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クオン・デ候を”南一雄(みなみ かずお)君”と呼んでいた 大川周明(おおかわ しゅうめい)先生のこと

 『大川周明(おおかわ しゅうめい)』でネット検索すると、大体こんな人物情報が出て来ます。⇩

 「1886年山形県酒田市生まれ。熊本の第五高等学校から東京大学文科哲学科へ進学。1918年南満州鉄道入社。東亜経済調査局勤務、1920年から拓殖大学教授兼任。
 5.15事件で禁固5年の有罪判決。1945年日本敗戦により、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯指名され、巣鴨刑務所に収監。しかし、収監中に乱心したため精神病院に入院し、その後精神鑑定の結果、昭和23年暮れに不起訴、釈放された。
 釈放後は、神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、昭和32年12月24日に死去した。」

  大川周明先生の勤め先だった満鉄の東亜経済調査局。その『付属研究所』-通称『大川塾』に関しては、先の記事「仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のことに少し書きました。😌

 日本に亡命していたベトナム国皇子クオン・デ候の通称は、既に何度か書いた通り『南一雄(みなみ かずお)』でして、岩崎学術出版社の『大川周明日記』には、この『南一雄君』の名前が度々登場します。⇩

 「午後、研究所に粕谷哲策君及び南一雄君来訪。」(昭和15年1月14日)
 「夕 南君来る。相携えて花蝶に至り渡辺君の馳走になり且つ両氏を紹介す。」 (昭和18年1月16日)
 「仏印より南一雄氏への最初の送金一万余円を外務省より受取りて同君に手交す」(昭和18年1月21日)

 この時期⇧は、大川塾第一期卒業生が其々就職先のアジア各国へ飛び立った前後です。 
 卒業生を受け入れた松下光廣(まつした みつひろ)社長の大南(ダイ・ナム)公司は、ベトナムを中心に東南アジア全域で大躍進中
 第2次近衛文麿内閣成立で、外務大臣松岡洋右(まつおか ようすけ)怒涛の外交戦略が世界を湧かせる中、中村明人中将が第5師団師団長就任で南寧作戦からドンダン・ランソン進攻(1940年)へ。
 そして、ベトナム復国同盟会『ベトナム建国軍』を創設し、日本軍の先鋒を務めて共に中越国境の鎮難関(ちんなんかん)を越えたのです。
 そして、日本軍が『仏印進駐』(1940年)しました。
 クオン・デ候やベトナム革命志士らは、どんなにこの日を待ち望んでいたことか。。。 

  私が自費出版した翻訳本⇒「ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 のあとがきには、日本軍『仏印平和進駐』(1940年)前後からベトナム人志士らが最も頼りにしたであろう日本人の一人として大川周明先生を挙げ、その理由と背景を考察してます。

 さて今日は、ベトナム史興味からスタートした私の大東亜戦争史探索の資料中でいつも優しい慈父のような大川周明先生の、その素顔に触れる記述をあれこれ繋ぎ合わせてみたいと思います。

 素顔。。。ズバリ、大川先生はどんな風貌でどんなルックスだったのか?? それをとても詳しく書いてある文章がこちら。⇩

 「彼はひょろりとした長身で、痩せた両肩にひどく小さな頭が載っかっていた。戦後の言葉で言えば八頭身的である。(中略)…日本人離れの八頭身であるうえに、鼻は高く、唇はうすく、顔色は浅黒かった。(中略)
 …内心この男はカラス天狗みたいだとか、インド人に似ているなど、よしなしごとを考えていた。(中略)
 …大川の印象は、…身だしなみのよい英国型の紳士であった。」

     青地 晨論文『大川周明と「アジア解放」』

 これ⇧は、『近代日本を創った百人 下』(毎日新聞社、昭和40年)の中の元『中央公論』記者の方の論文です。昭和15.6年頃に雑誌のインタビューで東亜経済調査局で会った大川先生の印象だそうです。

 大川先生は山形県酒田市出身、しかも、この地に在って『大川家』は、
 「足利時代の昔から私の父の代まで、連綿として代々医を業とし、先祖の二、三は日本医学史の上にその名を留めて居る」
           大川周明著『安楽の門』より

 ご本人がこう仰ってる様に、正真正銘の、純粋の日本人です。しかし、このご風貌は、、、??😅😅
 この⇧青地元記者の記述を読んだ私は、”あっ!”と、合点がいったことがあります。それは、大川先生がご著書『安楽の門』に書いていた、日本留学中のインド人革命家ヘーラムバ・L・グプタ氏との偶然の出会いの場面。⇩

