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仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のこと その(3)

 その(2)からの続きです。

 ジュネーブ国際会議でインドシナ戦争休戦が決定し、親日家の呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏が南部の「ベトナム共和国」初代大統領としてアメリカからベトナムに戻って来ました。
 それを契機として、1956年春に松下光廣氏は再びサイゴンに戻り、「大南公司」を再建したのです。

 「…新政府の中枢には昔馴染みも多く、大統領官邸内もフリーパスだった。大統領のジェムにも必要ならいつでも会え、松下はジェムの私設顧問と見られるようになっていく。」
           『安南王国の夢』より

 松下氏は、「ジェムの権威を利用した”政商”といわれることを嫌った。」といいますが、同じ様に呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏も、1945年3月9日「明(マ)号作戦」後にバオ・ダイ帝の新政府首相で入閣要請を受けた時、或いは、8月15日の日本敗戦後に胡志明(ホー・チ・ミン)氏から北部臨時政府入り懇請を受けた時のどちらにも、頑として首を楯に振りませんでしたから、金とか利権とか名誉とか私欲…等、何処を調べてもこの2人からは微塵も出て来ないですね。。。😢

 ベトナムで再建した大南公司の戦後最大の商品は「日本の陶磁器」でした。戦前からの看板商品、瀬戸、多治見、常滑で作られた「大南監製」陶磁器は、インドシナ各地の人気商品だったそうです。
 日越共同出資の「永詔陶器公司(ダラット)」と「カナー塩田(ファン・ラン)」、「メコン・フィッシュ(大洋漁業と共同出資)」、「サンヨー電気組立工場」、「ホテル・オリガ(サイゴン)」、これ以外に旅行会社や日本航空の代理店にもなり、カンボジアとタイの支店網も復活。着実に復活した日本商社の大南公司は、サイゴン(現ホーチミン市一区)のビジネス街に6階建ての新しいビルを構えたそうです。

 「…日経支局があったグエン・フエ通りから一本西側のハムギ通りに面した3階建ての古めかしいビル。すぐそばに6階建てのまだ新しい「大南公司ビル」があった。当時としては界隈では目立った近代的なビルで、一階には日本から空輸された新聞を宅配するOCS(海外新聞普及会社)が入り、2階にはサイゴン唯一の日本レストラン「京」が店を構えていた。」
           『安南王国の夢』

 30年くらい前にベトナムにいらした駐在員の方なら、覚えているかも。なんとも懐かしい、「サイゴン」の呼び名がしっくり来る街でした。😊😊 この場所は現在の「HỒ TÙNG MẬU(ホー・トゥン・マウ)」通りの角地でして、今は68階建てのビテクスコビルがそびえ立つ再開発地区辺りですねぇ。。。

 日本の戦後ベトナム賠償問題でも、大南公司と松下氏の名前が国会で取り上げられました。
 「ベトナム共和国と日本の賠償問題は1951年のサンフランシスコ講和条約に端を発する。バオ・ダイ帝のベトナム国が対日講和条約に調印したことから、同国が日本に対する賠償請求権を持つことになり、これがゴ・ディン・ジェムのベトナム共和国に継承された。
 …岸内閣発足後の1958年6月、(中略)…総額5,560万ドルで妥協した。」  
『安南王国の夢』
 
 この賠償には、有名な「サイゴンの北東約250キロの中部高原地帯を流れるダニム川に水力発電所をつくる建設費」が含まれていました。当時の社会党などは、「日本、ベトナム両国で一部の人物が暗躍して利権を得ようとしている」と反発したらしいですが、大南公司事業部長(当時)だった山田勲氏が、この話は元々「…松下社長がゴ・ディン・ジェム大統領から発電所建設の相談を受けたことから始まった」と証言する様に、
 「…おそらく松下は、クオン・デらフランスとの独立戦争を戦ったベトナム人を支援し続けた日本人の例を挙げながら、政財界の要人に説き続けたのだろう。ダニム水力発電所の建設というベトナム賠償は、松下にとって個人的な利害を超えた、ベトナムと日本の双方の利益に繋がる大プロジェクトだったのである。」
         『安南王国の夢』

