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【短篇小説千本ノック8】究極の恋愛小説――アドルフォ・ビオイ=カサーレス / 高丘麻衣・野村竜仁訳「パウリーナの思い出に」

 前回紹介したドノーソ「閉じられたドア」が収められている『美しい水死人――ラテンアメリカ文学アンソロジー』(福武文庫)にはラテンアメリカ圏の傑作短篇が惜しげもなく収録されており、斯界の入門にはもってこいの一冊だ。捨て作がない。
 優れたアンソロジーは、その後の読書の指針になる。このアンソロジーがなければ、ホセ・エミリオ・パチェーコやフェリスベルト・エルナンデスといった優れた作家の名を知ることはなかったかもしれない。
 なかでも、アルゼンチンの作家アドルフォ・ビオイ=カサーレスの「パウリーナの思い出に」は、物語の圧縮度、綺想への傾倒、批評精神の充溢、完成された詩的文体といったいくつかの面において、あのボルヘス最良の作品群をも凌駕する作品である。
 というか、ある意、悪趣味ですらあるこのような小説を、ボルヘスは決して書かなかっただろう(書けなかったのではなく)という気がする。カサーレスの小説は、長篇『モレルの発明』(水声社)と短篇「パウリーナの思い出に」をその頂点とする。いくら褒めても褒めたりないくらいだ。

 カサーレスの盟友であり、彼との共著もいくつか出しているボルヘスは、『モレルの発明』を「完璧な小説」と絶賛したが、これにはいささかの留保を要する。『モレルの発明』にせよ「パウリーナの思い出に」その他の短篇にせよ、カサーレスの小説には、なんというかちょっと抜けているところがあって、「ええッ……」と脱力させられる場合もしばしばだ。「ほんとうに、これでいいのかなあ……」と腕組みしてしまう。
 ではいったい、ボルヘスはなにをもって『モレルの発明』を「完璧な小説」と評したのかといえば、その徹底的な自足性、あまりに完結した小説構造を指していたのではないかという気がする。
 かつて『ムカデ人間』という強烈に頭の狂った映画があったが、要するに「完璧な小説」とは「ひとりムカデ人間」のごときものである。口と肛門をチューブで接続し、自身の排泄物の循環によって生きながらえる男、読者諸賢においては、そんな情景を想像されたし。
 また、物語の舞台装置に恋焦がれ、最後にはそれと同化してしまう(しかし対象との肉体的接触はかなわない)『モレルの発明』の語り手は、ミッシェル・カルージュ言うところの「独身者の機械」のモデルにぴたりあてはまるものだ。

 独身者の機械のドラマは、まったく一人で生きている人間のドラマではなく、限りなく異性に近付こうとしながらも真に交わることのできないでいる人間のそれなのだ。潔癖な貞潔が問題なのではない。逆だ。重なり合い上り詰めているのに、いっこうに融け合うことができないでいる二つのエロティックな激情の葛藤こそが問題なのだ。(ミッシェル・カルージュ / 高山宏・森永徹訳『独身者の機械 未来のイヴ、さえも……』) 

 言い換えれば、これは相当にこじらせた「童貞小説」なのである。そこにはゼロ年代のセカイ系に類型されるような「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)」の関係性すら存在しない。カサーレスの小説世界とは畢竟、「ぼく」の乱反射なのであり、性愛の対象たる「きみ」はどこまでいっても自足した妄念の枠外に置かれている。蚊帳の外なのだ。
 レムの『ソラリス』を引き合いに出すまでもなく、ある種の恋愛とは鏡映しのようなものだから、「きみ」を愛していたはずの「ぼく」は、実のところ「ぼく」を愛していたにすぎなかった、というのは、現実世界でも往々にして起こりうる。
 そもそも自己と他者とは明確に劃定されている、と断言できる人がどれだけいるだろう。私は微妙だ。恋愛はいつだって「きみ」のなかの「ぼく」を見出すところからはじまる。「ぼく」が「きみ」で「きみ」が「ぼく」、ふたりはもともとひとつの存在……というプラトンの呪縛は、そう簡単に振り払えるものではない。