 「大正四年初秋の美しく晴れたある日の午後のことである。私が帝大の図書館を出て、構内を赤門の方へ歩いて居ると、一人の印度人がつかつかと歩み寄って、英語で「貴下は日本人ですか」と訊ねた。まことに無礼な質問ではあるが、相手の印度人の風貌態度に、妙に真剣なところがあったので、私も至極真面目に「純一無雑の日本人です」と答えた。」

 。。。🤣🤣 グプタ青年は、絶対に大川先生のことを『あっ、同じインド人だ!!』と信じて疑ってなかったんでしょうね~。(笑)
 大川青年の返答も飄々として最高だ。。。こんな面白い偶然の出会いから友人になった二人でした。
 『安楽の門』によれば、此の年11月に日本政府が発した印度人追放令を受けグプタ青年や友人タゴール青年(ラス・ビハーリ・ボースのこと)はお世話になった人々へ別れの挨拶廻りをしましたが、この時に同行した刑事の目を眩まして玄洋社の頭山満翁自宅をすり抜けると、待機していた杉山茂丸翁の車で真直ぐに新宿中村屋に到着し匿われたそうです。
 ある日グプタ氏が、新宿中村屋を抜け出して大川氏に会いに来たことで、頭山満翁と面識を得ることになった大川氏は、⇩

 「私の生涯を幸福にしてくれた三人の先輩のうち、押川先生・八代大将と(中略)そしていま一人の頭山満翁に親炙するようになったのは、これまた全く予期しなかった出来事のためで、この時に仲保者として姿を現したのは一人の印度人である。」

 こんな風に⇧書いています。
 ベトナムのクオン・デ候も、ひと頃この新宿中村屋に下宿してたためタゴール青年とも面識あり、それならもしかして、この頃に大川周明氏とも既に知り合ってたかも。。。とか想像したりします。。。

 さて、戦後日本教育の『自虐史観』で語られて来た大川周明先生は、気難しい思想家、怖い右翼革命家、そんな人物像ばかりで近寄り難いです。
 しかし、私は成人過ぎてからの『ベトナム抗仏史』が入口で、全く先入観がなかった(←学生時代の成績全く振るわず…(笑)😅😅)ので、その為でしょうか、大川周明先生のイメージは本当に優しくてユーモア溢れ、人間味があり慈悲深い人。。。です。⇩

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 「大川周明は慈父のような姿を見せた。二代目寮長・椋木瑳磨太は戦後、ある講演で彼の親心を示す逸話を紹介している。

  (大川)先生は夜中に相当ご機嫌で自転車を(寮に)乘りつけて上がり込まれるのです。私は
   『帰ってください、学生は皆静かに寝ていますから、帰ってください』とお願いするのですが、先生は駄々をこねられまして
   『一目でいいから学生に逢わせてくれ』と仰られ、私は仕方がないから学生の寝室に先生を案内します。すると
   『これは誰かい』
   『誰誰です』というふうに一々先生は学生のベッドを覗き込まれ、如何にも嬉しそうに納得されて、自宅に帰って行かれたことなどを思い出します。(大川周明と出会った拓大人)」

     玉居子精広氏著『大川周明 アジア独立の夢』内、大川塾二代目寮長だった椋木瑳磨太著『大川周明と出会った拓大人』より

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 「昭和24年、(中略)勝彦はすぐに神奈川県・中津村の大川周明の自宅に”内弟子”として住み込むことになる。15歳の時だった。
 …大川は説教じみたことや、細かなことは一言もいわない。(中略)勝彦にとっては『優しいおじいさん』だった。大川は月に一、二度、東京に出ると、必ず東京温泉に立ち寄り『お父さんは元気だったよ』などと、氏利の近況を話してくれた。」

     牧久氏著『特務機関長 許斐氏利』より
    (許斐氏利氏の長男勝彦氏の回想による文章)

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 ところで、大川周明先生の晩年の著書『安楽の門』は、自伝的ですが純粋なる自伝ではありません。
 「『安楽の門』とは宗教のことである。この小著は私の宗教的生活の回顧であり、」と、冒頭でご本人がこの様に書いてる様に、
 「人間はどうすれば安楽に暮らせるか。私はこの問題に答えようとするのである。(中略)人間が貧富貴賤を問わず、短命長寿を問わず、順境逆境を問わず、どうすれば安楽に暮らせるか」、この問題を考えた時、
 「私は自分自身の生活を顧みて、甚だ安楽に暮らして来たことを欣ぶ。私の永年の行路は、必ずしも平坦砥の如きものであったとは言えない。それにも拘わらず私は、常に心の底に安んずるところあったために、無事長程を踏破して、今日なお安楽に歩み続けて居る。私は、何が私にこの安楽を与えたかを省みながら、ひとり私のみならず、人間はどうすれば安楽に暮らせるかを知ろうとするのである。」

