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#23 『女ぎらい ニッポンのミソジニー』 上野千鶴子 / 朝日文庫 2018

こんにちは!
会社のモヤモヤを読書で解きほぐしたい
40代ワーママのKです。

主に仕事用に読んだビジネス本の記録を
投稿しています。


日本のカイシャはほとんどが圧倒的男性社会。
私の勤める会社も同じです。

所属部署に女性ひとり。会議室に女性ひとり。
飲み会に女性ひとり。

居心地いいもときも悪いときもあるのですが、長年うっすら感じてきたのが、男性同士の連帯感には、やはりどこか入っていけないものがあるなぁ、ということです。

あるいは、私の(女性の)いるときといないときで、話題や話しぶりが違うということ。

そのモヤモヤの正体を、この本が、様々な角度から示してくれていて、読了当時、得心した記憶があります。例えばこういうこと。

男を見ていると、かれらは女といるよりも、男同士でいることのほうがもっと好きで、気持ちよいのではないか、と思わされることがよくある。女の値打ちは男に選ばれることによって決まる(と考えられている)が、男の値打ちは女に選ばれることによって決まらない。その点では、異性愛の秩序は、男と女にとって非対称にできている。男の値打ちは何で決まるか?男同士の覇権ゲームで決まる。男に対する最大の評価は、同性の男性から「おぬし、できるな」と賞賛を浴びることではないだろうか。時代劇に出てくるように、刃を交えた好敵手から鍔迫り合いでにじりよられて、このことばを耳元で囁かれたときの、ぞくぞくするような快感にくらべたら、女からの承認などなにほどのものでもないと思うんじゃないか(以下略)

女ぎらい ニッポンのミソジニー 上野千鶴子


【読書メモ】

  • ミソジニー=女性嫌悪。男性の視点からは女性蔑視となり、女性の視点からは自己嫌悪となる。

  • ホモソーシャルな連帯とは、性的主体と認め合った者同士の連帯。ホモソーシャルな男が自分の性的主体性を確認するためのしかけが、女を性的客体とする(いわゆるモノにする)こと。女を性的客体とすることを互いに承認しあうことで、ホモソーシャルな連帯が成立する。

  • ホモソーシャルな男性集団では、そのなかでの順位に従って自ずと女性が配分されてきた。男性の努力は、男性集団のあいだでの卓越化のためのものであった。こうした地位の序列を伴う対人関係は定型的なものである。こんにちコミュニケーション力が問われるのは、定型化されない対人関係が増加したからと推察される。

  • たとえば古代ギリシャでは、性愛の最高位に少年愛があったが、両者の関係は非対称的だった。他方、女は子を産むための手段であり、家畜や奴隷と同じく財産の一種とされた。

  • 現代でも、男は権力、経済力、名誉を男同士で争う。そこで覇権を手にしたものには女が集まる。それは女も男の序列をつうじて財の分配に与ることの効率よさに気づいているから。この逆は女の世界では起きない。女の世界の覇権ゲームはかならず男の評価が入って女同士を分断する。


子供の頃、母親からは何かにつけ「女は手に職を」と言われて育ちました。教師、税理士、薬剤師などなど。

あれは、女性が生きにくい世の中で、組織や男に頼らず生きる術を娘に持たせたいという母の願いであり、母なりの処世術の提案であったことを、改めて認識しました。

母にとっても決して生きやすい世の中ではなかったということ。時代を遡るので、当然ですが。

そして令和の時代、多様性が尊重される世の中になり、男性も女性も、この本に書かれた事例や事案と変わってきている部分もあります。

とはいえ、過去から定められている会社のルールが主に男性社員を想定したものだったり、上の世代の男性たちから無意識に引き継がれる性別バイアスがあったり、職場において男女間に見えない線引きがまだまだあることは疑いようのない事実です。

男女の頭と心のうちにそれぞれ、女性蔑視や女性嫌悪があることを知り、その上で、理性によって職場からそれを追放していくこと。

そのとき、この本のように、自分(女性)たちのことは自分の口で語り、自分たちの居場所を確立していかなければならないと感じます。


ではまた。


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