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続ける愚痴は悪、気付く愚痴は正義

愚痴は正義か、悪か。

世間一般的には「愚痴」は悪いものとして捉えられる。
今更言っても仕方のないことをだらだらと話すのは相手の時間を奪うし、
非生産的だからだ。

愚痴は仏教では「愚癡」と書く。
「癡」はサンスクリット語のmohaに由来し「妄想、混乱、鈍さ」を表す。

Wikipedia

上記の通り、愚痴をする事は自分の考えの混乱から、本心がわからなくなっている状態と言える。

私はこれを考えていると、いわゆる「愚痴る」ことが、一概に悪いものではないように感じてきた。
なぜなら、「愚痴」の裏には「援助」を求めていると感じるからだ。

話者本人の悩みの種があり、一向に解決しない。
思い悩んでいるうちに、自分自身の本心が霞み始めて、混乱をきたす。
だから、彼らが本当に言いたい事は「愚痴」ではなく「助けて」なのではないだろうか?
そして「愚痴」だとしても、それは「助け」を求める本心なのではないだろうか?

そのため、私は一概にすべての「愚痴」を否定する気にはなれない。

愚痴ったら、気付く。

「愚痴」はある種の本心だと先に述べた。
愚痴は現状に対する不満や不安、焦りや葛藤が言葉として、
かつ、本心として表現された状態だ。

本心がわかるなら「愚痴る」ことは良いことだと思うだろう。
しかし、問題は愚痴った後だ。

「今は人生に不満で仕方がない」

これに対して、1年後、5年後、10年後、自分はなんと言っているだろうか。
もし、同じ事を言っていたら、

自分の本心を知っていたのに行動しなかった

という事ではないだろうか?
逆に言えば、本心に気づいて行動する事は、素晴らしいことだと思う。

だから、私はこう思う。

続ける愚痴は悪、気付いた愚痴は正義。

私自身、ここ1年くらい仕事や人間関係など、
たくさん「愚痴って」きた。
だからその分、沢山行動しようと思う。
せっかく、本心に気付けたのだから。


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