 そうして、「思うがままに道草を食いながら、…友人の義理懇情にほだされて書き終えた、…回顧録とも随想録ともつかぬ閑文字である。」と冒頭文に書いて、日付は「昭和26(1951)年6月」になっています。

 。。。あれ、、でもちょっと変だと思いませんか。。。??😅😅😅

 東京裁判に出廷中、前に座っていた東条英機氏の頭を叩いた奇行。A級戦犯で巣鴨刑務所拘留中に乱心して精神病院に移されたとか。梅毒による精神障害と診断されたとか。そんな事ばかりにスポットが当てられ続け、戦後80年経った今でも、未だ『戦争犯罪人になって発狂した不遇な人』との印象を受けるがままの状態でずっと放置されてます。

 けれど、そんな人が釈放されて自宅に帰った後で『安楽の門』のような文章が本当に書けるのか。。。全然腑に落ちないので、この『乱心=精神病』を患った部分の真相を突き止めたいと思います。😌😌
  (以下、『安楽の門』より) 
 
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 …私は貧苦の生活経験が無い代りに、三度刑務所に入った。最初は未決で市ヶ谷刑務所に一年有余、二度目は既決囚として豊多摩に一年半有余、三度目は巣鴨に約半年である。
  …元来私の体格は、身長だけが抜群に高いだけで、骨組は極めて粗末であるから、(中略)産婦人科以外の病気にはほとんど罹らぬものがない。しまいには世間周知のように精神病まで患って、アメリカ病院、東大病院、松沢病院を転々した。
 東大病院の精神病科の私の主治医は、ある雑誌に、私の脳細胞が尽く破壊し去られたかのように発表して居る。これは私の精神病が決して治らぬものと確信したからのことであろう。…これを読んだ人々は、もはや私は生ける屍となりはてたものと信じたであろう。 
 しかるに私の肺結核が、何の養生もせず、全く薬を服まずにいつの間にか愈ったように、私の精神病も知らぬ間に治って了った。

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 要するに、精神病は完治してたのです。
 治癒の経過も詳細が書いてあります。⇩
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 さて私は乱心の結果、昭和21年5月上旬、巣鴨刑務所から本所の米国病院に移され、6月上旬にそこから本郷の東大病院に、そして8月下旬には更に松沢病院に移された。この数か月の間、私は実に不思議な夢を見続けた。私はその夢の内容を半ば以上は明瞭に記憶している。
 しかるにこの夢は、松沢病院に移るとほとんど同時に覚めてしまった。夢が覚めたということは、乱心が鎮まったということである。(中略)
 もっとも数か月にわたる長い白昼夢のことであるから、覚めた当座は現実と夢幻との境が判然しなかったが、翌昭和22年の初春には、丁度二日酔いが綺麗に醒めたように、私の精神は全く常態に復った。

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 再び米国病院に移された大川先生は、精神病科の主任による綿密な精神鑑定を受けましたが、半月に亘ったメンタルテストの診断結果表にはこのように書いてあったそうです。⇩

 「The prisoner spoke English freely during all interviews. ….Intelligence is far above average. ….He speaks with excellent logic on nearly every subject brought out for discussion. …He is able to differentiate right and wrong. …  」

 精神科医の診断書がこんな内容なので、大川先生は一旦松沢病院に帰ってから遠からず巣鴨刑務所に戻るもの、と信じていたそうです。それが、何故か4月に「精神病者たる故を以て裁判から除外されたと通告された」のでした。 。。。連合国側は何を考えていたのか…、この文章から何となく理由が想像出来ます。⇩

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 私は国際軍事裁判は決して正常な訴訟手続きではなく、軍事行動の一種だと考えた。日本の無条件降伏によって戦闘は終止したが、講和条約が調印されるまでは、まさしく戦争状態の継続であり、吾々に対する生殺与奪の権は完全に占領軍の手に握られて居る。わざわざ裁判を開かなくとも、占領軍は思うがままに吾々を処分することが出来る。(中略)
 しかるに国際軍事裁判という非常に面倒な手続きを取ろうとするのは、そうした方がサーベルや鉄砲を使うよりも、吾々を懲らしめる上に一層効果的であると考えたからに他ならない。
 
