り次ぎいたします」

 姿勢良く、ぴんと背筋を張って、心持ち顎を上げるのが癖らしい。物腰は極めて慇懃だが、どこか軍人のような隙のなさ、さらには一見して印象深い人の良さに隠された狡知も感じられる。カメリアは急いで、ぱたぱたと両手を振った。

「あ、いいんです。お話をしたいわけではなくて、お手紙を預かっているものですから」

 デイビスが手渡した手紙を、慎重に検閲したスメルディングは、裏面の燃えるように赤い印璽を見て、眉を潜める。

「宛先があるが、送り主の名がない。こちらは、どなたから?」

「ネモ船長からです。先日逝去いたしまして、できればあなたの主人へ言付けたいと」

 途端、スメルディングはさっと顔をあげて、穴が開くほどにデイビスの眼を見つめた。得体の知れない静寂が、周囲を押し包んだ。

「死んだんですか」

 その低く押し殺した囁きのうちに、不謹慎な感情——明らかな歓喜の色——が閃いたのを、デイビスは聞き逃さなかった。そこには、何か待ちかねていた事態に遭遇して震えるような、年月の深みに裏打ちされた舌舐めずりの感が漂っていた。しかしスメルディングは、すぐに厳粛な顔つきに戻って、

「それはそれは……驚きましたね。直接の面識はありませんが、素晴らしい人物でした。安らかな眠りにつかれますよう、主人とともにお祈りいたします」

 アーメン、と十字を切るスメルディングの前に、デイビスは何気ないように一歩進み出て、カメリアとの間に立ち塞がった。狼狽している彼女の目線を背後に感じながら、清廉な笑みを浮かべて口火を切る。

「ところで、無知で申し訳ないのですが、ネモ船長とはどういったご関係で? 僕たちは手紙を預かったのみで、恥ずかしながら、お二人のご友情を知りませんでした」

「いえ、大したことはないのですよ。コンゴの植生について、彼から幾つか助言をいただいた程度ですから」

「なるほど、彼は、植物学にも詳しかったですからね。しかしアフリカの植生とは——彼は余生をずっと南太平洋で過ごしていたにも関わらず、相当な遠隔地にも好奇心を寄せていたようで」

 ふと、スメルディングは片眉を跳ね上げ、目の前の若者を注意深く凝視した。五月の新緑のように瑞々しい眼は、自らの数十は年上であろう小男と対峙しながらも、一歩も退くことのない老獪さを湛え、柔らかに細められていた。

「コンゴは、内陸の地でしょう? ネモ船長が詳しかったのはもっぱら海藻についてですし、火山の発するガスのせいで、ミステリアス・アイランドには陸生の植物は見当たらず、従って研究対象はほぼ存在しなかったと思うのですが。その状況でアフリカ大陸の大地に生い茂る植物にも関心を寄せるとは、さすがは研究熱心な天才科学者ですよね」

 スメルディングは少しの間黙って、この自分と相対して微笑する風変わりな若者を見つめていたが、やがて面白そうに笑みを浮かべて、

「あなたは、コンゴを訪れたことはありますか?」

と尋ねた。

 首を振って否定すると、より一層のこと、スメルディングが笑いを深くして、蛇の舌を鳴らすような低い声をのたくらせて言った。

「八五年から、ベルギー国王の私的植民地となりましてね。まあ赤字間違いなしの借金道楽かと思われましたが、世はまさに自動車の時代でしょう、おととしのダンロップ社のタイヤ製造もあって、今や世界的なブームです。彼は、植民地の半分を覆う天然ゴムに大きな可能性を見出して、自らの私有地を完全封鎖、内部からも一切逃亡禁止としたわけです。
 かくしてすべての情報は遮断されました。しかし、植民地内では何が起こっているのか? ——地獄絵図ですよ。河馬の革で作った鞭で打たれ、村は焼き討ちにあい、妻子は人質として連れて行かれ、樹に縛りつけられて死を待つだけ。採取したゴムが約束した量に達していなければ、現地民たちの手足や性器を切断し、籠に入れて見せしめにしていた」

 デイビスは何も言わずに、この小男の語る様子を、深淵のような眼で見つめていた。

「我が主人、ハイタワー三世は、その現地民たちを解放するため、ジャーナリストとして潜り込むことを決意しています。危険な旅となるでしょう。しかしだからこそ、国際社会に告発すべきタイミングは、今しかありません」

「なるほど、それは実に勇敢なご選択ですね。そのように人道的な方が、なぜ世間との交流を絶ったネモ船長とお知り合いに?」

 最後のデイビスの言葉は、ほとんど挑発と言ってよかった。凛と張った声色に、それまでちらつかせていた不信が剥き出しになる。スメルディングはいきなり、ぐっと顔を近づけると、デイビスの耳元へ生暖かい唇を寄せ、嘲笑うように囁いた。

「ネモ船長は、コンゴの現地民に武器を渡して支援していたのです。国際法違反ですよ。あれは、紛争を煽る犯罪者でした」

 カメリアは不安げにデイビスの後ろから顔を覗かせた。それはまるで、子どもが大人との約束を取りつけるようで、子どもは必死であるにも関わらず、大人は余裕綽々で同意して、それが本気なのかどうかも掴み取れぬ光景を思わせた。

「誓ってくださいますか、スメルディングさん、差出人が誰であろうとも、必ずご主人にそれをお届けくださるということを? ネモ船長は、正義と公平さを重んじる人物でした。お渡しいたしましたその手紙も、けして道理に背く内容ではないと思うのです」

「もちろんですよ、ご婦人。この手紙をお届けくださるために、わざわざミステリアス・アイランドから、ニューヨークまでおいでになったのでしょう? その努力を無駄にはいたしませんよ」

 スメルディングは朗らかに口角を吊り上げて、預かった封筒を懐に仕舞ったが、しかし一度、手紙の隅が懐に引っ掛かったにも関わらず、目もくれることなく再度押し込む所作を見て、ふと、このまま手紙を破棄されてしまうのではないか、という懸念が二人の胸を過ぎった。

 そこへ、開け放たれたままだった背後の玄関の戸口から、奇妙なトルコ帽を被った老爺が、小さなベルを鳴らしながらゆるりと現れた。艶のある漆黒を流した、異国風のガウンを打ち掛けていて、やや太り気味だが、そのガウンの下に着込んだベストは、先程のエンディコット三世に引けを取らない材質だった。長い口髭は、まるでドアノブのようにしっかりと油で固めたカイゼル髭で、さらに髪との区別がつかない長い顎髭から、偏屈な蛾の触覚の如く吊り上がった睫毛まで、すべてが真っ白に透き通った毛で覆われ、その奥底に息衝く鋭い眼は、デイビスと同じように緑色に輝いていた。けれどもその緑は、彼の青葉のような若々しい輝きではなく、何か異次元の稲妻のような、見たことのない不自然さを湛えていた。髪はすでに薄くなり始め、頬は大きく痩けて、鷲鼻は癖のある形に飛び出ていたが、やはりその顔貌の中でも最も印象の強いのは、このボトルグリーンの両眼であった。

「スメルディング、昼食の準備はどうしたね? 鍋が沸騰している! 焜炉がしゅんしゅん鳴っている!」

「はい、ご主人様。只今」

 無知の音が轟くような激しさで、老人は怒声を浴びせ、スメルディングは粛々と首を垂れた。その返事から察するに、どうもこの老人こそが、彼らが謁見を求めていたハイタワー三世であろう。

「スメルディング! スメルディング!」

 息を荒げながら自身の執事をひたすらに呼びつけ、杖を振り回しながら、説教のために接近してくる男。エンディコット三世を正統派の富豪とするならば、ハイタワー三世は明らかに、異端に属する類いの億万長者だった。近づいてくる足取りは、どうにもしっかりとした大股で、その健脚を見る限りでは、白髭で覆われたその第一印象よりも年齢は若いのかもしれない。彼が一歩を刻む度に、ちりり、ちりり、と絶え間なく鳴る呼び鈴の舌が耳障りだったのか、アレッタが大きく羽ばたいて鳴き、数本の羽毛が抜けて舞い落ちた。

