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雨の音が鳴る車

バラバラバラバラ……


どうしてこんなことになったのだろうか。

天井を雨が叩く音だけが車内に響いていた。



10分ほど前。

僕は仕事を終えて滝のような雨の中、家に向かって車を走らせていた。今日はなかなか仕事が片付かず、ずいぶんと遅い時間になった。

ワイパーの働きも虚しく、フロントガラスは水が流れ続けて前が少し見えにくかった。

「ワイパー、替え時かな」

そんなことを1人で呟きながら帰っていると道路の先で信号が赤くなった。

タイヤが滑らないようにゆっくりとブレーキペダルを踏んだ。


前を横切る歩行者の中に黒い大きな傘の下に入っているカップルがいた。

するとちょうど僕の車の前で男の方が女性を突き飛ばした。滝のような雨の中にである。

雨が流れ続けるフロントガラス越しでもわかるくらい、彼女は派手に水たまりの上に倒れこんだ。

男は彼女に何か言って手も差し伸べずにさっさと歩いて行った。彼女は雨の中うつむいたまま、信号が点滅しても動き出さなかった。


彼女の前の信号はついに赤くなり、僕の前の信号が青くなった。

時間も時間だったため、後続車はいなかったから僕はサイドブレーキを引いて車から降りた。

僕はヘッドライトの光の中にうずくまる彼女に傘を差しだした。


「轢かれて死にたいんですか?」


涙か雨かわからないくらいぐちゃぐちゃになった顔をあげて、彼女は声を漏らした。


「あ、あの……あの…………」

「とりあえず立てますか?」


僕は少し無理やり彼女の腕を引いて立たせた。彼女はフラフラと立ち上がり、僕の腕にもたれかからないと立てないくらいだった。

僕は彼女を自分の車まで引っ張って助手席に乗せた。後ろに載せていたタオルを彼女の膝の上に投げてよこして、運転席に戻ってシートベルトを締めると信号は赤になってしまった。


「……あの、わたし」

「とりあえず拭いてください、風邪ひきますよ。どっかで止まりますから」


僕は早く帰りたかったが、そんなこと言ってられるような状況ではなかった。


五分ほど走らせて道の脇によって車を止めた。エンジンを切って電気を点けた。


「どうしますか」

「……どうすればいいですか」

「知りませんよ、僕に言われても。帰るなら近くまで送りますよ」

「帰れませんよ!」

 

突然の彼女の大声に僕は驚いて彼女の方を振り向いた。濡れた髪が張り付いた彼女の頬は少し震えていた。


「事情は聞かないですけど、どうするかはあなたで決めてください」

「……家に連れてってください」

「はぁ!?」


次は僕が思わず大声をあげてしまって、彼女がびくっ、と肩を縮こめた。そして恐る恐る顔をこっちに向けた。


「……え?」


初めて明かりの下でちゃんと見たその顔は知った顔だった。




遡ること高校時代。僕はあるクラスメイトと2週間だけ付き合っていた。

今思えば不思議な関係だが、僕たちはどちらかが告白して付き合ったわけではない。

お互い、どちらかと言えばモテるほうだったらしい。

『らしい』というのはその自覚がふたりとも無く、その上色恋沙汰に興味が全くなかった。


きっかけは僕の唯一の友人だった。彼が突然、こんなことを聞いてきた。


「彼女っていないよな」


わけがわからなかった僕は


「いない。興味もない」


そんなことを答えたと思う。その次の日にはクラス中、いや学年中に僕とそのクラスメイトが付き合ったという噂が流れた。僕は友人を捕まえて問い詰めた。彼があっさり吐いた事の顛末はこうだった。


僕にも彼女にも恋人がいないが、狙ってる人があまりに多いためきっと内緒にしているだけで恋人がいるだろうという憶測が飛び交っていたらしい。

しかし2人に近い人間は恋人なんていないことを知っていた。

だから、僕側の友人と向こうの友人が手を取り合ってこの既成事実を作ってしまおうと企んだのだった。


「なに余計なことしてんだよ」

「まぁまぁ、彼女のひとりやふたり、いた方がいいって」

「2人いるのはまずいだろ」


向こうでも同じような話があったのだろう。ある昼休みに屋上に呼び出された。

お互いに迷惑だと思っていたものの、別に好きな人がいるとか恋人がいて困る理由も特に見当たらなかったため、『お試しで2週間付き合う』ことになった。


そして2週間後、彼女から「やっぱり面倒だから別れよう」と言われ、僕も特に躊躇わずに形だけの恋人とは別れた。面倒なので友人には報告しなかった。


しかし面倒なことにどこからともなく情報が漏れて僕らが別れたことが噂になっていた。

別れたことが仇となり、その日から立て続けに告白を受けた。どいつもこいつも見栄のためか、上っ面の言葉を並べて来たから1人残らず断った。


断り続けてひと月が経った頃。学校に行くのがうんざりし始めた日の放課後、また名前のない手紙に呼び出された。

行かなきゃいいものの行かなくてさらに面倒なことになるのも嫌だったので毎回ちゃんと行って断っていた。


屋上で風に吹かれていた彼女は見栄でもなんでもなく本当に僕を好きになってくれている子だった。根拠なんかなかったけど話してみると僕にはわかった。

それが彼女だった。



「ひさしぶり、だね?」

「うん。まさか君とはね」

「ごめんね、なんか迷惑かけて」

「うん。そう思うなら早く帰ろ、送るから」

「……帰りたくない」

「そんな事言わないで」


黙り込んで涙を流し始めた彼女を見て僕は何も言わなかった。

ただ、無情な雨が車の屋根を叩く音だけがふたりの間に響いていた。



〈完〉

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