 
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 『大川周明、悲運の境遇の果てに遂に発狂!!』メディア・ニュースで流した方が、『A級戦犯で刑務所に収監』より日本国民に一層ショックを与えるベターな選択だ…、と連合国占領軍は判断したのかな。。。😅 
 しかしです、、、、⇩

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 しからば、私は松沢病院の二年有半をどうして暮らしたか。私は刑務所でそうであったように、ここでも安楽に且つ有益に暮らした。世間の嘲笑、悪罵、憐憫ないし同情をよそに、私は何の苦労もない月日を送ったのである。(中略)
 有難いのはそんなことだけでない。敗戦日本を吹き捲くった政治的、経済的の大嵐に、正直な人間はおおむね窮乏貧困のどん底に叩き込まれ、(中略)かような次第で病室は私のために有難い書斎となった。
 私はこの書斎に古蘭(コーラン)原典と、十種に余る和漢英仏独の訳本を自宅から取り寄せ、昭和21年12月1日からこれを読み始めた。

 
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 要するに、塀の外へ『脳細胞が破壊された狂人』と発表されてた期間中に実は『乱心』が完全に消え、「当時は日本人全体がほとんど残らず飢餓線上を彷徨していた時代」と言われる中にあって衣食住が保証された静かな書斎(=独房)で、『古蘭(コーラン)』和訳に打ち込む機会を与えられたと言うのです。
 しかし、何故、『古蘭(コーラン)』だったのでしょうか。。?⇩

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 それは、私が乱心中の白昼夢でしばしばマホメットと会見し、そのために古蘭に対する興味が強くよみがえったからである。
 私の病気は私の理解力に何等の影響も及ぼさず、以前に読んで難解であった個処も、この度はその意味が明瞭になったところが多かった。(中略)
 松沢病院の病室は、書斎としてまことに申し分なく、そこで私は多年の宿願であった古蘭和訳を成就したことは、叙上の通りであり、(中略)この見えざる力の加護の外に、見える力のお蔭があったことを述べずに居られない。

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 これで、すっきりしました。😊😊
 要するに、『乱心』の正体は数か月も続いた『白昼夢』でした。その夢の内容は『マホメットとの会見』だったのです。。。

 その様子を見た看取らはびっくりして精神科医を呼んだでしょう、精神科医の鑑定結果は、当然『精神病』。(←だって、精神科医だもの。。。🤣)

 なるほどーー。A級戦犯になって”ションボリ😞”するのが普通なのに、刑務所で寝ぼけて、”今、マホメットと話してました…”なんて言う中年男性…、
 『ついに、狂った……。』
 と思われても不思議ではなかったのかも。。(笑)😅😅

 しかし、結局白昼夢が途切れた後、「覚めた当座は現実と夢幻との境が判然しなかったが、翌昭和22年の初春には、丁度二日酔いが綺麗に醒めたように、私の精神は全く常態に復った」とご本人が言い、現実に「以前に読んで難解であった個処も、この度はその意味が明瞭になったところが多かった」というのだから、多分それは夢ではなく、本当にマホメットが時空を超え日本国山形県酒田産の大川周明先生に会いに来て、こっそり色々教えてくれたのだと思いませんか。。。😌😌

 先の記事ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~ 櫻澤如一氏の仏領インドシナ訪問と不思議な体験の話 ~でも、既に死亡した恩人と不思議な夢で会話した櫻澤如一(さくらざわ ゆきかず)氏が、

 「心霊は、本質的に時間と空間を超える性質を持っていると思う。我々人間の精神は、同じく、無境の空間と無尽の時間の中を自由に好きなように移動する事が出来ると信じる。たとえ、時間という厳重な鎖や空間という型に、囲い込まれ押し込められ固定されていても。
 精神は全てであり、肉体とは天地自然に共鳴するその単なる一部分にしか過ぎない。」

 と、こう言っている様に、私も、「精神は多分、時間も空間もふとしたきっかけで制限が外れ自由になって、お互いに交流可能なのかもなぁ、、」と最近本当に信じる様になった一人です。。。😌😌

 

 


 
 

 
 


 
 

 

 
 


 



 

 

 

 

 

 
 

 

 

 
 
 
 
 

 

 

  
 

 
 

 

 
 

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