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ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~”最初で最期”の1965年フエ講義~

 先の記事ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~日本食養会の櫻澤如一(ジョージ・オーサワ)ベトナムへ~で、1965年マクロビオティック創始者の櫻澤如一(さくらざわ ゆきかず=ジョージ・オーサワ George Ohsawa”)氏 の中部ベトナム・フエ訪問を取り挙げました。

 招待したベトナム側の人々は、ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)クオン・デ候を失った後の中部に在ったベトナム志士を中心としたグループであり、食養法との出会いからベトナム玄米グループを結成、そして『ベトナム長生食養センター(=ベトナム・マクロビオティック・センター)』を設立したのです。

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の自伝書『自判』の出版社『英明(アイン・ミン)書店』呉成人(ゴ・タイン・ニャン)氏の書籍(『無情空間に遊ぶ』)に、ジョージ・オーサワ George Ohsawa”氏から送られた手紙のベトナム語訳(原本はフランス語)が掲載されています。

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1965年2月14日 東京

Ngo Thanh Nhan殿
フエ、私書箱59

親愛なる友へ、
 君が1月21日に送ってくれた手紙は、ここの住所が変更になっていたので少し遅れて昨日私の手元に届きました。どうも有難う。
 僕たちの旅費の心配は無用です。外国への旅費は、僕はいつも個人予算を取ってあります。何より今は、ただこの陰陽原理を広めるという使命の為だけに生きているのですから。
 この53年間に世界中様々な国を訪れましたが、旅行者が通常観光するような場所に出掛けた事は一度もありません。合計10年間もフランスパリに住んでも、未だオペラ大劇場やエッフェル塔、ルーブル宮を見てないです。それが僕の原則、僕は娯楽を求める観光客ではなく、道(タオ)、永遠の幸福、無限の自由、そして絶対の正義を追い求める人々に逢いに出かけるだけです。
 数カ月後になりますが、手紙でベトナム訪問の日程をお知らせします。
 早く君にお会いできることを。
                  オーサワ  」

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1965年4月5日 東京

サイゴンとフエの食養グループの皆さんへ
 親愛なる皆さん、
 来月皆さんとお会いして、食養法の原則についてお話すること、特に数千年の歴史ある東洋思想、東洋哲学の無双原理についてや、老子、荘子について皆さんと話すことを本当に楽しみにしています。
 老子の教えでは、道(タオ)は、暴力を用いることなく勝利を得る方法、言い争うことなく相手を説諭する方法、困難を楽に、不幸を幸福に、敵を味方に、醜悪を美麗に変えること…等の方法を示してくれると云います。
 …私達は、道(タオ)、老子、荘子などを学ぶ必要があります。老子は、人類史上最も偉大な人類愛の戦略家です。老子は、征服され、叩きのめされ、抑圧された人が最後に永遠の勝利者になり得る、その方法、道(タオ)を説いているのです。(中略)
 早く皆さんにお会いできることを楽しみにしています。              
               オーサワ     」

      呉成人(ゴ・タイン・ニャン)著『無常の間に遊ぶ』より

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 この4月5日付けの手紙には、フエ訪問日程と詳細が記されてました。⇩

 「…僕は、5月11日から15日の間に日本を発ちます。たった15日間しか皆さんの処に居られません、そして、これが最初で最期の機会となるでしょう。」
 「僕の妻、里真(りま)もほぼ確実に僕と一緒にベトナムに行くと思います。妻は、万病を治療する食養料理法を皆さんへ教えます。万病とは『OOO』のことです。この病気は、僕の弟子
久司道夫(くし みちお、アメリカ・マサチューセッツ州ケンブリッジのEAST WEST Foundation代表)の生徒(中略)がブエノスアイレスで(中略)ハンセン病患者を23日間で完治させた例もあります。」
 「僕の講義に参加する同志は、初めから最後まで最大30人まででそれ以上はお断りします。外部者の参加は要りません。」

 1955年のジュネーブ会議でベトナムは南北分断。そして、南部『ベトナム共和国』の初代大統領呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)は、1963年(11.2)にクーデターの凶弾に倒れましたアメリカではケネディ大統領も丁度3週間後(11.22)に暗殺されてベトナム戦争は停戦どころかココから一気に激化に向かいました。。。😢😢😢 
 ベトナム戦争真最中の中部ベトナム…。邦人記者も商社マンも、誰も彼も怖れを為しわらわらと出国する激戦地へ、1965年にたった2人で入国した老夫婦の度胸が凄い。。。😅😅
 この訪問を受けた時の感動を、呉成人(ゴ・タイン・ニャン)氏が著書にこう書き遺しています。

 「 正に夢のよう

 心底貧かった我らベトナム玄米グループが、ベトナムにオーサワ先生とご婦人をお招きして直接お会い出来ることなど、1965年5月以前は単なる夢物語だと思っていた。
 …なんて幸せ!お二人は、5月16と17、18日の3日間、私達と一緒に過ごし、先生は無双原理を、ご婦人は作法に敵う調理方法を講義して下さった。(中略)お二人の簡素な服装、温かく心に染み入る話し方。私たち全員が、まるで長い別離を経た旧来の恩師と生徒がやっと再会できたような、そんな気持ちになった。長い間の夢、それが現実になった日だった。」

