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西田税(にしだ みつぎ)とベトナム抗仏志士

 西田税(にしだ みつぎ)氏はネットで調べると大体こんな⇩人物説明が書いてあります。
 「昭和前期の国家改造運動の青年将校らのリーダー」
 「思想家、国粋主義者」
 「2.26事件で北一輝と共に民間側の首謀者とされ死刑」

 西田氏は、明治34(1901)年鳥取米子生まれ。2.26事件は1937、享年37歳でした。

 西田税氏が残した自伝の名が『戦雲を麾く』です。しかし、自伝の日付を見ると大正13年12月15日とあり、西田氏24歳の頃ですね。
 史実に西田氏はこの頃肺病を拗らせ、広島騎兵第五連隊を退官するほどの重病に陥ったそうなので、24歳で早くも「死」を覚悟した時に書いた文章かと思います。

 序文冒頭文に、「人生は永遠の戦いである。」
 
そして、こう続きます。
 「げに、ともすれば侵略し強梁ならんとするかの醜陋(しゅうろう)卑劣なる我欲利己放縦安逸淫蕩驕恣などの邪悪を折伏すること、又正善を確立具現することは、一個不可分なるべき魂の戦いである。
           『戦雲を麾く』より

 昭和後半~平成、令和しか知らない私からすると、「醜陋卑劣なる我欲利己放縦安逸淫蕩驕恣」な状況は、正に今のことですかいっっ!!? 😭😅、と質問したくなりますが…。
 なんと言いますか、現在と全く同じ。否、今より更に最悪そうな昭和前夜の様子…。

 地元の小中学校では成績は常にダントツで、大正4(1915)年に故郷を離れて当時のエリート・コース「広島陸軍地方幼年学校」に転入した西田氏。3年後の卒業時の成績は首席で、「皇太子台賜の銀時計を拝受」、尚且つ卒業後に入学する予定の東京市ヶ谷台の陸軍士官学校中央本科では「第二皇子淳宮(あつのみや、=後の秩父宮)殿下の御学友」に内定してたそうです。エリート中のエリートで、外見もイケメン…。多分、相当嫉妬も多かった筈デス。。。この類の男の嫉妬とは本当に怖いモノデス…。😅😅

 西田氏は、大正11(1922)年22歳の頃に胸膜炎を患ってから長い闘病生活を送りますが、故郷で静養中だった西田氏は士官学校の同志から手紙を受け取りました。⇩

 「又福永から新たに仏領印度支那(インドシナ)の独立党首領の遺孤陳文安君を識り得たことを報じて来た。そは彼が同区隊の赤松一良氏の紹介によるものであった。上京面接の日を、余は愈々期待の思いに充ちた。」
                『戦雲を麾く』より

 「仏領印度支那(インドシナ)の独立党首領の遺孤陳文安君」とは、もうお気づきかも知れませんが、後の1939年にクオン・デ候が結成したベトナム復国同盟会の最重要幹部、陳希聖(チャン・ヒ・タイン)=元名陳文安(チャン・バン・アン、Trần Văn An)氏のことです。(詳細は先の記事を御一読お願いします。→『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第17章 ベトナム復国同盟会~
 
 陳文安(陳希聖)氏の父の名は、陳福定(チャン・フック・ディン)氏。東遊(ドン・ズー)運動の模範になろうと、1908年に渡日して、自分の息子(当時10歳)の養育一切を日本に居たクオン・デ候に預けたのです。

 史実によれば、陳文安氏の日本帰化名は『柴田(しばた)』です。
 そうならば、「小学校から大学まで全く日本人と同じ教育を受け、早稲田大学を卒業した後で支那に渡り、漢口、北京で日本語教師を経て、1938年には天津市行政府の外交課長職に就いて」いた柴田氏(=陳文安氏)は、元々からその他大勢の東遊留学生とは一線を画していた事が判明します。
 ベトナム留学生は皆『東京同文書院』或いは『振武学校』に入学したが、彼だけは日本の小学校から早稲田大学へ。そして、1938年の天津市行政府の外交課長職。要するに、一貫して日本人として日本の重要機関に身を置いていた(=学んでいた)のです。当然、そのキャリア・デザインを描いたのは養父のクオン・デ候しかいませんね。クオン・デ候が如何に遠望深慮で英邁だったかが判ると思います。
 本当に、戦後日本の識者による『愚昧なベトナムの皇子』の誹謗中傷の如何に根拠薄弱で馬鹿げていることかっ。😠😠😠

