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ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~ 櫻澤如一氏の仏領インドシナ訪問と不思議な体験の話 ~

 ベトナム・マクロビオティックの夜明け|何祐子|note

 先日記事に、マクロビオティック創始者櫻澤如一(さくらざわ ゆきかず)氏ベトナム中部フエ訪問(1965年)のことと、櫻澤夫妻を迎えた『ベトナム玄米グループ』=潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の後輩抗仏志士達の関係を書きました。(宜しければご一読お願いします。⇒ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~『食養=THỰC ĐƯỠNG(トゥック・ズュン)』をベトナム全土へ広めた抗仏革命志士たち😌)

 実は、櫻澤氏のベトナム訪問はこの時が2度目です。 

 1度目に南部都市サイゴンへ訪問したのはまだ食養の道に入る前、神戸の貿易商店で働いていた1920年の頃です。このサイゴン訪問の際に遇った不思議な出来事のことが、呉成人(ゴ・タイン・ニャン)氏らによる翻訳本『無常の空間に遊ぶ(Chơi Giữa Vô Thường)』に書いてあります。

 櫻澤氏を我が子の様に可愛がり親切にしてくれていた社長の福島氏が、ある時仏領インドシナのサイゴン(現ホーチミン市)へ出張に出掛け、櫻澤氏は会社の留守を預かっていました。⇩

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 「私は、あの日-雨風が降りしきる9月30日の夜の事は決して忘れ得ない。
 いつもの様に簡易ベッドに横になりうとうととした時、不思議な事に突然炎天下の神戸港に立っている自分が見えた。向こうから黒色の貨物列車が走って来て私の前で停車した。車両の真ん中の扉が開き、真っ黒な車内から、なんと真っ白の夏服を着た福島さんが降りて来た。私は駆け寄り声を掛けた。
 『何かあったのですか?あまり早いお帰りなので、まだお迎えの準備をしてませんでした…!』
 
 そう言いながら福島さんの手を取ると、氷の様に冷え切っている。私は胸騒ぎを覚えて、顔を近づけて問うてみた。
 『どうしたんです?福島さん…』
 彼の瞳には微笑が浮かんでいたが、双眸から溢れ出た涙が二筋、両頬を伝って流れ落ちた。」

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 丁度その時、外からドアを叩く音が聞こえて夢から覚めたそうです。急いで起き上がりドアを開けると、郵便局の局員が赤色電報(国際電報)を持って立って居ました。電報元は、「サイゴン-仏領インドシナ」、件名に「FUKUSHIMA MALADE HOSPITALISÉ A L'HOPITAL D'AMEÉ」(=福島氏病の為軍病院に入院)の文字が見えました。
 そして翌日、続けて受け取ったのは、福島氏死亡の報でした。
 急ぎ仕度を整え、仏籍の郵便船『Manche』に飛び乗って、櫻澤氏は仏領インドシナのNam Kỳ(南圻)を目指しました。10日程後やっとサイゴン港に上陸し、その足でホテル『Rotonde』へ向いました。

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 「…ホテル『Rotonde』にチェックインした。サイゴンでは、公的機関も商店も午後2時までは昼休憩でシャッターを閉めているから、先日まで福島さんが泊まっていた部屋で横になって、暫し身体を休めようと決めた。
 そうして寝ていると、突如意識が覚めて部屋の中で何か聞こえる。それは、聞き慣れたあの優しい福島さんの話声だった。
 起き上がろうと思っても、身体が硬直して動かない。咄嗟に自分がマラリヤ熱に罹ったのかと考えたりしながら、ただ横たわり福島さんの話声を聞いていた。
 …福島さんの話声は多分1時間位続いただろうか、そして外側からドアを叩く音でそれはピタリと止まった。と同時に、私の身体もバネが働いた様に飛び起きた。部屋の中には、誰も居なかった。窓が閉め切られた静寂の中で、ただ天井の数匹のヤモリが舌を鳴らす音だけが響いた。」

