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奈良旅行記1「仏像なんて眺めて、楽しいんすか」

「仏像なんて眺めて、楽しいんすか」

 ゴールデンウィークは奈良を回ることに決めていた。
 どうして奈良なのか。
 その理由だが、実は判然としない。
 どういうことか。
 私は全国各地を一人で旅行するのが好きで、もう五、六年はまとまった休みの度に各地を回っている。
 基本的に旅程の傾向は決まっていて、ほぼプランなしで現地を訪れて、その場に着いてから気になった場所をスマホで調べながら巡る。
 気に入った場所があれば一日をそこで過ごすし、時には電車に乗ってその都道府県の境まで行くみたいな気まぐれで一日中移動しているなんてこともある。
 けれども、どうしても事前に決めておかなくてはならない事柄はある。
 それが宿と新幹線だ。
 新幹線は一ヶ月前からの販売だったはずなので、出発日から逆算して頑張って予約する。
 足が一ヶ月前の予約ならば、宿はおおよそ三ヶ月前を目安にしている。十分な安全マージンを取ってのブッキングだ。
 だから、私がゴールデンウィークの奈良行きを決めたのは二月ということになる。
 いや。
 二月のことなんて覚えていない。
 だから、五月になってそろそろ奈良に行くんだなぁとなると、何で俺は奈良に行きたかったんだっけ、となる。
 二月の日記をめくるが、何も書かれていない。
 ひたすら仕事が辛いしか書かれていない。
 この手書きの日記帳は、いつか振り返った時にいい思い出になるのか。仕事辞めたら全部燃やしそうだな。
 とにかく奈良だ。
 さて、ゴールデンウィークが差し迫った四月の終わりに、職場の人と飲むことになった。
 五、六人が集まってチェーンの居酒屋。
 飲み放題、コース料理。
 それは良いのだが、この仲間たちは皆普段から仲良し……という訳でもない。そもそも誰が誰もを仲が良いなんて思っていない。ただ発起人が皆のことを仲良しグループだと思っているのである。
 だから、壊滅的に話題はない。
 故に、必然的に話はゴールデンウィークの話題に至る。
「がらんさんは予定あるんすか」
 聞かれた。嘘を答えてもいいが、変に食いつかれても嫌なので無難に本当のことを言う。嘘で続く会話は次の嘘が必要なので面倒くさい。
「旅行かな」
「へえ、どこですか」
「奈良……」
「修学旅行で行きました! がらんさんは行きましたか?」
「行った」
 ここで会話は途切れる。
 これでいい。が、そのまま黙っていればいいものを、酔っ払いというのは恐ろしいもので「奈良に行って何するんですか」という話の広げ方をしてくる。
 もしかしたら、この子は奈良出身の奈良っ子であり、何かを教えてくれるのかもしれない。
 そんな期待があったかどうか。
 あった気もする。でも、分からない。
 冷静に考えれば「修学旅行で行きました!」と宣言されてるから、奈良出身の可能性は少し低い訳だが、脊髄反射の会話では三行前のことはもう無かったことになる。
 そんな四月の終わりの不毛な飲み会のことでさえ、私の日記には何も書かれていない。記憶にもない。
 ただ、私はもう酒だけを相手にしていたいから、本当のことをひたすらに口にする。
「仏像とか、寺とか、見るかな?」
「へえ、仏像とかって、見て楽しいんすか?」
 何だかハッとさせられる質問だった。
 私は寺とか仏像とか遺跡とか古墳とか、そういう何かがかつてあった場所に行くのが好きだった。
 けれども、そこには何となく自分が歴史の当事者になれる気がして、楽しみを持っていただけだった。
 はるか古代の人が歩いた場所に立っていると、色々な物語が浮かんできて楽しいのだ。
 しかし、仏像はどうなんだろうか。
 仏像を見て楽しいと思ったことなんて、あっただろうか。感動したことなんてあっただろうか。
 飲み会が終わり、久しぶりに千鳥足になるくらい酔ってしまった。
 電車に揺られて、一駅ごとに降り、自販機で飲み物を買って飲み、次の電車に乗るという行為を繰り返す。何でそんなことをしたのかは分からない。
 締めのラーメンが胃に堪える年齢になってから、変な代償行為を覚えたのだろう。
 そんなポンコツの頭の中でも、片隅では大して親しくもない同僚の一言が響いていた。
「仏像見て、楽しいんすか」
 その場で「楽しいんだが?」っとブチ切れて酒の席を荒らすことができたならば、きっと彼らとは縁も切れるのだろうが、そんな度胸も無ければ、確たる「仏像鑑賞の醍醐味」みたいなうんちくもない。
 前者はまあ今は持ってなくても良いが、後者は探してみても良いかなと思えた。
 だから。

 奈良に行って、楽しく大仏を見よう!

