見出し画像

西田税(にしだ みつぎ)自伝に見る、大正期の”病”-いじめ・LGBT・疫病・貧困問題...などなど

 先日の記事「西田税(にしだ みつぎ)とベトナム抗仏志士|何祐子 で、『2.26事件』で死刑になった西田税(にしだ みつぎ)氏とベトナム人志士陳文安(チャン・バン・アン、陳希聖)氏との交流をご紹介しました。 
 ベトナム人志士陳文安(チャン・バン・アン、陳希聖)氏は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏ベトナム国皇族クオン・デ候らが起こした『東遊(ドン・ズー)運動』で1907年頃10歳で日本へ渡航しました。
 早稲田大学卒業後28歳の頃に、士官学校の赤松一良氏からの紹介で西田氏と知り合ったそうです。

 さて、この西田氏の自伝『戦雲を麾く』大正13(1924)年に書かれましたが、ここに垣間見える大正期の社会問題とは、そっくりそのまま今私たちが生きる時代の社会問題(いじめ、LGBT、貧困、天災等々…)とほぼ同じのようで非常に興味深く感じましたので、今日はベトナム抗仏史とは離れて少し纏めてみたいと思います。 

**いじめ問題**

 日本ではいじめに遭い自殺する子供が後を絶たず、学校でも職場でも”いじめ”は一向に無くなりません。
 西田氏も、中学2年の時に転校した広島陸軍地方幼年学校で壮絶ないじめに遭っていたようで、詳細が自伝に書いてあります。
 
 「大正4年9月1日、余は中学2年の中途にして広島陸軍地方幼年学校に転じた。そは生まれて最初なる他郷遊学であった。
 …喬木口に風が当る――「陸軍乃公の専有」と自負せる長州出身者は烈しき迫害を加えた。不法醜怪なる圧迫嘲罵排斥の言動は3年の間絶えることなかった。
 夜など、…校庭を漫歩するとき、忽如暗中に踊る鉄拳に頬を打たれ頭をなぐられしことも一再でなかった。運動時間に、或いは棒倒しに或いは土俵占領に、故らなる暴行を受けしことも屈指に遑ない。…遊泳演習の一夕、余りの迫害と横暴とに堪え兼ねて悲憤、敢然として50余名の集団に赴かんとして2,3の友に抑制せられ、男泣きに泣いたることの如き終生忘れ得ぬ想い出である。」
               
『戦雲を麾く』

 陰湿、壮絶ないじめ。。。怖すぎる…😨😨😨😨😨
 『長州出身者』は、泣く子も黙る明治維新の『官軍』ですので、えーと、要するに祖父や父の威を借りて、真面目で優秀な転校生一人になんと50余人で集団いじめ!! 『卑怯』の極み。。。
 壮絶いじめの動機は一体どこから来ていたのでしょうか?

 「殊に居常言動の悉くが皆余に対する讒罵なりしことは…余をして限りなく憤激と共に憐憫哀愁を懐かしめた。」
 。。。嫉妬、傲慢で嫉妬深い…。最悪です。

 「3年の学を終え、首席の故を以て皇太子台賜の銀時計を拝受するに決定発表の夜――大正7年7月8日の夕べ、満々たる野心に孜々3年を努めて一空に帰せし長派3,4の者等が、余の面前に集まりて憤叫怨嗟の限りなく、遂にある一人が余を罵詈せしとき、余は不肖実にその人に非ざるを慚愧すると共に、功利的頽廃かくの如く荒涼たる人々の心を悲痛と寂寞の思いに悵然たらざるを得なかった。」
 
 
功利的頽廃が蔓延した一派が大手を振り、最優秀に選ばれた生徒に対して集団いじめ、嫉妬と差別で罵詈雑言、怨嗟の恨み節。。。💦💦
 

**立身出世、学歴至上主義**

 幼年学校を首席で卒業し、西田氏は台賜の包みと一個の信玄袋を持って故郷へ帰省しました。
 「――将来の志願は余自身のみこれを知る。余の従来の学蹟を知る者すべてが余に期待する所は、功利栄達の将来である。…立身栄達の世評と期待とは余の故郷における人々の所有である。嗚呼、何たる寂しさぞ。」

 この大正頃の社会風潮をどんどんエスカレートして行けば、なんと昨今日本の「今だけ、金だけ、自分だけ」に辿り着くのかも。。。

**豪雨と労働者の困窮**

 幼年学校を卒業して東京へ上京して市ヶ谷台の陸軍士官学校に入学したのは、こんな頃だそうです。

 「10月、校内に流行性感冒発生し、燎原の如く拡がった。寝室は病室と化した。健康者は病者と隔離して、区隊ごとに一室に雑居することになり、学課述科共に出席少数の故に屡々休憩となり、余等は暇あるごとに寝室に集まっては縦談横語した。
 げにそは時あたかも米騒動の直後であり、天災――全国にわたれる暴風雨の惨害、労働者の暴動に等しき罷工怠業等を眼のあたりに見、」

