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悩め!でも悩みすぎるな!いまこそ学ぶべき現代思想入門

【超訳】人生の意味や自分らしさなど答えのないものが存在する。わたしが存在すること、それはただの偶然であり、奇跡でもある。そして日常の生活を淡々とこなすこと、それ自身が生きることそのものである

現代思想入門 千葉雅也
超訳まとめシート

なぜ、東大・京大で一番売れた新書なのか?

世間的にみて「超優秀」呼ばれる人たちこそ、自己矛盾や葛藤、表立っては出せないプライドや嫉妬があるはずだ。そういった鬱屈して想いの共感者をこの書籍に求めたのではないか?

これが読了した後の所感だ。何度再読しても理解が追いつかない箇所もあるが、作者の言いたいことを乱暴にまとめると「超訳」で記した3行だ。

「この世は全ては偶然の産物だ!悩みすぎるな!動いてればなんとかなる!」

だったら、どこぞの自己啓発本でも書かれている内容をアカデミックな表現で堅苦しく言ってるだけだろ!という批判も出るがそうではない。単純化できない現実の難しさを言葉を省略せずに理論的に体系立てて語った結果がこの書籍なのだ。

人間というのは、他の動物と違い言葉を操り、物語を紡ぐことでこの世界を統治してきた。そんな人間は、今度はその言葉や思考によって行き詰まりかけている。

それが息苦しさになり、不安として表面化しているのが現代であり、エリート層に書籍が売れる理由になっているのだろう。読み応えは抜群なので、ぜひ思想の醍醐味を味わってほしい。

デリダ「概念の脱構築」

著者が中心に置く現代思想家はデリダから始まる。「脱構築」は、デリダの作った造語であり、従来の伝統や秩序を解体し、意味を解釈しなおすという意味である。

デリダの世界観とは何か「仮固定的」な状態とその脱構築を繰り返していくようなイメージであり、仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来が存在する。仮固定的同一性は絶対的な存在ではない。
脱構築の手続きは次のように進む。

①まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に見方するような別の論理を考える

②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す

③その時に、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような第三の概念を使うこともある

不真面目さ、堕落、テキトーなど、本質とは対峙させられやすい概念にこそ、物事を先に進められる可能性があるのではないか?という議論を呈示したのだ。

本来、二項対立は相互に依存しあっており、主従が入れ替わり続ける。その意味で、パルマコン的(薬でも毒でもある)に両義的なものだ。何かを決断するときに、何かを切り捨ててしまったという忸怩たる思い、未練を忘れないこと、未練込みで決断を下す者こそが、他者性への配慮であり、優しさなのだ。

ドゥルーズ「存在の脱構築」

次に登場するのはドゥルーズ。西洋の伝統的な形而上学の階層的体系やロゴスを重視する思想を批判して、横断的な概念であるリゾームやノマドなどを提示した。
ドゥルーズの世界観を一言でまとめると「世界は差異でできている。同一性よりも差異が先だ」という考えだ。

Aと非Aという対立が崩れ、全てが関係の絡まりとして捉えられる。一見、バラバラに存在しているものでも、実は背後では見えない糸によって絡み合っているという仏教の縁起説にも近しい概念だ。

重要な前提は、世界は時間的であって、全ては運動のただ中にある。あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。ゆえに、一人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」に過ぎない。全ては途中であり、本当の始まりや本当の終わりもない

すべてを「ついで」でこなしていくというライフになり、いきなり人生が軽くなる。加えて、世界は多方向の関係に開かれているわけで、自分自身をごく狭い範囲=家族における同一性だけで考える必要もなく、多様な関係の中でいろんなチャレンジをして自分で準安定状態を作りだせる。
「本当の自分の在り方」の探究など必要なく、「いろんなことをやっているうちにどうにかるよ」という思想でもあるのだ。

ドゥルーズの提唱した「リゾーム」は多方向にひろがっている中心のない関係性である。関わりばかりが主張されると、監視や支配に転化してしまうという危険性があって、関わりすぎない適度な距離感も必要である。

価値観の争いから遊離しつつも、互いに対する気遣いを持ち、その気遣いが他者の管理にならないようにする、という非常に難しい按配を維持することが求められている。

クリエイティブな関係を広げつつも、非-コミュニケーションが必要であり、これは一人の人間にどう関わればそれが必要な愛になり、支配にならいかを考慮すること。具体性かつ真剣に向き合うことである。

フーコー「社会の脱構築」

フーコーは権力と知の関係を批判的に分析したフランスの哲学者して知られている。かの有名なパノプティコン(少数の監視者が多数の被監視者を効率的に監視できる円形の監視システム)をはじめとした「権力とは無数の力関係である」ことを指摘した。