 生きた動物の立てるその騒音に、散弾銃でも浴びせるような忌々しい目を送ったハイタワー三世は、そこで初めて、客人を認めたらしい。彼はまず、無遠慮にじろじろとデイビスを見つめ、それから、彼の陰に隠れたカメリアに目を移して、雷に打たれたように立ちすくんだ。深い緑の瞳は、これ以上ないというほどに見開かれ、かまびすしかったベルも、金属音を無くした。一度、何かを掴み取るように口が開かれたが、ふたたび閉じられ、そして今度は、わななくように髭に囲われた唇を、ゆっくりと動かした。

「ご婦人。どこかで、お会いしましたかな?」

「いいえ」

 カメリアは驚いて首を振った。しかし、舐めるように粘着質に彼女の上を這う、その老人の目つきに、思わず真っ白なボンネットのつばを掴んで、そっと顔を陰らせた。
 だが老人は少しも彼女から目を離さず、憑かれたようにそのしぐさを凝視するままで、その見開かれた瞳の奥へ、筆舌に尽くし難い悦楽を浮かばせた。そして出し抜けに、

「よろしければ、昼食でもご一緒にいかがですか? これから、遅い食事を取るもので」

と問う。まるで前世からの宿縁の相手を蜘蛛の手に掴み取るような、異様な執着がその声色に込められていた。
 カメリアは一歩後退ったが、それを追うようにすぐさま老人が距離を詰め、あたかもその腕に抱き留めるかのように、

「お顔色が悪いようだ。中に入って、ゆっくりと前菜をつまんだり、ブランデーでも舐めれば、少しはよろしくなりましょう」

「えっと。あの、この後は……」

「何か予定があるのですか? しかしそのお顔色では、無理ですよ。キャンセルなさい。そしてどうぞ、私のホテルで、ゆっくり休んでおゆきなさい。倒れてしまっては、遅いのですよ」

「カメリア。どうだ」

 デイビスは慮るように、そっと彼女の耳朶へ問いかけた。俯いている彼女の顔は、確かにボンネットやドレスの色を反射して白っぽくはなっているけれども、それが体調不良のせいとは思えず、それほど休息を勧める意図も見出せなかった。

「ねえ、そこの殿方も、具合の優れない女性を、太陽の下へ連れ回すような拷問は好まれませんよね?」

 カメリアの前に立ちはだかるこの青年が鍵だと見抜いた老人は、すかさず彼の名声に縄をかけて問うた。それまで困惑していた彼女も、デイビスを人質に取られては都合が悪く、奇怪な老人の眼差しから逃げるように俯きながらも、

「え、ええ。では、お邪魔でなければ」

と答えるしかなかった。

 老人は大喜びした様子で、そのまま、素早く彼女の肩に載ったアレッタにも目線をそそぎ、その素晴らしい翼を持った隼も、ぜひ我が館へご招待を、とにたつく唇で呟いた。
 ところが、ハイタワー三世がその皺だらけの腕を伸ばして、艶やかな金緑色の背中をぞろりと撫でようとするなり、アレッタはたちまちその指先を掠めて飛び立ち、頭上遙か高く、ホテル・ハイタワーの最上階へと止まってしまった。そしてその天上から、まるで墓場の上の烏のように不吉な声を響き渡らせ、その大都会の港町に不釣り合いな、世にも恐ろしい叫びを刻みつけるのだった。

 それはファルコ家に対する警告だった。代々続くこの貴族の家系に篤い忠誠を誓っているアレッタは、とりわけカメリアの容易に人を信じやすい特質を危ぶんで、自ら警護の仕事の一つとして背負い込んでいたのである。その戒めを一心に浴びることで、カメリアは哀れにも、ますます固くなってしまった。

「これはこれは……隼は、自由の世界がお好きなようですな。しかし我々人間には、雨露をしのぐ文明的な屋根が必要です。それがもてなしを心得たホストの宿る邸宅であれば、なおさら」

 ハイタワー三世は、ニヤリと口を歪めて言った。カメリアは早くも後悔していたようだが、さあ、と意味深い声で促されては、いつまでも外にいることもできず、脅えた亀のように首をすくめながら、デイビスと連れ立って中へ足を踏み入れる。

「ここが我が邸宅、そして古今東西の神秘に満ちた、ホテル・ハイタワーです」

 老人の言葉とともに、ひやりと冷たい空気が頬を撫でて、太陽の下に慣れていた目が、一瞬、そのまばゆい支えを失った。やがて暗闇に慣れてくると、内部は広く、天井は高く、物憂い、薄暗いロビーの中を、蕭々としたシャンデリアの装飾が心細く光っている様が浮かびあがった。暗鬱とした空間であるだけに、その反射はあちこちの遠い壁に移ろい、その異様な光景を部分的に露わにした。例えば感情を失った瞳のような掛け鏡や、古代ギリシアの様式を模した石柱や、カンボジア寺院の女神を這わせたマントルピースなどは、妖しい灯火のうちに揺らめく死んだ装飾品として煌めいた。ホテルの奇怪なキメラの風合いは、外観でなく、内装にも及んでいたのだった。それはまるで、打ち拉がれ、この建物の主人に隷属するしかない、うら寂しく征服された犠牲者たちのようだった。さながらこれら古今東西の生贄の魂を、悲嘆の川で凄惨に掻き混ぜたかのようであり、その尊厳は敗北の憂き目を舐めただけに留まらず、ねじ伏せられ、改変され、ずさんな違法手術の如く繋ぎ合わされ、縫われて封じられた口も動かせぬままに、ますますその存在を冒瀆されつつあるのであった。

 壁面に、様々な絵画も飾られていた。どうやら世界各地の冒険譚のようだったが、氷雪に閉ざされた国へかかる月、深い密林の堂々たる川登り、エジプト王家の墓と気球など、どうも現実味がなく、御伽噺のような胡散臭さを覚える。そして、その壁画だけはホテルという様相を呈しているのではなく、なぜか博物館の一角を思い浮かべさせた。カメリアは、父の設立したミュージアムを想起する。あそこのロタンダにも、巨大な八枚の壁画が飾られているが、あれらは当代の画家に描かせたもので、美術的にも博物学的にも、そう価値の高いものではない。しかしそれでも、古物商を営むチェッリーノが、各地から集めた物語をふんだんな教養やモチーフとともにちりばめたこともあり、藝術的意味、というよりも寧ろ、そこを訪れる者たちの精神を駆り立て、イマジネーションに誘いかけることを第一の目的としていた。しかしこの絵画らの自己顕示欲に満ちたそれは、とてもそうした想像を掻き立てる類いではなく、最初から最後まで痛々しいナルシシズムに固執しているので、多少なりとも美術の教養のあるカメリアは動揺して、あまり眺めるべきものではない、とそっと眼差しを外すしかなかった。絵画自体の出来も、多分にあざとすぎる構図やモチーフなど、素人に毛が生えた程度に過ぎず、これが十枚も掲げられていなければ、もう少しこのロビーの価値は貶められなかったろう。

 まだ内装面での工事が続いているようだが、一階部分のロビーはすでにほとんどできあがっていた。簡単なラグやテーブル、ランプ等は運び込んでしまって、おおよそ運営開始時の雰囲気は伝わった。その奥を通り抜け、オリンピック・レストランと書かれたホールへと導いた。ますますどんよりとした、重い、桑の実色の暗闇へと落ちてゆく空間には、遠い丸天井からシャンデリアがぶら下がっており、朧ろに白いテーブルクロスをかけた長机がひとつ、燭台の黄ばんだ光芒に照らされ、あたかも死化粧の白粉をはたかれた花嫁の如く沈黙していた。窓はゴシック風の、細長い槍のようで、そこから降りそそぐ光線はすべてステンドグラスに濾し取られ、赤や、青や、緑の絶望的な色彩に嵌め込まれた。荒凉として、非常に寂しい部屋だが、それはまだ開業を準備しているからに違いなかった。そこまで辿り着いて、ようやくハイタワー三世は振り向き、その蒼白い顔に歓迎の色を浮かべて、