 ぼくはずっとパウリーナを愛していた。(略)二人は信じられないほどよく似ていた。だからパウリーナは、人間の魂と世界の魂との最終合一が説かれていた本の余白に「私たちの魂はもう結びついている」と書きつけた。あのころ私たちと言ったら、ぼくとパウリーナのことだった。
 二人が似ている理由について、ぼくはパウリーナの不鮮明で粗雑な写しのようなものだからだと考えた。「すべての詩歌は<詩>の写像であり、万物は神の予示である」とノートに書いたことをおぼえている。パウリーナと似ていることで自分は救われていると思っていた。もともと不器用でだらしない、高慢ちきなぼくが、パウリーナとひとつになることで欠点を克服し、自分の最高の部分がひきだされる気がした。今でもそう思っている。(アドルフォ・ビオイ=カサーレス / 高丘麻衣・野村竜仁訳「パウリーナの思い出に」以下太字部分は同作の引用)

 カサーレス「パウリーナの思い出に」は、このように書き出される。
 一読、赤面、輾転反側せざるを得ない文章であり、なぜなら似た経験(というかほとんど同じ経験)が私にも(もちろん、読者諸賢にも?)あって、いまとなっては若気の至りというほかないが、しかし当時は本気でそのように考えていたからだ。
 救われない。そう、これは、ほんとうに救われない話なのである……。世の中には再読を重ねれば重ねるほど辛い小説がある。「パウリーナの思い出に」はまさにそれだ。

 小説の語り手たる「ぼく」とパウリーナは「幼い頃からずっと一緒だったので」「ふたりが結婚することはごく自然で当たり前のことに思われ」ていた。現にパウリーナの両親も、「ぼく」が「博士の学位をとったら結婚を許すと約束してくれた」のである。
 「ぼく」は若いがそれなりに成功をおさめた作家で、近々ロンドンに留学する予定。ふたりは自分たちの幸福な未来について話し合っては、毎日のようにいちゃついている。バカップルだ。
 そんな彼らの前に、突如、闖入者があらわれる。作家仲間(というよりはその見習い)のフリオ・モンテーロである。自宅で催されたあるパーティーの席上、パウリーナとモンテーロがふたりきりで話しているのを見た「ぼく」は不愉快に感じるが、結局のところ、自分の狭量さを恥じ、次の日から勉強に専念する。一週間ほどが経ち、奨学金のための試験を終えた「ぼく」は、ひさしぶりにパウリーナと会い、そこで想像もしなかった告白をされる。

「あの日の午後、初めて会ったときから、私たちはどうしようもなく惹かれあってしまったの」   
 いったい誰のことなのか。パウリーナがつづける。
「あの人、とても嫉妬深くてね。あなたとのつきあいに反対してはいないけれど、でもしばらく会わないようにするって約束したの」

 あの人とはだれか。言うまでもない。フリオ・モンテーロである。嫉妬、というより「ほとんど軽蔑にも似た気持ち」をおぼえた「ぼく」は絶句する。これまで、人生のあらゆる瞬間に感じていたふたりの愛情は、「ぼく」のひとりよがりに過ぎなかったのだろうか? ふたりの気持ちは、「ぼく」が考えていたほど通じ合っていたわけではなかったのだろうか? 
 無論、そうだったのだ。そして、「ぼく」自身もそのことに気づいているのである。

 ひとりになると、すべてが馬鹿馬鹿しく思えた。モンテーロほどパウリーナと(もちろんぼくとも)そりのあわない人間もいないだろうに。それとも、ぼくが間違っていたのか。あんな男を愛しているとしたら、ぼくとパウリーナはそもそも似ていなかったのではないか。過去を振り返ると、そう思わせる場面が一度ならずあったことに気づき、愕然とした。