 西田氏の自伝に戻ります。
 病躯を忍て、卒業試験の為に上京した西田氏は、陳文安(チャン・バン・アン)青年に会いに行きました。
 「余は福永、平野と共に安南の志士陳君を江戸川橋の近くに訪うた。君は父君独立革命の首魁として刑死に遇いし以後、柏原文太郎氏に救われて七歳の時渡来し、その庇護の下に昨年早大法科を終えし26歳の偉丈夫であった。座に亡き父君の股肱と頼まれし五十に近き丈夫児が連なっていた。」
               
『戦雲を麾く』より

 クオン・デ候自伝によると、この頃は日本に戻り東京大森区に滞在していたので、多分一緒に座に居たのはクオン・デ候でしょう。でも、この頃36歳位の筈。苦労したせいで実年齢より老けて見えたのかも…。
 
 西田税氏は、こう続けます。⇩

 「二人は交々安南における仏国の到らざるなき苛酷の圧政を訴え、鉄鎖に繋がるる同胞の悲惨なる奴隷状態を泣いた。そして革命運動常に失敗に終わることを嘆いた。
 余等また泣いた。そして運動の方法を質した後、余は言うた。
 「貴国人の運動が常に失敗するは、交通不便なる山地に立て籠る匪賊的行動なるが故であると思わるる。
 革命とは組織の変更である。
 故にその運動たるや多く首都において一挙に政治的首脳部の転覆ーー組織の変更を原則とす。しかるに最初より全然辺境山地に拠らば貴国の現状の如く、吾れに兵器なくして敵に最新式の武器あり、巨砲一発ほとんど潰滅に帰せん。革命戦はもとより精神的のもの、武器を把るとき、そは必然暗殺を以て終始するのみ。首都において一挙政府の大官を仆し、権力発動の官所を奪い交通機関を占領するが如きことを、成功至心の要訣とすべし云々」
 その夕べ、江戸川に沿う一支那料亭の階上に晩餐を共にし、再び相逢うべからざるかの薄縁を惜しんで、固く固く手を握り合うた。」

             『戦雲を麾く』より

 もし西田氏が、『仏印武力処理』、通称明(マ)号作戦という奇襲作戦が大成功した1945年3月9日にまだ生きていたら…。何と言ったでしょうね?
 大都会サイゴンのど真ん中で奇襲作戦に成功しても、何故か日本軍(のある派閥)は、仏印利権は戦利品だと云わんばかりにその争奪に熱中してクオン・デ候の帰国を阻止したんですから。もし西田氏があれを見たなら、
 ”醜陋(しゅうろう)卑劣なる我欲利己放縦安逸淫蕩驕恣などの邪悪”
 だと、一蹴したに間違いなく…。😭😭

 陳文安青年とクオン・デ候との会見後のことを、西田氏は書いています。⇩

 「その後陳君は、余等都を去るとやがて後を追うて西し、海を越えて漢口に行いた。十月、安南に革命起こると新紙に知り得たが、詳細は知る由なく、余は直ちに北韓に筆をとって、漢口に郵送した。12年正月、年賀と改名とを通知に接したが、その後沓として消息ない。」

 この⇧「十月、安南に革命起こる」とは、クオン・デ候自伝の第12章にも詳述がありますが、第11代皇帝維新(ズイ・タン)帝の詔勅による中部クアンガイ・クアンナムを中心に起こった大きな武装蜂起でした。18歳の若き皇帝は捕えられインド洋の仏印植民地レ・ユニオン島に流罪になりました。
 
 「陳君を訣るる時、彼は秘密出版の『越南(えつなん)義烈史』を数部寄贈して、「どうぞ、日本の人々に同胞の苦痛を伝えて下さい」と言うた。余は同人に頒ち、一部を満川氏にも贈り、更に一部は秩父宮にも秘献した。」

 以上が、西田税(にしだ みつぎ)氏が24歳の時に書いた自伝『戦雲を麾く』の中で、ベトナム志士との想い出を綴った文章です。

 ここで、何故に病床にあった西田氏へ、同志から「仏領印度支那の志士と識り合った」と報告を寄越したのか? 背景を考えれば、大正7(1918)年頃に既にこのような思想だった為だと思います。⇩
 