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 上⇧の「ホテル『Rotonde』」とは、英明(アイン・ミン)書館の説明によれば「カティナット通り(=現ドンコイ通り)とQuai de Belgique 通り(=現トン・ドック・タン通り)の角、Majestic(マジェスティック)ホテルの向かい側」とあり、現在最新は高級カフェ・レストランなどが入った商業ビルになっています。
 因みに、私が初めてホーチミン市を訪れた1989年頃のマジェスティックホテルは確かまだ「九龍(クーロン)ホテル」という名前だった記憶があります。。😅 更に因みに、お洒落な『カラベル・ホテル』も、あの頃はまだ『Khách Sạn Độc Lập( 独立、ドック・ラップホテル)』の看板が掛けられたまま入口にバリケードが打ち付けてありました。。😅

 話を戻しますと、櫻澤氏がドアを開けると、そこにはサイゴン現地で臨時雇用されて福島社長の秘書をしていた男の人が立っていました。部屋の中に招き入れ、この馬場と名乗る人物が語り始めた話に、櫻澤氏は心底驚いたのです。⇩

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 「…私の頭はつい先程の不思議な体験の事で狼狽し、テーブルの向こうに座った馬場氏をまだ夢の中に居る様に感じていたが、突如意識が戻された。馬場氏の話は、先程聞こえた福島さんの話と全く同じ内容だったからだ。
 馬場氏は、一時間くらい話終わった後で、最後に福島さんの臨終の様子を教えてくれた。
 『長い昏睡状態が続いて、最期に一度だけ意識が戻ったのです。福島さんは笑みを浮かべて、-馬場君、今しがた櫻澤君に会って話したよ!-そう言うと静かに息を引き取ったのです。』
 臨終の時刻を確かめると、私が事務所で見た夢の中で、港で彼を迎えたと丁度同じ位の時刻だった。私と福島さんは、何万キロも離れた場所に居ながらお互いの精神は繋がっていたのだ。」

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 これら不思議な体験を踏まえて、櫻澤如一氏はこう締めくくっています。

 「心霊は、本質的に時間と空間を超える性質を持っていると思う。我々人間の精神は、同じく、無境の空間と無尽の時間の中を自由に好きなように移動する事が出来ると信じる。たとえ、時間という厳重な鎖や空間という型に、囲い込まれ押し込められ固定されていても。
 精神は全てであり、肉体とは天地自然に共鳴するその単なる一部分にしか過ぎない。」

 。。。私は、若い頃全くと言っていい程心霊体験や神秘体験を経験したことが無い為、この手の話は、「ふ~ん・・・。」とクールな目でずっと捉えて来ました…。
 しかし、人間は、例えば仕事で絶対絶命、或いは病気で死にかけた等で本当の窮地に立った時、突如として不思議な運命の回転に捲き込まれて行く人が一定数居るように思います。
 私がなぜクオン・デ候の自伝を翻訳することになったのか、戦後の日本社会で綺麗に忘れ消し去られた、『仏領インドシナ抗仏史と大東亜戦争』の記憶記事を今ここnoteに投稿するのか。それも、或る一連の体験がきっかけになりました。

 1990年代初め頃苦労してベトナムへ入国し現地に職を得て、周囲から叱咤激励を受けながら四苦八苦しながら発音と声調記号の難しいベトナム語をなんとか必死で覚えました。。。😅
 そして、現地で結婚したベトナム人の夫は『何(Hà、ハー)性』で、義父は南部カオ・ダイ教設立メンバーの家系出身で熱心な信者。かと言って数年前までの私は、歴史になどさして興味がない普通の主婦でした。。。

 前置きになりますが、昔(1990年代)に比べ、ベトナムに昨今来る日本の駐在員とその家人は、99%外国語が不毛で、突如初めての海外滞在でプール付きのコンドミニアムなどに住まうと半年もしないうちに精神が堕落して行きます。私はこれは例外を見た事がありません。
 フリーで海外就労を経験した者でないと中々理解し難いと思いますが、日本社会システムは、国内より海外に在る時に根っこにある日本村社会の閉鎖性や差別性が強く出るように思います。
 詳述は省略し、私が働いて来た在ホーチミン市の日系企業界に於いては、昔から駐在員と現地社員の間の『収入』『待遇』『福利厚生』に明らかな差別と区別があって、上下間に虐めと思しき『指示』『差別待遇』が必ず存在し、これは今もさして大きく変わってない筈です。