「そうそう、すっかり忘れていましたよ。ご婦人、お名前は?」

と尋ねた。

「ロゼッタ・フラカッシと申しますの。よろしく、ハイタワー三世さん」

 デイビスは、冷たい石細工に囲まれて握手を交わすカメリアが、あまりに自然に偽名を告げるのに驚き、この奇妙な老人にたいして、彼女が全力で抗おうとしている姿勢を読み取って、俄然心強く感じた。対する老人は、花の名前ですな、と呟いたきり、にこやかな顔の下に渦巻く陰謀を内に秘め、その名乗りを受けて、何かを無気味に考え込んでいる様子だった。
 デイビス自身は、特に正体を隠す必要もないように感じたので、正直に名前を告げて、手を握り合った。ハイタワー三世は、

「あなたが騎士役ですな。このように才気煥発な女性を引き連れて、実に羨ましい限りです」

と不自然な含み笑いをした。デイビスはその発言の裏に根を張っている蜘蛛の巣のような下品さと和解できず、

「フランスでは、チーズ鑑評騎士というのがあるそうですよ」

と言って、煙に巻いた。予想通り、老人は目を白黒とさせ、不審げに握り合わせた手を離したので、大いに満足する。

 ホスト役のハイタワー三世が、最も入り口に近いテーブルの端につき、彼の右隣にカメリアを左隣にデイビスを着席させた。正式な食事会における、アメリカ式のスタイルである。どうもフルコースのようで、急ぎ三人分を拵えたため、一人分の量は僅かとなっているが、それを鑑みても全体のボリュームは十分に腹が膨れるほどである。メニューに目を通すと、蠍、駱駝、タランチュラ、蜥蜴、白蟻、蛙などの文字が拾える。老人は皿のがちゃつくような大声で笑った。

「ご心配なく、単なる名前だけですよ。そりゃ、幾らかは——本物も混じっているかもしれませんがね」

 そして鋭い眼を凍えさせて、ニヤリと口角を歪める。どうにもこの笑いには、それが姦しい場合であれ、静謐な場合であれ、落ち着くところがなかった。そして、折から悪魔のように噴きあがる老人の高笑いは、このだだっ広い部屋に殷々と響いて、空気を掌握し、舐め回し、とりわけその勝ち誇った声の多くを、一心にカメリアに撃ち込んだ。そのぎらつきを露わにする眼差しから、この昼餐会に招いた目的が、彼女にあることは、もはや明白だった。ハイタワー三世は、蛆虫のようによく食べ、よく飲んだが、その合間にも実にこまごまと気を回して、気味の悪いほどに双眸をかっ開き、怖気の振るうような舌で彼女の機嫌を伺う。それは彼の執事であるスメルディングがいなくとも、小姓の如くに彼女の世話を焼くので、どんな誇示をも煙に巻いて、のらりくらりと微笑でかわしてきたカメリアも、時には自ら、彼の行き過ぎる献身を、遠回しな口調で嗜めることさえあった。放っておけば、小さなティースプーンを手に取って、紅茶に入れる砂糖すらもかき混ぜてくれそうだった。

「この黄金のゴブレットは、さる王家のご厚意に与って譲り受けたものです」

「それはそれは。『トゥーレの王』に謳われるような素晴らしさですね(注、愛する后から受け継いだ杯で、飲むたびに王の目から涙が流れたという)」

「いかにも。しかしこの杯を、私はけしてかつての伝説のように、海に捨てたりしませんよ」

「けれども杯の方は、塩水に浸るのを待っているかもしれませんわ」

 食事中の会話は、常にハイタワー三世がリードして、食器や調度品、それに建築など、様々なプロップスに解説を挟むと、カメリアが相槌を打った。まるで、白と黒のリバーシのようで、漆黒のガウンを身に纏ったこの老人が攻めると、純白のドレスに包まれた娘は、絶妙にずらして自身の石を置いた。こうして追い続ける黒い石から身を翻して、幾つかの陣地を手放しながら、カメリアはけして最後の四隅を明け渡さず、この老人との世代を超えた友情を、どこまでも許そうとしなかった。老人の話題は自慢話や武勇伝に終始しており、自身の天にも届く栄華を見せつけるようでいて、その実、三十ほどもうら若いこの女性に対して、心のうちでは極めて根深い恐れを抱き、ひょっとしたら、無意識下では服従しているようにさえも思えた。まさか、見染めたとかいうんじゃねえだろうな、とデイビスは危惧したが、そのような熱病に襲われた眼差しとも異なっており、主人に仕える、というよりは、調伏が敵わない相手への、強烈な畏怖と怨恨、と形容するのが相応しい。

 それらの感情をすべて表出せぬように言い聞かせながら、極彩色に降りそそぐステンドグラスの光を浴びつつ、立板に水、というか、いっそう饒舌に、この老人は大聖堂の神父よろしく語り続け、そして思い出したように、

「美しい方だ」

と、盛んに言う。カメリアは曖昧に微笑んだが、それは寧ろ、不自然な讃美によって却って強調される、外見への劣等感や気まずさを、ひっそりと笑いの裏に隠すためだった。

「私は今まで、こんなに美しい方を見たことがありません。社交界の花、いや、磨かれた宝石のようです」

「いえ、けしてそんなことは、……」

「ニューヨークの目の肥えた連中も、驚きますよ。あなたのような方が姿を現しては、どんな舞台女優もかたなしだ」

 終始この調子だった。自分の容姿は良くてせいぜい十人並で、褒められる箇所も大層少ないということを正確に把握しているカメリアは、現実に釣り合わない熱心さでそれを持ち上げ、不相応に接近してこようとする人間に、多大な注意を払っていた。デイビスにとって、自身の美貌が世渡りの道具に過ぎないように、彼女にとってもまた、凡庸な見かけは、己れを守る処世術の武器だった。築きあげた壁の裏から、慎重に警戒しつつも、彼女もまた、この奇妙な老人との対決に、少しずつ乗り出しているようだった。

 スメルディングがうやうやしく皿を運ぶ中、その昼餐会においては、すべてが薄暗い部屋の水面下で渦巻き、互いに緊張を徹した権謀の糸を張っていた。こうした知略に最も長けているハイタワー三世は、若い頃から数多くの俳優や淑女と浮き名を流してきており、今やすっかり老齢に近づいてしまったとはいえ、出会うなり褒め言葉や情熱をその耳に囁き、巧妙に掻き口説く技術を忘れたわけではなかった。従ってこの老爺は、他人を籠絡しようとする手練手管こそ、最も警戒心を抱かせ、時に嫌悪にまで到達させる最大の理由となる人種が世にあることを、人生のいかなる瞬間にも知ったことがなかったのである。甘い誘惑で何とか彼女の領域に踏み込もうとするほどに、身を躱され、ますます用心深さに心を閉ざしてゆく彼女の堅牢さに、彼は言い知れぬ癇癪を感じた。カメリアは整然とした様子で魚を口に運んでいたが、内心では思い煩っているのは確かだった。ゆえに問題は、その弱々しい困惑と、ハイタワー三世の異常なまでの執着が、まったく釣り合わないという一点に尽きる。彼の臓腑で、支配できぬ腹立たしさが湧き起こるとともに、そののめり込むような倒錯的な鋭い昂奮を強めて、実に奇怪な歓びを臓腑に染み込ませ、同時に、自らの剣でこじ開けられない牡蠣に対する恨みを、分厚く揺らめかせてゆくかのようだった。

「あなたは冷たい人間ですね」

 とうとう、腹に据えかねたように、ハイタワー三世は明け透けな感情を露わにした。

「そうでしょうか?」

 僅かに傷ついたような表情を晦ませつつ、カメリアは平然を装った。

「私はあなたを客人として丁重にもてなしていますが、あなたは私に心を委ねるどころか、くつろいでもくださらない」

「いいえ、あまりご立派な邸宅なので、恐縮してしまって、——」

「私のことがお嫌いですか?」

 身を乗り出して唇を濡らしているハイタワー三世に、カメリアは、ちらと、妖しくも厳粛な目を送った。

「嫌いになるほど存じ上げておりませんの」

「それでは私のことを、もっと知っていただきたい」

 ハイタワー三世は、卓に手をつき、カメリアを見下ろした。一見すれば、まるで筋違いの愛の告白を通すよう、老いらくの身には破廉恥で、おぞましいほどにのぼせあがっていたが、しかし本心は寧ろ渦巻くような憎悪と征服欲に満ちていて、丁々発止のやりとりの裏で、その禿げかかった頭にちらついてきた長年の忌々しい妄想、常に彼の冒険譚に水を差してくる、あの正統に迎え入れられた先駆者の威光、のたうち回るように嫉妬を積み重ねてきた、あの輝かしい過去のイタリア人女性の幻影を、狼の牙で引き裂くように必死に言った。

