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仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』陸軍大臣・東條英機のこと その(1)

 ベトナムに永く住みましたお陰で、いつからかベトナムの仏領インドシナ連邦当時の歴史探索が趣味になりまして、先日、こちら→仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』外務大臣松岡洋右のこと その(1)|何祐子|noteの記事を投稿させて頂きました。仏印と日本、と言いますと、やはり、1940年の日本軍による平和進駐が最も大きい事件かと思います。この仏印平和進駐の時の内閣は『第2次近衛文麿内閣』、外務大臣は松岡洋右氏。そして陸軍大臣は東條英機氏ですから、やはり、仏印史に興味のある私にとりましては『仏印平和進駐時の陸相』『第2次、第3次近衛内閣の陸相」、それが東條英機氏です。

 ですので、東條氏(以下敬称を時々省きます)は仏印進駐の頃何をやっていたのかな?という素朴な疑問だけで調べ物をした経緯で、仏印に纏わる事柄だけ拾ってみます。拾う、、となると、どこから拾う?という問題がありますが、特にこの東條英機については、戦前戦後と沢山の軍人・史学研究者・作家等々の大先生方が、回想録を書き、証言をし、お調べになって沢山の本が存在しています。けれど、ご本人による『手記』でも、例えば、近衛文麿氏の『近衛手記』に関して当時の外務顧問だった斎藤良衛博士は、ご著書『欺かれた歴史』の中で、「『日米諒解私案』を巡り松岡洋右が日米交渉を妨げた事実はどこにもない」と擁護した上で、『近衛手記』の記述に関してこう述べています。⇩
 「私は、この文章を読んで驚いた。獄中にあって松岡も、これを読んだとすれば、私同様あまりに事実に相違するのに、驚愕を禁じ得なかったであろう。」
 旧会津潘ご出身の斎藤博士が、『驚愕』という言葉を使ってらっしゃるのだから、全く天と地が逆さまだという意味かと思います。しかし、この『近衛手記』自体が近衛文麿氏自死後の発刊ですので、『これ、本当ですか?』とか、『本当にご本人が書きました?』とか直接聞くことも出来ず終いですので、私の様な普通の主婦には正誤を判断するのは難しい事です。
 幸い、とは言い難いですが、東條英機に関しましてはお亡くなりになる前(東京裁判でA級戦犯として絞首刑です。。)裁判に提出された、ご本人による『宣誓供述書』がありますので、こちらから拾っていくのが最も安全かと思います。この宣誓供述書の日付は、1947年12月26日です。

 さて、東條英機のキャリアは如何に、、、と宣誓供述書を開きますと、意外に、、、正直、パッとしたものが無いです。(←あくまで私個人の印象です。)1936年は関東憲兵隊司令官、37年頃は関東軍参謀長を歴任しますが、華々しいご活躍でもなさそうです。色々な場面で『堅物』『秀才』『くそ真面目』と評されている東條氏は、『そんたく下手』に違いないことを想像すると、組織内での出世は中々難しかったろうと想像します。
 ですが、突如としてスポットライトが当たった時、それが第二次近衛内閣の陸軍大臣としての入閣要請でした。当時満州に出張でしたが急遽東京に呼び戻され、1940年7月22日に陸相として政治の中枢に一躍飛び出します。ここから1944年7月22日に東條内閣総辞職で官職を免じられて予備役となるまでが、政治の中枢に居た最もパッとするご経歴のように私には感じられます。やはり、ご本人も同じように「私は1940年7月22日に、第2次近衛内閣成立と共に其の陸軍大臣に任ぜられる(当時陸軍中将)迄は、一切政治には関係しませんでした」とのこと。ですから、『先ず私が初めて政治的責任の地位に立つに至った」時期を、明確に第2次近衛内閣成立時と供述されてます。第2次近衛内閣入閣直後に始まったこと、それが『仏印平和進駐』でした。
 
 北部仏印進駐は、名目上は『援蔣ルート遮断の為の監視団派遣』でして、その前からの『日華(日支)事変の解決』が目的です。『日華事変解決』が、1937年から引きずっていた当時の日本の最重要課題ですから、結局北部進駐は作戦上必須だと、結構前から考えられていた筈ですね。そうであれば、「おーい、そろそろ仏印進駐するから陸軍大臣頼むでー!」とでもいうようなタイミングの陸相就任でして、やはり東條氏もご自身で「当時支那全土に排日思想風靡し、殊に北支に於ける情勢は抗日を標榜せる中国共産党の脅威」等々があり、「仏印進駐は「統帥部」の切なる要望」だったと供述されているのもなるほどなと思います。
 