 本題に戻りますが、ある日働いていた日系企業で、本社駐在員が不祥事隠しする為に現地社員の私へ泥が被るよう罠が仕掛けられ、当該人物から契約切りを宣言されるという(私にとっての)大事件が起こりました。(←実話です。😅) が、その時何故か、
 「ああー!こんな熱帯の異国で同国人に背後から刺されるとは、戦争で外地に在って、勉強だけの陸大卒のポンコツ上司から玉砕を強要された日本兵は、どんなに悔しかったことだろう!!!」
 と、不思議なくらい強い想いが、何故か湧きあがったのでした。。。。
 理由は私にも解りません。しかし、当該駐在員が自信満々に仕組んだこの事件に対して、背後に『諦めるな、行け!やれ!』と応援する声を感じた私。『よし!代わりに汚名を晴らしてやるぞ!』という義侠心というか気力が、何処かから何故か充実して来るのを感じました。。。

 結果的に、退職一年後に私の汚名が晴れ、関係者は左遷。。。
 全てが終わり、気分転換の為にブルネイ旅行しようと思いついたのも偶然か必然か今ではよく解らず。そのブルネイで参加した密林ツアーの最中、応援してくれた日本兵の皆さま(の霊魂?😅)に向かって山頂で手を合わせていたら、何処からか蝶が数匹飛び来った風景を今でも覚えています。

 それから時が過ぎ、2019年頃のある日、ホーチミン市の古本屋で、旧南ベトナム=ベトナム共和国発刊(1957年)の茶色い古冊子、クオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯』を入手して(不思議な経緯、巡り合わせは自費出版した翻訳本のあとがきに。)、読後直ぐに翻訳作業に入ったのでしたが、知れば知る程、歴史を調べれば調べる程、日越未来の子供達が知るべき真実だと確信が深まり、毎日朝から晩までPCに向かいました。
 丁度そんな頃、こんなニュースがありました。⇩

 「ごめんなさい、失敗でした」 日本より稼げるとイギリスへ密航、悲劇は起きた:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)

 アイフォン画面でこのニュースを眺めた私は、「あれ、あれれ。。。?」と急に奇妙な感覚に襲われました。
 「抗仏、抗米戦争で早くから最も勇猛に戦い犠牲となった人々の子孫が、酬いがこれ? 2019年の現在でもこれ? なんで今も地方は極貧で若者が外国へ出稼ぎに行き、悲惨な事故で命堕とす? べトナム都市部は経済成長著しいって、悪い冗談か??  特に最も功績があっただろう地方に遺されたベトナム志士らの子孫が、なんで今この仕打ち?? こんな将来に己を捨て犠牲となり、ベトナム独立に命を懸けた訳ないだろう。。。???」

 
と、こんな想いが頭に浮かんだその瞬間、突如ぐるぐるっとなりました。私が廻ってるのか周囲が廻ってるのかはちょっと説明ができないですが、そうしたら、遠くから螺旋状を帯びて矢の様なものがぐるぐるっと飛んで来て私の脳天に刺さった、そんな感覚でした(←作り話ではありません。。)

 それから、不思議なことが度々あります、偶然と言えば偶然ですが。

 つい先日も、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝に出て来る宮崎滔天(みやざき とうてん)の自伝『三十三年の夢』を調べようと、手にした自伝集は偶然西田税(にしだ みつぎ)自伝『戦雲を麾くも掲載されてました。が、しかし当初全然興味無く読む気も無く。
 ある時偶然、机上のその本に肘が当たり床に落ち、拾おうと手を延ばすと、『戦雲を麾く』の中のベトナム志士陳文安(チャン・バン・アン=陳希聖、チャン・ヒ・タイン)との交流ページ先記事⇒西田税(にしだ みつぎ)とベトナム抗仏志士)が開いてました。。
 拾い上げながら暫し言葉が出ずに、うむむと唸って、ちょっと背後を振り返って見たり。。
 『あー、税(みつぎ)君、ありがとう!これは次ね!必ず書くから!』と、空に向かって独り言を言う、ヤバい中年おばさん、それは私。。(笑)😅😅😅

 そんなことの連続で、とうとう私も櫻澤如一氏の言うように、精神は多分、時間も空間もふとしたきっかけで制限が外れ自由になって、お互いに交流可能なのかもなぁ、、と最近信じるようになりました。。
 周囲の友人などには絶対話してませんが。😅

 

 
 
 
 

 

 
 
 

 

  


 

 


 


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