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論文『戸田城聖と折伏大行進』から見る”価値創造の哲学”と”創価教育学体系”とは?

 私の風変わりなベトナム滞在記『サイゴンの思い出』シリーズ(笑)で、先日投稿した⇒『ホーチミン市で会った日本の新興宗教と創価学会の方々
 ”こんなの、読んでくれる人少ないだろうな~。。”と思いきや、意外や意外?!、いつもより多くの方が読んでくれました。。

 考えてみれば、日本の私の実家でも一カ月だけ学会新聞をポストに投函させてほしいという学会員の御近所さんからのお願いは絶えず、ベトナムで血判状(様な手紙)を以て勧誘を受けるという私自身の奇妙な珍体験も有り、、、😅😅 結構身近な割には、、
 『そういえば、あの団体のこと、意外と名前以外は全然知らないなっ!!』という素朴な疑問に(今頃)気が付きました。。

 多分、多くの日本国民の皆様も、同じ様な疑問があるのであの⇧記事のビュー数が高いのかと勝手に分析・判断し😅😅、現在こちら⇒『ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』』を投稿している最中ですが、閑話休題、『近代日本を創った百人 上』(毎日新聞社 昭和40年)の中の論文『戸田城聖と折伏大行進』を要約し(私の個人的な解釈も付け…)てご紹介したいと思います。

 この論文著者は、村上重良教授、当時は『東京大学東洋文化研究所研究委属・宗教学』の先生です。

古書あれこれ|何祐子|note

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 「法華系新興宗教(である創価学会)の本格的な教勢発展は、1950年代以来のわずか10数年に過ぎないが、…日本の社会では、ほとんど先例のない、政教一致主義の運動体ということができるが、この独自の路線をうちたてたのは、第2代会長戸田城聖(とだ じょうせい、(⇧のお写真))である。…戸田の『存在』は、ほとんど偶像的である。現会長(=故・池田大作3代目会長)は、師弟相対、師弟不二の理をあげて、その遺命実現を誓い、…不世出の大指導者として描き出している。」

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 この⇧通りだと、昔も今も、『創価学会』=『戸田城聖(とだ じょうせい)会』と理解できなくもない。。
 どんな人だったのでしょうか?⇩

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 「…日清戦争後、石川県江沼庭野塩屋村の漁村の7男に生まれ、本名は甚一といった。…1904年2月(5歳)、…一家は生活の道を求めて北海道に移住した。…ここも、時おりニシン漁で賑わう程度の貧寒たる漁港であった。
 …
(高等小学校を卒業後札幌に住み込み奉公をし)奉公して3年目で、戸田は小学校準訓導の資格検定試験に合格した。この年、18歳の戸田は夕張郡真谷地小学校に準教員として赴任した。さらに正訓導の資格試験にパスした。…再度、検定試験の難関を突破した…」

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 と、この様に、『極貧家庭』と想像できる環境から自力突破し、見事に『国家公務員』の地位を勝ち取った苦労人。。で、この成功体験からでしょうか、こうなります。

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 「昭和初年、戸田は受験指導のベテランとして産をなしたし、戦後には、創価学会で、宗教界ではまず前例のない、信者を対象とする試験制度(教学部任用昇格試験)を創案し、試験の『魅力』をフルに活用して、イデオロギー教育の組織化と能率化を実現した。1964年1月の同会の任用試験は、全国23,000カ所で行われ、64万人が受験して35万人が合格した。…このような途方もない規模の筆記試験は、これまでの日本社会では、おそらく類例がないであろう。」

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 。。。そうですよねー。
 類例があったとすれば、それはズバリ!! 在りし日の中国・ベトナム『科挙制度』しかないでしょう。。(笑)😑😑😑 
 