 阮朝の廷臣一族で、名家『呉(ゴ)家』出身だった呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏は、敬虔なカトリック教徒でした。クオン・デ候が最も信頼した同志の一人でもあり、「明(マ)号作戦」前には国内のベトナム独立運動家を取りまとめて、日本軍第38軍の林大佐へ、
 「将来我々はどんなことがあっても、ベトナムの独立に努力する、日本に協力する、決して離れることはない」          『ベトナム1945』より
 と誓ってくれた親日家でした。

 1955年の南部「ベトナム共和国」国民投票では、実に97%以上の得票を得て大統領に就任したジェム氏でしたが、何故か就任数年後、カトリック優遇・仏教徒弾圧のアメリカ傀儡政権、悪の親玉と云う世界的メディア・プロパガンダが吹き荒れて、結局1963年に軍事クーデターで実弟と共に殺害されてしまいました。
 ベトナム戦争終結を決めていたというアメリカのケネディ大統領(当時)も丁度3週間後に暗殺されベトナム戦争は激化して行きました。ジェム大統領を暗殺したミン将軍は、後にアメリカへ亡命して悠々自適の老後安泰でした。。(←因みに現在ベトナム人は皆知っています。。😅😅)
 ええと、、💦💦、『戦争利権』の視点で見れば、今も変わらぬ誠に判り易い構図と経緯ですのでまた別途に纏めたく、深入り・脱線せずに先に進みたいと思います。。。😅😅 

 1975年4月、サイゴンが陥落アメリカの敗北ーベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)が終結しました。
 松下氏はこの時、「サイゴン北東40キロ、ビエンホアにある「アジア孤児福祉センター」で孤児たちと共にサイゴン陥落を迎えた」そうです。

 「 -79歳社長、サイゴンに踏み止まる-
  サイゴン臨時革命政府軍が無血入城し、気遣われた在留邦人たちの安全も、(中略)…その163人の邦人の中に「ベトナムの孤児たちを見捨てるワケにはー」と、進んで踏み止まった79歳の老人がいる。”オンク(翁、Ông Cụ)”と「アジア孤児福祉センター」の子供たちに慕われているベトナムとの交易会社「大南公司」(本社=東京・大手町)の社長、松下光廣さんだ。」
    
 『夕刊フジ(昭和50年5月2日付)(『安南王国の夢』より)』

 「アジア孤児福祉センター」の約200人の戦争孤児を見捨てられず、ベトナムに残って孤児らと共にベトナム戦争終戦を迎えます。
 「…日に日に食料不足が深刻になって行く。新政権は、(中略)外国人に対する行動の規制も多くなった。期待していた「臨時革命政府」はいつまでたっても表に登場して来ない。松下を始め残留した日本人の生活は、日を追って暗いものになっていった。これまで親しかった「ベトナム人も何となく冷たいそぶりを見せるようになった。」」
         『安南王国の夢』より

 そして、「サイゴン自宅に、突然、革命軍の兵士が侵入、銃剣を突きつけ、立ち退きを迫り」、「孤児センター」の孤児たちもどこかに移されて、施設は革命軍兵士宿舎になったそうです。
 期待していた「臨時革命政府」は登場せず、一年後には南は北に吸収される形で、「ベトナム社会主義共和国」が誕生しました。松下氏は、「追われるようにサイゴンを離れ、帰国」、「丸裸同然、すべてを接収され無一物の帰国だった」そうです。。。😥😥
 
