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ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~『食養=THỰC ĐƯỠNG(トゥック・ズュン)』をベトナム全土へ広めた抗仏革命志士たち  

ベトナム・マクロビオティックの夜明け|何祐子|note 

 日本人でも、ベトナムに長く住んだ方なら現地で『食養=THỰC ĐƯỠNG(トゥック・ズュン)』や『養生=ĐƯỠNG SINH(ズュン・シン)』という言葉を聞いたことがあると思います。
 因みに、ネットでベトナム語『THỰC ĐƯỠNG(トゥック・ズュン)を検索すると、728,000件もヒットします。

 1960年代に輸入されてから、書籍での啓蒙活動と食指導の結果がベトナム全土に広がって、今や国民の間に完全に定着した日本の玄米正食による食養生法『マクロビオティック』=食養(=THỰC ĐƯỠNG(トゥック・ズュン))

 一体どんな背景があったのでしょうか???😯😯

 この謎解きのキーパーソンが意外や意外、近代日越史上最も有名なベトナム抗仏運動家潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)です。😌😌

 ファン・ボイ・チャウは、当時まだフランス領インドシナと呼ばれていたベトナムから1905年にベトナム皇子クオン・デ候の使者として日本に密航、清国の梁啓超日本の政治家らと面会し、後に『東遊(ドン・ズー)運動=愛国出洋運動』を起こした人です。

 フランス政府が敷いた捕縛網を潜り抜けて、長い間主に中国で活動しましたが、ベトナム人密偵の裏切りにより上海で逮捕されてベトナムへ強制送還されました。裁判では終身懲役の有罪、しかし国内各地で大規模な減刑運動が起こった為、時のインドシナ総督ヴァランヌの特赦で自宅軟禁となり、そして、故郷フエで自伝書『自判』を書き上げて、1940年に亡くなりました。

 仏領インドシナと呼ばれた植民地ベトナムで、宗主国フランスに最も激しく抵抗したのが中部地方の人々です。出国後に約20年ぶりに生きて祖国に戻ってきたファン・ボイ・チャウを迎え、身の回りの世話をしたのも中部フエの人々でした。

 「おい、お前がまだ死なないでいるうちに、お前の自伝を急いで書き終えてしまえよ!」と、何度も足を運び催告してくれた愛すべき朋友の恩、謹んで承りここに草稿を書き上げ、標題を『潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)年表』とする。」
           潘佩珠著『自判』より

 こうして、自宅軟禁中のファン・ボイ・チャウを励まし、完成した原稿は、彼の死後に同志たちの手によって1956年に南ベトナムで出版されましたが、実はこの出版へ至る迄も大変な苦労があったのです…。⇩

 「 出版社からの言葉

 1946年初頭、べト・ミンが政権を掠奪して後、フイン・ミン・ビエン(=黄淑抗(フイン・トゥック・カイン)=ファン・ボイ・チャウの親友)はハノイへ向かった。翁の家のことや巣南(サオ・ナム=ファン・ボイ・チャウのこと)翁の遺稿など全ての後事を私たちに預けて。
 これら遺稿と書籍類は、フエの潘巣南翁遺宅の箪笥に保管して置いた。

 なんてこと! 戦争の炎が全国に燃え広がったのだ! 
 遺稿や書籍類は散り散りになりほんの一部しか残らず、疎開先に隠したり、同志らが間一髪持ち出すことが出来たもの…、その中の一つがこの『自判』だった。 
 この歴史書は、巣南翁が1929年から漢語で書き始め、1938年にミン・ビエン翁が製本した。1943年に4部作製された国語
(=アルファベット化文字)版の原本1部と漢語版を、ミン・ビエン翁は私達に預けて行ったのだ。
 当時はまだフランス植民地政府と傀儡政府の支配下だったのだから、当然こんな本が出版できる訳なかった。それでも、1946年に広義(クアン・ガイ)の同志らが巣南翁遺族の了解を得て遺稿を出版しようとし、初版印刷が終わって流通させようとした矢先ベト・ミンが検閲に来て資料その他全てを接収し、枯れ井戸の様にして行ってしまった。
 それでも後1950年私達が故郷フエに戻ると、幸運にも資料は同志が守ってくれていた。(中略)
 
 最近になってやっと交通の便も戻り、もう何年間もしまってあった国語
(アルファベット化文字)版原稿を手にすることが出来たので、あの暗黒で目隠しされた時代に光を照らしてくれた我国の大革命志士の、19世紀後半から20世紀の半分に亘る軌跡の全篇を読者皆様へお届けしたいと思う。
          『自判』出版社序文より

