親子の絆・父との別れ・新生活(自己紹介5)
「よしき、映画を観に行こう」
久しぶりに父から連絡があり、僕は千と千尋の神隠しを父と一緒に観に行って、ハンバーグを食べた。父とは1か月から2か月に1回程度会うくらいの距離間になっていた。
「また、遊ぼうな」
夜、そう言って車に乗り、暗闇に消えていく父を見送りながら、僕は泣いた。
あの時の涙には2つの意味があると思う。
優しい、ちゃんと話をしている父との別れが寂しいという涙と、今日は父がちゃんとしていてよかったという涙だ。
恐怖はきちんと身体に染みついていた。
そしてこの頃の僕は、心のどこかで「もう父とはこの先会えなくなる」事を悟っていたのかもしれない。
僕が9歳の頃の事だった。
今年の3月で30歳。これからの30年に弾みをつけるために、今までのハードモードだった30年を振り返っています!
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「よしき、出かけるよ」と母に言われ、僕は準備をしました。母は大きな荷物をもっていたと思います。夜中だったか、昼間だったかは覚えていないです(笑)
はっきり覚えているのは
「この家にはもう帰ってこないんだろうな」という予感を覚えた事だけです。
これが小学校2年生の終わりくらいだったかなと記憶しています。
父は、祖父のクリーニング屋さんに仕事に行っていましたが、とうとう出勤しなくなり、昼間から家にいました。寝てることもあれば、お酒を飲んでいたこともあったと思います。
そんな時期がしばらく続き、父はとうとう祖父の会社を辞めました。祖父母はとうとう父のめんどうを見切れなくなったんですね。
父はその後、ある工場に転職する事になります。
家では、相変わらずケンカが絶えず、僕と妹は2階の部屋でケンカが終わるのを待っていました。いじめは少なくなりましたが、とはいえ僕に平穏が訪れることはないわけですね(笑)
酔っぱらっている父とのケンカは不毛だったと思います。会話の内容までは覚えていないのですが、今思えば話がかみ合ってなかったような気がします。
質が悪かったのが、父が仕事を辞めたのにも関わらず、やはり生活レベルは落ちませんでした。今だからわかるのですが、多分祖父母はお金だけは父に渡していたのだと思います。つまり、生活面での面倒は見切れません、お金渡すから勘弁してね。というスタイルをとったという事ですね。
これはやばい家の典型だと思います(笑)
そんな状態ですから、父は転職してもまともに働かなかったんです。
1つ、今でも鮮明に覚えているエピソードがあります。
とある、雨の日の話です。
母と妹と僕の3人で、ご飯を食べていました。生まれたばかりの弟は寝ています。すると、電話が鳴りました。母はその電話を取るとペコペコ電話の前で頭を下げています。電話を切るやいなやいきなり「出かけるよ」と母に言われ、妹と生まれたばかりの弟と一緒に車に乗り込みました。
向かった先は父の職場。
雨と雷がすごい中、僕と妹と弟は車で待機。母は職場に向かって走っていきました。30分くらいでしょうか?雷がすごくて、車の中で泣いている弟をあやしていると母が車に戻ってきて、何も言わず家に帰りました。
どういうことか分かりますか?(笑)
父が無断欠勤を繰り返して、クビになったという事です(笑)
ちなみにこれ多分・推測が含まれています(笑)
母にも、あの時のことは聞いていません(笑)
いや、怖くて聞けないといった方が正しいと思います(笑)
大人になって、断片的な父のエピソードを母から聞いた結果、憶測ですがあの日、父はクビになったんだと思います。
僕は、自分の父が会社をクビになり、母がそんな会社に謝りに行っている現場付近で弟をあやしながら待っていたわけです。
ある意味、衝撃でした(笑)
父は、しばらく会社に行っていなかった。言われれば、帰ってくるとすでに酔っぱらっているなんてこともありました。多分母は、30分近くあの工場の上司みたいな人に頭を下げていたんだと思います。
僕の母は、気が強く、根性がある女性です。
家では父とけんかして、会社や迷惑をかけた人達に謝りにいって、警察からの連絡で、外で酔っぱらって寝てしまった父の事を迎えに行って。そんな生活にしっかり堪えていたと思います。でも、さすがに限界だったのでしょう(笑)
僕と妹と弟を連れて家を出ていくことに決めたんです。
このエピソードの少し後だったと思います。