「私には山ほど冒険譚があります。大航海時代の探検家の、どんな偉人とも、いいえ、かつて地球上で行われたいかなる遍歴とも、引けをとらないほどです。きっと、あなたのお気に召すと思いますよ」

 その時初めて、カメリアの眼に微かな嫌悪がひらめいた。デイビスは助け舟を出そうかと口を開きかけたが、しかし老人に気取られぬうちに、彼女はすぐさまその感情を払拭してしまい、ホール中に鈴のような笑いを転がした。

「それは、大変に興味をそそられますわね。聞き役として私を思い出しになったら、ぜひもう一度ご連絡くださいな」

 ハイタワー三世にとっては非常に面白くなかった返答と見えて、しばらく、虫けらへの凍るような眼差しでこの女性を見ていたが、やがて極めて不躾に、

「あなたは、幾つですか?」

と、何の非礼も詫びることなく訊いた。二十三です、とカメリアが返答すると、ハイタワー三世はふっと、わざと驚いたような、侮るような笑みを浮かべた。

「若い」

 カメリアは少し哀しげに、その事実を罪として恥じ入るかのように黙っていた。それを目にして、ふたたび老人の魂は狂喜し、敵の悲痛によって自尊心を存分に慰めたかに見えた。

 その時、背の高い椅子に腰掛けている後ろから、

「ワインをお注ぎいたしましょう」

とスメルディングがデイビスの耳元へ囁くので、彼は少しグラスをずらして、注ぎやすいところにそれを置いた。吸血鬼の血のように深いワインが流れ込み、グラスの下部を凄惨に満たした。それを回して軽く酸化させていると、彼女には聞こえぬほどの小声で、

「失礼ですが、ロゼッタ様とはどういうご関係で?」

一瞬、偽名を解釈することができず、呆けた顔をしてしまったので、それをスメルディングに拾われ、何か深い笑みが蠢いたことに、デイビスは醜悪さを感じずにはいられなかった。カメリアがハイタワー三世を相手せねばならないように、デイビスの対峙すべき敵はこの男だった。テーブルを挟んだ先で、何とか若い娘の心を蕩けさせようと宥め賺し、空世辞を吐き連ねる白髭を湛えた老人と、そのはしたない熱狂振りに無気味さを覚えつつ、言葉の端々に混じる偏見や物言いの強さにも切り裂かれ、微笑を浮かべながら傷ついている女性の姿が見えた。
 デイビスはワイングラスを傾けながら静かに、

「友人ですよ」

とだけ語って、反応をうかがった。
 スメルディングはそれ以上深くは訊ねずに、しかしどこか見透かそうとするように下卑た眼で、

「それは、大変ですね」

というものだから、デイビスも短く、語尾を急激に上げて尋ねてみせ、

「何が?」

「いえ。今はお二人ともお若くて、気持ちだけで何とかなるから良いのですが」

スメルディングは蝙蝠のように暗い薄笑いを浮かべ、

「しかしすぐに、与えられた世界の違いに気付くでしょう。いずれあなたは、あの方についていけなくなると思いますよ」

 デイビスは、この謎めいた警句の真の意味を悟らずとも、すでに自分も彼女も、これらの老人たちの深謀に捧げられた生贄なのだということに気づいていた。そしてその怒りが器から溢れる前に、すぐさまホールに轟く大声を出して、

「いやあ、大層立派な昼食ですね。この蠍は、いったいどこで捕獲を?」

「私が、ロストリバー・デルタで捕まえてきました」

「えっ! あなたが虫取り網とカゴを持って、短パン姿でこの蠍を!?」

「ぶっ——」

 素っ頓狂な声を出してみせたデイビスに、噴き出すカメリア。涙目になって咳き込みながら胸を叩き、唖然としているハイタワー三世に、慌てて口許を押さえながら、おざなりな微笑みを繕った。

「ご、ごめんなさい。蠍の殻が、喉に」

 ナプキンでテーブルを拭う彼女を勝ち誇って見つめたデイビスは、どーだ、と言わんばかりにスメルディングを見た。
 執事はといえば、何をそれほどに自慢げに青年が見てくるのか、さっぱり分からなかったのだが、それでも推測することには、己れはお前の主人などとは違って、彼女とは芯から笑わせることのできる友情で繋がっているのだ、という他愛もない証明だったのだろう。主の名誉を何よりも誇りとするスメルディングは、秘かにこの青年に対する殺意が湧いて、胸にある手紙を破り捨て、厨房のストーブで燃やしてしまおうと考えをめぐらせた。

 しかしデイビスの方は、そうしたスメルディングの心境の変化を早々に見破ると、すこぶる晴れやかな声で、

「そうだ、昼食に舌鼓を打って忘れていましたが、僕たちはあなたに、お手紙を配達しにきたのですよ。ねえ、スメルディングさん」

そう牽制されては、老獪な執事も、しぶしぶと懐から出すしかなかった。手渡しざまに、ネモ船長からだそうです、と告げると、ハイタワー三世は彫刻のように凝り固まったその肩を、意味ありげにぴくりと反応させた。
 これはこれは、と髭の中から大声で独り言ちながら、何気なくその手紙をポケットに滑り込ませようとするが、カメリアがそれを見咎めて、

「随分と長らく放置されていたようで、状態が心配ですの。中の便箋を、虫が食ってはいませんか?」

と、上手い具合に開くことを誘導する。ナイス、と心の中でデイビスは指を鳴らした。かくして、この監獄のようにも思われるホテルの中で、初めてネモ船長の残した封が解かれ、ハイタワー三世はそのアルファベットの羅列に素早く目を通した。ステンドグラスからの光に透かされた便箋から察する限り、枚数は多くないものの、かなりと小さな文字を詰め込まれているようだが、彼の視線を移す速度は実に迅速で、その言葉の内実がほとんど頭に入っていないように見える。しかし最後の方の文章までくると、何が書かれてあったのか、先ほどのスメルディングと同じ、あの下劣な愉悦を次第に隠し切れないように目に浮かべ、

「なるほど、なるほど」

と幸福そうに頷いて、便箋を仕舞った。

「依頼でした。
 コンゴの内情を暴露したジョージ・ワシントン・ウィリアムスの体調が思わしくないため、現在は有力なジャーナリストがおらず、出てくるのは説得力のない宣教師の証言ばかりです。私の財産をかけて、適切な調査委員会を設置してほしい。作家のアーサー・コナン・ドイルや、マーク・トウェインも協力してくれるだろう、と」

「では、船長からの依頼を引き受けてくださるのですね?」

 カメリアはほっとした顔で、ホテル・ハイタワーに踏み入れて以来、ようやっと安堵した表情をこぼした。それに気を良くした老富豪はまた、性善説を信奉している、というカメリアの根本を掴んだのだろう、馴れ馴れしいまでにこの娘に身を擦り寄せて、

「ロゼッタ嬢、大都会の億万長者にも情けというものがあるのです。豪遊のみを仕事とする他の成金趣味の連中とは違いますよ。私を、見直していただけましたか?」

「ええ、天なる父は、慈悲深い働きに相応しい栄光を、あなたの頭上に授けてくださるでしょう」

 カメリアは一時的に警戒を解いて、この相手の言葉をまったく信用してしまったのだが、その時、ステンドグラスの彩色にさっと照らし出されたハイタワー三世の眼は、例えん方もなかった。溢れる歓喜と自尊心に、老いた体を魂まで浸からせ、長年の敵を征服し、祝福の言葉まで盗んだ証として、その勝利の杯を心ゆくまで味わっている。耐え切れぬ微笑みに相好を崩すと、今はすっかり、陶酔の溜め息をついて深く椅子に腰掛け直し、蝿のように揉み手をしたが、しかしその這い回るような埋み火の眼差しは、より一層、若い女への偸み見に溺れ、炯々と色めき立つばかりだった。それを耐え難く感じたデイビスは、咳払いをして彼女を振り向かせ、食べたら、さっさと出ようぜ、と目で合図した。頷くカメリア。コース料理は、あとデザートで終わりのはずだった。