 これが今回の旅のテーマです。

受容のまち

 初日。JR奈良駅。とても暑い。
 到着したのが昼過ぎだったので、一日目はひとまず定番の「奈良の大仏」を拝もうと決めた。とりあえず大仏、である。
 奈良市の観光はバス網が美しく整備されているので、それを使わない手はない。
 交通系ICカードも、普段使っていたものが使える。
 それにしても、電車やバスに乗っていても気がつくのは、この街の「外から来た人を受け入れる」力の強さだ。本当に近所に小旅行に来た気分で観光が出来てしまう。
 時代と共に訪れる人の性質も変わる。
 求められるものも変わってくる。
 昨今は誰しもが何らかの電子マネーを使用していると思われるが、奈良のほとんどの店で多くの種類が利用可能であった。不便を感じたことは一度もなかった。
 変化と受容のまち。
 私が最初に抱いたその感覚は、この後も覆されることなく、それどころか、これから四日に渡って方々を巡るのであるが、一千年以上前に遡って足跡を辿ってみても不変であったのだ。

大仏を見た思い出

 中学生の頃。修学旅行の行き先は京都と奈良であった。
 記憶は朧げなのだが、日程のメインは京都であり、奈良は一日目の前半に訪れただけだ。それも奈良公園で鹿を見たのと東大寺で大仏を見上げただけ……だったような気がする。
 しかも、どんな感想も覚えていないから、きっと楽しく大仏を見ていなかったのだろう。
 中学三年生には厳しいのか、私が歳をとりすぎたのか。
 思い出そうとして、中学生の頃の記憶が脆いことに気がつく。回顧しようとして圧をかけると、ぽろぽろと崩れて細部が剥がれる。
 第一、修学旅行の半日にも満たない時間のことなんていつまでも覚えていられるものか。
 ただただでかい大仏を見たというエピソードだけが残るのみである。
 どうして修学旅行の定番は、あの大きな大仏を拝むことなのだろうか。
 そこに真理はないだろう。理由はいくらでも見つかるが、回答は別に見つけ出しても出さないでもいい。探すのは不粋とも思える。
 しかし、そうやって仏像を見た人々の多くは、仏像を眺めるという経験を得る。往々にしてその記憶には退屈という印象がついて回る。

「仏像なんて見て、楽しいんすか」

 冒頭の酔っ払った同僚の一言がこうして出来上がるのだ。
 ありがたい言葉ではないか。
 おかげでこのゴールデンウィークは、ただ何となく奈良を回るツアーにならずに済んだのだから。
 

唐招提寺と五分前の学徒

 JR奈良駅のバス停にて、東大寺に行くつもりでルート検索をする。
 その頃にはもうどの寺も閉門時間が見えている時間帯だった。が、比較的、東大寺にはまだ余裕がある。なので足を伸ばせる範囲でどこか別の寺をとスマホをいじっていたら、ふと目についた場所があった。
 唐招提寺。
 そう言えば、この寺は確か鑑真ゆかりの寺だったなと思い出した。
 鑑真といえば、日本史の授業的な知識で言うと、奈良時代に唐からやって来た僧である。
 有名なエピソードとして知られているのは、日本への渡航に何度も失敗し、鑑真自身は光を失い、苦難の末にようやく日本の地を踏んだというものだろう。
 中学生の頃やら高校生の頃やらに、鑑真のことを教科書で読んだ記憶がある。
 が、その頃は「こういう人もいるんだなあ」で済ませ、テストのために「鑑真」が漢字で書けるように訓練し、彼の存在をあしらってしまった。
 今回の旅ではこの鑑真とじっくり向き合うことができる。
 寺を訪れる決め手の一つに、その地に秘められた歴史がある。
 歴史の奥には過去の人がいる。
 さらに、名前が残っている人がいて、その周りには名前の残らぬ人がいる。
 その気配を感じたくて私はきっと寺に足を運ぶのだろう。
 どこまで気が乗るかは寺にもよる。全ての寺が等しく印象に残る訳でもない。
 しかし、唐招提寺はきっと奈良時代の空気に触れられるはずだ。そんな期待を抱いて私はバスに乗った。
 奈良駅からのバスを降りて門の前に立つ。
 唐招提寺にはこぞって人々が集まっていた。
 なかなかに人気の観光地のようだった。
 鑑真について。
 どれだけの人がどれほどの知識を持ってここに立っているのだろうか。少なくとも私は数々の苦難を経て日本にやって来た高僧というイメージしかない。
 そもそも、どうしてそこまでして鑑真は日本行きを熱望したのか?
 して、バスの中で軽くスマホで検索をしていた。
 鑑真は唐の時代の中国の、それは名高い僧だった。
 当時の仏教僧の関心事と言えば、戒律を研究することにあった。仏教における究極の境地に至るための修行。その根幹となるのが「決まりごと」である。
 その道において鑑真は優れた知見を持ち、数多くの弟子たちに教えを授けていた。
 仏教という一つの学問はこの時代の人々にとって、体系的で巨大なダイナミズムの中にあるジャンルであったのだ。

