ねじれ双角錐群の「群れ」をテーマにした合同誌『無花果の断面』への感想


 ねじれ双角錐群のSF短編アンソロジー「無花果の断面」を読み、私も何かを書かねばなるまいと思った。「群れ」というテーマは社会学的にも生物学的にも非常においしいところの詰まったテーマであり、このアンソロジーに収録された六編の物語は余すことなくその可能性を食い散らかしている。実に贅沢な一冊であって面白い。優れた作品からは良質な発想が生まれて、自分ならこうするだろうなという妄想が膨らむ。物語を紡ぐ自分の姿を想像すれば、もうそこに作品は出来上がるのかもしれない。しかし、そうして作られた作品はどこか嘘くさい。自分の中にある自分が書くであろう自作は、絶対に新しい地平にたどり着けない。眠る時に見る夢が、決して自らのインプットの材料しか使えないように。

 なので、ひとまず落ち着いて、このアンソロジーの感想を記していきたい。書き連ねていくことで何か私にとって発想の手助けになってくれるかも知れない。

 まずは『教室』から。著者は石井僚一さん。これは詩によって物語を囲い込む網の目のような作品だった。パターンから始まって、物語の輪郭を描いていくのかと思いきや、一旦そこから加速度的に離れていき、物語の奥底を綺麗に編み込んでいく。はじめに作ったパターンは綺麗に崩されたと思いきや、最後にはまた読者の身近なところに視点が戻される。しかし、その視点は物語の外側に置かれていて、どこか物悲しさを残して終わりへと向かうのだ。端正な文章と、文章と文章の繋ぎ目に物語を詰め込む楽しさが詰まっている良作でした。

 次に『マーズ・エクリプス』。著者は笹帽子さん。火星移住事業に従事するナビたちによる、地球と火星間の歴史記述という壮大な話と、三人のナビというか人工知能というか、とにかく自律型のロボみたいな存在(私はロックマンエグゼに出てくるナビをイメージしました。本作では結構戦闘を行うシーンも多い)のうちの一人が過去に取り残されてしまう問題を解決するサイエンスフィクション。専門的な用語も多く出てくるが、大体はググれば分かるので新たな知見を得られる良作だった。特にトランザクションの概念が頭に入っていれば作品の面白さは段違いに飛躍するので、ググった最初のページを読めばいいと思う。過去と現在に起きた事象の記述が同時に成立しなければ、その処理はロールバックされて却下され、そうやって人類の歴史は無数の記述の寄せ集めで出来ているとうまく舞台装置を使って語っている。世界線の重ね合わせ、記述のデータベース。読んでいるうちに何度もなるほどと頷くことが多い作品だった。

 murashitさんの『大勢なので』。不思議なノートのお話。「いま、ここ」と言った瞬間に、書いた瞬間に、そして読んだ瞬間にもうその一瞬は過ぎ去っている。そんな時間の持続性を日常的な語りを使って、次々とノートを媒体に話を未来へ未来へと繋いでいく。語りの無限性を描きつつも、その主観の現在の主観が可能なのは、未来の予言が成功した過去の自分でしかない。フランスの哲学者、ベルグソンの存在論を思い出す。過去に支えられているからこその未来が存在し、そこに過剰な主観の存在はありえず存在のみが担保されているのだという彼一流のレトリックを、本作は一冊のノートと無限の図書館というギミックを使って最高の形で物語に落とし込んでいる。実に物語を通じての無限への挑戦は可算的でもありながら、主観という概念が折り混ざることで不可算、すなわちアンカウンタブルインフィニティで、その領域にこそ人類の意識の群れが存在する……こう無理矢理にでも読むとすごい作品だと思う。