「信心深い方だ」

 ゆったりと背に凭れ、満足感に浸りながら、ふとハイタワー三世はカメリアを眺め、恍惚と呟いた。

「私は、神を信じておりません。科学の発展によって、人間はそれ単体で世界を理解できることを証明しつつあります。ねえ、ご婦人、このご時世、頼れるのは自分の力だけですよ」

「ご自分の力、ですか」

「力のない者は、このニューヨークを生き残ってはいけません。喰われて、騙されて、墓場行きです。私の美しいご婦人、もしも神に祈る暇があるなら、私はその分、自身を頼って前進したいのです。それこそ、力強くスクリューを回す巨大船のように、猛烈な勢いで」

 カメリアはしばらく考え込んでいたのだが、ふとスプーンを口に運ぶ手を休め、

「私は、一人では何もできませんの。それを弱いというのなら、あなたの仰る通り、この先の競争社会を生き残ることはできないのかもしれませんわ」

「ご冗談をお言いでない。あなたほどの才能のある方なら、世界を握り締めることもできましょうに」

「才能?」

 ふと、カメリアは片眉をあげた。慌てたように、ハイタワー三世は弁解した。

「いえ、話し口の端々から、あなたが聡明なことが伝わってまいりますよ」

 それは急拵えの説に過ぎなかったのだが、しかし口にしてみると、取り立てて褒めるところの乏しい外見よりも、それを賞賛するのが最もこの女性の矜持をくすぐるだろうという気がした。彼の見立てでは、こうした人種は、自らの研鑽を驕心とともに祀りあげていて、批判は歓迎だという寛大な態度を示しつつも、その実、少しでもパルテノンの柱を揺らす者があれば、たちまち地獄のような炎に包まれてその人間を憎み尽くすのだった。
 ところが、カメリアは微かに遠い目をすると、やがて水のように微笑み、

「聡明さは、人の最大の価値ではありませんのよ」

と、少し不可思議な言葉遣いで告げた。この言葉を、ハイタワー三世は単なる謙りとだけ受け取ったらしい。鼠の尻尾を捕まえたように前のめりになって、

「そんなことはありません。特にあなたにおいては、その驚くべき利発さは、人類の宝のようなものではありませんか」

「では世の中は、宝でぎっしりと埋まって、美しい場所です」

「そんなに格式ばらずに。あなたにぜひにと、聞いてもらいたい話があるのですが、近い将来、S.E.A.の分会(A local chapter)を作ろうと考えておりましてね」

 カメリアはふと顔をあげて、ちりっと焦げつくような真摯な眼差しで老人を見つめ、聞き慣れぬ言葉に、デイビスは首を傾げた。しかしもう一人の客人の存在などとんと気づかぬよう、ハイタワー三世はその低く朗々とした声で野望を語り始めた。

「元々は、中世ヨーロッパ時代に設立された冒険家や探検家のための団体ですが、今は甘っちょろい、黴の生えた理念しか継承せずに、大々的な活動はほとんど鳴りを潜めております。
 しかし、今の時代こそ植民地が増加し、大いなる冒険家はたくさん現れているのですから、この組織は再興すべきですよ。私は、新たなる会を合衆国で立ち上げたいと思っています。そして世界の冒険の主導権は、我がアメリカに移るのですよ」

「それは、高邁な理想ですこと」

 カメリアは、地元の伝統ある組織を侮辱されて、やや不快気味に言った。

「私には夢がありましてな。世界から収集した美術品や藝術品で、美の大伽藍を築きあげます。その際には、このホテル・ハイタワーも重要な役割を担います。ご覧の通り、ここはすでに世界の縮図です。危険を顧みず、私が持ち帰ってきたもので溢れている。
 しかし私が目論むのは、このホテルよりももっと巨大な宮殿です。その伽藍を歩けば、世界の最も素晴らしい喜びが楽しめる。世界の最良のものが、そこに集う。最高の素材を使った、フルコースのようなものです。そのために、分会メンバーはあちこちの国を飛び回り、宝物を持ち寄って、伽藍に飾る。これこそが冒険です。血沸き、肉踊り、どんな恐怖にも立ち向かって、その中で最高の勝利を掴む。かくして、人は限りない進歩を積み重ねてゆく」

「ではあなたは、蒐集のために冒険をするというのですね?」

「そうです、蒐集とスリル。それ以外に、わざわざこの大都会を出て野蛮な僻地へ行くなどと、何の理由がありますか?
 世界は交通革命を経て、従来までと変わった。かつて我々を遠ざけていたものが、今は我々を掻き立て、すべての国をトランプの手札のように並べ、競争の世界を生み出すように仕向けた。海だよ。母なる海が、我々の市場経済をこうも駆り立てるのです。そこでは差異は、限りない商売の源泉となる——そう、それこそが交換価値というものだ。我々のくだらない商品も、向こうには天国からの贈り物のように見え、その反対に、おんぼろの中に素晴らしい価値が持った商品が眠っていることも、賢明な人間なら見出せるわけです。
 かくして、世界は魔女の釜のように掻き混ざる。多くの商品が海を超えて渡り、様々な人間の手許へと行き着くでしょう。しかしその中でも、美しいものといえばほんの一握りだ。それを鑑定し、その価値に相応しい場所へと保存するのが、分会の使命です。素晴らしいものは手に入れる。それがこれからの時代の正義であり、社会貢献なのです。間違いなく、今後の世界を牽引してゆくのは、S.E.A.本家ではなく、分会です。そうは思いませんか?」

 同意を獲得しようと身を屈め、ほとんど熱い息の吹きかかるほど、これまでになく異様に燃える瞳を近づけ、カメリアの面前に迫るハイタワー三世に対して、すかさずデイビスが、手許のカトラリーを床に落とし、薄暗く広々としたホールをつんざくような甲高い金属音が撒き散らされ、両者がぎくっと振り返る中、

「やあやあ、スメルディングさん、すみませんね。替えのフォークを持ってきていただけますか」

と棒読みで叫び、ホールの外で忙しく立ち働いていた執事を大声で呼びつけた。

「————そう思いませんか?」

 あなたは人間の食事に慣れていないようですな、と囁くスメルディングと、それを睨みつけるデイビスを目の端に留めながら、いささか勢いの削がれた空気の中で、ハイタワー三世は改めて問い直した。その頃にはすっかり答えの手筈を整えていたカメリアは、歳の離れた母親が子どもを見るように、涼しい憫笑をこぼして、しかしそれには何も言わず、

「私は、私自身の手では届かないものこそ、素晴らしいのだと思いますわ」

と控えめに意見を纏めた。そこに含まれる意図を、ハイタワー三世は強引に彼の主張に合わせて取り込んで、

「その通り、世の中にはそうした未知のものに溢れている。だからこそ手に入れてやりたくなるのですよ。素晴らしいものを目の前にしながら、指を咥えて眺めているなど、とんだ屈辱だ。そうではありませんか、ロゼッタ嬢?」

「あら、なぜ?」

 言うなり、カメリアは少し小首を傾げ、振り向くようにハイタワー三世を見上げた。窓からの冴え冴えとした光が、彼女の膝元のドレスに落ちた。

「なぜ、ですと?」

「ええ。なぜ?」

 カメリアが、同じ言葉を繰り返した。それまではひらひらと身を翻して、受け流すことにだけ意識を向けていたのが、この時ばかりは何の意図もなく柔らかい睫毛をあげて、はっと息を呑むような、湖水のような眼差しで彼の眼の奥底を見つめた。それが本当に、どこまでも軽やかな不思議を湛えて見ていたので、さすがに具合が悪くなり、ハイタワー三世も目を外しながら、口を歪めて笑ってみせた。潮の引くように苦々しい影が過ぎり、ふたたび、恨みと憎しみが眼に込みあげた。彼の顔色の変わったことを知ったカメリアは、つと臆病な表情へ戻り、杏子色の唇をティーカップに触れさせた。それ以降、ハイタワー三世の口から、冒険譚が飛び出すことはなかった。