 体系化とは何だろうか。

 例えば、物事における真理がこの世に一つだけだと仮定しよう。
 それを真芯と見立てると、それを包むように語られる思考がある。その多くの皮は重なって定理となり、そこに解釈が加わる。こうして人は体系化された知識にアクセスしたり、アップデートを加えたりするのである。

 戒律の研究も信仰のあり方もまたかくの如しだった。
 これは人文科学や自然科学といった多くの学問においても共通する。
 ただ人は発見や思いつきをつらつらと吐き出すだけではない。それをまとめて一つの体系に仕上げる。理論を組み立てて記録し、ある種の知識の再現としてジャンルを形成するのである。
 当時、この奈良で鑑真を迎える人たちにとって、仏教は学問における最高峰の体系であった。そこで得られる知識に没入するのは、精神活動の醍醐味であった。
 この前提が共有できた時、何となく私は唐招提寺の門をくぐるのに身が引き締まる思いがした。
 かつてこの寺に出入りしていた人々は、それなりに仏教の戒律を理解し、さらに深くまでこの学問を究めたいと望んだのだろう。
 私も唐招提寺の中を歩く際には、そんな人たちの仲間になっていた。
 彼らの意識の中に鑑真はどのように顕れていただろうか。
 当時の日本の僧たちは、自らが戒律を守ることを宣言し、受戒をするという方式をとっていた。しかし、そのようにして誓われた戒めはとかく個人の極端な解釈が挟まったり、厳格に運用されにくかったりする。
 故に僧たちの中では、より本場の授戒によって戒律の理解を深めたいという声が高まった。
 そんな願いに応えたのが唐の鑑真であった。
 彼は日本の僧に知識を与え、そして受戒を行なった。
 言わば知識のブランディングだ。
 唐と言えば、当時の日本からすれば最先端の知識や技術をもつ国だ。
 その中でも名のある僧である鑑真から受戒される。相当な権威を保証されたことになるだろう。仏教を信仰する界隈では一角の人物として扱われたに違いない。
 いつかは自分もそんな風に。
 そう夢見て、学徒たちはこの唐招提寺を歩き回ったのかも知れない。
 学問の合間に、突き当たった問題を抱えて唸りながら、木々の間を歩いた可能性だってある。
 私は若い僧になったつもりで境内を散策し、鑑真への憧れを追い続けた。
 やがて、鑑真が祀られている墓所に辿り着き、手を合わせておく。
 そうやって時空を越えようとしながらも、決して敵わない旅を続ける。
 ふと、私はどこかの僧見習いとすれ違った気がした。
 こういう楽しみ方を私はいつもしている。

 世界五分前創造仮説というものがある。

 簡単に言うと、この世界は五分前に作られたものかもしれないというハッピーな仮説だ。
 五分前以降の記憶をプリインストールされた人類が、五分前にパッと出現した。
 それを否定する方法はありますか?
 という、哲学の本を読んでいるとまあまあの確率で出会う思考実験だ。

 私はそれを思い出しながら、「もしかしたらこの五分前にはまだ奈良の僧たちが修行を繰り返しており、私はその事実を知らされないまま五分後の世界に生まれた存在なのかもしれない」と思っていた。
 五分の間に奈良の僧たちはここから消え去り、次の五分で私がいきなり現れた……。
 そして、私には歴史の知識が最初からインストールされているから思い出せる。
 酔っていないのに、えらい妄想に足を踏み入れてしまった。

 一通り境内を回ってから唐招提寺を離れる。
 そのバスの中でふと、鑑真はどこを歩いていても遠い存在だったなあという思いが湧いてきた。
 何だかこの寺にいるのかいないのかよく分からない。いたことは間違いない。墓所もある。
 が、ここに鑑真がいたんだなという気配は不思議に取り除かれていた。
 この寺に出入りしていた僧たちにとっても、鑑真は遠い存在だったのだろうか。
 などと考えながら、東大寺の大仏を見に行く。