 ここで、話は逸れますが、この『統帥部』です。
いやいや、今更、、と思われる方もいらっしゃると思いますが、(多分)元々の私のように歴史オンチといいますか、この辺りの仕組み理解が曖昧な日本人の方も実は多いのではないかと思います。東條英機が、『宣誓供述書』内でこれを実に上手に説明されていますので、私なりに纏めました。⇩

       陸軍           海軍
軍令組織: 参謀本部(報道部)  軍令部(報道部)
軍令トップ:参謀総長         軍令部総長
       (⇧作戦用兵の計画と実施)
軍政組織: 陸軍省          海軍省
軍政トップ:陸軍大臣(次官)   海軍大臣(次官)
      (⇧作戦決定、実施には関与しません。)

 陸・海両軍の『軍令組織』=要するに『部』が着く2つを合わせて『統帥部』です。統帥部の別名が『大本営』です。両方とも本部に報道部を持っていますので、これを併せたものが統帥部(大本営)報道部、要するにここが発表したものが『大本営発表』です。『大本営=統帥部』には『統帥権』があります。統帥権は、天皇陛下に直属しますので、天皇陛下以外は誰も口は出せません。これが『統帥権の独立』です。異論を唱えればそれは、『統帥権の侵害』です。
 ⇧簡単に纏めますと、このような感じになるようです。元々、統帥部は戦局や事態に臨機応変で設置されたそうですが、1937年日支事変以降は常設です。
 この理解が曖昧ですと、これ以後のことが全くわからない(以前の私のように。。。)と思いますので、ちょっと仏印から反れてしまいましたが、念のため載せて置きました。

  供述書は先ず、「翌7月19日午後3時より東京杉並区荻窪に在る近衛邸に出頭しました。」と、荻外荘での所謂『荻窪会談』に言及しています。「今後の国政を遂行するに当たり国防、外交及内政等に関し」意見の一致を見るために集まったそうです。この時近衛首相候補から、1「支那事変の完遂に重きを置いて行きたい」、2「政治と統帥との調整」、3「並びに陸軍と海軍との調和」に一層重きを置くべき事で「来会者(近衛文麿首相、吉田海相、松岡外相、東條陸相)は同感、意見の一致を見た」ということですから、当時の悩みの比重が、この『統帥権問題』に大きかったことが窺い知れますね。

 東條氏の『宣誓供述書』内容は、当然ですが第2次近衛内閣での陸相就任から1944年の官職罷免迄の供述です。ですから『日ソ条約』のこと、『三国同盟』のこと、『第3次近衛内閣に於ける日米交渉』等々重要な出来事の詳述の中に、勿論『北部仏印進駐』『南部仏印進駐問題』題名の供述があります。⇩
 陸相就任直後に「同年(1940年)7月27日の「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」」が決定します。『統帥部』の提案によるこの要綱の眼目は、やはり「支那事変解決」と、そして「南方問題解決」だったそうです。「やはり」と言いますのは、東條氏も当時の内外情勢は「重慶に対する米英の援助」「支那事変解決上の最大の癌」と表現してますように、この頃の日本にとっての最重要・要解決案件だからです。「そして」と言いますのは、色々な書物を読んでますと、元々日本軍部にとっての最優先は常に対ソ、満蒙・北支問題であり、南方問題には長い間興味を持っていなかったらしいからです。しかし、1930年代中盤頃から急に南方へ関心を向け始めた理由がこの、「対「ソ」国防の完璧、自立国家の建設」の為、日増し強まる米英の経済圧迫で重要物資が輸入不可に成る事を危惧した為、「南方の諸地域よりする重要物資の輸入により自給自足の完璧を見ることに依って解決」する。要するに、『統帥部』のこの7月27日付「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」の2大眼目のうち、この「南方問題解決」というのも、予ねてからの統帥部の希望がやっと通ったので、その栄えある執行者として選ばれ、誕生したのが「東條英機陸軍大臣」という流れの解釈がどうもすっきりする様な気がします。 