 これ⇧は、ファン・ボイ・チャウ著『自判』を出版した出版社『英明(アイン・ミン、ANH MINH)書館』による序文です。
 出版社と云っても、要するに潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)翁の遺稿を管理・出版するグループがその設立の出発点です。

 上記⇧の「最近になってやっと交通の便も戻り」の「最近」とは出版年の1956年。こう考えると、1955年のベトナム南北分断により、日本敗戦後に居座っていたフランスとその傀儡(=フエ宮廷官僚の残党)を漸く排除でき、アメリカから呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏が帰国して大統領になった直後ということが判ります。
 因みに、「なんてこと! 戦争の炎が全国に燃え広がったのだ!」とは1946年を差しますから、日本が敗戦で引き上げた直後です。(居座りフランスとその傀儡連中は、後にプロパガンダとクーデターを仕掛けてジェム大統領を暗殺しますが、これはまた後日に。😅)

 話を戻しますと、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏の裁判終身懲役有罪判決を覆させたのは、国民の怒りの抗議デモでした。要するに、彼は当時既に国民の英雄で超有名人なのです。

 その超有名人の自伝遺稿が、やっと出版されて一般流通したのだから、きっと大勢の国民が読んだことでしょう。出版社は同郷で同じく死線を越えて来た抗仏革命同志・後輩達のグループだったことは周知の事実。そして、その同志グループの出版社の名が『英明(アイン・ミン、ANH MINH)書館』で、この出版社の看板前での記念写真が、上⇧に張り付けた写真ですが。。。 

 。。。お気付きになりましたでしょうか?
 そう、この写真は1965年に撮られたもの、真ん中にマクロビオティックの創始者櫻澤如一(さくらざわ ゆきかず)氏と里真(りま)夫人が写っています。この経緯は、ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~”最初で最期”の1965年フエ講義~|何祐子 に書きましたので、御一読頂ければ幸いです。
 
 要するに、1956年に『自判』含む潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の遺稿版権を遺族から譲り受けて、呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)大統領施政下の南ベトナム(=ベトナム共和国)で出版していた抗仏同志グループがこの『英明(アイン・ミン、ANH MINH)書館』。
 そして、既に国内で高い知名度を持っていたこの出版社が、続けて日本発の健康養生法『マクロビオティック』に関する創始者櫻澤如一氏の著作本をベトナム語に翻訳し、出版を始めたのでした。
 それが、
 「1960年代に輸入されてから、書籍での啓蒙活動と食指導の結果がベトナム全土に広がって、今や国民の間に完全に定着した」
 という背景です。。😌😌

 『英明(アイン・ミン、ANH MINH)書館』の責任者呉成人(ゴ・タイン・ニャン、Ngô Thành Nhân)氏は、メコンデルタ米作改良政策の為に南ベトナム政府に招かれていた日本人の農業技師高橋常雄(たかはし つねお)氏から1963年頃にマクロビオティック(玄米生食)を教えてもらったと述懐しています。(詳細はこちら⇒ベトナム・マクロビオティックの夜明け ~日本食養会の櫻澤如一(ジョージ・オーサワ)ベトナムへ~|何祐子
 
 ”薬も医者も要らない、ただ玄米を食べるだけで万病が治る”という言葉に初めは半信半疑だったニャン氏でしたが、「タカハシ氏から”オーサワ食養法”というものを教えて貰ったので、早速実行することにした。直ぐに非常に良い結果が出た」と本に書いてます。
 そこからどうしたのか。ニャン氏らによる翻訳本『PHƯƠNG PHÁP TÂN DƯƠNG SINH THỰC DƯƠNG HỒI XUÂN& SỐNG THỌ』(1964)(原本はフランス語、 GEORGE OHSAWA-『LE ZEN MACROBIOTIQUE ou l'art du rajeunissement et de la longgévité 』)の序文にそれが書いてあります。⇩
 
