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『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第12章 日本再入国~

 クオン・デ候は北京を離れ、再び日本へ戻る事に決めました。

 住居は、東京の大森区。中国人学生、林順徳(りん・じゅんとく)として犬養毅、柏原文太郎らと以前同様に親しく交際を続けました。

 時は丁度、欧州大戦(第一次大戦)頃。
 この章でのクオン・デ候の証言から浮かび上がるのは、完全に西洋列強によってメディア・コントロールされた当時のベトナム国内のこんな姿です。⇩ 
 「(フランスは)当時、ベトナム国民へ向かってこんな宣伝をしていたのです。
 ”フランスがドイツを叩くのは、真に正義、人道の為だ。ベトナム人民は、安心してフランスに忠誠を誓い給え。… ベトナムはフランスから離脱するどころか、日本の手に落ちるのを逃れ得ない。日本は、 列強国のアジア植民地を虎視眈々と狙っているのだ。青島占領が良い証拠だ!”
 フランスは、日本が如何に残虐非道な国家かとあらゆる宣伝を駆使し、ベトナム国民に恐怖を抱かせてフランス依存へ仕向けました。」

 この頃から既に、”残虐な全体主義国家(ファシズム)日本・ドイツ”のレッテル貼りをしてベトナム庶民を怯えさせ、”フランスの方がまだマシらしいぞ…”と、思い込ませていたというのです。
 自国メディアが完全に敵国の傘下に収められている植民地政権下では、いつも『飴とムチ』の手口で創造された恐怖に翻弄され、振り回され、税を搾り取られ続けるのが庶民…。
 なんだかいつも、このワン・パターン😭

  
因みに、日本軍『仏印進駐』前、台北無線電力伝送局でベトナム国内向けのベトナム語放送を開始した主な理由が、この頃のフランスによる洗脳(日本=ファシズム国家)による誤解を事前に解いておく必要があった為だそうです。

 
では庶民はさて置き、ベトナム人知識層へは、そんな『子供騙しの手口』は使えないでしょう。官僚・エリート知識層に対しては、一体どんな手口を使ったというのでしょうか?⇩

 「…そんな宣伝文句は必要なく、直接に金銭、利益、高位官職で籠絡し、その栄華富貴の前にその者らは、諾諾とフランスへ忠誠を誓ったのです。」
 ・・・・😅😵‍💫😅😵‍💫😵‍💫😵‍💫
 
駄目だ、こりゃ。。。(笑)

 1916年頃、フランス国軍として欧州戦線に投入される予定でクアン・ガイ辺に集結していたベトナム兵と義民が合流し、第11代皇帝維新(ズイ・タン)帝を推挙して大きな抵抗蜂起が起こりました。
 しかし、蜂起は鎮圧されて、皇帝は仏領植民地のレ・ユニオン島へ流罪となりました。

 この頃クオン・デ候は、広東の獄舎を脱獄して北京に居た潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と再会します。
 段祺瑞(だん・きずい)
から当時の国務総理だった靳雲鵬(かく・うんほう)を紹介された2人でしたが、結局ベトナム援助を得る事はできませんでした。 
 
(1915年5月頃~1919年頃) 



** 第12章 日本再入国 **

 
 北京を離れようと決め、さて何処へ行こうかと考えた時、私にとって日本より良いと思える国は他にありませんでした。

 1909年(明治42年)10月末に、日本当局の強制退去処分を受けて日本を離れたとはいえ、日本がフランスとの外交慣例上そうせざる得ない状況だっただけで、私個人に何か問題があった訳では無かったのです。
 日本を出国したばかりの時は唯冒険心に勝り、日本を捨て四方何処にも寄辺 の無い己の身上を想って、何とはなく感傷的な心持ちになりました。
 だが、それから6、7年間も様々な場所を訪れ経験を得たことで、自己の見識が広がり、世間の荒波の中で多くの事を学んだのです。人生とは実際、不幸な出来事の中で思い掛けなく幸運に巡り合うこともあるのだと。

 6、7年日本を遠く離れていたにも拘わらず、心の中で常に日本を懐かしく想い出していました。
 地球面積半分に匹敵する地域を訪れて、ベルリンやロンドン等、 物質文明が高度に発展した場所もこの目で確かめたけれど、日本の生活より心地良いと思える場所は何処にも無かった。加えて、もう何年も彼方此方と奔走し、艱難辛苦の連続だったせいか、少し休息を取りたいと考えた時に日本以上に良いと思える場所は無く、そのために私は一旦東京に戻ったのです。
 
 その頃、日本に残っていたベトナム人留学生は、黄廷遵(ホアン・ディン・トゥァ ン)、陳有功、黎仲伯(レ・チョン・バ)、黎余(レ・ズ)、陳文安(チャン・バン・ア ン=陳希聖 チャン・ヒ・タイン)、陳文書(チャン・バン・トゥ)、黄文己(ホア ン・バン・キ)他数名で、皆中国人留学生として学校に通っていました。
 私も、日本では中国名林順徳(りん・じゅんとく)を名乗ります。住まいは、東京の大森区。犬養毅氏、柏原文太郎氏ともまた以前同様親しく交際を続けました。

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