 「わたしは今、茫然自失の状態なのです。明治の末年に渡越して以来60有余年、苦難経営の末、大南公司の社業が一応結実するかに見えたとたんに、北からの解放軍による制度改変です。その結果、生涯をかけたベトナムにおける将来性のすべてを失い、文字通り、丸裸に投げ出されてしまいました。
 自然の生存環境から日常の生活様式まで、生い立ちの地天草より以上、ベトナムに溶け込んできたわたしですから、昭和51年、日本へ引き揚げて来た時には、「第二の故郷から遠く引き裂かれた…」という思いがしきりで、以来、朝な夕な、わたしは異邦人のような気持ちに捉われつづけています。」
  『天草海外発展史』より

 郷土史家の北野典夫氏が1978年に東京で松下氏にインタビューした内容を郷土誌に掲載し、後に『天草海外発展史』に収められました。

 松下氏は、大南公司を整理し東京の家屋敷も処分して、1981年故郷天草へ隠棲、その2年後に享年86歳でお亡くなりになりました。

 戦後見事に復活、再建した「大南公司」の全財産は、1975年に剥ぎ取られ、丸裸でベトナムから追い出されてしまったのです。。

 1945年の敗戦で、日本人の関係者の多くは戦犯指定。。。だけど、何故かアメリカは、松下光廣氏を逮捕、抑留せずにベトナムに戻って自由に働かせてくれましたとさ。。💦💦😅

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 『ベトナム1945』の著者神谷美保子氏は、ご著書の目的の一つを、
 「…あらためて研究者の間で、その意義は認められているものの、基本的、具体的な史料の欠如や、解釈の誤りなどから、抽象的な議論に終わりがちな〈明号作戦〉の、結果論から見た意義を明らかにすることに努め、〈仏印処理〉に続くインドシナ三国の”独立”は、フランスの直轄地の処理が遅れたものの、また誕生した政権(=チャン・チョン・キム政権のこと)は非力ではあったが、日本の傀儡ではなかったことを主張することが第一点である。」
 
そして、「インドシナの歴史の空白部分についても、多少語り得たと思う」と書いています。その中で、松下光廣氏に言及し、
 「…インドシナ三国の独立に松下光廣の果たした役割の大きさである。真にインドシナの人々と大地を愛し、清濁併せ呑む器量を持つ松下の役割は、その是非の判断は分かれるだろうが、到底、一スパイなどと位置づけられるレベルではないことは明らかである。」
 と結論しています。

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 私がまだベトナムに住み始めて間もない頃(←かれこれ30年以上前です。。。笑)、当時働いていた日系企業のベトナム社員のF爺さん(⇒日本陸軍・山下大将のベトナム埋蔵金|何祐子|note )に、ある日突然こんな風に尋ねられました。
 「ま・つ・し・た、って、知ってるか?」

 …「松下」と言えば、日本が誇る大企業家「松下幸之助」に違いない!!
得意ぶって、「勿論知ってるよ、松下幸之助。パナソニックの創業者。」と答えると、F爺さんは、本当に”鳩が豆鉄砲を食らったように”目を丸くして、暫しキョトンと私の顔を見ていましたが、突然二カーっと歯を見せ笑って、
 「…そんな小者じゃないよ! もっと、もっと大きな人!」 
 そう言うと、鼻歌を歌いながら行ってしまいました。。😅

 当時はまだ「歴史記憶喪失」状態の若く未熟な私でしたので😅😅、「大南公司の松下光廣氏とベトナムの関係」など勿論知りません。
 「なんだ、世界の松下幸之助を知らんのか。。」
 そんな風に、F爺さんを心の中で田舎者扱いしてましたけど、最近こうして古い文献で仏領インドシナ史を辿って行くうち、
 「あぁ…、F爺さんは、多分昔の大南公司の社員だ…。松下光廣氏の元で働いてたんだ…」と、やっと理解できました。

 F爺さんに、「もっと、もっと大きな人!」と言われた松下光廣氏は、一体どんな人だったのかなぁ。。私があの世に逝ったら、必ず逢いたいお一人です。😊😊



 
 

 


  

 

 
 

 
 

 
      
 

 

 

 
 
 

 
 

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