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 「1920(大正9)年3月、21歳の戸田は、…単身、東京へ出た。…初夏には、知人の紹介状を手に、下谷の西町小学校を訪れ、臨時代用教員の職を得た。同校の校長が後年の創価学会の創始者牧口常三郎であった。
 …(1922年に三笠小学校を退職し)、翌年、関東大震災の年に、目黒幼稚園の建物を借りて、夫婦で小学生の為の学習塾・時習館を開いた。
 …この塾は、児童それぞれの理解力に対応しながら、決め手だけは、きちんと叩き込む独特の教授法を用い、補修の効果はめざましかった。1926年、戸田は、塾での経験を集大成した参考書『推理式指導算術』を、戸田城聖の名で自費出版した。この書物は、中学受験生向けのベストセラーとなり、版を重ねて数年で100万部を突破した。」

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 えーと、、、要するに、この頃は俗に今でいう『カリスマ予備校講師』としてちょっとした有名人だったという感じでしょうか。。
 じゃあ、『価値創造=創価』を一番初めに言い出したのは??⇩

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 「1928(昭和3)年、芝の白金小学校校長であった牧口(常三郎)は、折伏されて日蓮正宗に入信した。
 …翌年、牧口は教育界を退き、退職金を投じて、ライフ・ワーク『創価教育学体系』全12巻の刊行に専念することになった。戸田は、師の著述の刊行を引き受け、翌年、上大崎に移って居た時習館に、創価教育学会の看板をかかげた。」

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 。。。と、ここで『折伏(しゃくぶく)』とは?です。ネット情報に依れば、⇒『悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせること。人をいったん議論などによって破り、自己の誤りを悟らせること。あるいは、悪人や悪法をくじき、屈服させること。』
                                           
折伏 - Wikipedia

 さて、この牧口氏が、
 「自身の『教育理論の体系化』の為、その基礎理論として『価値創造の哲学』を考え出した。しかし、この評価が主観的、相対的であって結局その最終基準を立て得ない構造上の弱点を持っていた為に、『価値論』を日蓮正宗の信仰と結び付け、超絶的存在を導入することによってこの哲学を完結させた。」
 と、村上先生は論文に書いています。

 ところで、この時の戸田氏はベストセラー参考書の『カリスマ塾講師』であり塾の経営者。その上で更なるチャンスを得ました。⇩

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 「…(牧口の『創価教育学体系』全12巻の刊行で)、出版業・印刷業に進出する傍ら、…模擬試験を大々的に開いたり、小学教員を集めて創価教育理論による実験教育や研究会を行なっていた。
 …1937(昭和12)年初頭には、…創価教育学会の正式発表会が挙行された。集まった会員は60余名で、古島一雄、秋月左都夫が顧問となり、…会は時習学館の事業や学習参考書の出版を基礎に、初等教育界に組織を拡げ、3年後には、会員500名を超えた。
 …このころから、会員の折伏活動が、さかんになった。…東京、神奈川、福岡等の各地で、座談会が活発に開かれ、教員のみでなく、中小商工業者の入信が相継いだ。座談会は、生活革新実験証明座談会と呼ばれ、価値論の講義を中心に、日蓮正宗信仰の体験が語り合われた。…布教活動の最先端では、大御本尊の呪術的現世利益と、利潤追求や欲望充足を合理化・正当化する小市民的な価値論の哲学が、この新興宗教の魅力となっていた。」

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 スタートは『教育界』。1940年頃から『中小商工業者』が中心になり、最先端で『大御本尊の呪術的現世利益と利潤追求や欲望充足を合理化・正当化する小市民的な価値論の哲学』が魅力の新興宗教へ。😅😅

 さて、『このころ』の日本は、、2.26事件、支那事変から日中戦争に突入、そして日本軍が仏印進駐し、大東亜戦争を布告。。。ですね。。
 誰もが将来に漠然とした不安を抱え、お金が、職が、食が欲しい。そんな時代だったでしょうね。。。

