八日目の蝉 解説編(4)
平和になって、社会が豊かになるほど、人は他人の助けを必要としなくなります。
平和が続くと、一人で生きられるってことで、結婚しない人が増え、結婚しても嫌なことがあれば、すぐに離婚してしまうとのこと。
人間とは集団を作って暮らす社会的な生き物。
だから、言語コミュニケーション能力、知性、理性を持つように、脳は進化してきたのです。
なにしろ、複雑で流動的な人間関係への対応や、利害調整が出来なきゃ、集団の中で生きるのが難しくなりますからね。
社会集団のサイズと大脳新皮質の大きさが相関しているとの説があります。
社会的脳仮説とは、霊長類の脳は、社会的能力を獲得するために大きくなった、とするもの。
ある時は協力し、別の時には競争したり裏切ったりの複雑な社会で、生き残ってゆくために、人間の脳が大きくなった、との考えに、オイラも納得です。
無意識のうちに協調と競争・裏切りのバランスをとって行動を選択しているということから、マキアヴェッリ的知性仮説とも呼ばれます。
大脳新皮質が進化した理由が、複雑な社会的関係を扱うためであるなら、社会的能力こそが知性の本質ということですね。
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人間は公正な行動には報償を与えようとする一方で、たとえ自分が損をすることになっても、不公正な行動には罰を与えることを厭わない(いとわない)ようにできています。
不公正な行為に制裁を加えようと決断する時、脳内で報酬系の働きが活発化するということは、罰することによって満足や自己確認を得ることを示しています。
なぜ、非協力的な行動をする者に対して、(自己犠牲を払っても)罰を与えるのかといえば、集団内の裏切りを抑制し、社会の規範(ルール)を維持するため。
https://note.com/gashin_syoutan/n/nbb177b324dbc
心の発達では、(乳幼児期の)臨界期に外の世界からの情報がバランスよく入力されることが重要です。
臨界期に大事にされた体験があれば、他者への思いやりが育まれ、弱者救済へと導かれていきます。
反対に、虐待のように、恐れや不安、強い痛みが長期間繰り返されると、ストレスホルモンの分泌が促され、脳の仕組みや働きに悪影響を及ぼします。
つまり、信頼や人間関係の重要性を伝えない(家庭)教育は社会にとっても喜ばしいことではありません。
加害者に偽りの絆で近づき死刑制度廃止を企んだり、暗殺者の減刑嘆願することは、人間の脳になんらかのバイアスがかかった結果であることは、もうおわかりでしょう。
https://note.com/gashin_syoutan/n/nbb177b324dbc
他人の痛みを目撃した時、自分自身が痛みに苦しんでいる時と脳の同じ部位が活発に活動しているんです。
人間の脳を細胞単位で研究できないため、ミラーニューロンの存在は確認されていません。
ところが、脳イメージング研究で、実際に行動するだけでなく、他者の行動を観察している時にも、前頭葉と頭頂葉の一部が活動しているのです。
この事実からは、ミラーニューロンが存在しているのは間違いのないところ。
そして、新生児が他者の行動を理解するのは、ミラーニューロンが発達しているから。
特に前頭葉は、現在の行動から将来生じるであろう結果を推測し、よりよい行動を選択する機能に関係します。
すなわち、許されない社会的応答を抑圧する能力=よくない行動を我慢する能力に関わるということ。
また、ソマティック・マーカー仮説によると、人の行動や意志の決定は、目の前の場面にどういう行動の選択肢があるか、その結果はどうなるかを思い浮かべた時に生じる感情・感覚的な快・不快に応じて、「より『快』なるものが選択される」となります。
まとめると、こうなります。
ところが、どうでしょう。
自由で平等な社会を目指してきた結果、人々から許されない社会的応答を抑圧する能力=よくない行動を我慢する能力が削ぎ落されてきているじゃないですか。
これじゃ、子孫の生存・繁殖の確率の低い社会は目前ってことになりませんか(笑)?