 それでは、先ず「宣誓供述書」の「北部仏印進駐」の項から行きたいと思います。⇩
 陸相就任早々、東條氏は「陸軍大臣として統帥部と共に」北部仏印進駐に関与し、「日本軍の少数の部隊を北部仏印に派遣し、仏印側へ便宜供与を求め」ました。これは、「元来この派兵は専ら対支作戦上の必要より発し統帥部の切なる要望に基づく」ということで、やはり予め決まっていた規定路線ですねぇ。これに対する仏印政府の動きはというと、⇩
 「前内閣時代である1940年6月下旬に、仏印当局は自発的に援蔣物資の仏印通過を禁絶することを約し」たので、「其の実行を監視する為日本より監視機関を派遣する」運びとなったそうです。勿論、『統帥部』からは「支那事変を急速に解決する為支那奥地作戦を実行したいとの希望を抱き、それがため北部仏印に根拠を持ちたい」という希望があり、この要望に応えた形で、松岡外務大臣が外務交渉を行った結果、「日本駐在の「シャール、アルセイヌ、アンリー」仏蘭西大使との間」に、「8月30日公文を交換し話合は妥結した」のでした。

 北部仏印進駐での、『森本中佐鎮南関付近越境事件』(背景だけですが、良ければこちらをお読みになって下さい。→仏印ドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その(2)|何祐子|note )についても言及しています。⇩
 「不幸にも其の(細目協定調印)前日たる9月5日に仏印と支那との国境にあった日本の或る部隊が国境不明の為に越境したという事件が起こりました。」
 東條陸相は、この事件を口実に協定調印を拒んだ仏印側の態度に対しては、「当時仏印当局の態度は、表面は「ヴィシー」政府に忠誠を誓って居ったようでありましたが、内実はその実偽擬はしきもの」だと観察していたそうです。
 この不可思議な越境事件発生により協定交渉は一時頓挫しますが、9月22日の午後2時までに「細目協定」が成立します。しかし、この時に第5師団陸路方面で戦闘が起こったことに関して、こう供述されています。⇩ 「然るに翌23日零時30分頃に仏印と支那との国境で日仏間に戦闘が起こりました。それは、当時仏印国境近くに在った第一線兵団(第五師団のこと)が南支那の交通不便な山や谷の間に分散して居ったがため、連絡が困難で22日午後2時の細目協定妥結を通知することが日本側の努力にも拘わらず不可能であったのと、「フランス」側に於いても、その通知の不徹底であったからでありますが、此の小衝突はその日のうちに解決しました。」

 因みに、第五師団は、鎮南関を越える陸路団と、海防(ハイフォン)から上陸するべく海上に西村兵団がありましたが、「北方陸方面(鎮南関のこと)で争の起こったのに鑑み海防港には入らず、南方の海浜に何等のことなく上陸しました」とのことです。

 この時の第5師団に対して、「不幸にして不慮の出来事が起こりましたが、之に対しては私は陸軍大臣として軍紀の振粛を目的として厳重なる手段を取りました。」と、森本中佐や中村師団長らへの処分に言及されています。
 「陸軍大臣として軍の統制を一の方針として居ったのに基づくもので、軍内部の規律に関することでありまして、之は固より日本が仏印側に対し国際法上の責任があることを意味したものではありません。」 と、どこまでも真面目一徹、仕事に一所懸命な東條陸相なんだなぁ、と印象を受けます。
 関東憲兵隊司令官勤務時代に起こった『2.26事件』でも、「この事件に関係ある在満在留邦人及駐満軍隊を通し、其の関係者容疑者を一挙に検挙し軍紀の振粛と治安の確立に尽力」したと説明していますが、考えたら、組織内にあって、そんな誰もが嫌がる嫌な任務でもてきぱきと迅速にこなして行く様子は、正に『官の鏡』といった感じです。もし私の働いていた同じ会社の同じ部署に東條さんがいたら、「ちょっと、これ頼むよ。。。」とトラブルは全部ふってしまいたくなる衝動に駆られたでしょう。。。

 『北部仏印進駐』に関して東條陸相は、「その方法は終始一貫平和手段に依らうとした」ものだとして、その証拠に「1941年12月8日、米国「ルーズベルト」大統領より天皇陛下宛の親書」の内容を挙げています。
 ⇩
「陛下の政府は、「ヴィシー」政府と協定し、これに依って5千又は6千の日本軍隊を北部仏印に入れ、それより以北に於て中国に対し作戦中の日本軍を保護する許可を得た。」

 その(2)は、『宣誓供述書』の『南部仏印進駐問題』項の供述から続けたいと思います。

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