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 「会の新興宗教化と平行して、戸田の事業も大きく伸びた。…統制下で、多角的な事業経営に乗り出していた。…事業の中心は、東京、神奈川の少学校教員の出資による出版社日本正学館であった。この株式会社は、20円株を25円で売り出し、年2割ほどの配当を約束して、小学教員から零細な金を集めた。集まった金は、戸田氏配下の四海書房、北海書房、岡書房、秀英書舎等の、小出版社や矢島周平の平和食品等の関係会社に投資した。
 …事業面は好調で、資金が潤沢になると、戸田は、神田に日本商社という手形割引の会社を作り、1943年1月には、証券界に進出した。平野という千葉県の醤油問屋がもっていた店を、95万円で譲り受け、50万円の証拠金を納めて、兜町入りをしたのである。事業の最盛期には、戸田は17の会社を支配し、資産は600万円、月収は1万円を超えたという。」

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 。。。えーと、教員から集めた金で投資した事業が大当たり、、、
 『金融専門商社を立ち上げ、次に地方の企業を買収して預託金を積み株式市場に上場し、、、傘下企業を幾つも抱える一大グループ企業に成長した』

 現代経済的解釈でば、こう⇧、読めるゾ。。。?😅😅 

 しかしです、戦前日本政府が発布した『宗教団体法』で創価教育学会も他宗教団体と同じ様に弾圧を受け、1943年に牧口会長も戸田理事長も逮捕され、会は潰滅的状態になったそうです。
 そして、日本は敗戦を迎え、戸田氏は、会を『創価学会』の名に改めて再建に取り組んだそうです。⇩

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 「…戸田は、法華経講義に集まってきた青年たちに期待をかけ、…青年達の多くは京浜工業地帯で働く労働者や事務員、商店員で、一様に貧しく、しかも、近代的な教養や生活感覚からはほど遠い環境に育ち、生きて来た。
 …戸田は、出版業から金融業に進出し、大蔵商事や小口金融の東京建設信用組合等をつくった。
 …1950年代に入って朝鮮戦争を契機とする独占資本の復活強化は、日本資本主義の異常な繁栄をもたらしたが、その基盤には、はげしい浮沈に晒される中小零細企業の大群があった。都市の低所得者層、中小零細経営者層には、危機感と、政治への不信、革新政党に対する反発をこめた実感的な現状打破ムードが広がっていた。」

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 えーと、先般の『東京都知事選』を終えたばかりの令和・日本とそっくりな、70年前の日本。。😅😅

 この背景の中、『現世利益と現状打破を結合した教義』を謳って『都市の低所得者層、中小零細経営者層』を基盤に爆発的に全国的発展をしたそうです。結果、⇩

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 「1955年4月には、はじめて地方選挙に候補者を立てて、地方議会に進出し、翌年7月の参議院選挙では、全国区2、地方区(大阪)1の3議席を占め、政治進出の橋頭堡を築いた。」

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 ということです。。。

 因みに、1955年って、日本政界は丁度自民党と社会党による『55年体制』に突入した年か。。。
 更に因みに、、ベトナムがジュネーブ会議により南北分断された時期とも重なります。。偶然ですね。。。
 取敢えず判るのは、『インドシナ戦後復興』は、当然に莫大な利権が動いたことでしょう。。。😅😅

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 今回記事の掲題を、『『戸田城聖と折伏大行進』から見る”価値創造の哲学”と”創価教育学体系”とは?』としましたが、牧口常三郎氏の、教育理論の基礎理論の『価値論』の部分に日蓮正宗を結び付けたもの、それが、『価値創造=創価』の哲学・・・なのかな。。。

 2代目戸田城聖氏は、戦前はカリスマ塾講師・経営者、戦前・戦後を通しては多角的戦略的経営者・投資家。。。というイメージです。(あくまで論文を読んだ私の個人的感想です。。😅😅😅) そして、戦前は『創価教育学会』戦後は『教育』の文字が抜けて『創価学会』。。。
 しかし、そういえば、日本は1945年からはGHQの占領下で『公職追放』ですから、それで皆『教育会』⇒『経済界』に引っ越ししたのかな??

 あまり難しいことは解りませんが、、そんな私でもこれだけは解かる。

 『教育・金融・政治』

これ⇧は、現代国家では大きな位置を占めてます。。😅😅😅
 
 
 
 

 

 

 
 
 
 

 

 


 

 

 

 

 

 


 
 

 

 


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