生きるとは何か
誕生日らしく、生について考える。
私という存在はどういうところに在るものなのだろうか。
80億に迫ろうとする人類の中の1個体として、ずいぶんと続いている人類史の中の1個体として生きるとはどういうことなのか。
両手の自由と非現実の思考という能力を保持しているとされている人類の中の1個体。
エゴを活用してどこか、そしてなぜかきれいに見せたり反対に汚く見せたりする人類の中の1個体。
自らを自然から隔離させ、“自然”を定義し、“壊れている状態”を定義し、自らの責として課し、守ろうとする生物の中の1個体。
分け与えるよりも執着が得意な生物の中の1個体。
経済活動の中で“対価“の概念を大切にしている生物の中の1個体。
自ら選んでいる“感覚“を重んじ、強制を抑圧と捉える生物の中の1個体。
どこかで学ぶことを辞め、完成されたかのように思う生物の中の1個体。
“教育活動“という取り組みによって理想の人類を”創る“ことができると信じて止まない生物の中の1個体。
自ら規制を創り、自ら破り、自由を求め、また規制を求める営みを繰り返す生物の中の1個体。
勝手に地球と名前を付けた場に線を引き、各々に名前を付け、奪ったり守ったりを繰り返し続けている生物の中の1個体。
私は自身をその様な個体であると考えている。
そしてその様な個体が生きていることに意味も価値もない。それは別に絶望でも諦念でもない。あろうはずもない。意味や価値は事実ではなく、自らも含めた主体以外の誰かから付与されるものである。自らを意味付け、価値づけるとき、自らは主体ではなく客体であるかのように振る舞う。
その様な客体らしさを装った存在を私は存在していると考えてはいないので私には関係が無い。なんでもいい。
ただし、一度全てを諦めて再度社会活動(積極的に何かしらに影響を与える活動)を開始したこの個体を手段として活用し、自分自身の最大のエゴ、自我、我儘として努力をしたくてもできない環境を、より良い生活を目指したくても全くその機会が無い状況を、その中で生きる個体を無くすことをするために生きている。
誰かにとって善いことを私の中で勝手に創り上げて実行するのではなく、私が許せない状況を無くすために私は生きる。
それは善でも悪でもなく、またその様な判断はどこかいつか、誰かに任せつつ、この個体を手段として最大限活用し、そしてどこかで天寿を全うできればいうことはない。
人生はどこまでも自由であり、不自由でもある。
近年人類はひたすらに“表向き“を重要視してきているように思う。技術の発達により自分以外の個体の目にさらされやすく、またその舞台に登場しやすくなり、”見せる“ことに必死になっているように思う。
そして本来“見ないこと“”見せないこと“が選択肢にあるにも関わらずまるで強制されたかのように影響を受けているように思う。
嘆いても仕方のないことだが、あまりにも簡単に上塗りができる世の中であり、場合によっては関係性の取捨選択もあまりに容易。
もう苦しむことや失敗、もどかしさなど無くなっていくのではないかとさえ思われる。全部が全部“それでいい”となっていくのではないかと。9割を超える人類にとって“死に至る病”など到底理解されない様な世界がくるのかもしれない。何でもかんでも肯定し、拡張し、正解が無数に増える感じがする。
祝日を考えることがほぼなくなり、カレンダーをフォローしていないのだが、そういえば誕生日とせっかくなのでこの個体が“客体らしく振る舞い続けるこの個体”がどうありたいかも書いておこうと思う。
兎にも角にも気骨・知性・誠意・恩赦・寛容・敬意・健康・情操・謙虚・敬意といった特性に満ちた個体で在り続けてみたいものだと思う。
正直いま本日までで32年間生きてきた、生かされてきたのだが、なぜまだこの様な大したことない個であるのかと思うと恥ずかしく、悔しく感じるというのが正直な感想だ。ただ同時に私は自分をとてつもなく好きでもある。自信を最大値で持っている。それは自信を無くすほどまでには努力していない自負があるからだ。つまり頑張ればどうとでもできると、その様な恵まれた環境で生を過ごしていると感じている。
後悔してもしょうがないと言って後悔しないことをできるのであればだれだって後悔しない。
後悔はしっかりとする。過去の自分と向き合い、これからの自分を創りつつ手段としての個、その在り方を“まともな”ものとするため、きちんと後悔する。
内省・後悔・反省なんでもいいが、とにかくポジティブに楽天的に生きていこうと想う頃合いはもう過ぎた。明確な目的がある以上、そこに対しての到達具合、目的を持ったまま死ななくてよい(=達成してから死ぬ)状態であるためにはこのいまの在り方ではあまり好ましくはない。
成長という言葉はどこか進歩史観的で好んではないが、個体としては上塗りではなく成長をさせて手段を磨きつつ影響を及ぼしていきたいものだと思う。
この様ななんとも面白い人類の中の個体として生命活動をさせてくれている両親を初めとした周囲の方、多くの方の祝いの言葉、1000年は生きて欲しいと言ってくれる友人、政治家になってくれとこんな私に為政を期待してくださる友人、ただのガイジンを思いっきり祝ってくれた友人に感謝しつつ32歳という1年を生きる。