権力の開始点が明確ではないからこそ、多方向の関係性として権力が展開されており、社会問題を形成している背景の複雑さを捉えるべきだ。

正常と異常を脱構築することで統治・監視社会の流れを強化するというクリーン化こそ、権力そのものである。

興味深いのは、自分で自分を自己監視する支配者の不可視化は、「個人的な心の発生」ともいえることだ。今日のプライバシー、個人的なものはそういった自己抑制とともに成立している。アイデンティティあるものが成立するときに、良いアイデンティティと悪いアイデンティティという二項対立が同時に成立した。
その後、キリスト教世界では「やってはいいけないこと」を大括りにする罪の概念が生まれ、原初的な意味での「個人」は闇を抱えむことになる。

だからこそ、内面にあまりこだわりすぎない(変に深く反省せず)、健康には気を遣って、その上で「飲みに行きたければいけばいいじゃん」というある種の楽観論と世俗性こそがフーコーにおける古代的な在り方だ。

現代思想の源流 -ニーチェ、フロイト、マルクス

三人の共通点は「非理知的なものにこそ問題がある。ヤバいものこそクリエイティブ」にある。ニーチェは、ショーペンハウアーの影響を受けて、ディオニソス(混乱)が大事であり、アポロン(型)との拮抗に置いて何かが成立するという文脈を築いた。

フロイトは自分がよくわからない理由でやってしまったことは性的なエネエルギーのわだかまりという汎性欲論は反発があるものの、自分の中の無意識的な言葉とイメージの連鎖は、自分の中の「他者」である。

つまり、無意識とはいろんな過去の出来事が偶然的にある構造をかたちづくっているもので、人生のわからなさとは、過去の諸々のつながりの偶然性なのだ。

真理に向かおうとすれば真理への到達不可能性によって牽引され続ける。デュオニソス的なもの(ニーチェ)、盲目的な意志(ショーペンハウアー)、無意識(フロイト)といった近代的概念(下部構造の発見)は、人間が内に含むようになった闇の別名である。

仕事の効率を上げ、職場をよりよくするという善意は、意地悪に言うと、搾取されていても快適であるために、みずから進んでいる可能性がある。本当に意識を高く持つというのは、搾取されている自分自身の力をより自律的に用いることができないを考えることだ。

同じ土俵、基準の競争して成功するという強迫観念からの逃れるには、自分自身の成り立ちを遡って、それを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとして自分になしうることを再発見することなのだ。

現代思想の前提 -ラカン

現代思想は精神分析批判を行うが、そもそも精神分析からインスピレーションを受けている。デュオニソス的なものが見出されるのは「人間は過剰な移動物(認知エネルギーを余している)」ということが影響している。

結局、何らかの「対象a(特別な対象・社会的地位)」に憧れては裏切られるということを繰り返すことで人生は動いていく。千葉氏の著書「センスの哲学」でも触れられており、レビューもあるので、参考にしてほしい。

人は規律訓練を求める。それは認知エネルギーが触れてどうしたらいいかわからなくような状態は不快であって、そこに制約をけかけて自分を安定させることに快があるからだ。

しかし、一方でルールから外れてエネルギーを爆発させたい欲求が生じる。このせめぎ合いと二重性こそが儀礼と去勢の反復だ。

私たちはどのように生きるべきか

ひとつのXをめぐる人生というのは、それ自体に到達できない悲劇だ。

・人生のあり方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認める

・無限の謎ではなく有限な行為をひとつひとつこなしていくという方向性

結論、気楽な人生を歩めばよいということだ。具体的な行動としては、居場所を複数つくることや複業・ノマド的な働き方をすることかもしれない。具体的なアクションとしては、こちらを参考にされたい。

【補足】現代思想を作る四つの原則

①他者性の原則
・その時点で前提となっている前の時代の思想、先行する大きな理論あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除されている

→先行する議論は、安定的なものとして構造S1を示しているが、そこからは他者性Xが陰に陽に排除されている。まずこのことに気づく。

②超越性の原則
他者性Xが排除されている。ゆえに他者性Xを排除しないようなより根本的な超越論的レベル=前提を呈示する

→そこからS1は、実は根本的な構造ではない、という問題提起へと向かう。S1は根本的でなかったからXを排除せざるをえなかったのである。そこでS1を条件づける構造S2を考える。S2においてようやくXが肯定される。

③極端化の原則
排除されていた他者性Xが極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定する

→S1にとってXは従属的、付随的だった。だが今や、Xが極端化され、Xこそが原理となるようなS2を考え、それがS1を条件づけると考えるのである。S2を定式化するために、慣例を破って新たな概念をつくることもある。

④反常識の原則(やや付け足し)
世界は反常識的なものに支えられている。反常識的ものが超越論的な前提としてある

→S2を前面に押し出すと、常識と齟齬をきたすような帰結を生む。

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