 「食養方法を実践して見て、自分自身も家族も、そして周囲で腸カタルや疥癬、リュウマチ、癩病、痔瘻、生理不順、歯槽膿漏…等々で苦しんでいた人々にも非常に良い結果が出たので、仲間たち…と共にベトナム玄米グループを設立してこの養生法を広めることにした。
 『玄米食-オーサワ食養法による玄米とゴマ塩で健康増進&治病』と題した本を出版し早11カ月が経った。この本は、日本人の農業技師タカハシツネオ翁(御年73歳、けれど見た目は40歳)の助言を得て編集した本であったが、実に多くの方が手に取り実践してくれた。そして私たちの手元に、”難病が奇跡的に完治した”という喜びのお手紙を沢山頂戴した。
 けれども、あの本は言わば未踏の森林への道しるべを広く一般的にご紹介したに過ぎず、密林に眠る秘法の部分についてはほんの数ページのみだったのだから、そこで書き切れるものではない。(中略)
 ご要望にお応えする為に、私達はオーサワ先生にお願いし、先生のご著書(仏語、英語、日本語)を翻訳出版して、誰でもこの”食養道”に踏み出し修身へのお手伝いをしようと決心した。」

 この日から、正に怒涛の如くに、櫻澤幸和(さくらざわ ゆきかず=ジョージ・オーサワ)氏から直々に著作権を譲り受け(⇩下の写真)、著書を次々

日付は1963年10月

にベトナム語へ翻訳し出版していった訳です。
 簡単にベトナム語へ翻訳と言っても、櫻澤氏著作はその内容、文章全てが非常に難解で、易経の陰陽(いんよう)論の上に『道(タオ)の原理『宇宙の秩序』螺旋(らせん)元素図、原子転換、荘子、孟子等々が盛り沢山で出て来ます。

 何だか、とてもとても難しい~~💦💦のですが・・・、それでもこれらは意外なことに、何となくカオ・ダイの教理』との類似性が発見できるのです。如何でしょうか。。。😅
 実際、中部で初期に『マクロビオティック』を受け入れ実践した人々はカオ・ダイ教信者が最も多く、呉成人(ゴ・タイン・ニャン、Ngô Thành Nhân)氏の妻Diều Hạnh(ジウ・ハイン)夫人も熱心なカオ・ダイ信者でした。

 、、、ファン・ボイ・チャウが世を去り、日本軍撤退の後フランス対ベト・ミン交戦で民家は焼かれ、更に南北分断してアメリカも参戦。。最後の望みの綱だった呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)大統領も、実弟と共にクーデターで銃殺。。。そんな絶望的な環境の中、生き残った抗仏志士達が1964年から再び歩んだ道が『健康への道=永遠の自由と平和』、日本発の食養方法・マクロビオティックだったのです。

 1964年と云えば、有名な『東京(トンキン)湾事件』があった年。アメリカによる自作自演のこの事件が、アメリカがベトナム戦争に本格介入する口実・きっかけだったと言われてますが、アメリカの戦争犯罪『枯葉剤作戦=エージェント・オレンジ』は、その2年前の1961年に既に始まっていました。
 この時のアメリカは、本当に情け容赦ない。。。((((;゚Д゚)))) 
 ベトナムは軍事大国アメリカと戦い続け、1975年アメリカがベトナムから撤退して遂に勝利しましたが…

 それでは、あのフエの『玄米グループ』はどうなったのか、非常に気になって調べたら、1976年X月発行の日本CI(シーアイ)協会『新しき世界へ』に、
 「アメリカに勝利したベトナム解放戦線が、サイゴン一区に正食レストランを開業!」
  と、この⇧様な記事が出てました。。。

 数年前ネット上でこれを発見した私は、早速当時まだホーチミン市にご健在だった玄米グループ長老の一人呉成人(ゴ・タイン・ニャン、Ngô Thành Nhân)氏のお弟子さんのP氏を訪ねました。(←好奇心強め主婦。。(笑)😅😅)

 「それで、この解放戦線の玄米レストランはその後どうなったの???」
 この問いに、Pさんは素っ気なく「2年で潰されたさ」。
 更に「どうして??」と聞くと、戦後の日本人は本当に何も知らないな…と、面倒そうな感じで、
 「あいつらが、約束守る訳が無かったんだ」、うんざりした様な顔で呟きました。

 要するに、解放戦線の中身は元抗仏志士、そしてかなりの割合でカオ・ダイ教部隊(←日本軍が訓練しました…)。ああそれなら、弱い北ベトナム正規軍に比べて解放戦線が断然強かったと云われる由縁だ、とすんなり理解できます。
 ところで、「あいつら」って…?

 もしかして…、今頃我が秋篠宮ご夫妻を歓待してくれてる集団のお爺さん達かな、やっぱり。他には該当者が見当たらない、だって一党独裁なんだから。(←証拠。笑笑)🤐🤐🤐😑
 

 

 

 

 

 
 
 

 

 
 
 

 
 
 

 


  

 
 
 

 

 

 

 

 
 

 
 
  

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 
 

 

 

 

 

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