「良い一日を」

 スメルディングがうやうやしく山高帽を下げて、ホテルから客人を送り出した。

「ご馳走になりました。お元気で」

 デイビスたちも暮れかかった陽の中に身を戻し、解き放たれたように息を吸って、呪われたようなそのホテルから距離を取ろうとした。するとスメルディングは、若者たちに対する復讐心なのか、ロビーへと戻り際に突然に大声をあげて、

「ご主人様、朗報です。ようやくあいつが死にましたよ——」

 それはカメリアにも聞こえたらしく、今度こそ彼女は、見るも惨めな表情をしていた。これもアメリカン・ドリームかね、とポケットに手を突っ込みながら、デイビスは呟いた。とにかくあのキメラのようなホテルの内側では、着々と世界を股にかける野心が育っているらしかった。ニューヨークは、単に貧しい者たちの夢見る場所というだけでなく、あのような人間たちの生きる伏魔殿でもあるのだろう。

「しかし何だってあんなに無闇に、あの爺さんはあんたに絡んできたんだ?」

「さあ?」

「なんか、異常だったよな」

 カメリアは軽く自分の二の腕をさすって、老人にされた仕打ちを思い返しているようだったが、やがて曖昧に笑って、

「嫌われやすいのかもね。私」

とちいさく呟いた。
 
 普段であれば、一目惚れでもされちゃったのね、と能天気な冗談でも飛ばすところを、しかし彼女の心の中には寧ろ、執着心よりはその奥の怨恨や憎しみだけが印象深く突き刺さったようで、しばらくじっとして、雨に打たれる柳のように俯いていたが、そんなカメリアの肩を見かねて叩き、デイビスは優しく笑った。

「あんたのせいじゃないさ、そんな顔すんなよ。それに俺たちは、ダカールからの最後の依頼を果たしたんだ。気持ち悪い爺さんなんか放っておいて、ケープコッドに戻ろうぜ」

 汐風に吹かれて、そこだけが浮かびあがるように暖かな表情に彩られたデイビスに、ようやくカメリアも少し微笑んで、彼の顔を見つめ返した。背後で、ゆっくりと舟の汽笛が流れてゆく。港にはそろそろ、波に揺られながら停泊した舟たちが、かたり、かたりと鈍い音を立ててぶつかり合っているのだろう。

 朝からいたニューヨークにも、随分と長居をしてしまったらしい。すでに色褪せ始め、霞みがかった水色の空を見上げながら、ふと、カメリアは何気なく右手側に視線を移した。

 景観を損ねないために、暗渠集電式となっている路面電車のためのレール。その上をゆるりとトロリーがなぞりあげて去ると、残された人々がある一点へと吸い込まれていった。そこだけが、やかましいほどに無数の煌めきで飾り立てた街の隅——TOYVILLE TROLLEY PARK、とアーチ状の門に書かれたそれは、どこかレトロな音が溢れ出て、道ゆく人々を誘っていた。

「……帰る前に、もう少しだけ遊んでいかない?」

「俺も、そう思ってた」

 デイビスは両手で後頭部を支えながら、にや、と笑みを浮かべた。



……

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 凄まじい連打とともに、大砲からボールが発出されてゆく。それと同時に、台所からこっそりちょろまかしてきたであろう大量の皿が、派手な音と破片を飛び散らせて粉々に割れた。どう見ても後には悲惨な状況が待ち受けているに違いないが、「私が全責任を負う。思いっ切り皿を割れ!」と叫ぶ緑の軍曹の命令と、あまつさえ小さなヘリコプターが皿を吊り下げてぱたぱたと飛び回る気の抜けた光景に、あえなく籠絡された結果、床はますます陶器の残骸で埋め尽くされてゆく。こうした悪いことをしでかすのは、子ども心をくすぐる夢のようなものである。破壊、粉砕、無秩序に襲われて、嵐の後のようになった愛らしい子ども部屋は、古き良き母親からすれば阿鼻叫喚モノであろう。

「あー、楽しかった!」

 デイビスは伸びをしながら、さんざん遊び散らした射撃場を出た。その隣を、むー、という顔でついてゆくカメリア。結局、彼には一度も勝てなかった。

 外はすでに暗くなり始めていた。深い最後の黄昏のオレンジを呑み込み、透明感のある重厚な藍色の夕空が、頭上を広々と浸し尽くしており、海の底のような真下で、幾百もの豆電球に飾られたパークは、少し目を動かすと、まばゆい黄金の引っ掻き傷を視界に残した。地上は鮮明な小粒の光に溢れ、夜に包まれ始めている分、より一層生き生きと、明朗な放射線を描いて地面の煉瓦や路面電車のレールを照らし出すのだった。暗闇のうちに散りばめられた光の方が、太陽に照らされた世界よりも、なぜか親密で、暖かかった。まだ多くの子どもたちが、そのトロリーパークで遊んでいた。親の見えない子も何人か見えることから、きっとここは比較的安全で、心配することがないのだろうと感じた。

「ずるいじゃないの。こっちは腕力なんてないし、立体映像なんて未来の技術にも慣れていないのよ。何よ、あの顔のむかつくビーバー。人を馬鹿にしているったらありゃしない」

 巨大な保安官の口を模した出口を抜けて以降、くそみそに貶しているカメリアの愚痴を聞きながら、にやにやと腹立たしい笑みを浮かべ、デイビスは肩を竦めた。

「ま、なんせ俺はポート・ディスカバリーの英雄なんで。実力の差だね」

「へえ。銃撃が上手いのは、あなたがヒーローだから?」

「当然だ。ヒーローはいつだって、最高に格好良く勝つもんなんだよ」

 誇らしげに胸を張るデイビスを見て、子どもか、とカメリアは呆れ返った。しかし実際、周囲は明らかに彼らよりも幼い者で溢れているので、それがこのパークの正しい楽しみ方と言えるのだろう。

 周囲には瓦斯燈が入り始め、本物の焔が、静かな灼熱の音を立てながらガラスの内側を舐めていた。それに、歯で齧ればカリカリと音のしそうなほど鋭利な豆電球の数々が、夜空を彩った。汐風が心地よい。まだまだ遊園地は眠る気配がなく、むしろこれからが本番だとでもいうように、オルゴールやオルガンの、煌めくばかりの音を上下させて節をつくる。単純なメロディ進行であるだけに、どこかノスタルジーを掻き立てる音楽だった。二人はその時代に依存しない懐かしさに惹かれて、また足を止めた。そそりたつカラフルな得点表を前に、三本の手すりと、金属製の足踏み場が設置されている。

「ほほー、ブレイジン・バッカルーか。こいつは、足踏みすりゃいいだけみたいだぜ」

「こ、これ、また体力勝負じゃないの」

「俺の不戦勝か?」

「そんなわけないでしょ。やりたくても、こっちはドレスなんだから」

「ふーん。脱いだら?」

「うんうん……え?」

 手すりに頬杖をついて、何気なく告げられた言葉にフリーズするカメリア。
 一瞬の間を置いて、ぱしーん、と軽やかな音が夜空に響き渡った。思わず、周囲の何人かが、音の出処を振り返る。

「こっ——この、変態ッ!!!」

 カメリアが怒りでワナワナと震えている姿は、珍しいと言えるかもしれない。赤く手形のついた頬を手で抑えたデイビスは、数歩よろめきながら、そばの煌びやかなショップ・ワゴンを指差して声を張り上げた。

「何も裸になれって言ってんじゃねえんだ。あそこの店で、シャツやらパーカーやら買ってこいって言ってんだよ!」

「下がないじゃないのよ!」

「知らねえよ、そんなこと!」

 見苦しい諍いを始める二人。アレッタが無関心な表情を貫き通し、だめよ、見ちゃいけません、とそそくさと遠ざける母子にも、彼らはまるで気づいていない様子だった。
 しかしここで受けて立たねば、腹の虫が収まらない。カメリアがきょろきょろと辺りを見回すと、ショップ・ワゴンの前で、ドクロのTシャツを着た少年が、どのおもちゃを購入するべきか、じっくりと値踏みしている。それを見たカメリアは、ぴいんと閃いたようなしたり顔をすると、怪しげにつつつつ、とその子どもに近寄ってゆく。