  「ぼく」と「きみ」は似ている、そっくりだ、まるでひとつの存在だ。あなたがだれかと恋に落ち、以上のように感じたとすれば、できるだけはやく認めるべきだ、それはまやかしである、と。「ぼく」と「きみ」のすべての習慣、すべての性質、すべての趣味嗜好をリストアップして、比較検討するべきだ。するまでもない。似ていない部分のほうが、圧倒的に多いだろう。
 「ぼく」はだれにも言わずに留学の準備を進める。が、そこにパウリーナが訪ねてくる。旅に出る前日のことである。彼女は言う。「いつまでも愛しているわ。どういう形であれ、あなたへの気持ちはずっと変わらないから」。
 左様ですか、という感じだ。そして、余計な一言をつけ加えるのも忘れない。「もちろん、フリオへの愛とは比べものにならないけれど」
 当然「ぼく」は気分を害し、パウリーナを見送るため、家の外に出る。「ドアが開いた瞬間、はげしい雨音を耳にした」。通りを走っていくパウリーナをやるせない気持ちで見送った直後、「ぼく」はぞッとする光景を目にする。モンテーロが、庭園にうずくまっている。立ち上がり、「玄関ロビーのガラス戸に顔と手を押しあてた」彼の顔は、「水槽の魚」、「水圧で変形した深海魚を思わせる」
 翌朝、イギリス行きの船に乗りこんだ「ぼく」は、国との交流を経った。パウリーナを思い出すにしのびなかったのである。むしろ積極的に、彼女を記憶から消し去ろうとする。そして、その努力はそれなりに実をむすぶ。
 ありがちな話である。しかし物語はここから急展開をむかえ、二年後、帰国した「ぼく」の前にパウリーナが訪ねてくる。思いがけず情熱的な彼女に導かれ、そして……。

 ぼくらは見つめあい、まじわる二本の川のごとく、二人の魂がひとつになる。それは至福の瞬間だった。屋根や壁を打つ雨の音が聞こえる。雨は――世界が本来の姿をとり戻そうとするかのように――すさまじい勢いで成長する二人の愛を象徴していた。

 しかし、そんな「至福の瞬間」においても、「ぼくはパウリーナの言葉にモンテーロのくせがうつっていることを感じずにはいられなかった」。あたりまえだ。人は身近にある事物から、ありとあらゆる影響を受ける。パウリーナとて例外ではない。不愉快にはちがいないが、しかしそこにはパウリーナの「昔と変わらない、いつもの完璧な姿があった」。それでもう、充分ではないか?  
 充分ではないのだ。
 パウリーナと別れたあと、「ぼく」は悶々として夜も眠れない。次会えるのはいつだろう? 積もる話もある。モンテーロとの関係はどうなった? そもそもパウリーナは、どういうつもりで「ぼく」の前にあらわれたのだろう?
 あれこれと考えるうちに、「ぼく」はあることに気づく。「パウリーナを思い出すことができないのだ」「乱れた髪、服のしわ、ぼんやりとした影は浮かぶが、愛するパウリーナが見えてこない」。これはいったい、どういうことなのか。
 あくる日、友人宅を訪問した「ぼく」は信じられない事実を知る。あの夜、「ぼく」が旅に出る前日、パウリーナを追って庭園に身を隠していたモンテーロは彼女を路上で詰問し、レンタカーで一晩中連れまわした挙句、ホテルの一室で彼女を銃で殺した。当のモンテーロは服役中だという。
 

 ここにおいて物語は奇妙な様相を呈する。それでは、昨日の晩、たしかに愛を交わしたパウリーナは、「ぼく」のまぼろしだったのだろうか? それとも、彼女の亡霊が迷い出たとでも?
 「ぼく」がたどり着く結論は、おそらく、考え得るかぎりで最も残酷なものだろう。私は数年ぶりにこの小説を読み返し、カサーレスのあまりの悪趣味に、思わず笑い出してしまった。
 結末は是非読者の目でたしかめてほしい。ひとつだけ言えることは、愛の対象を妄執の牢獄に囚えるという行為は、なにも「ぼく」に固有のものではない。だれもが「ぼく」のパウリーナを胸に飼っている。 
 恋愛とは畢竟、合わせ鏡のように無限に続く「ぼく」と「ぼく」と「ぼく」……の輪舞なのだ。カサーレスは、日本語にしてわずか二十頁弱の短篇のなかで、そんな身もふたもない真理を見事看破した。「パウリーナの思い出に」は、長篇『モレルの発明』と併せて、究極の「恋愛小説」といえるかもしれない。

☆ 今回読んだ本
アドルフォ・ビオイ=カサーレス / 高丘麻衣・野村竜仁訳『パウリーナの思い出に』(国書刊行会)

アドルフォ・ビオイ=カサーレス / 清水徹・牛島信明訳『モレルの発明』(水声社)

ミッシェル・カルージュ / 高山宏・森永徹訳『独身者の機械 未来のイヴ、さえも……』(ありな書房)

☽** おまけの一冊
ロラン・バルト / 三好郁朗訳『恋愛のディスクール・断章』(みすず書房)
⇒ これでも読んで頭を冷やせ! **


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