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教員の理不尽な指導をもたらす背景は、懲戒権にある①

ここでは、指導死をはじめとする学校の問題について書いていきます。
まずはじめに、最近関心を持っている懲戒権について書きます。
なぜなら、指導死をはじめとする理不尽指導が行われるのは、学校教育法に定める懲戒権が色濃く影響しているからです。


教員が個人的判断で児童生徒に加える
懲戒は法的に認められている


 学校教育法第11条には、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」とあります。ここで大切なポイントは「教育上必要があるときは」というただし書きの部分なのですが、この歯止めがうまく機能していないことは、子どもたちの姿を見ているとよくよくわかるところです。
 教育現場で行われる懲戒には、いろいろな種類があるのですけども、今日お話をしたいのは、「事実上の懲戒」あるいは「事実行為としての懲戒」と呼ばれるものです。これは、児童生徒の日常の素行を口頭で注意し、あるいは叱りつけるといった類の行為で、校長を含む教員個人が、自分の判断で生徒に対して加えることができる懲戒行為です。
 「事実上の懲戒」でどんなことができるかというと、一般的なものとしては口頭注意、起立命令、居残り命令、作業命令等があります。その他にも、学校独自の懲戒もあると考えられます。そして、学校教育法上で教員に懲戒権が認められているために、教員が独自の判断で加えた懲戒は、合法的なものと判断されるわけです。「その懲戒はやりすぎではないか」と保護者が裁判を起こしたとしても、懲戒権が認められているがゆえに、違法とは認められないということです。

事実行為としての懲戒の
範囲を明文化したものが存在しない


 そういった構造的な問題が存在していることに加えて、事実行為としての懲戒がどの範囲まで許されるのかを明文化したものが存在しないという問題もあります。文科省は、①放課後等に教室に残留させる 、②授業中、教室内に起立させる、③学習課題や清掃活動を課す、④学校当番を多く割り当てる、⑤立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる、⑥練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる、などを例示して、こうしたものは認められるとしているのですけれども、これは懲戒の範囲を「限定」したものとはいえません。
 これ以外の事実行為としての懲戒であっても、教員個々人の判断のもとに自由に加えることができてしまう。かつ、それは教育行為である、教育効果を狙ったものであるという理由から、なかなか社会問題化することが難しいのが現状です。たとえば「⑥練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる」という懲戒に教育効果があるのかはとても微妙なところで、私の感覚からすればある種の嫌がらせとも映りますし、衆人の前で児童生徒に恥をかかせる、そういった行為ではないかと思うのですが、文科省は、これは問題ないと言っているところがまたまた不思議なところです。
 こうした例示のレベルでは、懲戒権の範囲を限定的に示すことにはならないので、範囲に関して明文化する必要があるだろうと思っています。教育上必要な懲戒とは何か、これを教員一人ひとりが個人的な判断で決められるのであれば、何でもできてしまうことになるからです。こうした「野放し」の懲戒を許してはいけないのではないかというのが私の考えです。そして同時に、どういった場合は、どういった場面だったら、どのような懲戒を加えていいのかということも、明確に定めておかなければならないのではないかと思います。
 事実行為としての懲戒権が、学校の中では極めて自由自在に使いこなされ、そして、同じ行為に対して必ず同じ懲戒を加えるかというと、必ずしもそうではない。教員の判断によって異なることもあるし、同じ教員でも機嫌の良いとき悪いとき、あるいはこの生徒に対しては懲戒対象にするが、この人に対しては懲戒対象にしないというような自由自在な使われ方をする状態にあります。

to be continued.

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