「坊や、私のために勝負してきて頂戴。あのお兄さんに勝ったら、キャンディをあげるわ」

「嫌だよ、キャンディだなんて、足元見やがって。ケチくせえ大人だな」

「くっ、手強い子どもね。それならクッキーサンドアイスはどうかしら?」

「ま、いいか。しょうがねえ、それで手を打ってやるよ」

 悠然と歩いてゆく黒Tシャツの少年は、まるで古代ローマの将軍のような貫禄に満ちている。頼むわよ、とカメリアが拳を握らずとも、すでに相当な手練れ感が漂っていた。デイビスは自らの敵対者を認め、明るく握手を求めようと試みたが、その差し出した手は軽やかに無視され、少年はおもむろに自分の位置の手すりを掴む。

「みっともないよなあ、そうやってガキをだしにして、女にいいとこ見せようとして」

(な、なんだこいつ)

 この馬鹿にした口調、ナメくさった態度。偶然とはいえ、カメリアはとんでもない悪童を拾ってきたものだ。

「なんだよ、もう頭に血がのぼってんのかよ。高血圧の症状だ。こりゃ、何もしなくても俺の圧勝だな」

と、挑発的に煽る唇から、ギザギザの乱杭歯が覗いた。

(この……この、ガキは)

 デイビスの胸に、猛烈な闘争心が湧いた。大人気ないと言われようと何だろうと、この少年には必ず一泡吹かせなければならない。




……

 数分後。

「やりィ、また俺の勝ちだぜ」

「ぜーはーぜーはーぜーはーぜーはーぜーはーぜーはーぜーはーぜーはー」

 そこには、激しい呼吸を繰り返して撃沈しているデイビスの酸欠状態など露知らず、意気揚々とガッツポーズを取る少年の姿があった。飛行機のパイロットであるがゆえ、健康には気を遣い、毎日筋トレしているはずなのだが、勝敗には何の効果もなさなかった。これが二十代後半に差し掛かった人間と、育ち盛りの少年との限界の差なのだろうか。

 競争敵であったとはいえ、こうまでコテンパンにやられては、さすがにカメリアも慰めの言葉を失う。勝利の美酒に酔っている少年は、迎えにきたらしい母親の姿を見つけると、彼らには目もくれず、嬉しそうに駆け寄って手を繋いだ。

「シド、帰るわよ」

「うん。ママ、今日の夕飯は何?」

「ピザ・プラネットなんてどうかしら」

 デイビスたちを背に去ってゆく親子は、平和なアメリカの家庭、と言うべきか。ぶすぶすと煙をあげて燃え尽きているデイビスの汗をハンカチで拭ってやりながら、カメリアは困惑して声をかけた。

「そんなに全力を出して、どうしてこの結果なの?」

「あ、あのガキが、体力が有り余ってるのが、おかしすぎるんだよっ——」

「……デイビス(肩ぽん)。私たち、歳を取ってしまったわね」

「やめろッ! 俺たちはまだ、二十代だッ!!」

 よよと白いハンカチを出して嘆くカメリアに全力で抗いながらも、二人はトイビル・トロリーパークを揃って出た。

 街全体にも電飾が施されて、多くの紳士淑女が連れ立って歩いていた。目の前のウォーターフロントパークはライトアップされて、まるでシェイカーに流れる魅惑的な液体のような光の筋が交錯していた。深いワインレッドや、物憂げなヴァイオレット・リキュール、鮮やかなグラン・マルニエ、輝くミント・リキュール、清々しいブルー・キュラソーなど。次々とそそがれ、混じり合い、したたり、そして煌めく様は、夢のような光景にも見える。ニューヨーカーたちには日常の他愛もない風景なのかもしれないが、カメリアは歓声をあげた。彼女の喜んでいる顔を見ると、不意に、ああ、確かにここは美しいのかもしれない、と思えた。

 暗闇の中に輝く光は、心の中に眠る様々な感情を煽ってくる。懐かしさ、切なさ、華やぎ、歓び、親密さ、安らぎ、ときめき、それにイマジネーション……それらが何とも狂おしく入り混じると、人々は目の前の景色をそれぞれの思い出に繋げながら、現在と過去の合間をそぞろ歩いているようだ。目の前には、明らかに他を凌駕してまばゆい道があった。銀河の如く立ち並ぶネオンサインの看板は、その白熱電球のあまりの明るさから、The Great White Wayと称される由縁となるほどである。ここがそれなのね、とカメリアは躍る胸を一層高鳴らせた。
 ブロードウェイとは、マンハッタンを縦断する数十キロの道の名称を指す。中でも代表格として存在を知られているのは、タイムズ・スクエアの中心に位置する劇場街(シアター・ディストリクト)であろう。ダンサー、シンガー、アクターすべての憧れの的として、アメリカ文化の精髄を一気に凝縮した舞台は、常に華やかに演劇界の最前線を牽引してゆくようなイメージがあるが、その歴史は意外に古く、インディアン・トレイルと呼ばれる先住民たちの道が、植民地化により改名され、一七三二年に最初の芝居小屋が誕生して以来、数世紀をかけて発展してきた。大きく栄えるのは十九世紀後半から二十世紀初頭にかけてであり、歌、ダンス、演劇の側面を併せ持つポピュラー・カルチャーは、巨額のコストと煌びやかな衣装で多くの民衆を魅了した。二十世紀に入り、世界の頂点へと昇り詰めてゆくアメリカの趨勢と重なり合ったその道は、まさしく大衆演劇の花道とも言えるだろう。

「へー、ブロードウェイ・ミュージックシアターだって(注、本当はこの年代にはまだ存在しないのだが、書きたかったので書いた)。今夜の演目は、ビッグ・バンド・ビートか」

「わああ、見て見て。ロングランなんだって」

 彼らは、豪奢に光り輝く劇場の看板を見上げた。劇場につきものの、古代ギリシャ劇に端を発する、喜劇と悲劇の仮面(comedy and tragedy masks)。その周囲を縁取って、ずらりと金の真珠のように立ち並ぶ、目にビビッドな豆電球は、まるでクリスマスの夜のように天真爛漫な喜びを与える効果がある。今は閉じられている扉の向こう側は、どれほど絢爛たる舞台が演じられているのだろう——窓から溢れるミラーボールの光彩に、二人の想像は尽きることがなかった。

「はあああああ、観てみたいわ。観てみたいわ。気になるなー、どんな演目なのかなー」

「そう、チラッチラッとこっちを見るのはやめてくれるか?」

「きっと、希望に溢れた歌手やダンサーが、たくさんいるステージよ。みんな舞台に立つ日を夢見て、今日という日を迎えているんだわ」

 くるくると踊りながら——これは嬉しくなった時の彼女の癖だった——はしゃいだカメリアは、まるで自身も同じ夢を見ているかのように、夜の空気に酔い痴れ、お気に入りの歌を口ずさみ始めた。それは焼き締めた陶器のような蒼い夜空に溶けて、少し涼しくなり始めた風と、人の体温の暖かさとを、そっと揺さぶるように聞こえていた。

 ♪"NEW YORK" the city of that never sleeps
 ニューヨーク、けして眠らぬ街
 "NEW YORK" the city of ev'ry dreams
 ニューヨーク、あらゆる夢の集う街
 "NEW YORK" the city of all desire
 ニューヨーク、すべての願いが集まる街

 New york, It's our
 ニューヨーク、それは僕たちの
 New york, It's our
 ニューヨーク、それは私たちの
 New york, "NEW YORK"
 ニューヨーク、ああニューヨーク——

 人々のざわめき、波止場の軋み、車のクラクション、カトラリーの響く音。その中で切れ切れに紡がれる歌が、あまりに活き活きとした感銘を脈打たせていて、人は、こんなに浮かれることができるのかというほど喜ばしそうに、彼女はドレスを靡かせながら辺りの景色に陶酔していた。これだけの大都会だ、美しく着飾った貴婦人など、何人もいた。けれども、けして豪華でも美人でもない彼女こそが、今夜は一番、その命を輝かせているのだと思えた。街中の活気を吸って、まるで彼女自身が人々の想いの結晶であるかのように、溢れんばかりに胸をときめかせていた。