 次は小林貫さんの『分散する風景』。これは母の死の予行をするために、代替母を何人も雇ってその死を経験し、本番の母の死のダメージを少なくしようという非常に人間の経験を群れ化しようとした作品だった。何かそう、まるで関係ないけれど、猫を何匹も飼っている先輩が私にはいまして、もう何匹も看取っているそうですが、やっぱり何度経験しても猫の死には慣れないそうです。でも、それで良いんだと述べてました。別れの悲しみもセットで俺は猫を飼っている。私はその言葉を聞いて猫を飼うことができなくなりました。本作に戻ると、この主人公の母を失う恐怖から来る行動は、この世界では一般的なのかな? と思ってしまうほどに冷静で自然なので勘違いさせられるのですが、そんな倫理観はない世界のようだった。私がこの小説を好きなのは、異常さを殊更異常に描かない、その冷静な筆致だった。結局、主人公は本当の母の死をどう捉えるようになるのか。是非、読んでみて思いを馳せてみて欲しい。

『電子蝗害の夜』。三好景さん。一年に一作くらい、本当にその人にしか書けない作品に出会うことがある。作者のことを多くは知らないのに、こんなのはこの人にしか書けないだろうと圧倒される一作だ。本作はその評価に値する。群れ言語によって書かれた本作は、語りを何層にも同時に展開することで、読み手を群れ言語で書かれた小説の中に誘う。なので、時折ストーリーが切れて別の視点と繋がるのは、ただの一元的なカッティングの結果ではない。何もかもが群れの中で展開している群れの出来事なのだ。ストーリー自体も群れをテーマにしたいくつかの興味深い物語を的確に積み上げていくタフな筋なのだが、言語学者である三好景が現れて「創発」によって強制的に物語を転調させていく。その彼女の内側にある動機の解明や、群れの言語の基礎組みにも舌を巻くばかりだった。見事に『電子蝗害の夜』に取り込まれた格好になる。最後に読んだあとがきの一文。胸が詰まります。きっと私はこの作品を何年も何十年も覚えて捉えて忘れないだろう。

 最後は鴻上怜さんの『なまえ』。どこにでもあるような普通の学校に不思議な転校生がやってきて、徐々にクラスの中で浮いていき、そして最後は……どうなる? と先を予想しながら読んでいたのだが、「そうくるのか」と驚きに笑ってしまった。ふと本を閉じて考えると、これはありきたりなテーマなのではないかと思わされるけれど、考えれば考える度にこの作品が行った発明の数々を思い出しては唸る他なくなる。そう言えば人と人との関係の始まりも「なまえ」から始まることが多い。そんな浅い感想から読み返すと、実に多岐にわたるエピソードの数々が、テーマの凡庸さを逆手に取った読みやすさの罠へと私を突き落とす。あと、この店に出てくるバーは年内に潰れてもおかしくない。

 以上でアンソロジーを通しての感想は述べたが、通読して思うのは、どれも決して一筋縄ではいかない作品の奥深さととりとめのなさである。一読して「すぐ分かる!」という種類のものではないし、そうならないことにこのアンソロジーの魅力がある。何かとタイパが重視される世の中で(この前美容室で「韓国ドラマを倍速で見ている」と話す女子高生が隣りで髪を切ってもらっていて、すごいなと思った)読書というのは流行らないのかもしれない。でも、こうやって感想を書いていると、時々思う。こうやって何か難しいものを自分なりに解釈してアウトプットするのは、たとえ拙くてもその世界を自分の手に乗せて楽しめるってことで、それは組み立てたプラモデルにポーズを取らせたり、理想の角度で飾って写真を取ってみたり、遠くから眺めて悦に入ってみたり、楽しいことも多い遊びだ。そしてこの世で一番贅沢な人間は、お金をたくさん使える人じゃなくて、時間を自分の好きなことに目一杯使える人、それが有意義でもそうでなくても、時間を何の制約もなく好きに湯水のように使える人だと思う。時間はお金では買えないからだ。雑に粗末に使う。それが道楽であり豊かさだ。そういう風に生きたいと私は思う。

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