冒頭僕が「この家にはもう帰ってこないんだなぁ」と予感したのは、母の顔を見た時でした。その時の母の顔を、僕は今でもはっきり覚えていて「子供たちは自分の手で育てる」という覚悟に満ちていました。
そして、母の実家。僕からすると母方の祖父母の家に住むことになったんです。
僕達は古い鉄骨造りの家の3階の一室を借りて生活することになりました。トイレは和式、風呂も小さく、隙間風がビュービュー入ってきます。昔の造りですからね。家の周りは自然豊かで、目の前が土手だったこともあり、家には虫も沢山入ってきました(笑)
僕は、祖父母にも気を遣っていました。祖父も酔っぱらうと豹変するタイプで、うるさくすると怒鳴られます(笑)
ここでも、父に気を遣っていたように祖父に気を遣っていました。
何よりも、親戚とはいえよそ者です。祖父母は僕に優しくしてくれるけど、心のどこかでは「住まわせてもらっている」という気持ちが強く、ご飯を食べるときも、お風呂に入るときも落ち着きませんでした。
この頃は、小学校まで母に車で送ってもらっていました。祖父母の家も、越谷市にあったのですが、僕が通っている小学校は学区外だったため、登校班が無かったのです。
1年生で体系に対するいじめの対処法を学んだ僕でしたが、小学2年生の頃も3年生の頃もまだ少しのいじめがありました。
この頃は、家が学区外だったこともあって、学校終わりに友達と遊ぶという事が出来ませんでした。家に帰る頃にはもう若干外が暗いんです。学校外でコミュニケーションが取れないのもあり、なかなか友達が出来ませんでした。
1年生の頃、いじめにあっていてもなんとか学校に通えたのは、友人がいたからでした。友人がいたからいじめを我慢する事が出来たのです。でも、2年生~3年生の頃は、そういう心底信頼できる友達が出来なかった。だから、学校に行くのが結構しんどかったんです。
とはいえ、家でその話をすることは出来ません。
今、僕が住んでいる家は祖父母の家。僕が学校でいじめにあい、友達も出来ないから学校に行きたくないなんて言おうものなら、余計な心配をかけてしまいます。だから、ひたすらこらえていました。
5歳の頃から数えて4年も経過するのに、結果はさんざんですね(笑)
さて、この頃、父とは1か月から2か月に1回程度しか会わなくなっていました。母から急に「パパに会いたい?」と聞かれ「会いたい」と答えると会える。この周期がちょうど2か月から3か月に1回程度でした。大好きだった祖父とは、もうこの頃には会えなくなっていました。
冒頭に書いたエピソードは1か月か2か月に一度しか会えなくなった父とのエピソードです。
仕事はしていなかったから、日雇いの仕事でお金を貯めて、僕達と一緒に出掛けていたのでしょう。
僕は、父が大好きでした。
気を遣ったり、怒られたり、アッパーをもらったり(笑)
大変だったことも沢山あったけれど、それでも父が好きだったんです。
自分の親です。当たり前じゃないですか。
楽しい思い出も沢山あったんです。本当に、優しい父だったんです。
だから母から、
「パパがパパじゃなくなるけど、それでもいい?」
と言われた時、ビックリした自分に驚きました。
僕は、いつかは父に会えなくなると確信していたのに、心のどこかでは楽しかったあの頃の家族にまた戻れる。そんな事を思っていたのかもしれません。
父との思い出は永遠に消えませんね(笑)
21年前のことなのに、今でもちゃんと覚えているんだから。
この記事を読んでいる人の中で、今親をやっている人がいたなら、覚えておいてください。
子供はちゃんと親を見ています。
親との思い出はちゃんと覚えています。
どんなに時間が経過してもです。
だから、模範となる行動をして、精一杯の愛情を注いであげてほしいです。
この先両親は離婚します。そして、新たな生活と絶望の4から5年生のハードすぎるいじめライフが始まります(笑)
解決したと思ったいじめ問題が復活するんです。しかも想像を超えるくらいハードになって。驚いたでしょ?(笑)
多分、いじめのピークはここです(笑)
僕は、ここからかなり歪みます(笑)
でもその話をする前に、明日は少しだけ、家族や兄弟、祖父母、友人など、幼少期の僕の人格を形成するのに重要な役割を担ってくれた人の事を簡単に紹介します。
めっちゃ泣きそう(笑)
まさか、思い出を語るのがこんなに大変だったなんて(笑)(笑)(笑)
はぁ~、しんどい(笑)
感傷に浸りたいので今日はこの辺でやめておきます。
続きはまた明日(笑)
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