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自由は、他者との一切の関係を捨象した孤立する(抽象的)個人の属性ではありません。
罰によって相互協力関係を維持することで、社会規範が維持されている、ということは、自由は普遍的ではないということです。
むしろ、自由は他者との関係によってその都度、規定され・再定義されるべきもの。
卑劣なことをすると、他者から批判・疎外され、憎悪の対象となります。
独自の人格とはいっても、オイラたちは家族、民族、国家の一員であり、社会正義や道徳的責任と不可分の関係にあるのです。
悪巧みや嘘が露呈して罰を受ける、すなわち自由が制限されるような仕組みになっているからこそ、誠実かつ倫理的な行動を実践し、社会性を保つことができるようになるのです。
こうして、他人の声を自分の内面に取り込みながら、道徳心が育っていきます。
道徳的であるためには、過去を振り返ったり、自己の内面からの声に耳を傾けることで、その都度、自己修正が行われます。
社会心理学者のジョナサン・ハイトによれば、道徳体系とは「価値観と習慣と制度、それに進化した心理的メカニズムが連動して、利己心を抑えたり、統制したりすることで社会生活を可能にする仕組み」。
誰かを喜ばせたり、恥ずかしさや罪悪感をなくすために行動するってことは、「情けは人の為ならず」です。
他者との関係によってその都度、規定され・再定義される自由の方が、子孫の生存・繁殖の確率の「高い」社会の実現に寄与するのですから、「負荷なき自己」「原子のようにバラバラな個人」の行使する自由は見直されるべきではないでしょうか。
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アイデンティティの拡散
薫としての過去の物語
恵理菜が紡ごうとしている物語
https://note.com/gashin_syoutan/n/na4ff693b5785
アラスデア・マッキンタイアによる人格の物語的な考え方を知って「八日目の蝉」を読むと、理解が深まること請け合いです。
自己は社会的・歴史的役割や立場から切り離せない、とマッキンタイアは言います。
自由だからといって、自分の意志の支配するがままに行為している訳ではないのです。
とは言え、オイラたちは目的や目標を外的な権威に押し付けられているわけでもなく、むしろ、社会的アイデンティティの担い手として自分が置かれた状況に主体性をもって対処して暮らしているのではないでしょうか。
オイラたちの人生の物語はあるべき姿を期待する文化的背景に左右され、聞き手によってその都度、姿を変えています。
人生とは未完成の物語を生きる「物語の探求」のこと。
「人生を生きる」ことは、ある程度のまとまりと首尾一貫性を指向する「探求の物語」を演じること。
「物語る存在」である自分の存在証明は、生い立ち、家族構成をベースに「人生の物語」を語ること。
物語を語ることで自分の立ち位置を決め、どのような社会のどのような世代に組み込まれているかを感じとりながら人生を生きているのです。
「私はどの物語の中に自分の役を見つけられるのか」がわからなければ、「私はどうすればよいか」が見えてきません。
これがアイデンティティの拡散です。
薫は日本という社会で、自由に生きる権利を持っています。
でも、アイデンティティの拡散が起こってしまっています。
アイデンティティは自由や権利を主張するだけではどうにもならないものなのですね。
では、ミラーニューロンの機能が十全で社会的能力が高いにも関わらず、日本という社会が悪いから、薫のアイデンティティは拡散してしまったのでしょうか?
いえいえ、違います。
臨界期に大事にされた体験に裏打ちされた薫の物語を否定できなからこそ、実の親のもとで暮らす恵理菜としての物語が自分のものと思えなかったのではないでしょうか。
謝辞 : これまで、解説編を含めて5回もお付き合い頂き、ありがとうございました。
注釈 : マッキンタイアの考え方は、マイケル・サンデルと同じく共同体主義(コミュニタリアニズム)に属します。
それと、おまえさんに、お知らせです。
新たにマガジン作ることできましたので、ぜひ、読んでみてくださいね。
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