 「余はつとした動機より、当時流行の大本(おおもと)教の解剖をなした。そして世界の改造、日本の改革を、余の私見を加えて説いた。けだし当時余は帰省の度に故郷の在郷将校より入信を勧められ、自身もまた多少書に就きて研究もして居たのである。加うるに、余一流の強弁を以て国家内外の紛糾多難を説き余が心願たる国家改造を論じ、しかして余が究意の志望たる亜細亜大陸への進展を叫んだのだ。」
                『戦雲を麾く』より

 大本(おおもと)教を研究し、「欧州戦後の淫蕩嬌恣放縦」の日本国内の堕落を憂い、「日本改造、亜細亜復興を心願」とした真面目な熱血青年でした。だからでしょう、自伝には印度人志士ラス・ビハリー・ボース清朝粛親王の第23子憲原王、巴布札布将軍の遺孤ら、騎兵科留学生だった張寿枌との親交も書いてあります。

 ところで、私はこの自伝文章を読んだ時、「そうか、これか。。。」と気が付いたことがあります。
 ベトナム東遊運動留学生は、1908年に日本政府の出した解散命令により8名を残して帰国、或いは海外に散らばりました。それ以後は貧乏のどん底生活、味方だった同志も多くがフランスに寝返って、ベトナム革命党は風前の灯でした。それが、突如として俄然猛烈に、クオン・デ候を中心とした志士達が息を吹き返し活発に活動を開始したのが、『ベトナム復国同盟会』結成前夜の1937年2月頃なんですね。
 1936年2月に『2.26事件』
    →陸軍統制派が台頭して支那事変(1937年7月)

 
 推論ですが、陳文安氏もクオン・デ候も、西田氏のことを片時も忘れたことがなかったと思います。
 仏領インドシナ人に無関心だった当時の日本社会で、アジアの国ベトナムの苛酷な実情に目を向け、話を聞き、その惨状に一緒に涙してくれた西田氏の行動は、それだけでもベトナム人志士を感動させた筈です。
 その西田氏が『2.26事件』の思想的リーダーとして処刑されたと知った時の陳文安氏やクオン・デ候の脳裏には、それまで反体制罪で逮捕され次々と処刑されて行った何百何千もの無辜のベトナム人同志達の顔が蘇ったことでしょう。
 元々ベトナム人は、非常に義理難いのです。

 柴田=陳文安(陳希聖)氏は、
 1938年、ベトナム復国同盟会の外交部長就任
 1940年、
中国南部駐留の日本軍部と直接交渉を行う復国同盟会広東駐在代表、そして、ベトナム建国軍を創設。

 私はクオン・デ候自伝の翻訳作業中、この時の彼の重責、重要任務に耐え得る強い意志はどこから来たのか…と、ずっと引っかかってましたが、多分この時、救国運動に身を捧げ死んだ実父の姿と共に、目に焼き付いた真面目で誠実な22歳頃の西田氏の涙が、陳文安氏を奮い立たせていたのではないかな、と思います。

 何故そう思うかは、西田氏が『越南義烈史』を秘献したという秩父宮殿下との会話の中で、当時の日本、ベトナム、そして世界の『共通の敵』とは一体誰なのか何なのか…、を明確に語っていたと思うからです。⇩

 「「日本の無産階級は果たしていかなる思想状態にあるか」とは宮が余に尋ねられし一句である。余は奉答した。
 「我が国のいわゆる無産労働階級は、極度に虐げられてその生活巳に死線を越ゆる奴隷の位置にあり。そは国民の大多数なると共に、彼等は一部少数の特権階級資本家のために天皇の御恩沢に浴し得ざる窮状に沈淪せり。
 …明らかに見る、同盟罷業や普選運動が常に失敗に帰する如き。しかもそれ等は皆、一部の主義者策士共の利の為にする煽動によりて妄言濫動を敢えてすることに原因せり。
 …国民の大多数を占むる無産労働階級と天皇とは離るべからざる霊肉の関係にあるもの。そが敵は日本を毒する外国と国内に巣くえる特権階級資本家どもなり。」

        『戦雲を麾く』より  

 もう少し細かく言えば、「一部少数の外国と国内に巣くえる特権階級資本家ども」とそれらの金に操られた売国利権政治屋・軍閥屋・官僚屋ども、でしょうか。。

 えーと念の為、現代じゃないですよ、大正〜昭和の日本。(の筈😅)

 私見ですけど、西田税氏は、国粋主義者とか国家改造主義者とか、国家反逆者とか、何故かおどろおどろしい数々のレッテルを貼られてますが、本当は現代語で言う大正昭和の元祖反グローバリストじゃないのかな。。
 


 
 

 

 
            
 

 




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