 米騒動(食料問題)発生の上、線状降水帯が発生か?…暴風雨が各地に影響を残す中、低賃金重労働に怒った労働者がストライキ…。ついでに、流行性感冒=インフルエンザ(コロナもインフルの一種です)が蔓延し健康者と病人と隔離の上、外出規制…。
 なぜか、令和日本の近未来にリンクする大正日本。。。😨😨

**LGBT**

 大正8(1919)年、こんな事件も。

 「市ヶ谷台上に一大旋風を巻き起こせしものは武断党の出現であった。
 同期の不良無頼分子約30人が、「忠君愛国を信条とし云々…」の規約の下に結束し、その美名に隠れて放恣暴戻、校則を破り良風を傷つけ、その毒げに惨憺たるものがあった。
 …4月2年級に上がった余は、(中略)武断党の魔手は早くも美少年の多数を有する余の取締区隊に延び、困却して余に哀願する者あるに至った。
 …武断党の中心人物たりし何某が夏季休暇中妓楼に通い遂に悪疾を伝染して(中略)、のみならず、彼は世が取締区隊の某なる美少年を短刀を以て脅迫せしこと一再でなかった。」

 ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
 士官学校で後輩美少年が狙われる。。。短刀で脅され強制的に関係を迫られる。。こんな変な男色やらが堂々とまかり通っては、オチオチお風呂にも入れないしトイレにも行けない。。
 あれ、これも近未来のLGBT令和日本か? もしかして。。。😅😅😅

**不祥事もみ消しと忖度(そんたく)**

 騒動は更に続く。。。

 「破廉恥漢が長州出身者なりしが故に、余は長州出身者の牛耳を執れる某――彼は広島卒業当時余を面罵せし者である――を招致して、彼等一団が蔭に彼を庇護せるの一事を立証痛論し、彼等にして処理する能わずんば余自ら斬馬の剣を把らんと言うた。
 …果たして反動があった。
 長派は結束して不浄漢を庇護し、一方同派出身の学校職員に倚って一切を蓋わんとするに至った。
 …(区隊長の中には)長派出身で最も奸策を授けた区隊長某中尉も居た。」

  不祥事を起こしてるのに、”我が世の春”を謳歌する長州出身者だからって派閥学校職員を挙げてもみ消し、もみ消し。。。指導者の立場の区隊長中尉でさえも、同派後輩だからってえこ贔屓で忖度、忖度。。。 
 
 社会正義や社会秩序は何処へ。。。

***********************

 ところで、、、
 西田氏の自伝『戦雲を麾く』には、大正7(1918)年頃「当時流行の大本(おおもと)教」を研究したと書いてますが、大本教は1921年に第一次、1935年に第2次大弾圧を受けてます。(『大本教事件』)
 又、大正12(1923)年頃には発禁本北一輝著『国体論及純正社会主義』を読破して益々『日本改造、新生日本』を心願、憂国同志らを集めては活発に活動、士官学校同期の秩父宮殿下にも積極的に急接近。。。
 …元々幼年学校時代より長州派からいじめを受けていたのに全然お構いなしで、日本改造『革命=組織交代思想』を強化して周囲を鼓舞した若きリーダー、、、そりゃあ当然『戦雲を麾く』人生に間違いない…。
 
 あの時代の日本で、よく37歳まで生きていたな…、というのが私の正直な読書感想ですが、ご本人も十分自覚してたみたいで、これを「血の流れ」だと表現しています。
 
 「我が家を古今一貫して流るるものは戦闘的精神である。破邪顕正の赤い血であった。
 もと我が家が現姓を称えて世に立てるは、今より程遠くもなき幕末の世にして、余を以て僅かに第五代とする。
 始祖文周以前の事は明らかでない。唯々遠祖は伯耆羽衣石城主南条虎熊の家臣穴谷平八郎なりしと伝え聞くのみである。始祖以来の種々なる記録を見、今尚生き残れる吾が祖母に尋ね、地方の古老が語り告ぐる所をきき、余が通観するに維新以前初代二代の人々の歩みし道はかの石田梅厳の歩めるそれと大塩仲斎の歩めるそれと、任侠幡随院長兵衛の歩めるそれを合したる形式の小なるものなしり如くである。」

 私も、この歳になって古本読んで書き物するとは若い頃は夢にも思ってなかったので、一体ご先祖様は何をやっていたのかな…と最近ふと考えたりします。😅😅😅

 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


 

 

 



 

  

 
 


 
 
 

 
 
 
 

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?