それは例えばランドマークのような


 東大寺の大仏とそれを覆う建物は、幾度となく焼失している。なので、私を含め、この寺を訪れた人たちが見上げる大仏は、あの時、聖武天皇や鑑真が見上げたものとは違う。
 閉門の一時間前くらいに大仏殿に辿り着き、鹿と人の群れを縫うように進み、すいすいと大仏の前に辿り着いていた。
 近くで見上げると、やはり「大きいな」という中身のない感想しか出てこない。
 だが、焼けて消えたはずの大仏がこうして現代に復元されているという事実に、この大仏がいつの世も人々に必要とされているんだなという思いを抱く。
 この巨大大仏の建造を命じた聖武天皇は仏教の熱心な信徒であり、鑑真を唐より招いたのにも関わっていた。
 当時の世には流行病が蔓延していた。人々の身体も心も荒み、実に何かにすがる必要があった。
 恐らくだが、多くの民は仏教という体系にそれほどアクセスできず、その教えの理解度もバラバラであり、誤解も多く、一部の人のものになりつつあったのだろう。
 そこで最も手っ取り早く仏教における救済を伝える手段として、巨大な大仏のアイデアが出たのかもしれない。
 まだまだ何もかもが不明に次ぐ不明で、闇の中にあった時代。
 少しでも足元を照らしてくれる光をさらに大きくするために、きっと仏像は作られたのだろう。
 仏教の教えはランドマークのようなものである。
 例え教えを授かっても、やがて生きていくうちに道を誤ってしまうこともある。
 そうなったら、仏教の土台となる考え方に立ち戻り、また心を改める。
 そんな事柄を何かの本で読んだ気がする。
 もしくは法事の際にお坊さんの説法で耳にした気がする。
 精神的なランドマークが仏教の教えだとしたら、この世界に仏の心を満たすために作られた物質的なランドマークは仏像なのかもしれない。
 鑑真のもたらしたような高度な教えを理解できずとも、仏像がそこにあって遍く世を照らしてくれる。
 そう信じたから、今、ここに、何度目かの大仏があるのではないか?
 現代では様々な価値観が存在し、問題に突き当たると多角からの解決が可能になっている。
 古代ではそうもいくまい。
 暗闇の中にあり、手探りで生きていかざるを得なかった時代。大仏は人々の心を照らした。
 誰かが大切に使っている日用品を見ると、私は何だかその由緒を知りたくなる。こだわりには必ずドラマが付き従うからだ。
 深く納得できれば面白く感じる。
 きっと、いつかの僧たちも、そうでない人たちも、この大仏を道標にして世の中を渡って行ったのだろう。そう考えると仏像が頼もしく感じてきてしまった。
 多くの民らが大仏の周りに集い、心を一度この場に戻した。その厳かな場所で私は仏像を見上げ、人々の心の不安定さを共有しようとしてみた。
 すると、何とこの大仏の心落ち着くことか。
 信心の在処としての仏像。
 きっと鑑真もこの場で大仏を拝み、信仰の目印として自分も頑張ろうと思った……かも知れない。
 そんな関係性にこそ、仏教の布教を強力なものにしたいという思いを感じるのである。

 一日目が終わり、宿に帰り、ベッドに仰向けになって倒れると、鑑真のことを考えていた。
 鑑真もこの地を訪れた、言わば旅人な訳だ。
 孤独ではなかったにしても、きっと私のように、奈良での一日目を終えて眺めた天井があるはずだ。
 きっと。
 ようやく私は鑑真を想像できるようになった。
 楽しく大仏を見れたのかは分からない。
 でも、その大仏にまつわる思考や仮説を頭の中で回転させているだけで、十分に楽しかった。

 仏像は手がかりであり、文化の目印だ。

 だからそこに集まることが一つの楽しみになるのかも知れない。
 そう言えば旅行客がいつもより多く、お土産物屋や露店もたくさんだった。おみくじ、御守り、クリアファイル……。
 もしかしたら、昔から大仏の周りにはこんな風に活気があったのかも知れない。美味しそうなイカ焼きの匂い。冷えたパイナップルを売っている店もあり、外国人が買ってかぶりついていた。抹茶アイス。ソフトクリーム……。
 彼らが例え大仏のことを忘れても、ここでの楽しい思い出をランドマークにして、また戻ってきてくれるのだろうか。
 ……ああ、私がそうなのか。

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