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差別の根源は差別意識じゃなくて、無知と無関心 ~『パラサイト』を見て感じたコト

お久しぶりです!
ゴータマはやしだです。

なんと怠惰なことか、約2か月ぶりにNoteを書いています。
(密かに待ってくれていた人とアンチがいることを信じて。)
こんなに久しぶりだと、Noteの書き方どころか、いつかノートPCの開き方でさえも忘れてしまうんじゃないかと危惧してます。

これからはまた何かしら発信する習慣を取り戻していきたいので、「おもろい」「おもんない」というフィードバックを貰えると芸人冥利につきます。



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映画の内容

先日、映画『パラサイト』を見に行った。

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この映画はちまたでも評判で、アカデミー賞受賞の勢いも見せている。

『ジョーカー』フィーバーに乗り遅れた林田のミーハー魂は、「おい、せめてパラサイトくらいは見とかんと話題についていけんぞ…」と囁いてきた。

「『パラサイト』見てなくて友達にハブられるのは嫌だ!」

そう思い、特に映画のあらすじも調べないままにシネマへと突撃。
(ここからはネタバレを含む可能性があります。見ない方がいいかも)


映画が始まる。

まず衝撃だったこと。
「これって韓国の映画やったんか・・・」

そう、そんなことも知らないまま僕は『パラサイト』を見に行っていたのだ。にわかもここまで極めると、むしろすがすがしくない?
とにかく、事前知識はゼロだった。

しかし、事前知識ゼロの僕でも映画が始まって15分くらいで感じたことがある。

それは、「強烈な階層社会」映画の重要なテーマに扱われていること。

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映画の主人公?となるキム家
WiFiも通らない半地下に住み、ピザの箱を作る内職で生計を立てる「貧困層」として描かれている。

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一方、キム家が「パラサイト」することになるパク家
こちらは誰もがうらやむような豪邸を構え、運転手や家庭教師、家政婦を雇い入れる、THE「富裕層」として描かれている。

「貧困層」のキム家・「富裕層」のパク家
この2つの家が対照的に描かれているのが本映画の重要なポイント。


そして、この映画を通じて私たちに突きつけられているテーマが

「格差社会」だといえる。

韓国の社会には、明確な階層差が顕在化しており、学歴によって人生が大きく左右される。

パク家の家庭教師としてキム家の長男が雇い入れられ(半ば詐欺の手法で)たことを皮切りに、キム一家は次々とパク家へと浸食し、「パラサイト」していく、てのが映画の大まかなあらすじなんだけど、これは「貧困層」から「富裕層」への一種の階層移動だともいえる。
(面白いな、と思ったのが映画の中ではハッキリと「階層」とか「貧富」といったワードが使われていないこと。それとない描写で感じさせてくる)


僕の体験談

で、こっからは完全に僕の私見です。

僕も、本来なら大学に行けないような階層の出身で、奨学金を貰ってひぃこらいいながら大学に通えている状況。
(勉強は頑張れたので、おかげさまで私生活には何不自由なく暮らさせてもらってます、あざす!)

極端に例えるなら、僕の今の状況はパク家のような「富裕層」へと階層上昇のチャレンジをするキム家のような感じ。

しかし、普段日常生活を送ってて、周りとの明確な階層差を痛感させられる時も、多々あります。

「親が(マネー)出してくれるから笑」
という何気ない一言。

家賃だとか、教育実習中の宿代だとか、帰省代だとか、、、全部自分でやりくりしている身からすると「羨ましい」と感じるとともに、「出自が全てを決めるとは言わんけど、みんな知らんだけでやっぱ日本にも階層ってあるんやなー」と格差を思い知らされる。


映画の中にはこんなシーンがある。
ある日の豪雨によって「貧困層」であるキム家の住む住宅は洪水の被害にあい、キム家は体育館で避難生活を強いられることに

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(どうでもいいが、洪水中にも関わらずタバコを拾い一服するギジョンがこの上なくエロい。間違いなく本映画最大のオススメポイントだろう。タバコを吸う男は嫌悪されてもしかたないが、たばこを吸う女性は社会全体で守らねばならないだろう)


一方「富裕層」のパク家はそんなことつゆ知らず「雨のおかげでPM2.5が洗い流されたよHAHAHA!」と翌日に大規模な誕生日パーティを開催

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当然「富裕層」パク家にとって、前夜の洪水によって「貧困層」キム家がどれほどの被害を被ったかなんて、知る由もない。

このシーンが、僕にとっては脳裏に焼き付いて離れず、映画の中で一番印象に残っている。

もしこれが貧富じゃなくて身長だったら・・・?

この映画では「貧富の格差」が大きなテーマとして扱われている。
身近な生活では分かりづらいので、何か別のテーマで置き換えよう。
これを日常生活に置き換えたとき、どんな「格差」が考えられるか?

非常に陳腐な置き換えだけれど、ここは「身長」で例えたい。

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自慢だけど、僕は身長185cmの高身長、恵体だ。
これは僕にとっては当たり前のことなので、高身長だから特別なんだ、というようなことは何も感じない。「当たり前のこと」だから。
だから、当たり前のように「高身長」として振る舞う。
日常生活における様々な発言、行動にこの「当たり前」がにじみ出すだろう。(たとえば、「背ちっさ笑」という発言とか、物理的に見下すとか)

僕は背の低い人の視点が分からないし、無関心なので、当たり前にこんな発言や行動をとる。そこには「差別意識」など毛頭ない。

しかし、これは「低身長」の人にとってはどう捉えられるだろう?
僕の何気ない行動や発言が、もしかしたら本人にとっては「身長差」を痛烈に刺激する鋭利な刃物に感じられるかもしれない。

この時、僕は意識してないだけで、明確に「差別」の構造が存在しているといえる

知らないこと、無関心なことが「差別」を生み出す

『パラサイト』では、「富裕層」のパク家が繰り出す様々な発言や行動が、「貧困層」であるキム家(特に父親)の怒りを逆撫でし、最後には憤慨し我慢できなくなったキム家の父がパク家の父を刺し殺してしまう(全部ネタバレしてしまった)。
衝撃!

けれども、この時「富裕層」パク家は、「差別してやろう」と明確な意図をもって「貧困層」キム家と接していたわけでは決してない。
あくまでもパク家は「普通に」「当たり前に」過ごしていただけで、むしろ格差を「意識していた」というよりも、格差に対し「全くの無知・無関心」であったと指摘できる。

で、この「無知・無関心」が、キム家にとってはこの上ない極上の「差別意識」として受け止められたというわけだ。

これは、大きな教訓ではないだろうか?
僕たちが社会の中で生活する中で、自分と異なる人々と接する機会はごまんとある。
そんな時に自分が、相手の民族・文化・パーソナリティ・経済状況などなどに対して「無知・無関心」であると、無意識の元に相手のみぞおちをぶん殴る「差別」を繰り出してしまうかもしれない。
(たとえば、イスラム教徒の人をしゃぶしゃぶ食べ放題の「しゃぶ葉」に連れていくとかね)

ダウンロード

恐らく、ムスリムはジハードも辞さないだろう。


無知・無関心は誰かにとっての「差別」となりうる可能性がある。
常に視野を広く持って、色んな経験を積むことで「知識・知恵」を蓄えて、「差別」の芽を刈り取っていかなければならないな、
というのが僕が得た『パラサイト』からの教訓だ。