 夢に見ていた、世界で活躍する日本人の食養の大先生を迎えた時の彼等の感激と緊張が伝わってくるようです。😊😊

 「ベトナム人にとっての”標準的食事方法”とは

 その頃は、とても暑い時期だった。オーサワ先生は、『健康と幸福へのご招待』という日本語のポケットブックを私に下さった。そこには、『平均的ベトナム人の栄養標準制度』を書き足してくれてあり、『ベトナム人は玄米とゴマ塩60%、野菜30%、果物10%。病人は完全に玄米ゴマ塩食を100%取ること』、…『ベトナムは熱帯気候の国だから少し陰性寄りの食事を取ること』と書いてあった。オーサワ先生は、こう結論して言った。
 ”だからね、自然が私達に与えてくれている物を受け取らない手があるかい?”
 (中略)…道端で小さな喫茶店に寄った。…オーサワ先生は、店に置いてある氷入りや砂糖入飲料瓶を瞬間的に振り返って見た。…それらは極陰性だから、中立バランスを取る事が非常に難しいと言う。
 (中略)…道端で売られていた豆腐(生姜シロップと食べるデザート)を試した先生は、一口食べて茶碗を返すと、”とても陰性だよ、極陰だ!”と言われた。」
              
『無常の間に遊ぶ』より

 この⇧ベトナムの豆腐デザートは、私も大好きなんですけど。。トホホ。。😅😅
 (体質が極陰性に傾くと、怒りっぽくイライラし、鬱や精神病になり易いそうですので、気を付けたいところです。。。)

 さて、では、抗仏闘争を牽引して来た先輩革命家や指導者が次々に命を落とし、更なる激化が予想された当時の中部ベトナムに在って、残されたベトナム志士達は一体何を考えていたのでしょうか。。。
 それが解る箇所が、やはりAnh Minh書店の越訳本『Macrobiotics, The Way of Health and Happiness』(19XX年初版)のベトナム語序文の中にあります。⇩

 「近年の現代文明は、膨大な量の情報や知識伝達を可能にする科学技術や物質文化の恩恵を齎してくれた。この時代に生きる私たちは、正に目の前に花開くこの恩恵を日々浴して生活している。それは、世界規模で張り巡らされた食料配給ネットワークや、或いはたった一日や数時間で地球の裏側へ気軽に往来出来る先進技術による交通手段、又は、遠く離れた地域で起こった出来事のニュースが瞬時に届く衛星通信システムなど…(中略)近代科学技術者たちは宇宙まで開拓するに至った。人類が地球以外の惑星へ移住すること、そんなことがもうただの夢物語ではなくなりつつある現代は、科学技術の黄金時代に登り詰めようとしているのだろう。
 しかし、周囲を注意深く見回してみて欲しい。周りには、沢山の病人や身障者、貧困者、悩みを抱えた人で溢れ返り、其々”自己防衛”という消極的な要素の為に膨大な費用を費やし、それが個人の生活へ大きく負担として圧し掛かっている。この恵まれた社会に生きているにも拘わらず、人類の大部分は不安や怖れ、倦怠感、絶望という境遇と未だ訣別できていない。だから、一時的な快楽や神秘世界、まやかしの中に幸せを見つけようと日々彷徨っている人のなんと多いことか!だとすれば、私達は、現代社会建設の道程の何処かで間違って進んで来てしまったのではないだろうか?
 私達は現代人が、『人間とは?』『人生とは?』そして、『自然と繋がる方法は?』ということを忘れて来たのだと思う。そして最も重要な、『無尽宇宙の秩序』を完全に忘れて来てしまったせいではないかと思うのだ。」
    
『Macrobiotics, The Way of Health and Happiness』越語版序文より

 ええと…、この様に、多分ですが、もうその頃のベトナム志士達は、『怒りは更なる怒りしか生まず、血の犠牲は血の犠牲でしか洗えず、貧困には更なる貧困、貪欲には更なる貪欲が待っている…』、この無限ループの行き着く先が見えたのではないかなと感じます。。。

 そして、興味深い事にこの頃、日本人と日本社会に幻滅していた櫻澤如一氏は、「征服され、叩きのめされ、抑圧された人が最後に永遠の勝利者になり得る」という道(タオ)が、不幸のどん底に在りながらも真摯に学び続けようとするベトナム人玄米グループの姿勢の中にその芽生えがあることに、微かな希望を見出したように思えるのです。
 それと云うのも、櫻澤氏は、ベトナム・フエの訪問(1965)の数カ月後にフランスの『Yin Yang(イン・ヤン=陰陽)』というフランス語雑誌に「Vietnam, c‘est le pays natal de la Macrobiotique(ベトナムはマクロビオテックの故郷」という題名で記事を寄稿し、「全世界が力を合わせ、ベトナムに平和を取り戻せ!」と呼び掛けていたからです。
 しかし、この日から1年も経たず、櫻澤氏は突然この世を去ってしまいました。。
 
              (つづく)

 

 
 
 

 

 
 

 
 

 
 

 

 

 

 
 
 

 


 

 
 
 


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