「ニューヨークって、なんて素敵なの。百年生きたって、こんなに素晴らしいところは全然遊び足りないわ」

 柔らかな髪を汐風に撫でられながら、ふわりと解放された息を吐いて、彼女は感嘆した。デイビスは、それを見守りながら、彼自身も光の道の中に溺れてゆくように感じた。そして、思う。彼女は本当に、生きることを求めてやまないのだと。もしも人生への希望だけが寿命を左右するならば、彼女は本当に、どこまでもどこまでもこうして生きるのだろうな、と思わせるような若々しさに満ちて、そして無限の明るさを放っていた。

「……カメリア」

「何?」

 ゆくりなく振り返るカメリア。デイビスはじっと、彼女を見ていたが、やがて笑みを深くして彼女に訊いた。

「楽しいか?」

 それは、答えの分かり切った質問だった——のかもしれない。けれども、彼女の口からそれを聞くことによって、別の意味合いが生まれる気がした。
 おもちゃ箱をひっくり返したようにめくるめく光に照らされて、カメリアは、咲き誇るような笑みを浮かべた。

「うん、とっても楽しい!
 不思議よね。あなたといると、世界中をどこまでも冒険したいって気持ちになるの」

 何の躊躇いも、戸惑いもなく、晴れ晴れとそう答えてみせるカメリア。それを心に響かせて、デイビスもようやく安堵したように、彼女と同じ笑顔になった。

「次はちゃんと観に来ようぜ。今度は、ブロードウェイのチケットを買ってな」

 瓦斯燈の明かりに照らされて、そう誘いかけるデイビスに、カメリアは小首を傾げた。

「……次?」

「ん?」

 その問い返しによって、あまりにさらりと呟かれた言葉の真意に、カメリアもデイビスもふと気づく。その瞬間、二人とも、酷く真剣に互いの顔を見つめ合い、そして言葉を手離した。まるで、ざわざわと広がる周囲の往来の喧騒にも関わらず、そこだけが時間の止まったかのように。

「——それってもしかして、プロポ「違う」

 ゆえに、一瞬の隙も与えずに彼女の発言を潰す。徐々にこうした掛け合いも慣れてきたのかもしれない。カメリアはあらあら、と肩をすくめながら首を振って。

「シャイな紳士は、これだから困ってしまうわ。そんなことでは、イタリアではモテなくてよ」

「いーんだよ。俺は一生、アメリカの外へ移住するつもりはないから」

「アメリカでもモテなくてよ?」

「おっ、おっ、大きなお世話だろッ!!」

 あまりの紅潮っぷりに、図星なのかしら、とも思ったが、本人の名誉のために黙っておくカメリア。この奥手さでは失恋も多いのかもしれないが、それを突つくのは野暮というものだろう。

「そう、素敵な淑女は、沈黙することの価値を知っているから。沈黙は金、沈黙は花。そして日々、言葉にできない恋心を秘めて、星のように輝くの——」

「あんた、さっきから何ブツブツと喋っているんだ?」

 手を組み合わせて空想の窓辺に凭れ、月に語りかけるように内面を打ち明けているカメリアの姿を、少々不気味に感じながら訊ねるデイビス。彼女の付近だけ、時代遅れの薔薇のトーンが貼られているようだった。

「あ、銅像ね」

 ふと呟かれたカメリアの言葉に、デイビスも頭上を見上げた。百貨店の前の、少し開けた広場に、蒼く暗がってゆく空の最後の光を反射して、一体の銅像が台座の上に立ちあがりながら、英雄を想起させる勇敢さで一点を見据えていた。その広場の先は、すぐに洋々たる海だった。半月の輝いている空の下、黒く広大に揺れ動く大西洋の波は、この銅像の昂然たる眼差しを乗せて、遠く、イタリア半島へとその精神を運んでゆくだろう。潮水がへばりついた藻を洗う音や、ボートの舫がゆっくりと軋む音を聞きながら、カメリアは海を臨む欄干に飛び乗って腰掛け、デイビスは欄干に凭れて、ずるずると座り込んだ。ニューヨークも、朝から一日かけて、その終端まで歩き通したらしい。果てといっても、恐らくは広大な州のほんの一部を横切ったに過ぎないだろうが、それでもどこか名残惜しい、切ない充実感が、疲れ切った体を汐風とともに浸していた。

「ねーえ、デイビス。あなたって、歴史は得意な方?」

「からきしだな。居眠りばかりしていたよ」

「じゃあ、あの人が誰かも分からないの?」

 カメリアは鈍く輝く銅像を指差して、デイビスに問いかけた。

「あの人はね、コロンブス。十五世紀の、ジェノヴァ生まれと言われている航海者」

「さすがに知っているよ、コロンブスくらい」

「うっそだー。言われないと分からなかったくせに」

「そりゃ、オッサンの顔までは覚えてないからな。興味ねえし」

 軽い着火の音を立て、デイビスは左手で風から守りながら、ライターの炎で煙草の先を炙った。長い白煙が欄干の下から立ちのぼり、夜空に近いカメリアの鼻に、焦げ臭い煙たさを残した。デイビスに近寄った時、微かに漂うその恋しい匂いにそっと包み込まれながら、彼女は遠い何かを思いつめるような眼差しで、静かに語り始めた。

「彼は世界史上でも指折りの航海者である一方で、黄金や世界征服に情熱を燃やし、スポーツでもあるかのように原住民の人々を虐殺したの。たったの四年間で、住民たちの人口は三分の一にまで減少したのよ。侵略者たちの横暴な振る舞いのせいで、飢饉や疫病も発生し、大量の人々が亡くなった。昔は大英雄として賛美されていたけれど、今では、最悪のコンキスタドールの一人とまで批判されているのよ」

「ふうん」

 あんちょこもなしにすらすらと専門外の知識を口にするカメリアに、デイビスは少しばかり目を見開き、ふと、万能の天才と謳われたレオナルド・ダ・ヴィンチが思い浮かぶ。以前から感じていたことではあるが、彼女は科学のみならず、文化や歴史の方向にも教養が深かった。それを、あらゆる面に才能の秀でた、人類史上最高峰の天才と比べるにはあまりに酷と言えるが、それでもカメリアは、あの大偉人に何かしら通じるものがあった。彼女の目線は、常に海の彼方に向けられている。そこには、自ら与えられた境遇に浸ることなく、運命や時空を超え、あらゆる人間に興味と敬意をそそごうとする、何か類い稀な熱意が込められていた。

「大海原を冒険して、新しい世界を夢見て。なのに、どこでボタンを掛け違えたのかな。どうして、間違った方向に行ってしまったのかな」

「やれやれ、あんたも随分と残虐な話がお好みなんだな」

「こういうの、あまり興味がない? もっと楽しいお話にする?」

「別に。聞いてるよー」

 夜を立ちのぼってゆくほの白い煙の底で、ひら、と片手をあげてなげやりに答えるデイビスを見下ろして、カメリアは薄く微笑み、前のめりに身を乗り出した。


「———ねえ、侵略のための冒険があるのなら。世界平和のための冒険があってもいいと思わない?」


 濃密な蒼で塗り潰した夜空を背景にして、欄干の上から、彼の顔を逆さに覗き込んでくるカメリア。そんな彼女の瞳を見上げ、デイビスは煙草を右手に持ち替えて、ゆっくりと煙を吐き出した。

「俺は世界平和だなんて、そんな御大層なお題目のために空を飛んでるんじゃない」

「そう? それじゃあ、何のためなの?」

 彼の視界の中で、彼女は無邪気に首を傾げる。その鳶色の眼を見つめ続けながら、一瞬、デイビスもちいさな子どものように無欲な眼差しになって、囁くように呟いた。


「ポート・ディスカバリーのみんなが好きだから。……それだけだよ」


 カメリアは彼の言葉を耳にすると、愛おしげに微笑み、己れの唇の前に人差し指を立てた。

「ふふ。良きパイロットであるための条件、そのいち、ね」





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